2020年度

礼拝説教要旨(3月28日)受難節第6・棕櫚の主日礼拝

マタイによる福音書27:32-44

「主を十字架につけたとき」早川 真伝道師

本日は、棕櫚の主日礼拝です。エルサレムにおいて棕櫚の葉を道に敷き、イエス様をホサナ(万歳)と言って迎えたユダヤ人たちは、今朝の箇所で、それとは正反対にイエス様を罵倒しています。その理由は、イエス様の救い主としての働きが、彼らの想像と違ったからでありましょう。
イエス様は、罪からの救い、罪からの解放をもたらすために来られた救い主でした。しかし、ユダヤ人たちはローマの支配からの救いを期待していました。彼らの期待は的はずれでありました。しかし、人の罪の中で、なお主は御業を進められる、ということがここに力強く証されています。
イザヤ書53章には、キリスト預言が記されていると考えられています。その記述によると、彼(イエス様)は、私たちの罪をすべて担って十字架についてくださいました。ユダヤ人や、兵士や、そこにいたすべての人の罪を、神は御子イエス・キリストに負わせられたのであります。
さて、今朝の箇所に登場する、キレネ人シモンという人物は何を意味しているのでしょうか。彼は過ぎ越しの祭りに地方から出てきたユダヤ人であったと考えられます。しかしそこで、死刑囚の十字架を担ぐという思いもかけない災難に見舞われました。
これは、私たちの身に何か思いがけない災難がふりかかる時、それはもしかしたら主の苦しみの一端を担うことなのかもしれない、ということなのではないでしょうか。この受難週の時、そのような期待をもって、主の御心を尋ね求めつつ、歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(3月21日)受難節第5主日礼拝

マタイによる福音書20:20-28

「仕える人」竹島 敏牧師

 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。今朝の25節〜27節の御言葉です。知らず知らずのうちに、この世の価値観は忍びよってくるものなのだ。そしてじわじわと、いつのまにか、その価値観に支配されてしまう‥、そういうことへの警戒の言葉です。
 それは今の時代を生きる私たちにしても同様のことなのかもしれません。しかし、それでもなお私たちは私たちがよって立つべきなのは聖書の価値観、神の国の価値観の方なのだということを覚えていなければならないのでしょう。時にこの世の価値観に飲み込まれそうになる時もあるでしょう。しかしそのたびごとに本来自分が立つべきところはどこなのか確認し直すことが必要なのでありましょう。そのように時に葛藤しながらも神の国の価値観に絶えず立ち戻り続けることが私たちキリスト者の生き方なのではないでしょうか。そのように生きようと常に悔い改めつつその都度新たな一歩を踏み出す時にはじめて私たちは十字架の主イエスのからだのぬくもりを感じるほどに、主に近くいる者達になれるのだと思います。 
 受難節のこの時、そのような覚悟と志が再び強く与えられることを祈り願いつつ歩んでいきたいと思います。そのような主に仕える人生を全うして参りたいと思います。

礼拝説教要旨(3月14日)受難節第4主日礼拝

マタイによる福音書17:1-13

「栄光を求めて歩む」竹島 敏牧師

今朝、私達に与えられたマタイによる福音書にはイエスが祈るために高い山に登られた、と記しています。山は神からの啓示の場でありました。ここで大切なことは一人、祈りに集中される主イエスから決して目をそらさず、その御姿を見つめ続けること、そしてその御姿に従い続けることです。そのような日々の中で私たちはかつて主イエスが味わわれた受難の苦しみを身をもって知りかつて主イエスが体験された復活の喜びを身をもって知ることができるようになるのです。
 私達一人一人がそれぞれに抱えている深い闇のような悩み、苦しみにも、いつかきっと光輝く出口が与えられることを信じて祈りつつ、この受難節の時を過ごしていきたいと思います。今はまだ何も見えなくてもイエスが語ってくださった言葉を繰り返し繰り返し聖書から聞き続けていくということが大切です。人に理解してもらえない、また人を理解できないそういう苦しみの中で全てを理解しておられる方がそばにいて支え導いてくださる、そのような信仰を持ちつつ聖書を読むことによって希望のないところに新しい小さな希望が生み出されていくのです。それでも理解していこうと努力を続けていく力が蓄積されていくのです。必ず新しい局面が開かれてくる、とあきらめないで続けていく力が与えられるのです。聖書を読むということが信仰を持って祈りつつ聖書を読み続けるということが、そのような救いの道を探り当てることにつながっていくのです。そのことを信じて共に励ましあいつつ、聖書に聞いてまいりましょう。

礼拝説教要旨(3月7日)受難節第3主日礼拝

マタイによる福音書16:21-28

「十字架を見出す」竹島 敏牧師

今朝の聖書が私達に求めているのは今私達一人一人が背負っているものの上にさらに何かを背負いなさいということなのではなく、すでに背負っているもののなかに十字架を見出すということなのではないでしょうか。今すでに私達が背負っているものそのなかにはできれば背負いたくなかったものもあるはずです。また否応なく私達の身の上にふりかかってきた苦しみがあるでしょう。
しかしそのなかに十字架を見出すということがもしできたなら私達は自分が背負わされているものに積極的な意味を見出すことができるのです。ここで主が言おうとされたことはそういうことだったのではないでしょうか。今すでに自分に与えられている課題や苦しみのなかに十字架を見出しなさい、ということです。そのために十字架を見出すためにまず私達がなすべきことは主イエスを見つめることです。
受難節のこの時私達一人一人にすでに与えられている様々な課題や痛み苦しみを抱えたまままずもう一度、十字架への道を歩んでいかれた主イエスの姿を見つめましょう。そして見つめ続けましょう。そうしていく時そのイエスの姿を追うように従っていく自らの歩みもまた見えてくるのかもしれません。今朝私達の主イエスは「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と私達一人一人に語りかけておられます。十字架の主を見つめながら受難と復活の道を…、命が救われる道を、失われつつある命を買い戻す道を歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(2月28日)受難節第2主日礼拝

マタイによる福音書12:22-32

「神の霊によって」早川 真伝道師

イエス様の癒しを目の当たりにして、群衆は驚きました。そして、この人はダビデの子ではないだろうか、と言いました。ダビデの子とは、救い主、メシアの意味です。彼らの中にはキリスト信仰が芽生え始めています。しかし、ファリサイ派の人々は誹謗中傷をしました。彼はベルゼブルの力によって追い出しているのだと。平たく言えば悪魔の仲間であると言っているのです。
それに対してイエス様は三つの方法で反論しています。一つ目は、それでは内輪もめだということ。二つ目は、そうだとしたら、あなたがたもまた、ベルゼブルの仲間ということになるということ。三つ目はサタンより強くないと、追い出すことはできない、ということです。そして、イエス様は神の霊によって悪霊を追い出しているのだということがはっきりと語られています。
マタイによる福音書4章1節には、イエス様は霊に導かれて荒れ野に行かれた、とあります。この霊は神の霊であります。神の霊は時に、私たちを私たち自身の望まない方向へと導かれます。
私たちにとって最も望まない場所、その最たるものは悔い改めでありましょう。自分自身の方向が間違っていることを認め、悔い改めることほど、生まれつきの私たちにとって望まないことはありません。
今、私たちはレントの時を過ごしていますが、レントには、自分の思うようにではなく、神の御心を求めて歩む、という意味があるように思います。神の霊によって、悔い改めへと導かれ、一人一人が命を得ることができるよう、そのことを学ぶ期間として、この時を過ごしてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(2月21日)受難節第1主日礼拝

マタイによる福音書4:1-11

「悪魔の誘惑」竹島 敏牧師

今、私たちは受難節の歩みを歩み始めています。かつて主イエスは、この地上の生涯においてどのような苦しみを背負われたのか、そしてそれは何のためであったのか‥、これから約40日間の受難節をとおして、そのことを考えていきたいと思います。受難節は、私たちがこれから担うどんな苦しみも、すでに十字架の上で全て味わい尽くされた主イエスが、私たち一人一人と共にいてくださることを再び心に深く刻みつけていくための期間です。
どんな時も聖書は、私たちに主イエスからの力を与えてくれます。時に悪魔は、聖書の言葉をも用いて迫って来ることがあるかもしれません。しかしそんな時も、教会で語られる正しい聖書解釈の言葉を聞いていれば、誤った道へそれていく事はありません。私たちの人生には本当に様々なことが起こってきます。予期せぬ病気や事故、様々なトラブル…、心配の種は尽きません。けれども、なおも聖書の言葉に救いを求めて歩み続けるなら、必ず、主の時に、主が定めてくださったその時に、解決への導きが示される…、そのことを信じて、御言葉を求めつつ歩んでまいりましょう。私たちが担うどんな苦しみも、すでに十字架の上で全て味わい尽くされたイエスキリストが常に私たちの隣に立って共に歩もうとしてくださいます。差し伸べられたその御手にしっかりとつかまって、聖書を開き、御言葉を求め、与えられた御言葉に従って歩んでいきたいと思います。そこにこそまことの救いがあることを信じて、この受難節をご一緒に歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(2月14日)降誕節第8主日礼拝

マタイによる福音書14:22-36

「導かれて歩む」竹島 敏牧師

聖書にはイエスが起こされた様々な奇跡が記録されています。様々な苦しみを味わわされながら生きざるを得なかった当時の人々にとってイエスがなさった奇跡は大きな励ましとなりまた何よりも具体的に彼らの生活を守るものでもあったことでしょう。「次には、いったいどんな偉大な業を起こしてくれるのだろうか、」と人々は大きな期待を持ってイエスを見つめていたことでしょう。
しかしそのような群衆の期待をよそに主イエスは祈るために一人、山へお登りになった、と今朝のマタイによる福音書の23節は語っています。主は山に登り一人で深く祈られたのです。23節の最後に「夕方になっても、ただひとりそこにおられた」とあるから一日のかなり長い時間を祈るためにそこで過ごしたということになります。
私達の主イエスはさまざまな困難苦難を抱えてうめく私達一人一人をこよなく愛しその間に立ってくださいます。そして必ずしも奇跡によってその関係を改善してくださるのではなく一人一人が互いに理解しあおうと相手の下に立つことができるように導いてくださるのです。そのようにすべてを主がやってくださるわけではなくできるように導いてくださるのです。その導きの御手につかまる時、きっと主は握り返してくださり私たちは、あたたかなぬくもりのうちに平安を得ることができるのでしょう。どんな時も特に苦況に陥った時に私たちの手をあたたかく握りしめてくださりやがて、引き上げ導いてくださるイエスの手を見出しその手に導かれていきたいと願います。

礼拝説教要旨(2月7日)降誕節第7主日礼拝

マタイによる福音書15:21-31

「主イエスと出会う」竹島 敏牧師

今朝のマタイによる福音書において主イエスは、カナンの女性の叫びに応えて、癒しの業をなさいました。それは、この女性とその娘がこれまで歩まされてきたであろう苦しみの道を痛切に感じ取り、何とかしたい、と深く心動かされたからでありました。このカナンの女性の苦しみの底からの叫びに促されてイエスは行動されたのです。
今、ここに集められている私たち一人一人にも、様々な痛み苦しみがあります。しかし、決してあきらめずに、自らの内側に閉じこめられた声をイエスに向かって発していくなら、必ず主はその声を聴いてくださり、一人一人との対話の中で、きっと道を指し示してくださるのではないでしょうか。その道を模索しながら歩いていくことによって、私たちは、自らの内側深くに声を閉じこめなくてもすむようになるのです。私たち一人一人の言葉にならない声、うめきをも、じっくりと聴き、これまでのお考えをも時には変更して、共に歩んでくださる、うずくまってもう一歩も前に進めなくなってしまった時には、先立って歩き、そこから手をさしのべてしっかりと手をとり、立ち上がらせ、導いてくださる‥、そのような主が、いつも、この礼拝堂にはおられるのです。
今日も、その主はここにおられて、様々な痛み、悩み苦しみを抱えつつここにたたずむ私達一人一人と向き合ってくださっています。主日は、その主とじっくり向き合うために備えられている日です。今日、そのことを再び皆さんとご一緒に確認しあいたいと思うのです。

礼拝説教要旨(1月31日)降誕節第6主日礼拝

マタイによる福音書5:17-20

「天の国に入る者」早川 真伝道師

今日の箇所で、「律法や預言者」と言われているのは、旧約聖書全体を意味しています。イエス様はそれらを完成するために来られた、とあります。この完成という言葉は、いっぱいになるまで満たす、という意味の言葉です。
律法学者やファリサイ派の人々の義とは、律法の形を守ることでした。これをイエス様は軽んじておられません。しかし、更にまさった義とは、形だけでなく、中身をも満たされることでありましょう。その中身とは、神の愛であります。
イエス様は満たすために来られたわけですけれども、私たちからすればそれは、満たされる、ということであります。つまり受け身です。神様は今日も私たち一人一人を満たそうとしておられます。一人一人にふさわしいその日の予定を、愛をもって準備してくださっているに違いありません。そして、その主の愛に満たされることこそが、天の国に入ることなのでありましょう。
天の国とは、天の支配とも言い換えることが出来ます。天の国に入るということ、それは将来のことであると同時に、今現在、与ることのできる恵みであります。全てをご存じの神の愛に満たされて生きる、そのために自らの思いを手放して神の導きを待ち望む時、主は私たちの内に働き、御心を示し、律法と預言者によってすでに示された義の道を歩ませてくださるに違いありません。
そして、神は今日も、私たちが自らを満たす歩みではなく、主によって満たされる歩みへと立ち帰るよう導いておられます。その主の導きに、耳を澄ませて、今週一週間も共に歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(1月24日)降誕節第5主日礼拝

マタイによる福音書4:12-17

「闇を見つめて」竹島 敏牧師

今朝の聖書箇所の内容を一言で言い表すならそれは、暗闇の中に来られる光を見つめて歩め、ということです。人工的なきらびやかな光ではなく、真っ暗闇にしか見えない中をビクビクしながらも勇気を出して突き進んでいく時に差し込まれてくる細く小さな光、その光を見出そうとしていくときに、本当の救いが心の中に芽生えてくる、ということです。
主イエスは言われます。今朝のマタイによる福音書4章16節以下ですが、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差しこんだ。その時からイエスは、悔い改めよ天の国は近づいた、と言って宣べ伝え始められた」と。
暗闇の中にこそ、光なる主はおられる‥、今はまだ、ただの深い暗闇にしか見えなくても、祈りつつ、見つめ続け、一歩一歩進み続けるなら、必ずそこに一筋の光が差し込んでくる、そして、これからどう進んでいけば良いのか、どこに救いの道があるのか必ず示してくださる、道しるべとなって共に歩んでくださる、だから決してあきらめてはならない、投げやりになってもいけない、と主は、今朝の聖書の箇所を通して、私たち一人ひとりに語りかけておられるのではないでしょうか。
私たちの人生の日々において起こってくる様々な出来事の中で、ときに私たちは、見捨てられ暗闇の中に放り込まれたと感じてしまうこともあるかもしれませんけれども、そのような時こそ、今朝の御言葉をしっかりと思い起こし、私たちにも必ず、細いしかし決して途切れることのない光が、道しるべとして与えられるのだということを覚えておきたいと思います。

礼拝説教要旨(1月17日)降誕節第4主日礼拝

マタイによる福音書4:18-25

「御国の福音」竹島 敏牧師

神の国の福音宣教を進めていくにあたって主は、共に歩んでいく弟子を選ばれました。まず、ペトロとアンデレという兄弟、それから別の二人の兄弟ヤコブとヨハネ、この四人の漁師を主は弟子にされました。この四人とも、主の招きを受けるとすぐに従った、と今朝のマタイによる福音書は伝えています。これは、神の国という救いの完成の場が、招きを受けた者にはもれなく備えられており、今、その神の国の方から近づいてきている、ということです。だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めて」歩んでいきましょう、どんなことがあっても主は、神の国と神の義を求めて歩んで行こうとしている者たちをお見捨てになる事はないでしょう、危機的な状況がやってきても、細い逃れの道を一本、備えてくださり、その細い道をたどって逃れていくことができるよう導いてくださるはずです、ということが言われているのです。様々な過ちや失敗にもかかわらず、主は決して弟子たちをお見捨てになることなく、最後まで神の国へとお導きになった、その主との最初の出会いが今日の聖書箇所を通して私たちに示されているのです。
なぜ、自分の人生にこのようなことが起こらねばならないのか、時に大きな声で問いたくなる日々の中で、しかしそれでも、神の国は近づいている、あなたにも近づいている、その御業になお、あなたも用いられようとしているのだ、という福音に感謝しつつ、日々の歩みを謙遜にすすめてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(1月10日)降誕節第3主日礼拝

マタイによる福音書3:13-17

「主と共に生きる」竹島 敏牧師

今朝のマタイ福音書の最後、17節には「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえた、とあります。この時の神の声が、イエスの全生涯を決定した‥、と言っても過言ではないでしょう。イエスは、バプテスマを受けたと同時に、この神の声を聞き、自らのこの地上の生涯の方向性をはっきりと悟ったのです。神の国を目指して、悩み苦しむ人々と共に歩む‥、その方向性をはっきりと悟られたのです。「神の国を目指して、あくまでも悩み苦しむ人々と共に歩む‥、」それは主御自身にとっては、苦難と十字架への道を行くことでもありました。しかしその道を通らなければ、復活もない‥、苦難と十字架ぬきの復活などない‥、バプテスマを受け、水の中から上がられて神の声を聞いた主は、そういう覚悟で、悩み苦しむ人々と共に神の国を目指して歩み始めたのでありましょう。
ですから、実に、このイエスの受洗という出来事は、神の子でありながら、人としてこの地上に生まれてきてくださった方が、十字架への道のりにおいて様々な救いの業を行っていくにあたってまず最初に、どうしてもなさねばならなかった一つのしるしだったのです。
だから、この主イエスの決断を無にしてはならない‥、そこまで主が徹底して私たち人間と共に歩もうとされたのだから‥、また今もそうされているのだから、全面的に、この主にたよりなさいというメッセージが、ここにはあるのではないでしょうか。2021年、この年を‥、この私たちと共に歩んでくださる主イエスを感じて生きていくために、整えてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(1月3日)降誕節第2主日·新年礼拝

使徒言行録7:54-60

「天の向こうに」竹島 敏牧師

ステファノのように、いつも心の中にイエスを想い、何よりもこのイエスに従っていく志をもつならば、困難の時、万策尽きて天を見上げるしかない時も、見上げた天が開かれて、きっとそこに慈しみの眼差しをもってたたずんでおられる主イエスと対面することができる、それが、今朝の使徒言行録に示された神からのメッセージです。そして、そこで、私たちは「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」という主の赦しの言葉を新たに聞き、そこからまことの平和を作り出す者として、何度でもやり直していくことができるのです。だからあきらめない。
もちろん、この主の赦しとは、何をされてもただ黙って容認する‥、容認し続ける‥、というようなものなのではありません。そうではなく、破れてしまったお互いの関係性を神の正義にもとづいて回復させる‥、ということです。まことに対等で平等な関係に回復させる、ということです。そのためにどこまでも忍耐しつつ訴えかけあらゆる努力をし続ける、ということです。それが、この暗闇の世に、力のかぎり、小さな光を証しする、ということにもなるのだと思います。
この暗闇の世を照らし続け、いつか、天になるごとくこの地にも、まことの平和を成就させてくださる救い主イエスのお働きに仕える者として、どんなことがあっても決して主にある希望を失うことなくこの年も歩み続けていきたいと思います。

礼拝説教要旨(12月27日)降誕節第1主日礼拝

イザヤ書60:1-6

「恐れつつ喜ぶ」早川 真伝道師

ここで言われている「起きる」とは、「立ち上がる」という意味の言葉です。そこには、打ちひしがれた状態があります。しかしそのような者に、神はイザヤを通して「立ち上がれ、光を放て」と語られます。なぜなら光が来たからです。
当時もまた、闇が地を覆っている現実がありました。その中にあっても、主は“あなた”の上に昇り、主の栄光は“あなたの上に”現れると語られます。ここで言われているあなたとは、文脈上、エルサレムという町のことです。エルサレムはイスラエルにとって特別な町であります。南ユダ国の首都であり、神殿がありました。しかし敵国バビロンに滅ぼされ、灰燼に帰してしまいます。そのエルサレムに、やがて、主の光が昇るというのであります。
5節の「畏れ」は「恐れ」、「おびえる」の意味の言葉です。暗きを照らされると人はまず恐れるものであると思います。それは、これまで闇の中でよく見えなかったものが急にはっきりと見えるからでありましょう。しかし、その光を見て、周囲の富や宝が集まる、というのであります。それは、闇の中でどうしたらよいのか分からない周囲の人々にとって、その光が一つの目印となり、歩むべき道を示してくれるからでありましょう。
今年は、コロナウイルスの影響を受け、多くの不安、困難、悲しみがありました。しかし、そのような私たちに対しても、主は、起きよ、光を放てと語りかけておられます。新しい一年も主の輝きに照らされながら、恐れつつ、なお喜んで、主の栄誉を宣べ伝えていきたい、そのように思います。

礼拝説教要旨(12月20日)降誕前第1主日·アドベント第4主日·クリスマス礼拝

マタイによる福音書1:18-23

「共におられる神」竹島 敏牧師

教会は、クリスマスから新しい1年の歩みが始まります。過ぎ去ったこの1年にも、私達一人一人、いろいろなことがあったと思います。
楽しかったこと、うれしかったことと同時に、苦しかったこと、人との関係において傷つき、また知らず知らずのうちに傷つけていたことも多くあったのではないか、と想います。
もしかしたら私達誰もが、長く生きれば生きるほどいくつもの傷を負い、また傷を負わせてしまうことになるのかもしれません。しかし、そのすべての傷を担い、十字架の上で贖い、さらに復活の出来事へと導いてくださる主イエスの業を信じるなら、必ず救いの道が備えられていくのです。
私達全ての人間の痛み苦しみを共に担いつつ歩むために、この地上に来てくださった主イエスを心に迎え入れるなら、信じて洗礼を受けるなら‥、そのような人知を超えた救いの道が開かれていくのです。クリスマスは、そのことをあらためて確認し、主イエスと共に、新しい1年の歩みを踏み出す時として、私達に与えられているのではないでしょうか。
私たち一人一人の、この一年の歩みは、決して手放しで喜べるような、平坦なものではありませんでした。しかし、であるからこそ、私たちの、この共同体の中に、その交わりの中に、永遠のインマヌエルなるイエス・キリストがしっかりと共にいて下さる。そして一人ひとりに新たな導きを与えてくださる…、私たちは、このクリスマスに、再びこのことをしっかりと確認して「新しい出発」をしたいと思うのです。

礼拝説教要旨(12月13日)降誕前第2主日·アドベント第3主日礼拝

士師記13:2-14

「救いの先駆者」早川 真伝道師

当時イスラエルに対するペリシテ人の圧迫がありました。サムソンは、敵に対しては超人のような力を発揮するが、女性に対しては幼児のように弱く、生涯の中で度々困難を被りました。そのようなものであっても神様は聖別し御自分の御用のために用いられます。
サムソンは、デリラにそそのかされ、髪を剃られてしまい、ナジル人としての神の力を失います。その結果、ペリシテ人に捕らえられ、両目を潰されました。しかし、その生涯の終わりに、自分の命と引き換えに建物を壊し、生きている時よりも多くのペリシテ人を倒しました。
イエス様はその死によってペリシテ人のような目に見える敵ではなく、目に見えない敵、サタンを打ち破られました。そして、再び来られる時、サタンは完全に滅ぼされ、人は完全に罪から救われる、ということを聖書は告げています。更に、私たちの生活を脅かす一切のもの、死までもが、やがての時には滅ぼされる、ということが聖書には書かれています。死してなお豊かな実を結ぶ、神様の不思議な御業が示されています。
今日の箇所で、御使いはマノアの妻に、ぶどう酒と強い酒、汚れた物を食べるな、と語ります。その胎に宿った子はもうすでに、死ぬまで、ナジル人、つまり神に聖別された者としてその務めを果たす。あなたは、あなた自身のことに気をつけていなさいと言われているのではないでしょうか。
クリスマスを目前に控えた今、御子を待ち望むために私たちが為すべきことは何でしょうか。そのことを一人一人が主に問いながら、主の降誕までの時を過ごしてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(12月6日)降誕前第3主日·アドベント第2主日礼拝

イザヤ書59:12-20

「主の来られる所」早川 真伝道師

今朝与えられた箇所で、イザヤは民の代表として神の前に罪の告白をします。彼は民の中に咎や罪が多いことを認め、共同体の罪を自らの罪の深さとして告白しています。正しいものが略奪に遭う、それほどに国が腐敗している。それにもかかわらず、誰もこの状況に対して立ち上がる者がいませんでした。そのような破れた状況に対して向かっていく人がいない、だから神が立ち上がられたのであります。
私たちの周りには様々な問題があります。そして、その原因も、様々に考えることができます。しかし、根本的な原因、それは、神に背いている、という現実であると今日の聖書の箇所は語っています。
20節にある「悔いる」とは「立ち帰る」という意味の言葉です。そこには悔いるという後悔の念よりもむしろ、向きを変えるという積極的な意味合いが含まれています。これまで神に背いてきたそのことを認め向きを変えようとする時、神は贖う者として来られます。そこには報復ではなく、恵みの業があります。あたかも放蕩息子のように、どれほど神から遠く離れ、暗い場所にいたとしても、一度神の方に立ち返るなら、神の方から両手を広げ、迎えに来て下さるのであります。
そして神は、既に立ち帰る道を備えて下さっています。私たちの救い主、イエス・キリストです。本日はアドベントの第二主日です。救い主として地上においでくださった御子を覚えて、神に立ち返る道が備えられた恵みを、二本のロウソクの灯と共に思い起こしたいと思います。

礼拝説教要旨(11月29日)降誕前第4主日・アドベント第1主日礼拝

イザヤ書2:1-5

「見つめた言葉」早川 真伝道師

 私たちの周りには、あらゆる言葉が満ち溢れています。私たちは、何の言葉を見つめるのか。誰の言葉を見つめるのか。その源泉はどこにあるのか。ということを問う必要があるように思います。
1節にある「見たこと」の「こと」は「言葉」という意味があります。これは、神の言葉は必ず出来事となる、ということを意味しています。アッシリアに攻撃され、その支配下に置かれるという状況の中、やがて訪れる主の平和について語られています。
主の言葉は出来事であり、やがて必ず実現すると信じ歩むなら、現状がいかに暗くとも、そこに確かな希望が生まれます。平和ではない現状にあってなお平和の中を歩む方法がある、そのことを今朝の箇所は示しているのであります。それは、主の言葉を見つめ歩む道であります。
5節には「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」とあります。ヤコブの家、それは教会のことでありましょう。世界中がコロナウイルスの影響を受け、暗い思いに沈んでいるこの時にこそ、ヤコブの家なる教会に、「さあ、主の光の中を歩もう」とイザヤは呼び掛けているのであります。
本日は、アドベント第1主日礼拝です。暗闇のような現実の中に、出来事となる神の言葉を信じるなら、そこに希望、平和、喜び、愛の光が灯ります。そして御子がお生まれになったことこそ、私たちの光の源であります。その光を見つめ、暗い現実の中にお生まれになった御子を待ち望みつつ、喜びの内にこのアドベントの時を過ごしてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(11月22日)降誕前第5主日礼拝

ミカ書2:12-13

「先頭に立たれる主」早川 真伝道師

ミカは紀元前8世紀に活躍した、イザヤと同時代の預言者であり、敵国アッシリアの度重なる攻撃、そして北イスラエルが陥落させられ、南ユダもまた、攻略されていく中で、そのことを神の刑罰であると預言していました。
しかし、神の裁きの特徴は、残りの者を残される、ということです。私たちは裁きというと全て滅ぼし尽くすことかと思いますが、神の裁きは全て滅ぼすことはせず、その中の一部を残される、と言うのであります。
私たちの苦しみの中で最も辛いのは、現状の苦しみに理由が見いだせない時ではないでしょうか。一体なぜ神はこのようにされるのか。理不尽に思える境遇の中で、私たちは時に、神を責め、嘆きと、恨みにも似た言葉を発するものであります。しかし、驚くべきことに、私たちは、私たちの救い主、イエス・キリストの中に、このどうしようもない悲惨な私たち自身の姿を見るのであります。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」この唯一の正しい方の切なる叫びに、神はお答えにならなかったのであります。それは、私たちのこの苦しみの最前線に、主が立ってくださっている、ということであります。そして、死から復活することによって、その苦しみを打ち破ってくださったことを意味しています。
現状がいかに苦しく、惨めであったとしても、最後まで神に訴え、なお神に望みを置く時、神は必ず、その苦しみを打ち破り、私たちを門の外へと連れ出してくださる、そして私たちを死から命へと導こうと羊飼いのように気を配っていてくださるのであります。

礼拝説教要旨(11月15日)降誕前第6主日·幼児祝福礼拝

申命記18:15-22

「預言者の言葉」早川 真伝道師

預言者とは、神様の言葉を預かる人のことです。そしてそれを神様の民であるイスラエルの民に告げました。しかし何故、神様は直接語らなかったのでしょうか。それは、イスラエルの民が、モーセが十戒を与えられた際に、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、主が火の中を山の上に降られたことに怖れ、神様に「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」と頼んだからです。
神様はそのことに対して、「彼らの言うことはもっともである。」と言われました。これは、彼らは良いことを語った、という意味です。主を正しく畏れるのは良いことだと言われているのです。
モーセという人はとても忠実に神様の言葉を語りました。そして、神様はやがて、モーセのような預言者を立てると約束されました。そしてその後に様々な預言者が現れました。その中の一人、イザヤは次のように予言しています。「一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」
神様がモーセに約束された預言者とは、イエス様のことでした。イエス様は、神様のお心を完全に人間にお伝えすることができました。神様のお心、それは、神様が私たちを愛してくださっているということです。神を畏れることのない、生意気な私たちがそのことに気づくために神様は赤ちゃんの姿を取って地上に来てくださったのでした。クリスマスをお祝いするたびに私たちの心がへりくだらされて、謙遜な者へと導かれますようお祈りいたします。

礼拝説教要旨(11月8日)降誕前第7主日·創立118周年記念礼拝

創世記13:1-8

「選択の礎」早川 真伝道師

小石川白山教会の創立者であるスーザン・バーンファインド先生は、1900年に日本に来られ、41年間、日本で働かれました。彼女はその間、婦人会、若い女性のための集会、日曜学校、英語のバイブルクラスやドイツ語の個人授業、また聖書学校の校長、孤児院、小石川教会、等々あらゆる働きをされました。そして1945年8月の原子爆弾投下を機に日本が降伏したことにより戦争が終結し、小石川教会、孤児院、聖書学校はすべて、先の五月の焼夷弾爆撃で破壊され、彼女の多くの友人が亡くなったことを知らされたのでありました。その後、先生が亡くなられた際、花を手向ける代わりに親族の呼びかけによって集められた献金によって再建されたのがこの会堂です。
本日の聖書個所はアブラムと甥のロトが、財産が多すぎたために一緒の場所に住めなくなり、二手に分かれるという場面です。アブラムの選択はいつも主の約束に基づいていました。ロトは、自分の目に良いと映る地に移りましたが、そこは神への背きが大きく、後に滅ぼされてしまう土地でした。一方アブラムは、神の言葉を聞いて選択しました。そして、主のために祭壇を築いた、とあります。
祭壇とは何でしょうか。元来それは、神との出会いを経験した際に、神を礼拝するために築くものでありました。そのように考えますと、この小石川白山教会の会堂もまた、神を礼拝するために築かれた祭壇であるということができます。
この小石川白山教会が、そのような神の言葉を礎としてここに存在していること、その恩恵に与っている私たちもまた、未だ目に見えぬ、神の約束を望みつつ、主の来たりたもう時を待ち望みたいと思います。

礼拝説教要旨(11月1日)降誕前節第8主日礼拝

イザヤ書44:6-17

「本当の神」早川 真伝道師

今日の箇所に出てくる「贖う」は買い戻すという意味で「万軍」は戦いを意味する言葉です。ここには強い主、その気になれば背くものを滅ぼしつくすことさえできる方である主、その方が贖われるということが示されています。
何故神は偶像礼拝にふけるご自分の民イスラエルを滅ぼし尽くされなかったのでしょうか。それはご自分の民を愛しておられたからです。言わば、戦いを挑むべき者が御自分の愛する者だったのです。そこで神はどうされたのか。神は、御自分の独り子を十字架にかけられました。そのことによって本来神に立ち返るべき者の背きを買い戻されたのであります。そして、本来背いたご自分の民に向けられるべき神の万軍は、イエス・キリストに向けられたのであります。
贖うということは、同じ価値のものでなければできません。全人類の罪を赦すためには、神は全く罪のない、独り子イエス・キリストを差し出す必要がありました。しかし、御子キリストを犠牲にすることは神にとって戦いであったのではないでしょうか。イエス様が、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、主はどれほど心を痛められたかと思います。
本当の神は、ただ強いだけではなく、贖われる方であります。ご自分の独り子を犠牲にしてまでも私たちを愛してくださる神こそ、本当の神であります。神がとこしえの民と定めてくださった、その中に加えられる恵みを覚えつつ、イスラエルの王であり、私たちを贖う万軍の主を岩と頼み、歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(10月25日)降誕前節第9主日礼拝

箴言8:1,22-31

「楽しませる者」早川 真伝道師

箴言は、旧約聖書の中で知恵文学と呼ばれる書物の一つです。今日の箇所はその中でもまさに知恵について語られています。ここでは、知恵は人格化されています。そうすることによって私たちに教訓を生き生きと伝えています。
22節には、神様はいにしえの御業より先に知恵を造ったということが記されています。創造の御業に知恵が用いられた、それほどに知恵は根源的かつ重要なものであるということが言われているのでありましょう。
今日の箇所で二回、「楽しむ」という言葉が出てきます。そしてこの言葉は「楽しませる者」という意味の言葉であり、「反復」を意味する形で書かれています。知恵は私たちを、そして神様を繰り返し楽しませる者である、ということが示されています。
コヘレトの言葉12:1には次のようにあります。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。」ここには、青春の楽しみが失われていく前に、失われることのない神の知恵を得るようにとの勧めがあります。今日の箇所で、知恵が神の創造の御業を、その初めから知っていることがずっと書かれているのは、神が大地を創造された創造主であることを知ることが私たちにとっての得るべき知恵であることを意味しているのだと思います。
今日から降誕前節です。イエス様のご降誕を待ち望む時として、これからの時が備えられています。この時、神様を知る恵みが豊かに与えられますように。そしてそのことによって繰り返し、神様と私たちが楽しませて頂くことができますよう願っています。

礼拝説教要旨(10月18日)聖霊降臨節第21主日礼拝

フィリピの信徒への手紙3:12-21

「天の共同体」早川 真伝道師

今朝の箇所で、パウロは、パウロに倣う人たちを見倣うように勧めています。これは、パウロと同じ生き方をしている人に倣うように、との呼びかけです。つまり、地上のことにではなく、天上のことを目標として走っている人に倣うように、ということであります。
私たちは度々、後ろを振り返る者であると思います。あの時こうしていれば良かったと後悔し、なかなか前を向けないことがあります。また反対に過去の業績や栄光に捉われるということもあります。しかし、ここでパウロは、後ろのものをまったく忘れるように努力しているというのです。そして、前のものを得ようと、死力を尽くして手を伸ばしている、というのです。現状に満足するあまり、もうそれ以上を求めない人たちに対して、しかし、イエス・キリストにある道のゴールはまだ先であるとパウロは主張するのであります。
20節の「本国」という言葉は共同体という意味があります。共同体とは共同の利益で結ばれた集団であり、私たちの共同の利益は天にあります。私たちの卑しい体が、キリストの栄光の体に変えられること、それが天の共同体の利益であり、目標であるのではないでしょうか。その時がいつ訪れるかは誰にもわかりません。しかし、確実にその時は近づいています。その時、一切の私たちの苦しみが取り去られるのであります。そして、その時にこそ、私たちは、はばかることなく、すでに得たと言い得るのでありましょう。
後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、共に支え合い、助け合いながらひた走ることのできる恵みを主に感謝したいと思います。

礼拝説教要旨(10月11日)聖霊降臨節第20主日・永眠者記念礼拝

コリントの信徒への手紙二5:1-10

「永遠の家」早川 真伝道師

ここで言われている永遠の住みかとは、霊的な体を意味しています。それに対応するものとして語られているのは幕屋で、これは肉体の体を意味していると考えられます。幕屋とは定住するためではなく、移動するために用いる一時的な仮宿のことです。
人間が家を必要とするのは、雨風や直射日光から身を守るためでありましょう。もしそれらに無防備にさらされるなら、体力は消耗し、いのちを守ることは困難になります。キリストを信じ天の住みかが与えられている者は、決してそのような状態にはならないとここで断言されているのであります。必ず命が守られる。たとえ肉の命が果てようとも、霊の命を守る霊的な建物が備えられているからであります。
5節には、天の幕屋が与えられる保証として聖霊が与えられていることが記されています。聖書によれば、聖霊は洗礼を通して与えられます。自らが死ぬはずの者であることを認め水に覆われる時、私たちは神の恵みに覆われるのでありましょう。死ぬべきものが命に飲み込まれる、とは何とダイナミックな言葉でしょうか。
ご承知のように、私たちの地上での歩みは決して楽なものではありません。雨漏りもすれば壊れもする、肉の体を伴っての歩みであるからです。しかし、忘れてはならないと思います。この弱い私たちの体の上には目に見えない神の永遠の家が備えられています。そうであるならば、その永遠の安心に憩う時まで、地上における旅路を神の御心に従って共に歩んで行きたいと思います。やがて与えられる天上の住みかに私たちの希望を置いて、聖霊の導きのままに歩んでまいりましょう。

礼拝説教要旨(10月4日)聖霊降臨節第19主日礼拝

ローマの信徒への手紙11:33-36

「栄光は神に」早川 真伝道師

これまでパウロは、万人の救いについて語ってきました。ここで言われている万人とは、大きく分けてユダヤ人とそれ以外の異邦人の二つしかありません。
神は初めに、御自分の民、イスラエルを選び、御自身の救いにあずからせようとされました。そしてその中からイエス様がお生まれになり、ユダヤ人はもとより、異邦人にまで救いが与えられることとなりました。しかし、当のユダヤ人は、イエス様を救い主と認めず、十字架にかけて殺してしまいました。これをパウロはつまずいたと表現しています。その結果、異邦人の方が先にイエス・キリストによる救いに与ることとなりました。しかし、それはまた、ユダヤ人にねたみを起こさせるためであり、最終的にはユダヤ人もまた神に立ち返り、万人が救われる、というのであります。
この理解に至るまでパウロは苦しみました。自分の同胞であるユダヤ人がキリストを受け入れない、それはパウロにとって「深い悲しみ」であり「絶え間ない痛み」であると語られています。究めがたい、測りがたい知恵が、啓示によってパウロに示されたのであります。
36節には「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」とあります。これは私たちの困難も課題も、悲しみさえも全ては神の御手の内にあるということです。そして、神の救いのご計画は、確かに進んでいる、ということです。私たちもまたパウロと共に「栄光が神に永遠にありますように」、との呼びかけに「アーメン」と応えるものでありますように。

礼拝説教要旨(9月27日)聖霊降臨節第18主日礼拝

エフェソの信徒への手紙3:14-21

「キリストの愛」早川 真伝道師

今朝与えられた箇所は、これまで異邦人の救いについて語られてきたパウロの祈りの部分です。
15節の「家族」とは「部族」をも意味する言葉です。本来、御父である神から名を与えられたのはイスラエルの12部族でありました。しかしここでパウロは異邦人であるエフェソの信徒たちもまた、名を与えられた家族、部族であると言っています。キリストのゆえにすべてのものが親族関係で呼ばれるのであります。
18節に「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」とあります。英国国教会内部でのメソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーは、この個所を次のように解釈しました。
「広さは全人類を包みこみ、長さは人の誕生から死に至るまで及んでいる。高さは人々の間における社会的地位や階級の高い人々、そして深さはもっとも卑しい、道徳的に堕落した人々にさえ、キリストの愛は届いている。」
この高さにもう一つ加えたいと思います。それはおごり高ぶるものです。神は人のおごりを憎まれる方でありますけれども、そのおごりを打ち砕くことによって、神の恵みに与らせてくださる方であります。すべてのものを包み込むキリストの愛。その広さ、長さ、高さ、深さをまだ私たちは完全に知りません。これは私たちにとっての希望であるのではないでしょうか。今、私たちが知っている以上に神の恵みは大きいのであります。私たちの理解や願いをはるかに超えるキリストの愛の中に、どのような時も根ざし歩んで行きたいと思います。

礼拝説教要旨(9月20日)聖霊降臨節第17主日礼拝

ペトロの手紙一2:11-25

「義によって生きる」早川 真伝道師

今朝与えられましたペトロの手紙一の時代、初代教会は誹謗中傷に満ちあふれていたようです。異教徒が故意に中傷していたのですがそれに対する最も効果的な反論は、そのような誹謗中傷が虚偽であるということを生活によって証明することでありました。
19節の「御心に適う」という言葉は「恵み」という意味の言葉です。不当な苦しみを受け、苦痛を耐えることが一体なぜ恵みと言えるのでしょうか。ローマの信徒への手紙5:1-5には、苦難がやがて欺くことのない希望を生むと語られています。ここに、苦難の中にあっても神の恵みを得る道が示されているのではないかと思います。
24節には「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」とあります。これはイエス様のことが言われているのですが、人の傷によっていやされる、ということは実に不思議なことです。自分の苦しみをもっと深い所で味わってくださっている人がいる。しかも自分のために。イエス様が十字架の上で死んでくださったことによって私たちの根本的な病、神の前に義とされ得ない、言い換えるならば私たちの罪が完全に赦されたのであります。
私たちはキリストを信じることによって与えられる義によって何の後ろめたさもなく歩み、キリストの御足の後に従うことによって、義に仕える自由、正しく生きる自由を得ます。キリストにより与えられている義にいつも立ち返り、励まされてキリストの御足の後に従う力を頂きながら、歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(9月13日)聖霊降臨節第16主日礼拝

ヨハネの手紙一手紙5:10-21

「神に属する者」早川 真伝道師

ヨハネの手紙一は、いわゆる反キリストと呼ばれる偽教師に対する注意を促す目的で書かれたと考えられます。16節に、「死に至る罪」という言葉が出てきますが、この手紙の文脈に照らし合わせるなら、それはイエスが神の子であることを否定する罪だと考えられます。
本日の説教題は18節の御言葉から取りましたが、この「属する」という言葉は起源や由来を意味する言葉が使われています。つまり神から生まれた者、また神に起源を持つ者という意味を持ちます。
神に起源を持つ者とは新しい人生の始まりがキリストとの出会いである者でありましょう。キリストを受け入れるということは、キリストと出会い、自らの罪を知らされ、自分が救ってもらわなければ生きていけないということを認めた者であるはずです。キリスト以前の自分はキリストと共に十字架の上で死に、洗礼に表されるように、復活し、新しい起源を持つ者とされたのであります。もはや古い起源は私たちを拘束せず、支配することができません。

もはや自分の起源を生まれながらの死ぬべき命に持たず、永遠なる神の命に持つ者だけが、自分の運命について、確信をもって証しすることができるのであります。キリストの内にあるならば、私たちの起源が真実の神、永遠の命になります。自分が真実なる神の内にあり、永遠なる神の内にあるという証しを、一人一人の心に、確かに神が授けてくださるよう、神に願う者でありたいと思います。

礼拝説教要旨(9月6日)聖霊降臨節第15主日礼拝

エフェソの信徒への手紙5:11-20

「光となる」早川 真伝道師

今朝与えられた御言葉には、私たちが光となるために重要なことは、明らかにされることだと書かれています。私たちが自分自身で光る必要はなく、光に照らしていただけば良いのだと。そのためには、私たちは神の前に出れば良いのであります。
私たちが自らを御言葉に晒していく、イエス・キリストに晒していく。その時に初めて、私たちは自分がどれほど本来人としてのあるべき姿から遠く離れている存在なのか、ということを知ることができます。そして御言葉は、イエス・キリストは私たちの本当の姿を暴露するだけではなく、赦し、慰め、癒してくださいます。なぜなら、光に照らされた私たちの全ての醜い姿は、十字架の上で全て主が解決してくださったからです。

19節には「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」とあります。ここに、賛美には二つの面があることを見ることができます。一つはもちろん神に感謝をささげるという面。もう一つは神が私たちに成してくださったことを思い起こし私たち自身が励まされ、強められる、という面です。
私たちもまた教会も、内に様々な悩みや問題を抱えています。しかしそれを主の御前に持ち出し、主の光に晒す時に問題の本質が明らかになり、根本的な解決へと導かれるのでありましょう。そのようにして主の光を豊かに受け、地の塩、世の光としての働きを担うことができるよう、教会が、また私たちが光となるよう、主の導きを求めて歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(8月30日)聖霊降臨節第14主日礼拝

ローマの信徒への手紙一7:1-6

「新しい生き方」早川 真伝道師

ここでは、私たちと律法というものが一つの契約関係として描かれています。本来私たちと律法の関係は契約内容であるのですが、ここでは比喩的に、契約相手として語られています。ここで重要な点は、契約関係にある二者のうち、一方が死んでしまえばその契約は無効になる、ということです。
律法、それは神と結んだ契約であります。しかし人間はだれもその契約を完全に守ることができませんでした。キリストの十字架の姿は、私たちが契約を違反することによって神を傷つけた証であります。しかし神は、御自分の独り子であるキリストを傷つけ、死に至らしめることによって、本来傷つけられるべき私たちの契約違反を無効にしてくださったのであります。
6節にある「文字」とは手紙や文書をも意味する言葉が使われています。手紙や文書というものは、それを書いた筆者の意図があります。文字ではなく、霊に従うとは、書かれた文字の背後にある、神の思いに従う、ということであり、神の思いを私たちに示すのは聖霊であります。その事柄が、神の栄光のためになされているのか、それとも自分の私利私欲のためになされているのか、ということを聖霊ははっきりと私たちの心の内に示して下さいます。
古い自分が打ち壊され、新しい自分へと造り変えられるために、神様は聖霊を一人一人の心に遣わしてくださったのであります。その聖霊の御声に聞き従いながら、死に至る実ではなく、永遠の命に至る実を結ぶ私たちへと導かれてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(8月23日)聖霊降臨節第13主日礼拝

コリントの信徒への手紙一2:11-3:9

「キリストの思い」早川 真伝道師

キリストの思いとは何でしょうか。それは、一致と平和でありましょう。
天と地ほど異なる肉の思いと霊の思い、言い換えるならば人の思いと神の思い。それを繋いで一つとして下さるのがキリストであります。
天から降り、神の御心をその言葉と行いによって示し、更に聖霊によってわたしたちのうちに住んでくださっている、その、キリストの思いが私たちに与えられているというのであります。
3節に、「ねたみや争い」とあります。妬みとは熱心とも訳せる言葉が使われています。熱心なのは良いことだと思いがちですが、人の思いによる熱心は争いと同列に扱われるべきものであるということが示されています。それは分派を生み出し、やがて争いへと向かうものであるからです。
教会の中にも様々な人の思い、肉の思いが入り込みます。しかしそこでわたしたちは幻滅するのではなく、わたしたちに与えられているキリストの思いに目を向けて行きたいと思います。
私たちは神の畑であり、一人一人が実りをもたらす存在です。そうであるならば、互いに実をつけることができるように配慮しあう必要があるのでしょう。自分だけが実をつけて、他の人が実をつけることを妨げていないか、私たちは今一度、自らを省みつつ歩んで行きたいと思います。全ての人が豊かに実を結ぶこと、それをこそキリストは望んでおられるのでありましょう。神から与えられた霊に導かれて、豊かに実を結ぶ教会へと、成長させていただきたいと願います。

礼拝説教要旨(8月16日)聖霊降臨節第12主日礼拝

ヨハネの手紙一5:1-5

「十字架への道」竹島 敏牧師

 今朝与えられた箇所において、神から生まれる者は世に打ち勝つであろうと聖書は宣言している。それはどういうことなのか。
 世に打ち勝つもの、それはイエスが神の子であると信じる者だと言われている。あの、この世の罪と悲惨を背負って十字架の上で死を遂げられたイエス。彼こそが神の子であると信じるとはどういうことか。それは自分もまたそのような道を歩むことを受け入れる、ということだ。イエスの歩まれた道、それは決して楽な、痛み苦しみを伴わない道を選ぶということではなかった。
 私たちの身の回りには様々な危険が満ちている。そのような中で危険から身を守ることはとても大切なことなのだと思う。しかし、そのような中で、人とかかわることに決して消極的になってはいけない、と聖書は私たちに告げているのではないか。そのようにして神から遣わされた者は世に打ち勝っていくのだ、と言われている。イエスはどこにおられるのか。悲しむ人、苦しむ人、そして私のそばにおられる。そして私たちの悩みや苦しみを共に担って歩みだしてくださる。
 その時私たちはまことに小さなことであるかもしれないが主の弟子として証しを立てることになる。隣人の悩みに向き合う時、この世界の悪に向き合うことになる。そしてそのような中で主に出会うのである。私たちは正しく身を守りながら、十字架の主イエスの愛をいたるところに証していく、そのような機会を求めて歩んでまいりたいと思う。

礼拝説教要旨(8月9日)聖霊降臨節第11主日礼拝

コリントの信徒への手紙一11:23-29

「いのちを受け継ぐ」竹島 敏牧師

 ここでパウロが言っている「主が来られるとき」とはいったいいつのことなのだろうか。
この「主が来られるとき」は「終末の時に主イエスは天から再び来てくださる」という信仰と深く結びついている。当時の人々は、終末を待望する想いを強く持っていた。そしてそれはまもなくやってくると信じていた。終末、すなわちこの世の終わりは、暗闇のような時代が終わりを告げ、主イエスが天から再び来てくださる救いの完成の時だと…。この世でずっと虐げられてきた者たちが主の完全なる救いに預かり喜びに満ち溢れる時が備えられている。そのような希望を固く固く持ち続けることが彼らの生きる力になっていたのだ。そして、繰り返しになるが、それはまもなくやってくる、と。
 私たちの救い主イエスキリストは、私たち一人一人の「いのち」の交わりの主である。
確かに、この地上での命がおわる別れの時は、耐え難い悲しみの時だ。しかし、誰もがいつかは迎えなければならないその時に備えて、今、互いに生かされているこの一瞬一瞬を大切にし、互いの「いのち」をわかちあっていきたいものだと思う。そして受け継ぎあっていきたいものだと思う。そうすることによって「いのち」は孤立することなく互いに輝きはじめるのだ。
主が再びやってこられ、主の救いが完成するその時がいつなのかはわからない。しかしいつか必ずやってくるその時まで、私たちもまた、このパウロたちのように、「いのち」の交わりを続けながら、希望をつないでいきたいと願うのだ。

礼拝説教要旨(8月2日)聖霊降臨節第10主日礼拝

ローマの信徒への手紙14:10-23

「神の国と神の義」竹島 敏牧師

 今朝のこの聖書の箇所は「主イエスのお姿を見つめるなら、同じ考え方や感じ方の人を多く集めて数を得ていくことによって自らの正しさを証しようとする試みが、いかに空虚なものであるかがわかってくる」ということを示している。大切なのは数ではなく、十字架の主イエスの姿を見つめ、この主が求めてやまなかった義と平和と喜びの国を見つめること、そして、この地上の世界が少しずつでも、そのような神の国に近づいていくよう仕えていくことだ。
 日常の様々な場面で、私達は自分とは違う習慣や考え方と出会う。その時、もし、私達が多数の側に立っているのなら、私達は主から、少数の、自分とは違う習慣や考え方から学びなさい、と言われるのであろう。またその時もし、私達が少数の側に立たされるのなら、たとえ一方的に裁かれることがあってもめげることなく、主の支えと導きを求めつつ、裁く人達との対話を求めていくべきなのだろう。それぞれの違いを互いに理解しあえないことも、時にはあるかもしれない。理解しようとしても、理解できない‥、そのような苦しみが続くこともあるのかもしれない。しかしそんな時にこそ私たちは、主イエスが互いに理解しあうことがなかなかできないでいる私たちを、すでに、ご自身の十字架のもとに招き、抱きしめ、一つとしてくださっている、という情景を心に思い浮かべたいものだと思う。そして、主のもとですでに実現しつつある、神の国と神の義に向かって、導かれつつ一歩一歩、歩んでいきたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(7月26日)聖霊降臨節第9主日礼拝

使徒言行録27:33-44

「救いのために」早川 真伝道師

今日の箇所は、パウロがユダヤ人に訴えられてローマへ護送されるその途中の出来事です。多くの囚人と共に船でローマへ向かったのですが、暴風に巻き込まれてしまいました。人々は不安で食べ物が喉を通りませんでした。しかしパウロは、大胆に人々に勧めることができました。それは、御使いを通して語られた御言葉がパウロを支えていたからです。
しかし実は以前にも、パウロは同船した人々に勧めていました。しかしその時はパウロの勧めも虚しく、人々は食事をとることができませんでした。なぜ今回は元気づいて食事をすることができたのでしょうか。それはパウロがこんな状況であるにもかかわらず、まず率先して、感謝してパンを食べ始めたからではないかと思います。まずは一人からでも、神の約束を信じ、感謝して食べる時、それは何よりも説得力を持つのだと思います。
38節に、「十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」とあります。私たちの信仰生活というのは、この嵐の中の船のようなものではないだろうか、と思います。教会も、危機の中でこそ、本当に必要なもの、救いに至るものを発見できるのでありましょう。神様は真の救いのために危機を起こされると言えるのではないでしょうか。今はコロナウィルスのため、世界中が苦境に喘いでいます。私たちは生き延びるために、御言葉を食べ、不必要なものを捨てて、救いの港に辿り着きたいと思います。
「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんの内だれ一人として命を失うものはないのです。」(22節) 

礼拝説教要旨(7月19日)聖霊降臨節第8主日礼拝

使徒言行録24:10-21

「ただ主を見つめて」竹島 敏牧師

 今日のこの聖書の箇所には「ゆるせない」、そういう相手をもなお、ゆるそうとするパウロの姿勢がえがかれている。ただ主イエスを見つめることによって、そのような道が与えられるとパウロはここで述べているのだ。
 さて、私達の日常においても小さな事から大きな事まで、ゆるせない、と感じることがたくさんあることを想う。しかし今朝、再び私達は、どんな時もまず共にいてくださる主イエスの御姿を、ただじっと見つめることから始めたパウロの姿勢を確認しておきたいと思う。
そして私達もまたそうすることによって、過剰な憎しみや恐れから解放され、まことの平和へとつながる道を一歩一歩歩んでいけるのだということを覚えておきたいと思うのだ。主イエスが共にいてくださり導いてくださる道を信じて行く時、すぐにではないかもしれないが人の想いをはるかにこえた新しい道が見えてくる。
 確かに、当面は何も喜ばしい兆しが見えず、何も変わらないどころか、ますます悪い方向へ向かっているのではないか‥、と感じることもあるかもしれない。しかしそんな時は、「共に苦しみつつ支え導いてくださる主イエスを、もう一度、ただじっと見つめてみる‥」そのようなパウロの姿勢を思い出してみたいものだ。
 そのようにして主イエスを見つめつつ一歩一歩歩んでいくなら、きっと神が備えてくださっている時に、本当の解決が与えられる‥、と今朝の聖書の箇所は私達に語りかけているのではないかと思うのだ。

礼拝説教要旨(7月12日)聖霊降臨節第7主日礼拝

使徒言行録9:36-43

「受け継がれるべき業」竹島 敏牧師

今日のこの聖書箇所に記されているのは、いわゆる奇跡物語であるが、その中心は「大切な人の死をいたみ、主に心からの祈りを献げるなら主が新たに、召されたその人を中心とする交わりを与えてくださる」ということなのではないだろうか。私たちもまた、すでに召された信仰の友のために、主に心からの祈りを献げるなら、主はきっと、その都度その友を私たちの間に生き生きとよみがえらせてくださり、交わりを持たせてくださるに違いないのだ。 
「私たちの主イエスは、ペトロを通してタビタを人々の間に返された‥、今後もタビタが人々の間に生き続け、慰めと支えをやもめたちに与え続けるように主はタビタのことを忘れさせないようにした」と今日のタビタのよみがえりの物語を受け止めることができるのではないだろうか。主はペトロを用いてタビタを人々の間によみがえらせた。そのタビタがこつこつとなしてきた業は、もとをたどれば、主イエスが専念してこられた業でもあった。それは決して「数」や目に見える「実績」にのみ心奪われることなく、不遇のなかで寂しさやつらさに耐えている人たちを慰め、励まし、新たな希望へと導いていくための業‥、しかし決してすぐに目に見えるような形で成果があらわれることのない業であった。 
ペトロもタビタもそうであったように現代に生きる私たちも主イエスからそのような業を受け継ぐよう促されているのだということを覚えておきたいと思う。そのような、よみがえりの出来事を目指して、今、何をなすべきかを見出していきなさいと、私たちは促されているのではないかと思うのだ。

礼拝説教要旨(7月5日)聖霊降臨節第6主日礼拝

エフェソの信徒への手紙2:11-22

「キリストの平和に仕える」竹島 敏牧師

今朝のエフェソ書の19節以下においては、「主における聖なる神殿」へと共同体が成長していくことについて述べられている。そしてキリストは、その隅の親石、また、かなめ石である、と語られている。21節には「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」とあるが、そのように様々な違いを持つ一人一人を、教会という一つの体に「組み合わせていく」のがキリストの愛の働きであると告げられている。このキリストの愛の働きなくしては、建物はばらばらになり、分裂分派してしまうのだ。 
 そして最後の22節では、「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」と告げられ、共に、このキリストの愛の働きに参加し仕えていくようにという促しが与えられている。
 確かに、全てのことにおいて余裕が失われつつあるのが、今の私達の時代の一つの特徴なのかもしれない。しかし、もしそうであるならば、そしてそのままであるならば、そこには、いつまでたってもキリストイエスの愛がない‥、殺伐とした風景しか見えてこない‥、ということになってしまう。どうか私たちは、このような時代のなかにあっても、「敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄」してくださった十字架の主イエスを見失うことなく歩んでいきたいと思う。そして、どのような場にあっても‥、教会の内でも、外でも、その主を見つめ証し続ける道を歩み続けていきたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(6月28日)聖霊降臨節第5主日礼拝

ヘブライ人への手紙12:18-29

「苦難の共同体」竹島 敏牧師

私たちは日々、様々な言葉を聞きまた語って生きている。しかしその多くはあまり意味のない言葉であったりまた、傷つき傷つける言葉であったりするのではないだろうか。そのような言葉の渦の中で私たちは怒り、悲しみ、むなしく疲労して生きているのだ。職場や学校や時には家庭においてさえそのような状況があるのではないだろうか。
しかしそのような悲惨をつらぬいて主イエスの言葉は私達一人一人に新たな命と力を与え、生きる希望を与え導くのだ。この愛と真実に満ちた言葉を受けて具体的にはまだ何も解決していないにもかかわらず静かな平安のうちに事にあたっていくことができるのだ。主に従って歩むなら必ず解決するとの約束が与えられているがゆえに全ての恐れから解放されていくのだ。 今、政治の場を始めとしてあらゆる場において真実の言葉が失われてしまっている。無意味な言葉や悪意に満ちた言葉が飛びかいそのような言葉の渦に私達もまた時にまきこまれてしまいそうだ。しかしであるからこそ私たちは日曜日ごとに教会に集い聖書を通して語られる主イエスの真実の言葉を受けて立ち直っていきたいと思う。教会は誠実な生き方を志すが故に様々な苦難を背おわざるをえなかった人達が共に集い、御言葉にあずかる苦難の共同体なのだ。この共同体においてこそ私たちは真実の安らぎを得て希望を与えられて新たな一週間の旅路へと旅立つことができるのだ。今日も私たちは主イエスのみを見つめ愛ある真実の言葉を身につけこの世の流れにあらがって、神の国の流れに従って、それぞれの場へと遣わされてまいりたいと思う。

礼拝説教要旨(6月21日)聖霊降臨節第4主日礼拝

ヨハネの手紙一2:22-29

「注がれた油」早川 真伝道師

私たちは知識を得たから救われたわけではありません。確かに、私たちはキリストのことを知ったから、ある意味では知識を得たから救われたということはできます。しかし、その前提としてキリストが十字架にかかって死んでくださった現実によって救われたのであります。その現実を信じ受け入れたからこそ、聖霊が注がれ、永遠の滅びから救われたのであります。
今日の御言葉の中で「油」と言われていますのは、聖霊のことを意味しています。当時、油は中東の民族にとって貴重なものでした。乾燥しており、暑苦しく、体力を消耗させる気候の中で、油(香油)は生気をよみがえらせ新鮮な気分を回復させました。そのように聖霊も私たちの乾燥した心、苦しく消耗した心を回復させ蘇らせてくださいます。
クリスチャンは高度な理論や証明は必要がないのでしょう。初めから聞いたこと、イエスはメシア、キリストであるということを信じるだけで十分なのだと言っているのであると思います。そのほかのことは、全てのクリスチャンに与えられる聖霊が、時にふさわしく教え導かれるというのであります。
私たちに与えられたこの聖霊は取り上げられることがありません。私たちは、度々この聖霊を悲しませるものでありましょう。しかし、私たちがそのような者であることを百も承知で神は私たちに聖霊をくださったのであります。その恵みに心から感謝し、どんな時も自分自身に絶望することなく、共にいてくださる義なる御方、注がれた油である聖霊と共に、悔い改めつつ、歩んで行きたいと思います。

礼拝説教要旨(6月14日)聖霊降臨節第3主日礼拝

ローマの信徒への手紙10章5〜17節

「福音を抱きしめる」竹島 敏牧師

 今朝のローマの信徒への手紙の17節には「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあるが、私たちは、物事が順調にいっている時よりもむしろ、苦しみに出会い、せっぱ詰まるところまでいって初めて真剣に、切実に救い主を求め、キリストの言葉を求めるのではないかと思う。
 確かにキリストの言葉に出会ったからと言って、負わされている重荷からすぐに解放されるのではないかもしれない‥、与えられている課題の全てが即座に解決するのではないかもしれない‥、もしかしたら、見た目には何も変わったところはないかもしれない‥、しかし、目には見えない形で一人一人の心に聖書の言葉を通して働きかけてくださる主イエスと出会ったなら、人は、必ず変えられていく。そして変えられていった人は当然、今までとは違う新しい行動、生き方をし始めるようになり、そこに新たな道がひらけていくのだ。だからあせる気持ちをおさえて聖書を開き、主イエスと出会っていくために、聖書の言葉を繰り返し繰り返し、抱きしめるようにして読み、心に想う、ということが大切なのではないだろうか。
 様々な不条理な苦しみに出会い、せっぱ詰まって助けを求める私たちにイエスキリストは聖書を通して救いの言葉を与え、導いてくださる‥、必ず、福音をくださる‥、そのことを信じて、真剣に聖書に向き合っていきたいと思う。

礼拝説教要旨(6月7日)聖霊降臨節第2主日礼拝

テモテへの手紙一6章11〜16節

「輝いて生きる」竹島 敏牧師

 今朝、私たちに与えられたテモテへの手紙はイエスをキリストと信じて生きる者たちには戦い抜かなければならない戦いがあることを伝えている。その戦いを戦い抜くことで永遠の命を十分に手に入れることができるというのだ。永遠の命とは私たち誰もがいつかは必ず迎えなければならない肉体の死をこえて神の御前に生き生きと輝き続ける命のことだ。
 また、マタイによる福音書の18章3節には「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とあるが考えてみると永遠の命を手に入れるとは、幼かった頃に与えられていた神からの純粋な命を少しずつでも取り戻していくということなのかもしれない。「正義なんて‥、愛なんて‥」としらけてしまうのではなくもう一度まっすぐに「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めて」生きていこうとすること、それはまさに幼かった頃に与えられていた神からの純粋な命を取り戻していく旅なのであり傷つくことによって失ってしまった自分自身を取り戻していく旅なのでもあると聖書は告げているのではないだろうか。そのような生き方を再び取り戻していく時に私たちはもう一度、命を輝かせて生きることができるのではないだろうか。もう一度、今朝の12節後半の言葉を聞きたいと思う。「命を得るためにあなたは神から召され多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」。
 神からの純粋な命を取り戻し再び命を輝かせて生きていくために聖霊のお導きをご一緒に祈り求めたいと思う。

礼拝説教要旨(5月31日)聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ礼拝

ルカによる福音書11章1〜13節

「いのちの風」竹島 敏牧師

 今日はペンテコステ‥、イエス様が復活して50日目に、熱心に祈り求めていた弟子たちの間に聖霊・いのちの風が与えられたことを記念し感謝する日である。弟子たちの間に与えられたいのちの風は、確かにあの日、弟子たち一人一人の心と体を慰め、支えたことだろうと思う。その頃の弟子たち一人一人にもいろんな悩みや苦しみがあったはずだと思うが、十字架のイエス様が全て、その悩み苦しみをすでに味わってくださって、その上で今、聖霊となってこの自分たちのすぐそばにいて支え、導こうとしてくださっている‥、それは本当に大きな力だったと思う。
 そしてその同じ風を今朝、私たちは共に受けようとしているのだ。教会の礼拝堂に集まることはできず、それぞれのところに散らされて礼拝をささげているとは言え、私達は小さな子どものみなさんから歳すすんだ方々まで、共に、あのいのちの風を御一緒にいただこうとしているのだ。祈り求める者に天の神は聖霊を与えてくださる、とイエス様は言っておられる。
 弟子たちが慰められ励まされ、その力によって立ち上がって教会をつくっていった「いのちの風」を私たちも受けて、再び歩み始めたいと思う。私たち一人一人、皆、さまざまな悩みや痛みや苦しみを背負っている。しかしすでにその全ての痛み苦しみを味わわれた上で寄り添い、支えてくださる方の風‥、聖霊に導かれて歩み出すならば、きっと新たな希望の道を見出すことができる‥、この聖書の約束を信じて、聖霊に身をゆだねて歩みだしたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(5月24日)復活節第7主日礼拝

ヨハネによる福音書7章32〜39節

「生ける水の川」早川 真伝道師

誰も、必要を覚えなければ水のもとには来ません。自分が渇いている、ということを自覚するものだけが水のもとに来ます。私たちは自分が渇いているという自覚を持つでしょうか。
マザーテレサは「愛に渇く」と言ったといいます。私たちは、身体的に渇くことはなくても、この愛に渇く者であるのではないでしょうか。私たち自身が愛されることに渇き、また、他者を愛する愛に渇いているのではないでしょうか。この渇きを癒すには、私たちは神の愛のもとに行かざるを得ません。御自分の大切な独り子を、十字架の上に付けてまで私たちを救おうとなさった神の愛、十字架についてくださったイエス・キリストの愛、そして、目に見えずとも絶えず主と共におられ、力を与え導かれた聖霊の愛。その神の愛のもとに行くとき、私たちの内なる渇きは初めて癒されていくのであります。
来週はペンテコステです。全てのものを生かす生ける水の川は、この聖霊のことであると今日の箇所では語られています。キリストを信じる者全てに与えられる聖霊が、私たちの汚れを清め、また世の汚れを清めるということを信じたいと思います。私たちにそのような力があるのではなく、神である聖霊御自身がそのようにしてくださいます。たとえ今はそのように思えなくても、きっと神はそのようにしてくださる、ということに期待をもって歩んで行きましょう。どれほど死んだような私たちの現実も、この生ける水の川が流れる所では、全てのものを豊かに生き返らせるということを信じ、主の愛に浴しつつ、主の愛を指し示しつつ、歩んで行きたいと思います。

礼拝説教要旨(5月17日)復活節第6主日礼拝

ヨハネによる福音書16章22〜33節

「天からのまなざし」竹島 敏牧師

 私達の主イエスは、どんな困難な状況になっても、ご自身の使命を全うするために、この地上の生涯をまっすぐに歩んでいかれた。それは、ご自身が神のひとり子であったから、ということと共に、いつも、御心が成就している天を見上げて祈り、そこから逆に、この地上の世界を見つめておられたからなのではないかと思うのだ。つまり、「どんなにこの世界が悲惨な状況であったとしても、天において、御心は成就している‥、神の御心にかなった世界が天には成就している。そして、この地においても必ず、その同じ御心が成就していく」、そのような約束に生きていたからこそ、主は、どんな困難な状況になっても、ぶれることなく、神のアガペーの愛の道を行くことができたのではないだろうか。
 そしてこのような主イエスの姿勢から私たちは、天において成就しているその救いから逆に、現在の自分を見つめて生きる、という、ものの見方を学ぶことができるのではないだろうか。そしてその時私達は、今の自分の人生がどんなに悲惨な、また、行き詰まったものに見えていても、なお将来に向かって開かれており希望がある、と告白できるのではないだろうか。
 私たちの主イエスがいつも、天を仰いで祈りを献げ、天からのまなざしに支えられて歩んで行かれたように、私達もまた、天からのまなざしに支えられて‥、今は、天から聖霊を送り、私達を見守り導いてくださる主イエスのまなざしに支えられて、日々の歩みをすすめていきたいと思う。

礼拝説教要旨(5月10日)復活節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書15章18〜27節

「選び出された者たち」竹島 敏牧師

私たちは皆、キリスト者になるように、とここに選び出された者たちだ。キリスト者とは、一言で言えばキリストにならって生きる者達のことだ。キリストにならって生きる、とは、キリストの正しさや優しさを見て、それを身につけて生きる、ということだ。しかしそのような生き方にはまた苦しみも伴う。
でも、多くの苦しみに満ちた終末的な状況のなかで、私達が気づかなければならないことは、今、主イエスは、私達がどのようにこの状況を切り抜けていこうとするのかを見ておられる、ということなのではないだろうか。
私達には、日々様々な葛藤があり、闘いがある。主の弟子でなければ、こんなに葛藤することはなかったかもしれない‥、もっとこの世とうまく折り合いをつけて楽に生きることができたかもしれない、という想いがわいてくることもあるかもしれない。しかし、そのような時こそ、主もまた深く葛藤され苦しまれた、ということを思い起こしたいと思う。そして今も、私達がキリスト者として深く葛藤し苦しむ時、主イエスご自身が共に葛藤し苦しんでくださっているということを忘れずにいたいと思う。
激しい迫害の中で、様々な苦しみを負いつつ主イエスが求め続け、またヨハネの共同体が求め続けたもの‥、すなわち神の国を、私達もまた葛藤し苦しみながらも、真理の霊に導かれつつ求め続けていきたいと思う。そのために、私たちは選び出された者たちなのだという自覚を今朝私たちはあらたにしたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(5月3日)復活節第4主日礼拝

ヨハネによる福音書21章15〜25節

「イエスの愛」竹島 敏牧師

今朝の聖書の箇所が私たちに教えようとしているのは「神と出会うために苦しみを背負いなさい」ということなのではない。そうではなく「どうすることもできない苦しみの深い淵に、私たちの主イエスは両手をひろげて立っておられる」ということだ。そして「その淵にたたずむ私達をしっかりと支えてくださり決して一人ではないということを感じさせてくださる」ということなのだ。
家族や自分をとつぜん襲ってくる病、また人間関係の葛藤など私たちの人生にはどんなに回避しようとしても回避することのできない多くの苦しみがある。なかには生涯向き合い続けなければならない心や体の痛みもある。解決しそうもない人間関係のもつれや葛藤をしばしば経験する。しかしそのようなどうすることもできない苦しみに満ちた私達の人生がどのような終わりを迎えようとも主はしっかりと私達一人一人を受け止め抱きしめてくださる、たとえ未解決の問題や苦しみを抱えたままで終わっていかねばならないとしても、そのような私達一人一人をもしっかりと受け止め抱きしめ、慰めのうちに天へと連れ帰ってくださるのだ。私たちの生涯の終わりにはそのような救いの道が備えられている‥、そしてその時きっと主から全ての答えが与えられる‥、だから、その時まで、主の御心をたずね求めつつ、なおせいいっぱい生き抜いていきなさい‥、と天から呼びかけられているような気がするのだ。そのような呼びかけに応えて今日という一日を生きようとする時、私たちの内に、新たな希望が生み出されるのではないだろうか。

礼拝説教要旨(4月26日)復活節第3主日礼拝

ヨハネによる福音書21章1〜14節

「夜明けの食事」早川 真伝道師

弟子たちは今までイエス様という指導者に従って網を捨て、舟を捨ててきました。しかしその指導者であるイエス様がいなくなった今、弟子たちは急に目標がなくなってしまい、心にぽっかりと穴が開いたような空虚感に襲われていたのではないかと想像します。そのような彼らにとって、漁は空っぽになってしまった心を埋めるための労働であったのではないでしょうか。
ペテロを始めとする漁師出身の弟子たちは、きっと魚を取ることならできると考え、漁に出たのだと思います。しかし、時にこの「できる」は神様の手によって完全に妨げられます。いつもできていたことができない。それも、徹底的にできない、という状態になった時、私たちは自分の力の限界を知り、自分よりも大きな存在である神の御心の前に、膝をかがめて、初めてへりくだることができるのではないでしょうか。
この後ペトロたちはペンテコステの出来事によって聖霊を受けて福音宣教の働きへと出て行くことになります。その前に主はもう一度、この福音宣教の働きが主御自身の業であり、私たちの力で「できる」ものではないということをはっきりと示されたのではないでしょうか。
私たちが主の言葉に聞き、主の言葉に従う時、福音は豊かな実りをもたらし、多くの人を満たすことができるとここで主は告げておられるのであります。それが夜明けであればあるほど、私たちは、主の備えてくださった食事を、いっそうの感謝をもって、受け取るに違いありません。私たちを霊肉共に活かすこの主の食卓に、悔い改めと感謝とをもって集う私たち一人一人でありたいと思います。

礼拝説教要旨(4月19日)復活節第2主日・イースター礼拝

ヨハネによる福音書20章1〜18節

「復活の朝」竹島敏牧師

今朝のこの聖書の箇所を通して私たちは、弟子たちと復活の主との喜ばしい再会の出来事を知る。しかしそれは、いわば一瞬の出来事にすぎず、やがてイエスは天にのぼっていかれる。イエスと弟子たちとは天と地における新たな関係に入っていく。しかし弟子達は、まさにそのことを通して、やがて、弟子たち同士のこの地上での別れをもまた、天と地における新たな関係に入っていくこと、と捉えることができるようになり、そのような弟子たちの永遠の交わりのなかで彼らは、死別した弟子たちの姿や言葉が、よみがえってくる体験を何度も何度も味わい、その体験によって慰められ励まされて、困難な宣教の業をなし続けていったのだろうと思う。
イースターは、主イエスが復活されたことを喜び感謝する日だが、それは、天と地という物理的な距離を超えて、主イエスと弟子達との霊的な交わりが深められていくその出発点でもあったということを覚えておきたいと思う。主の復活と昇天という出来事は、そのように当時の弟子達と主イエスとの関係を新たなものにしたのだ。私達もまたやがて、この地上を去っていく者達である。しかし私達が今、復活の主イエスとの霊的な交わりに深くあずかっていくならば、天と地をつないでくださる復活の主の導きによって、先に召された人達とのより親密な交わりが与えられるのだ。私達の主は、私達一人一人の名を呼んで、慰め、励まし、そして先に召された愛する人の、声や言葉や姿を、よみがえらせてくださる復活の主なのだということを感謝をもって受けとめたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(4月12日) 復活節第1主日礼拝

ヨハネによる福音書27章32~44節

「自分を救わない神の子」竹島 敏牧師

私たちの主・受難の主は、最後の最後まで主の御心に従い、十字架の上で死んでいかれました。まさにそれは、自分を救わない神の子の姿でありました。そしてその姿は、私たち一人一人にとても大切なことを指し示しています。それは、私達にとって最も大切なことは、自らに課せられた問題が即座に解決することなのではない、そうではなく、主の御心にかなった道を歩んでいるかどうかなのだ、ということです。
主の御心にかなった道を歩んでいるのであれば、私たちが抱える様々な問題も、やがて必ず解決していくのでありましょう。しかし、主の御心にかなわない道を歩んでいるのであれば、たとえ、問題が解決していくように見えていても、それは決して真の解決にはなっていかないのです。だから大切なのは、たとえ遠回りのように見えていても、主の御心にかなうと思われる道の方を選び取っていくことなのです。その方を選び取り続けていくことなのです。
不条理な出来事や、困難の只中にこそ、私達の主は共にいてくださいます。そしてご自身がかつてかかられた十字架への道を、もう一度、私達一人一人に見せてくださり、その道をともに歩むことを促されるのです。その道を通ることでしか得られない真の解決と真の平安を私達一人一人に与えるために主は、その道を共に歩むことを私達一人一人に促されるのです。今、私達一人一人に課せられているそれぞれの問題に思いを馳せつつ、主が歩んでいかれた十字架への道を今一度しっかりと直視したいと思います。

礼拝説教要旨(4月5日) 受難節第6主日礼拝

ヨハネによる福音書18章1~14節

「十字架への道」竹島 敏牧師

 今朝のこの聖書の箇所は、つまるところ「具体的には何の望みもない中で、なお、神にゆだねることに希望を見るということ、それこそが十字架の希望だ」と暗い想いに打ちひしがれそうになっている私たち一人一人に訴えているのだろうと思います。ではその私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何なのでしょうか。それは、すべてを失ってもなお、向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。絶望の中で、枯れるほど涙を流しながらなお、向こうから一方的にさしてくる光、これが十字架の希望です。全てを失ったと感じ、また、具体的には何の見通しもないにもかかわらず、なぜか、心の一番深いところに平安が与えられている、「きっと大丈夫」という確信にさえ似た思いが与えられているということ、それが十字架の希望なのです。
 イエスは、おそらく、ユダや、その他の弟子達にも捨てられ、神にさえ捨てられたと感じてもなお十字架の上で、この光を見続けていたにちがいありません。この光に照らされていたからこそ最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と告白したにちがいないのです。そして、十字架の向こうから射してくるこの光を主は、ユダの裏切りによって、逮捕されていくこの時すでにしっかりと見つめていたからこそ、憐れみのまなざしをもって、なおユダを見つめ、また、これから次々と自分を裏切っていく弟子達を、なお守り抜くことがおできになったのではないでしょうか。私達の救い主・受難と復活の主イエスが、すでにこの時から見続けていた光を、私達も見つめつつ、この受難週を歩んでまいりたいと思います。

2019年度

礼拝説教要旨(3月29日) 受難節第5主日礼拝

聖書 ヨハネによる福音書12章27〜36節
「光を持つうちに」
早川 真伝道師

本日の聖書個所の中で35節と36節の御言葉は、大体の聖書において「光のあるうちに」と訳されています。しかし、原文では「ある」ではなく「持つ」という意味の言葉が使われています。そのため、耳慣れないかとは思いますが、「光を持つうちに」という説教題にいたしました。しかし、ここで使われている「持つ」という言葉は、「所有する」という意味よりもむしろ「密接な関係」を意味します。

ユダヤ人たちはイエス様と地上において密接な関係を与えられていました。しかし、もう間もなくイエス様は十字架に上げられることによって、地上においてユダヤ人たちと密接な関係を持つことができなくなってしまいます。光のあるうちに歩くとは、イエス様との密接な関係を与えられている内に行動するということであります。それはイエス様を信じ、イエス様に従うことに他なりません。キリストとの関係が与えられている内に、キリストを信じよ、何の関係もなくならない内に…そのように主は語りかけておられます。
今も私たちは、新型コロナウイルスをはじめ、さまざまな暗闇が襲う状況の中に置かれています。しかし私たちはどこへ行くかを知っています。それは永遠の命です。イエス様の復活こそが私たちの光であり、この光は消えることがありません。それは死を乗り越えた光だからです。復活がなければ私たちには希望がありません。このレントの時、私たちにとって光とは何だろうかということを、もう一度深く思い巡らせてみたいと思います。

礼拝説教要旨(3月22日) 受難節第4主日礼拝

「主イエスの覚悟」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書12章1~8節

 今朝、私たちは、この聖書の箇所に記されている事柄から、十字架へと向かっていく主イエスの覚悟と、その覚悟から来る言葉によって支えられて信仰の生涯を歩み通した1人の人のことを思い起こしたいと思います。それは使徒パウロです。パウロもまた、私達と同じように、弱くもろい、器だったのかもしれず、何度も何度も繰り返し、主に助けを求め続けていた‥、そしてそのたびごとに、主は、パウロに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ十分に発揮されるのだ」と語り続けられました。その主の言葉によってこそパウロは、何とか立ち続け、自分に与えられた道を歩みとおすことができたのではないか‥、と思うのです。
 受難節のこの時、私達もまた、イエスの十字架への道をしっかりと見つめ、その道を行かれる主の後に従う覚悟をせよ、と言われているのでありましょう。確かにそれは時に、主イエスと共に十字架につき敗北の苦しみを味わうことを招くでしょう。しかしそれは同時に、復活へとつながっていく道、復活を望み見つつ歩み進んでいく希望の道でもあるのだ。十字架への道は、十字架の向こうから射してくる光に照らされ、導かれて、主イエスと共にその光を見つめつつ歩んでいく道です。あのパウロに語りかけ続けてくださったように、私達にも主イエスは、きっと語りかけ続けてくださいます。その声を聴き続け、その言葉に支えられて、私達一人一人の失敗や敗北をも豊かに用いて復活の御業を起こしてくださるこの方と共に、この方の覚悟と共に‥、十字架への道を歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(3月15日) 受難節第3主日礼拝

「永遠の命の言葉」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書6章60~71節

今朝のこの聖書の箇所はユダの裏切りを描いています。しかしイエスを裏切ったのはユダだけではなかった…、12弟子全てがイエスを裏切ったのであり、そのような意味においては、みな同じ罪をおかしていた、と言わざるを得ないのだと思います。しかし人は、とかく、自分を正当化したがるものなのだと思います。私も悪かったのかもしれないけれど、あの人の方がずっと悪い‥、私はまだましなほうだ‥、そう思い込むことで安心したいのかもしれません。聖書の中で、ユダは最低最悪の裏切り者であるかのように描かれているわけですが、その背景にはもしかしたら、そのようにユダを最低最悪な悪者に描くことで、他の弟子たちはまだマシだったと言いたかった聖書の著者たちの意図があったのではないか、と言う説もあるわけなのです。けれども、主イエスご自身の御心は、人の罪の重さを比較して、誰がより厳しい罰を受けるべきか、と審査するようなところにはなかった‥、そうではなく全ての人が、それぞれのあやまちや至らなさを認めて悔い改めつつ、新たな生き方を模索しはじめるところにあったのではないでしょうか。そのことに気づかせるために主は、十字架への道を一歩一歩、進んでいかれたのではないでしょうか。
私達もまた、このレントにあたり、主イエスの前に独り立ち、他者との比較ではなく独り、主イエスの前に立ち、これまでの自らのあり方への反省や悔い改めの想いをもって、もう一度、祈りを深く深くして参りたいと思います。

礼拝説教要旨(3月8日) 受難節第2主日礼拝

「神の業が現れる時」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書9章1~12節

今朝私達に与えられたヨハネ福音書に記されているのは、イエスと生まれた時からずっと目が不自由だった人との出会いの物語です。イエスはここで、そこらにころがっている「もの」のようにずっと扱われてきた「この人」が、ごく当たり前に、人間的な暮らしを送れるようになることが一番大切、とお考えになり神の業を行われました。それはある意味この世の価値観をひっくり返すことでもありましたが、イエスはそのことを承知の上で「この人」に神の業・癒しの業を行ったのではないでしょうか。
病や障碍には、必ず原因がある、その原因は罪だ、と固く信じられていた時代において、イエスは、そうではない、とはっきり否定されたのです。ではなぜだ、なんのせいで「この人」は目が見えないのかと迫られたのでイエスは「神の業がこの人に現れるためだ」とお答えになりました。しかし、繰り返しになりますがイエスにとって何よりも重要なのは、そのような答えや合理的な説明などではなく、そこらにころがっている「もの」のようにずっと扱われてきた「この人」が、一刻も早く偏見から解き放たれ、ごく当たり前に、人間的な暮らしを送れるようになることだったのではないでしょうか。
すなわち今朝のこの物語は、なぜ、なぜ、と、その原因を問うよりも、今、ふりかかった苦難をどう解決していくか‥、限りない神の愛に支えられ導かれて、この苦難の時をどう乗り越えていくか‥、そのことに何よりも主イエスは関心を向け、心を砕いていてくださるのだ、ということを私達に知らせているのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(3月1日) 受難節第1主日礼拝

「主の声を聞き分ける」竹島 敏牧師
マタイによる福音書4章1~11節

今日は受難節第一主日です。今朝の聖書箇所はイエスが悪魔からさまざまな誘惑を受けられた、という話になっています。
さて主は、この悪魔からの誘惑をやすやすと退けられたのでしょうか。聖書には、悪魔からの誘惑を全て退けられた、ということがたんたんと記されています。しかし、よく読んでみると決してそうではなかったのでは‥、ということがわかってきます。
今、私たちは受難節の歩みを歩み始めました。かつて主イエスは、この地上の生涯においてどのような苦しみを背負われたのか、そしてそれは何のためであったのか‥、これから約40日間の受難節をとおして、そのことを考えていきたいと思います。
受難節は、私たちがこれから担うどんな苦しみも、すでに十字架の上で全て味わい尽くされた主イエスが、私たち一人一人と共にいてくださることを再び心に深く刻みつけていくための期間です。
私達一人一人、それぞれに苦難を抱えています。究極的には誰も、その苦難を代わりに背負うことはできない‥、それは、一人一人が背負っていかねばならない十字架なのです。だからこそ、私たちには主の口から出る愛の言葉が必要なのです。十字架を背負って歩いていくために、支えとなる言葉が必要なのです。
私達一人一人それぞれの苦難のただなかに、語りかけてくる神の言葉、主イエスの言葉を、今再び真剣に、聖書の中に尋ね求めていきたいものだと思います。

礼拝説教要旨(2月23日)降誕節第9主日礼拝

「奇跡の意味」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書6章1~15節

今朝のこの聖書が何よりも伝えようとしているのは「主イエスが伝える神の御心・神の言葉を信じて行動に移していく者たちの間に、奇跡とも呼ぶべき喜ばしい出来事が起こる」ということなのではないでしょうか。
確かに、通常、起こりえないようなことが起こった‥、それを私たちは奇跡と呼ぶのかもしれません。しかしそのような奇跡の目的は、神の民に同様の奇跡を何度も繰り返し呼び求めさせることではなく何よりも、その起こされた奇跡にこめられた神からのメッセージを聴き取り、そのメッセージに従って、一歩ずつでも自分たちの足で歩み始めることなのではないでしょうか。
様々な難題を背負わされしばしば私たちは苦しみ、もがきます。しかし、そのような冷たい状況の中で初めて私たちは、日々、あの十字架のイエスとまことに出会い、この方こそまことの神の子、いや、神であった、と知るのです。そしてこの、まことの神と共に、まるで、神などいないかのようなこの冷たい状況の中を、復活の希望に向けて歩み続けていくのです。そのようなところにこそ、信仰の確かさが与えられるのではないでしょうか。常にまことの神が共におられ、共に喜び、共に泣いてくださる、という実感が与えられるのではないでしょうか。そしてそのような厳しい状況を生き抜いていく力が与えられるのです。
今朝の、このヨハネによる福音書は、そのような確かな生き方へと‥、私達を招いている‥、そのような覚悟を私達に促している、と言えるのではないだろうかと思うのです。

礼拝説教要旨(2月16日)降誕節第8主日礼拝

「床を担いで歩め」早川 真伝道師
ヨハネによる福音書5章1~18節

床という言葉は藁布団を意味する言葉であります。「床を担いで歩め」という言葉は、これまで自分が依存してきたもの、これがなければ生きていけないと思っていたものを今度は反対に背負っていく、イエス様の言葉によってそのようなものへと変えられていく、ということを意味しているのではないでしょうか。藁布団とは、私たちを守り切れないものの象徴であります。全てのものは私たちを完全には守り切ることはできません。お金も、地位も、健康も、名誉も、いずれ失われてしまうものであります。しかし主イエスが命令されると彼は悪いところが良くなり、今まで彼の依存してきたものを反対に自らに引き受け、歩き出すものとされたのであります。私たちが床を担いで歩む時、実は神が私たちと共に、私たちの担ぐべき床を担いでくださっているのであります。私たちは最終的には神が私たちの担うべき床を担ってくださるという事実なしには、床を担ぐ勇気が出ないでしょう。しかし神は必ず私たちと共に私たちの床を担いでくださいます。そしてそれを用いて、ご自身の御業を進められるのです。私たちは今ある現状に慣れてしまい、より良いものを目指すことを諦めてしまう者であります。そんな私たちに主イエスは「良くなりたいか」と問われます。床を担いで歩む、それは主の言葉によってのみ可能なことです。神に従うことだけが、私たちに本当の自由を与えます。私たちは共に床を担いでくださる神に委ねて歩む者でありたいと思います。そしてキリストの福音の香りを放つ者とされていきたいと思います。

礼拝説教要旨(2月9日)降誕節第7主日礼拝

「自由になるために」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書8章31~38節

私達は、様々な制約を受けつつ生きていかざるをえない、あまりにも不自由な現実のなかで、しかし、主の言葉にのみ束縛されて生きようという志を持つならば、この不自由な現実から次第に新しい世界が開けてくる‥、「本当の自由」への扉がひらかれていくのではないでしょうか。そのように聖書は私たち一人一人に告げているのではないでしょうか。
私達の主イエスが、あの十字架の上で、痛み苦しみの極みにおかれながら、なお希望を失わずにいられたのはなぜなのか。それは言うまでもなく、神の言葉によって復活が約束されていたからであり、主イエスが、その約束の言葉にとどまり続けておられたからです。神の約束の言葉にしがみつき、とどまり続けるときに、「本当の自由」への扉がひらかれていくのです。
今、このような時代の中で、すでに教会に招かれている私達が、再び、あの十字架の主イエスにならい、神の約束の言葉にしがみつきとどまり続けるならば、私達がそれぞれに抱えている問題や課題もまた少しずつ解決の方向へと導かれていくのではないでしょうか。そして、そのような「本当の自由」への道を‥、神の国へと至る「本当の自由」への道を一歩一歩歩む私達一人一人の姿が、証として、この世に用いられていくのではないかと思うのです。この闇のような世に小さな光を灯す者たちとして、葛藤しつつも日々、主の言葉にとどまり、「本当の自由」への道を一歩一歩粘り強く歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(2月2日)降誕節第6主日礼拝

「キリスト・イエスにむすばれて」竹島 敏牧師
フィレモンへの手紙8~17節

このフィレモンへの手紙は、パウロの数ある手紙の中で一番短く、また私信の性格が最も強く出ている書だと言われています。また、この手紙には、対人関係におけるパウロの極めて繊細な一面、相手の立場を考慮し、高圧的で強制的な態度ではなく、謙虚さと愛に訴える態度を重んじる一面が示されています。
このようなパウロの姿勢から私たちは、私達の日々の歩みのなかで、いろんな人との関係があるわけですが、様々な人間関係をどのように捉え、考えていけばよいのか、一つの示唆を与えられているように思います。
一人の人と出会う、とは、その人の痛み苦しみを知る、ということです。その人が否応なく背負わされているものを知る、ということです。確かに知ったからといって、ただちに何か助けることができるわけではないかもしれません。むしろ、何もできないことの方がはるかに多い、と言わざるをえないのかもしれません。しかし、それでも知ろうとすること‥、そして祈ることが大切なのではないでしょうか。 そのような祈りの交わりの中に主イエスは臨在してくださり、導いてくださるのだと思います。使徒パウロが、オネシモに対してしたこと、そして、主イエスがパウロとオネシモとフィレモンとに与えられた御導きとは、まさに、そのようなことだったのだと思います。そのようにしていく時、新たにキリスト・イエスに結ばれ、神の国を目指して前進するという御業が静かに起こされる‥、それは、現代のこの私達においてもそうなのだということを、覚えておきたいと思います。

礼拝説教要旨(1月26日)降誕節第5主日礼拝

「わたしたちの喜び」早川 真伝道師
ヨハネの手紙1:1~4節

今朝与えられました、ヨハネの手紙1:1-4は、どんな人とでも共有できる喜びについて語られています。それは、キリストにある喜びであります。
4節の、満ち溢れるという言葉は完成する、完全になる、いっぱいになるという意味の言葉です。私たちは、可能であるならば喜びをすべての人と共有したいという願いを持っているのではないでしょうか。しかし、そのような願いは非現実であるとすぐにわかります。なぜなら、自分の喜びが他人の喜びであるとは限らないからです。更にわたしたちは驚くほど趣味趣向が違います。生きれば生きるほど、人間というものは性別において、気質において、生まれ育った環境において、異なるものだということが分かります。
私たちはこの現実を、どのように乗り越えることができるのでしょうか。それは、私たちに共通のものを見出すことによってでありましょう。それは、命であります。

私たちは、この最高の喜びに、今、一人からでも与ることができます。私たちがイエス様を受け入れ、父なる神に祈る時、御父と御子イエス・キリストと共に、私たちの全ての罪が赦され、いつまでも消えることのない永遠の命が与えられたことを、喜ぶことができるのであります。そして、この喜びは、すべての人と分かち合うことのできる喜びであります。
わたしの喜びから、わたしたちの喜びへ。世の初めから世の終わりまで拡大し続けるこの大いなる喜びに、共に与る者となりたいと思います。

礼拝説教要旨(1月19日)降誕節第4主日礼拝

「何を求めているのか」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書2:35~42節

 今朝の、このヨハネ福音書に登場してきた二人の弟子にしましても、また、シモン・ペトロにしましても、彼らは常に、主イエスの御心という的をはずしがちな、愚かな者たちでした。それでも主イエスは、常にこの者たちの可能性を見つめ続け、その可能性の故に赦し続けたのでありました。だからこそ、決定的に主イエスを裏切ってしまったシモン・ペトロもまた、立ち直っていくことができたのです。そして、主イエスの御期待どおりに、やがて、キリスト教会の礎となっていったのでありました。
 2020年という新しい年を迎えて、約半月がたちましたけれども、この年も、主は私たち一人ひとりの傍らに立ち、私たちがどんなに深い絶望に陥ってしまった時も、その絶望のどん底から新たな可能性を呼び出そうとして「何を求めているのか」と、呼びかけてくださいます。「もう何も求めてはいません」、「ただ、生きていくことさえもうつらいのです」、と私達が嘆いてしまう時も、主は、ご自身の十字架の傷を見せてくださり、「あなたの傷を私はこれからも共に背負う」と約束してくださいます。そして、「もう一度一緒に、あなたの中に隠されている可能性を見つめてみよう」と呼びかけてくださいます。私達の主イエスはそのような希望へと私たちを招いてくださるお方なのです。それこそが、このシモンをケファ・岩、と呼ばれた、主の招きであった、ということを今朝、私たちは再び覚えておきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(1月12日)降誕節第3主日礼拝

「神の小羊」早川 真伝道師
ヨハネによる福音書2:29~34節

羊というのはイスラエルの民にとって最も重要な財産でありました。その重要な財産である羊を、イスラエルの民は祭儀用のいけにえとして神にささげたのであります。そこで捧げられる羊は一歳の若い雄羊が代表的なものであったようです。神の小羊とは父なる神の小羊であり、神の何よりも尊い財産を意味すると考えられます。
キリストが人となるという制約の中に来たりたもうて、更に世の全ての罪の赦しのために十字架についてくださった、そのことが、この神の小羊という言葉の中に表されています。

この与えられた御言葉の中でご一緒に考えてみたいことがございます。それは「伝道」という事柄です。ヨハネは「見よ、神の小羊」と言いました。
不思議なもので、人間はせよ、と言われるとしたくなくなる習性があるように思います。それが正しいことであっても強制されると反発したくなることがあります。そんな私たちが、正しいことをしようと自分から思える時はどんな時でしょうか。それは正しいことを黙々としている人を見た時ではないでしょうか。
私たちもまた、黙々と自らに与えられた役割を果たしながらキリストを指し示していきたいと思います。しかしそのためには、まず私たち自身がキリストを見なければなりません。
キリストが私たちの重荷を代わりに負ってくださったということ。そのことによって世の罪を取り除いてくださったということを見る時に、私たちもまた、ヨハネやパウロと同じように、キリストについて証しする者となっていくのであります。

礼拝説教要旨(1月5日)降誕節第2主日新年礼拝

「神の栄光を求めて」竹島 敏牧師
ローマの信徒への手紙16章25~27節

 クリスマスから新年を迎えるこの時期は、キリスト者である私達が、一番光を強く感じる季節であると言えるのではないでしょうか。それは、弱まっていた信仰も再び強められる季節であり、そのような中で新しい望みが与えられる季節です。
 パウロは、このローマの信徒への手紙の15章13節において、私達の神は、様々な望みを私達に与えてくださる「希望の神」である、と語っていますが、クリスマスから新年を迎えるこの時期は、私達にとって、まさに、新しい希望が与えられることを待つ季節です。
 そして、全ての被造物を造られた神が与えてくださる新しい希望に導かれていくならば、こわされていた他者との関係もまた少しずつ再建されていくのではないでしょうか。そして、そのような過程をへて、神の栄光が取り戻されていくのです。互いに包みあい、抱きしめあうことを忘れてしまった人々の姿に顔をくもらせておられた神に、再び輝きが取り戻されていくのです。そのような輝く神の笑顔こそ、神の栄光なのです。
 私たちは光なる主イエスと共に、2020年という新しい1年の歩みを始めます。過ぎ去った1年を思い起こす時、確かに私達の人生において光は強くなったり、弱くなったり、様々でありました。でも、光はいつも共にありました。そして今や、再び強く迫ってきているのです。今や、再び、その光をしっかりと見つめ、新たに歩み出す時が来たのです。この光なる主を見つめ、神の栄光を求めつつ新たな希望を見出すために歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(12月29日)降誕節第1主日礼拝

「先立って導く主」早川 真伝道師
マタイによる福音書2章1~12節

律法学者や祭司長たちはみな、恐れゆえにイエス様を礼拝することができませんでした。ヘロデは自分の権力が脅かされること、また、律法学者や祭司長たちはイエス様を拝みに行くことによってヘロデに狙われること、エルサレムの人々は、ヘロデが何か血なまぐさいことをするのではないか、と危惧する故に動き出すことができなかったのであります。
 私たちは横暴で支配的な人が一人いるだけで、委縮してしまいます。悪い支配者のもとでは私たちは関心があることにすら意欲を失ってしまうものであります。しかしそのためにこそ、キリストは来てくださいました。イエス・キリストという真の王は、平安を得るためには武力も策略もいらない、ただ幼子のように神に身を委ねればよいのだ、ということを教えてくださっているのではないでしょうか。
 どれだけ事態が闇に包まれていようとも、神はそこに必ず一つの脱出の道を備えてくださる、ということがここに約束されています。悪はひそかに、隠れて、闇の中で事を行います。しかし神に導かれて歩む時、神は必ず、先立って危険を回避し、私たちを導いて下さるのであります。そして私たちが恐れから逃れる道は、全てをご存じであられるこの神の全能なるご計画に信頼するほかないと思うのであります。
 その一筋の希望である、先だって導かれる主の道を、新しい年も共に歩んで行きたいと思います。そして、この小石川白山教会が私たちの救い主であり王であるキリストと出会う場となるために、それぞれの働きの中で、主に仕えていきたいと思います。

礼拝説教要旨(12月22日)降誕前第1主日礼拝

「永遠に共にいてくださる主」竹島 敏牧師
マタイによる福音書1章18~23節

 過ぎ去ったこの1年も、私達一人一人、いろいろなことがあったことと思います。楽しかったこと、うれしかったことと同時に、苦しかったこと、また、いろんな人との関係において傷ついたことも多くあったのではないかと想います。
 人と人との関係はずっと同じように続いていくものではありません。状況が変われば。人と人との関係も変わって行きます。思いがけない形で。離れ去っていく人がいたり思いがけない形で裏切られたりすることもあるのでしょう。けれども、インマヌエルの主イエス‥、この方は、そのような時にも私たちを離れることはありません。いや、そのような時こそ最も私たち一人一人に近くいてくださる方、そして永遠に共にいてくださる方なのです。たとえ、肉体の死、によって、親しい間柄がひとたび切り離されたかのように見えても天と地を結んでくださるこの方が、ひとたび切り離されたかのように見えた人と人を結び合わせてくださる、だから、しっかり主イエスの御手につかまり続けようとするなら、孤独ではなくなっていくのです。私たち一人一人の、この一年の歩みは、決して手放しで喜べるような、平坦なものではなかった、この一年の様々な歩みにおいて、傷を負い、苦しんだことがたくさんあったのではないでしょうか。
 しかし、であるからこそ、私たちの、この共同体の中に、その交わりの中に、永遠のインマヌエルなるイエス・キリストがしっかりと共にいて下さるそして新たな導きを与えてくださる…、私たちは、このクリスマスに、再びこのことをしっかりと確認して「新しい出発」をしたいと思うのです。

礼拝説教要旨(12月15日)降誕前第2主日礼拝

「義の太陽が昇る」早川 真伝道師牧師
マラキ書3章19~24節

 私たちは今、アドベントの時を過ごしています。しかし私たちは本当にキリストが来られる時を待ち望んでいるでしょうか。私たちはしばしば、現状に不満を言ったり、また反対に現状に満足して主を待ち望むことの少ない者なのではないでしょうか。
もし私たちが主を待ち望んでいないなら、私たちは自らの信仰をもう一度見直した方がよいと思われます。主を待ち望む(アドベント)ということは、どの段階のクリスチャンにとっても必要なことであるに違いないからです。
常に信仰とは、すでに起こったこととこれから起こることの間にあることだということができます。そうであるなら、私たちは決して現状にあぐらをかいてはいけないのでしょう。もしあぐらをかくとするなら、それは実に高慢な者、それどころか悪を行う者とさえみなされるのであります。

しかしキリストはそのような私たちのために来てくださったのであります。神を畏れ敬うことのない私たちのために、十字架にかかり死んでくださいました。それゆえに私たちは義と認められたのであります。
神様は、裁きの前に私たちに警告を与えてくださいます。私たちはその警告を神様から来た警告として受け止める必要があるのでしょう。
義の太陽が昇る時まで、私たちは私たちに遣わされた預言者エリヤの声を聞き、悔い改めつつ、すでに世に来られた義の太陽であるイエス・キリストが再び来られる日を待ち望みたいと思います。

礼拝説教要旨(12月8日)降誕前第3主日礼拝

「主の言葉を待ち望む」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書5章36~47節

 今朝のヨハネによる福音書には、イエスを信じない人々の姿が描かれています。
なぜ、彼らは、信じることができなかったのか‥。それは一言で言うなら、当時の律法中心の社会のなかで、その価値観にどっぶりとつかって生きていたので、もはやそのような生き方から離れることができなかった、ということなのではないでしょうか。
 しかし、あえて言うならばアドベントは、信仰的な敬虔をよそおうためにあるのではありません。むしろ、私達をおおう様々な痛み、苦しみ、また不条理な出来事の中から、神に向かって叫び、場合によっては格闘するために備えられた時、なのではないでしょうか。そのように神と関わっていくことは決して不信仰ではないのです。
 今から約2000年前、家畜小屋に生まれた小さな赤ちゃんを、世界の救い主であると信じ、新たな希望をもって歩み始めた人たちがいました。彼らもまた、様々な痛み、苦しみ、また不条理な出来事の中から神に救いを求めて叫び続けたからこそ、このような希望を持つことができたのだと思います。
 聖書に記されている神の言葉は、たとえ全くの闇の中にあってもしぼまない命を、やがて私達一人一人に与えてくれます。アドベントの光を見つめつつ、どうかそのことをしっかりと心にとどめたい‥、そして、素直に神と相対し、この自分に直接語りかけてくださる主の言葉を待ち望みつつ、歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(12月1日)降誕前第4主日礼拝

「神のもとから来た者」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書7章25~31節

今日からアドベントに入りました。今、アドベントクランツにひとつの小さな光が灯っています。私達はクリスマスの時に向かって、この希望の光を毎週ひとつずつ灯していきます。しかしこの世界は、ますます深い闇におおわれ、私達の不安もまた大きくなっているのは事実です。しかしそれでもなお、闇が深くなればなるほど光は強く輝き、その光のなかに見える十字架の主イエスのお姿も、よりくっきりと浮かび上がってくるはずです。
 その主のまなざしを感じて、促しを感じて、たとえこの自分には主イエスの一本の指ほどの力もないとしても、主イエスの手の業に仕えたい‥、という志を持つ時にこそ、ひとすじの明るい希望が、私達一人一人の心によみがえってくるのではないでしょうか。
 今日の聖書の箇所にありますように、私たちの主イエスは、「神のもとから来られた方」です。主イエスを見た人は神を見た人だと‥、主イエスに従って歩んだ人は、神に従って歩んだ人なのだと聖書は語っています。
 今日から始まったこのアドベントの時、私たちは、どんな時も、このアドベントクランツのろうそくの光の中に、十字架の主イエスのお姿を見出し、神のもとから来られたこの方に、想いの全てを打ち明けて、救いを求めてまいりたいと思います。私たちが味わう全ての痛み苦しみを共に担ってくださるこの方に一筋の希望を見出していきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(11月24日)降誕前第5主日礼拝

「主は我らの救い」早川 真伝道師
エレミヤ書23章1~6節 

今日の説教の題は、主は我らの救い(6節)としました。しかし、改めて考えてみると救いとは何なのでしょうか。この言葉は原語に当たると「義」であることが分かります。これは私たちが義とされるということが聖書においては救いであるということを意味しています。
もし神が正義の方であるとすれば、悪役は誰でしょうか。聖書にはサタンという存在が出てきます。サタンは人間を神に対して罪を犯させるように誘惑します。聖書によれば、神は終末の裁きの時にサタンを完全に滅ぼされるのでありますけれども、では私たち人間はどうなのでしょうか。

キリストはロバの子に乗ってエルサレムに入場される際、王と呼ばれました。そしてその称号にふさわしく、その務めに忠実であられました。その務めとは、十字架にかかり人間の罪の身代わりとなって裁かれることでありました。そして神はキリストを信じる者に、ご自分の義をお与えになったのであります。
私たちはこのキリストの義によって救われた者であります。
そのように考えると、信仰とは自分に対する絶望に他ならないのではないでしょうか。しかし驚くべきことに、そのような私たちに主は、日々務めを与えてくださるのであります。そして私たちが自分自身にではなく主に望みをおいて歩む時、真の牧者である主は私たちを導いて下さいます。それぞれに与えれた日々の務めを、今週も、主に導かれて果たしていきたいと思います。

礼拝説教要旨(11月17日)降誕前第6主日・幼児祝福礼拝

「神さまに向かって歩く」竹島敏牧師
マタイによる福音書3章7~12節 


 今日のこの聖書の箇所が私たちに教えようとしていることは、「二度と神様のお考えからはずれた行動をしてはいけない」ということでは実はありません。どんなに気をつけていても、神様のお考えからはずれた行動を私たちはしてしまうものなのだからです。それが人間というものなのです。
 そして、それでも、心配いらないのです。どんな人にも必ず間違いはあるのです。どんな人でも必ず、してはいけないことをしてしまうことがあるのです。言ってはいけないことを言ってしまうこともあるのです。「しかし、問題はそのあとだ」、と聖書は語っているのです。そこが一番大切なところなのです。

 洗礼者ヨハネが、言おうしたのは「失敗をしてもいい、間違いをおかしてしまってもいい、大事なことは、それを認めてなおすこと」、ということだったのではないでしょうか。
私たちもまたこのヨハネのように、いろんな失敗や、まちがいをしやすい私たちと一緒にイエス様が歩んでくださること‥、助けてくださることを信じて、神さまが、両手を広げて招いてくださっている方に向かって歩いていきたいと思います。間違った方向に行っている、と気づいたらすぐに、素直に悔い改めて、神さまに向かって方向転換し、良い実を結んでいきたいと心から願います。それが神さまからの祝福、というものなのだと覚えておきたいと思います。

礼拝説教要旨(11月10日)降誕前第7主日・創立117周年記念礼拝

「実りを求めて」竹島 敏牧師
ルカによる福音書8章4~15節

 私達の小石川白山教会は、創立117周年を迎えました。私達の主イエスは、ここにキリストのからだなる教会をお立てになり、今日まで守り導いてくださいました。さまざまな恵み、実りを主からいただいてまいりました。多くの傷ついた魂が、このキリストのからだに招き入れられ、癒され、救われた。その傷ついた魂が、このキリストのからだにおいて癒され、救われていく過程において、どんなに多くの祈りが献げられ、痛み苦しみを分かち合う小さな交わりが積み重ねられてきたことかと想います。
 今日のこの聖書の箇所に示されております百倍の身を結ぶ、とは何も、いわゆる教勢の拡大とか、信徒数の増加のことだけなのではなく、例えば、一人の人の痛み苦しみを分かち合い祈り合うところに生み出される実りと静かな喜びのことなのでもあるのではないでしょうか。そのような共に喜び共に泣く小さな交わりに、百倍もの、千倍もの、実りが与えられる…、決して肉眼の目では見ることのできないその実りを信仰の目で見つめ、共に喜ぶことができるのかどうか、私達は今あらためて問われているのかもしれません。
 決して肉眼の目では見ることのできない神様からの実りを信仰の目で見つめ、共に喜ぶことができるようになるためにまず必要なものは言うまでもなく、祈り、でありましょう。そのことをあらためてみなさんと共に確認しつつ、主に喜ばれる共同体形成のあり方をさらに模索してまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(11月3日)降誕前第8主日礼拝

「光が世に来た」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書3章13~21節

今朝私達は、このヨハネによる福音書の16節、17節の言葉にしっかりと耳を傾けておきたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」
神の御子・私達の主イエスは、かつて地に降ってこられ、そして十字架と復活の御業の後に、天へと上っていかれました。それは、天と地を結ぶ交わりを始めるためでもありました。今、主イエスは天から、この私達一人一人を見つめておられ、その天には、主が招かれた私達の家族や友が大勢おられることを想います。天に帰り、そこから御子イエスと共にわたしたちを見守ってくださっている大勢の方々がおられることを想います。
今もなお、闇のようなこの地上の歩みを続けている私達です。しかし、そんな私達を、光なる主イエスと共に天からあたたかく見守ってくださっている家族や友が大勢いる‥、あたたかく、また、期待に満ちた眼差しで見守ってくださっている‥、私たちは、その、眼差しを感じながら、祈りつつ、この地上の日々を歩んでまいりたいと思います。そのような歩みを続けていくなら、この、闇のような世界のただ中にも、きっと、光なる主イエスの姿を見出し、「光が世に来た」と告白する時が与えられるのだと思います。落胆にうちしずむより、光の子とされていることに静かな喜びを見出し、小さな希望の灯火を、遣わされているそれぞれの場に、灯していきたいと思います。

礼拝説教要旨(10月27日)降誕前第9主日礼拝説

「和解の主」竹島 敏牧師
コロサイの信徒への手紙1章15~20節

 今朝私達に与えられましたこのコロサイ書においては、常に、神から与えられた和解の恵みを謙遜に受けとめ続けていないと、人間はすぐに傲慢になってしまう‥、神からの和解の提示を反故にしてしまうような行為をしてしまう、という可能性が示されています。人間は、神の側から一方的に和解が与えられたにもかかわらず、その事をすぐに忘れて、また神に背くという逆戻りを、いとも簡単にしてしまう存在なのだということです。しかしそのような私達人間に対して、このコロサイの信徒への手紙が告げているのは、「私達の罪の故に主イエスが十字架にかかってくださったことを想うのは、恵みである」ということなのではないでしょうか。主イエスの十字架の故にゆるされた自分の罪を、具体的に見つめ、知っていくという事は、自分の本当の姿を知っていく、ということです。こんな自分のために、十字架についてくださり、今も、その十字架を示しつつ、この私と世界を支えてくださっている主イエスの深い深い愛に気づいた、その時に、まことの救いが起こるのだと思います。
 罪を自覚することのできないこの世界にあって、しかし私達は自分の罪を、主イエスの御前で具体的に見つめ、自分の本当の姿を知っていきたいと思います。そして今もなお、十字架を指し示しつつ、この私達と世界を支えてくださっている主イエスの深い深い愛にあずかっていきたいと想うのです。そして、この深い深い愛への応答として一日一日を献げ、主の御心にかなった平和な世界の実現のために、仕えてまいりたいと願うのです。

礼拝説教要旨(10月20日)聖霊降臨節第20主日神学校日・伝道献身者奨励日礼拝

「イエスを見つめながら」早川 真伝道師
ヘブライ人への手紙9章23~28節


一体私たちの持っているものの中で、命よりも大切なものがあるでしょうか。聖書はただ一つその答えを示しています。それは、永遠の命です。
旧約聖書の信仰者たちは、「更にまさったよみがえりに達するため、釈放を拒み、拷問にかけられ」たと、先ほどお読みした箇所にはありました。この更にまさったよみがえりというものがどういうものなのか、それがどのようにして起こるのか、それを旧約聖書の時代の人は知る術がありませんでした。彼らはただ、神に従い命を捧げた人を神は必ず顧みてくださり、永遠の命によみがえらせてくださると信じて疑わなかったのであります。
今回、2節を原文で読んだ時に興味深い発見がありました。
それは、「喜びを捨て」という言葉が「喜びのゆえに」とも訳せるということです。
イエス様は地上におられる時、喜びを常にご自分の前に持っておられた、ということになります。そして、十字架の苦しみもこの喜びのゆえに耐え忍ばれたのであり、その喜びのゆえに恥をもいとわなかった、という解釈が生まれるのであります。
私たちもまた、イエス様の持っておられたその喜びを見つめながら、その喜びに生かされる人生へと招かれています。かつての信仰の先達たちも、未だ見えないその喜びに希望を抱き、それぞれの走るべき道を走り抜いたのでありましょう。私たちは、神と共にある喜び、また多くの人の命を救うその神の喜びに、たとえこの世における苦難が伴ったとしても与っていきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(10月13日)聖霊降臨節第19主日礼拝

「愛の光」竹島 敏牧師
創世記4章1~10節・マルコによる福音書7章14節~23節

 今日は、永眠者記念礼拝ですが、今は天にあるお一人お一人も、また今なおこの地上を歩む私たち一人一人も、その誰もが自らの命の奥深くに、ひそかに罪を抱えていた、また抱えている、ということを思わされます。しかし、そのようにひそかに罪を抱えながら歩む私たち一人一人の命に差し込んでくるキリストの愛の光がある‥、そしてその光を仰ぎ見ながら歩む‥、それが私たちキリスト者の人生なのではないでしょうか。
今日の創世記の物語、カインとアベルの物語を見ましても、実に人は、他者から深く愛されることによってこそ、まことに悔い改め、正しく生きることができるようになるのかもしれない、と強く思わされるのです。だからこそ人類最初の殺人、という罪をおかしてしまったカインもまた、そのような神の愛・神の深い憐れみにより、少しずつ、時間をかけて悔い改める方向へと自らを律しはじめることができるようになっていったのではないでしょうか。
 そして今、私は、自分の罪からも、他者の罪からも目をそむけず、また何よりも共に重荷を担って歩んでくださる十字架の主イエスを一心に見つめて歩み続けた私たちの信仰の先達の歩みを想います、今朝、私たちはもう一度、その小石川白山教会の先達の歩みをふりかえりながら、ますます闇が深まってくるかのようなこの地上の世界に、今度は、何としても私達一人一人が主の一筋の光をもたらす者にされたいと心から願うものです。

礼拝説教要旨(10月6日)聖霊降臨節第18主日礼拝

「聖霊に満たされて」竹島 敏牧師
使徒言行録13章1~12節

使徒言行録はイエスを主と信じる信仰に入った者たちが、その主の霊に導かれて力強く宣教し続けていったという記録を私たちに残してくれました。今朝の使徒言行録13章1節からにも、バルナバとパウロが聖霊に導かれて新たな宣教を開始した、ということが記されています。
洗礼は、そのような宣教の実りであり、また信仰生活の入り口でもあります。それは、大変喜ばしい出発点です。しかし実際にイエスを信じて歩む生活を送っていくなかで、様々な苦難を味わい、疑問がわいてきたり、新たに葛藤が深まったりすることが起こってきます。そのようにして自らの信仰の中身が問われ、揺さぶられ、時には、もう信仰などなくなってしまった‥、というような経験をすることもあるかもしれません。しかしそのような経験をへて、私たちの信仰は、ほんとうのものに磨きあげられていくのです。
洗礼を受ければ、様々な悩み苦しみが一挙に解決し、バラ色の人生が開かれていくわけではありません。洗礼を受けて主イエスと共に歩む人生が私たちに約束しているのは、現実をしっかりと受け止め受け入れて‥、直視して生きていくことを身につけさせる、ということです。そのような歩みを、主イエスが、生涯、支えてくださる、ということです。私たちはその道をどこまでも同伴してくださる主イエスと固く固く結び合わされ聖霊に満たされて、苦難のなかにも確かな平安と、そして使命を与えられて生きていくのです。そこに私たちの救いがあるということを聖書は告げているのです。

礼拝説教要旨(9月29日)聖霊降臨節第17主日礼拝

「キリストの平和」早川 真伝道師
コロサイの信徒への手紙3章12~17節


新約聖書の書かれたギリシア語において、平和という言葉は外面的な平和を意味すると共に内面的な平和、心の平安をも意味します。
そう考えると、私たちの日常は必ずしも平和であるとは言えない現実があります。表面的には争っていなくても、人との間に、怒りや恐れがあるならばそれは平安な状態であるということはできないでしょう。しかし、今朝与えられた御言葉は、私たちには本当の意味での平和、キリストの平和がすでに与えられていると告げています。

人間の愛は限定的であり、限界があります。しかしパウロは、コロサイの信徒たちが見返りを求めない神の愛を身に着けることができると信じて疑っていません。それは、クリスチャンにとって全ての見返りはキリストがもうすでに与えてくださっているからであります。
キリストは私たちの命を救うため、十字架にかかり私たちの罪の犠牲となってくださいました。そして私たちの過去・現在・未来の全ての罪を赦し、天国に私たちの永遠の住まいを用意してくださり、今なお、聖霊の働きを通して私たちの歩みを死から命へと導いてくださっています。
この平和にあずかるために、私たちは神によって招かれてここに集っているのです。罪の中に沈んでいた弱く小さな私たちをこの上なく愛し、御子イエス・キリストのゆえに罪を赦し、神の子の一員としてくださった天の父を、私たちはこれからも礼拝を通して、いつも感謝をもって、ほめたたえ続けていきたいと思うのであります。

礼拝説教要旨(9月22日)聖霊降臨節第16主日礼拝

「新しく創造される」竹島 敏牧師
ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節

私達の主イエスは、人との関係に傷つき、もう誰とも深く関わることなく生きていきたいと悲観的になってしまう時こそ私達一人一人の最も近くに来て嘆き悲しむ私達を抱きしめ、私達に主イエス御自身の体の傷を見せてくださいます。その時きっと私たちは、私達一人一人が心に負った傷をすでに主イエスも負ってくださっていた、ということを知るのでしょう。互いに愛し合うことにおいて、いろんな失敗をして、そのため私たちは互いに傷つくのですが私達が傷を負う時、常に主イエスも共に同じ傷を負われるのです。そしてそのように傷を負いつつなお主は私達一人一人のそばに来てくださり、私達一人一人を抱きしめてくださるのです。
 そのような主の愛に包まれてこそ私たちは癒され、本来の自分自身を取り戻していくことができるのです。
 生きていくということは、いろんなことで傷を負い続けていくということ‥、その覚悟を決めて歩み続けるということなのでもありましょう。それはつらいことですが、しかし、その道に常に主イエスが同伴してくださるのです。私達が傷を負ったときには、ご自身のからだを見せて「私も同じ傷を負っている」と語りかけ、私たちの痛みに共感してくださるのです。そしてこれから歩むべき方向を指し示してくださり、新しい一歩を一緒に踏み出してくださるのです。そのような主、十字架の主イエスが私達に与えられている‥、そのことを思う時、私達にとってもはや傷つくことはたんなる痛みではなくなっていくのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(9月15日)聖霊降臨節第15主日礼拝

「義に仕える者」早川 真伝道師
コリントの信徒への手紙二11章7~15節

今朝の箇所でパウロは、私たちの感覚からすると、少し不思議なことで非難されています。それは、パウロが、コリントの信徒たちに福音を告げ知らせる際、無報酬でそれをしたということです。
パウロにとって、福音を宣べ伝えることは、決して自分自身の生活の資を得るための手段や、人々に尊敬されるための手段ではあり得ませんでした。
そうではなく、パウロにとって福音を宣べ伝えることは、パウロの内にある、キリストの真実に対する応答でした。
パウロがここで問題にしているのは、報酬を受け取るかどうかということではなく、福音を告げ知らせる者の動機の源が何に基づいているか、ということなのです。
今日の御言葉の後半には、サタンの存在が語られています。聖書の中でサタンは「この世を支配する者」、また「空中に勢力を持つ者」であるとも言われています。サタンは実に巧みに、義に仕えようとする者をこの世に仕えるよう導くのでしょう。
しかし、決して悲観する必要はありません。私たちの主であるイエス・キリストは、サタンの誘惑を悉く退けられたお方であります。
義に仕える者とは、キリストのことであり、キリストを信じた者の内に働く聖霊のことです。このお方だけが、サタンの誘惑を退け、私たちを朽ちることのない命へと導いてくださるのです。そして、このお方の導きに従っていく時、私たちもまた、義に仕える者とされていくのです。
「主の真理とそのめぐみを、のぞみてわれらは安らぎを得ん」(讃美歌227番)

礼拝説教要旨(9月8日)聖霊降臨節第14主日礼拝

「霊の体」竹島 敏牧師
コリントの信徒への手紙一15章35~52節


今朝の聖書箇所が私たちに伝えようとしている一番の事は、教会の主、交わりの主であるイエスが、イエスを信じる者達一人一人をその死後、ご自身の命であたたかく包み込みながら天へと連れ帰って、そして終末の時まで、互いの交わりを持たせてくださる‥、ということなのではないでしょうか。そのような希望をもって歩むことが私たちにはゆるされているのだと思います。
また、聖書の一番最後の書、ヨハネの黙示録の21章を見ると、人間には二つの死があることがわかります。第一の死は肉体の死です。そして第二の死は、第一の死の後に、主イエスと出会ったにもかかわらず、慈愛に満ちたその招きを拒否し続けた者にやってくる死です。そういうことがヨハネの黙示録21章に記されています。ということは、信仰の告白に至らずに第一の死を経験しても、まだ、希望がある、ということなのです。
だから私たちは、とりなしの祈りを熱心に献げ続けることが大切なのだと思います。私たちは月一回、聖餐の恵みにあずかっています。私たちの主イエスの命にあずかっています。朽ちるべきこの体に、朽ちることのない命をいただいているのです。そのことを心に深く覚えつつ、いつか、この体は朽ち果てても、主イエスの命に包まれて天へと導かれ、また、いつかやってくるこの世の終わりの時には、枯れた骨に肉が付き、主イエスの霊を吹き込まれて、霊の体として、復活することを望み見ながら、今週も、ここからそれぞれのこの世の旅路に旅立っていきたいと思います。

礼拝説教要旨(9月1日)聖霊降臨節第13主日礼拝

「キリストの霊に満たされて」竹島 敏牧師
ローマの信徒への手紙8章18~30節


私たち一人一人の教会生活にはいろんな時期があったことと思います。喜びのときもあれば悲しみのときもありました。しかし、その私達一人一人それぞれの教会生活に、いつも主イエスはいてくださいました。しかし教会でも、忙しさのゆえに‥、さまざまな慌ただしさの中で私達の方からその主イエスを見ていなかったことがあったのかもしれません。言うまでもなく教会生活において最も大切なことは、主イエスと出会う、ということです。私たちは主イエスとあらたに出会い、主イエスの霊をいただくために、教会へ行くのです。何よりも、聖霊なる主イエスとの交わりをするために、教会へ行くのです。
忙しい毎日の生活のなかで、そしてもしかしたら、あわただしい教会生活の中で失ってしまったものがあるのかもしれません。だとしたら、その失ってしまったものはいったい何なのでしょうか。そのようなことを想いながら、自らをふりかえる静寂の時を持ちたいものだと思います。たとえば教会生活が「惰性」になり、いつのまにか喜びよりも、つかれることの方が多くなってきた、ということがもし起こっているとすれば、主イエスと出会って教会に通い始めた頃のことからひとつひとつ思い起してみることで、なぜ、そのようになってしまったのか‥、その理由のいくつかを発見することができるのかもしれません。そのためにも、自らをふりかえる静寂の時を持ち、そのような静寂の時をへてあらたに、主キリストの霊に満たされることをご一緒に求めてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(8月25日)聖霊降臨節第12主日礼拝

「まことの神」早川 真伝道師
テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節


テサロニケの信徒への手紙一は喜びの書簡ということができるでしょう。
一体どうしてテサロニケの信徒たちはこれほどまでに用いられ、全ての信徒たちの模範となるに至ったのでしょうか。
9節に偶像という言葉が出てきます。偶像というと、いかにも異教的な姿形のものを想像することが多いかと思いますが、必ずしもそうではなく、自分の願いや思い込みによって形作られた神、そのイメージもまた偶像であると、ユダヤ人やかつてのパウロの姿から思わされるのであります。
10節の後半には次のようにあります。「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」。この怒りとは神の怒りであり、来るべき怒りとは最後の審判を指すと考えられます。私たちは神の言葉の中で愛や恵みという言葉は好むけれど、怒りや裁きという言葉は好まないという場合があると思います。
しかし神は、御子イエス・キリストを死者の中から復活させ、来るべき神の怒りから私たちを救ってくださると今日の御言葉は告げています。全ての人が誰一人として逃れることのできないこの死から、神は、私たちを愛するがゆえに救ってくださるのであります。
私たちは今朝、2000年近い時を経て、テサロニケの信徒たちの生活を伝え聞きました。私たちもまた彼らを模範とし、偶像から離れて生けるまことの神に立ち返ることを求めたいと思います。そのまことの喜びによってのみ、主のことばは私たちの周囲に響き渡るからです。

礼拝説教要旨(8月18日)聖霊降臨節第11主日礼拝

「言葉と業によって」竹島 敏牧師
使徒言行録20章7~12節


パウロは伝道者である以前に、何よりも誠実な求道者であり続けました。パウロの生涯は、いくつかの病をその身に負い続け様々な痛みと弱さの中から、主イエスに救いを求め続けて歩んだ生涯であったと思います。実にパウロにとって伝道とはキリスト教のいわゆる教理や教義の伝達、といったようなことよりも、パウロ自身が様々な葛藤をへて身をもって味わい知った福音の豊かさを、あらゆる人々と共に分かち合うという営みであったのです。だからパウロは自分にとってキリストの福音とは何かということを常に具体的につきつめて考えていたに違いありません。
では私達にとって私達一人一人にとってキリストの福音とはいったい何でしょうか。私にとってキリストの福音とはこういうことですと具体的にはっきりと隣人に伝えるべきものを私たちはつかんでいるでしょうか。キリスト教のいわゆる一般的な教理や教義ではなく自らが身をもって味わい知った福音に立ち、言葉と業によってその福音に生き続けるということが大切なのではないでしょうか。
 その時私達にもまたきっとパウロとエウティコとの出会いの中で起こったような出来事が起こされるのだと思います。主イエスご自身の臨在と救いが与えられるのだと思います。そのようにして私達もまた「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」という告白に一歩一歩近づいていきたいと思います。そして隣人をなぐさめ癒す主イエスの器として共に用いられていきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月11日)聖霊降臨節第10主日礼拝

「苦しみのなかで」竹島 敏牧師
ペトロの手紙一 3章13〜22節

今朝の聖書の箇所は私たち一人一人の善を行って‥、正しいことを行って苦しむ姿が隣人をキリストへと導く証として用いられる、と語っています。これは、私たちにとって一つの大きな慰めとなる言葉なのではないでしょうか。悪を行ってひそやかな喜びにひたってもやがて苦しまねばならない時はくる‥、そして、善を行っても理解されずに苦しんだり悪の力の攻撃によって苦しめられたりするだろう‥、けれどもその苦しみは私たちの主イエスキリストの十字架上での苦しみにあずかる尊い苦しみにかえられるというのです。私たちが善を行って苦しむ時、その苦しみはそのような尊い苦しみに変えられ主イエスご自身の宣教の業として用いられるというのです。だから同じ苦しむなら、悪を行って苦しむのではなく善を行って苦しもうではないかと言われているのです。
私たちの主イエスが、十字架を担って苦しい道のりを歩み抜いたその道の向こうに復活の希望を見続けていたように、私たちも、この主と共に十字架を背負って一歩一歩歩むなら、苦しみのなかにも静かな喜びが与えられ新たな希望が見えてくるのでありましょう。今よりももっとすばらしいことが、少しずつではあっても具体的に見えてくるのでありましょう。私たちが正しいことのために苦しむ時、そこに必ず主イエスがきてくださり、共に十字架を背負ってくださるということを忘れずにいたいと思います。だから苦しむことをおそれつつも、そこから逃げずに、まっすぐに歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月4日)聖霊降臨節第9主日・平和聖日礼拝

『いのちの主』竹島 敏牧師
使徒言行録11章4~18節


私たちが生かされているこの世界にはさまざまな不正が満ち、神の正義がないがしろにされている現実が至るところにあります。政治を司る人達のなかにも企業を統率していく立場にある人達のなかにも私利私欲におぼれ信じがたいふるまいをする人がいます。しかしそのような日々においてこそ私たちは、私たちの想いや考えをはるかに超えて私たちに先立って働いておられる主の業を見出していきたいと思うのです。
今朝の使徒言行録の箇所をとおして私たちは、一番大切なのはまず自分の力を信じて一生懸命努力することなのでは必ずしもないということを教えられているのではないでしょうか。そうです私たちにとって一番大切なのは、まず自分の力を信じることなのではなく私たちに先立って働かれる主の業の存在を信じること、そしてその力を信じることです。そして次にその業を自らの日常の中に具体的に見出しその業に参与していくことです。そのようなプロセスのなかで私たちは、たとえ私たちを取り囲む状況がすぐには変わらないままであったとしても希望を持ち続けることができるのです。希望を持って歩み続けることができるのです。多くの人が希望を失い目標を見失って生きているこの時代のなかで、あなたたちは何よりもまず信じそして探し出しさらに参与するという道を進み続けよと、そこにこそ与えられた命を生き生きと輝かせて生きる道があると、そのように私たちは今朝、「いのちの主」であるイエスご自身から語りかけられているのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(7月28日)聖霊降臨節第8主日礼拝

「キリストの律法」早川 真伝道師
ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節

今日の箇所はパウロの教会論ともいうべき、教会生活のあるべき姿について記されています。この個所の中心は、キリストの律法、つまり互いに重荷を担い合い、愛し合う生活への招きです。本来律法は人間が神を愛し、隣人を愛するためのものでした。しかし人間はキリストによる義を得ていなかったため、律法を神と人との間に義を得る手段として利用しようとしたのです。しかし、神の教えである律法を完全に守ることは不可能です。律法主義者たちは見せかけの行いによって自分を正しいものと見せるしかなかったのです。
キリストの義に与ったものは、自分を誇ることはできません。誇るなら、義を与えてくださった主を誇るのです。そして、その場合にだけ、私たちにとって律法は喜びとなるのでしょう。なぜなら、それは命に至る道、愛し合う道を私たちに教えるものだからであり、たとえそれを守れなかったとしても、キリストのゆえに与えられた義が失われることはないからです。
キリストの律法とは愛の律法であり、キリストご自身が成し遂げてくださった律法です。聖霊の導きによって私たちが歩む時、聖霊はキリストの律法を成し遂げ私たちを互いに愛し合う関係へと導きます。この聖霊の導きの中で、私たちは神の御心を知り、また、そのために働く力をも時に応じて与えられるのです。私たちは目に見えるものを誇るのではなく、ただ主を誇り、神の賜物によって歩み、霊の実を豊かに刈り取ることができる共同体へと導かれていきたいと思います。

礼拝説教要旨(7月21日)聖霊降臨節第7主日・愛星幼稚園創立100周年記念礼拝

「星のようにかがやいて」竹島 敏牧師
フィリピの信徒への手紙2章12〜18節

 今朝、ここに集められている私たち一人ひとりは、皆、イエスさまによって呼び集められている仲間です。スーザンバンファインド宣教師をとおしてイエスさまが立てられたこの幼稚園に集められ、イエスさまの愛を星のように輝かせて、自分を愛するように隣人を愛しなさいと、そのように神の国をめざして歩む人になり幸せに生きていきなさいと、呼びかけられているのです。
 今日は、その愛星の仲間たちが、たくさん集まってくださいました。このことを、それぞれのところに散らされそこで星のような輝きを放っていた人たちが皆、こうして自分たちの故郷であるところにもどってきて自分自身のこれまでの歩みを振り返り、またこれからの歩みを展望する時が与えられた出来事として、受けとめることができるのではないでしょうか。 
 これから、また、100年がたってその時、愛星幼稚園はこの地にあってその業を続けていられるかどうかそれはわかりません。もちろん続けていくという志を持ち続けなければいけませんけれどもしかし、それが一番の使命なのではないと思っています。一番の使命は、この地にあって神さまから託された愛星幼稚園の特色、すなわちこの幼稚園のいのちを手放さず最後まで持ち続ける、ということです。どんなことがあっても手放さず最後まで持ち続けるということです。それが私達の一番の使命であり、そこに全力を注ぐことがこの幼稚園の未来を切り開くことになるのではないかとも思っています。

礼拝説教要旨(7月14日)聖霊降臨節第6主日礼拝

「主は捜し出し、救う」
ルカ19:1-10、23:39-43
中野 実牧師

 主イエスの神の国宣教は、神を無視して歩んできた私たちを神の大切な子供として取り戻す働きである。そのために主イエスはエルサレムへ向かって旅を始められた。その旅の終盤において起こった興味深い出来事がザアカイの回心である。主イエスがエリコに来られた時、ザアカイは好奇心から評判の人イエスを見たいと思った。しかしザアカイと主イエスとの出会いは、単なる偶然ではなかった。主イエスはザアカイに言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まらなければならない」。「ねばならない」。ザアカイとの出会いは、神のご計画の中で準備されていた出来事なのである。この日、主イエスは、神のご計画に従ってザアカイと出会い、彼の家に泊まり、大切な神の子として彼を取り戻した。
 しかし物語はさらに続く。人々は皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿を取った」。神の御心を喜べない人々がいる。神の御業は常に新しい。その新しさについていけない人間の罪がある。それ故、主イエスの旅は終わらない。主イエスは十字架という場所へ赴く。そしてそこで主イエスは神に立ち帰る道を私たちのために切り開く。ルカ23:39-43によれば、二人の犯罪人が主イエスと共に十字架につけられる。主イエスは犯罪人の一人にこう約束する。「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」。この犯罪人にとって十字架という最悪の場所はパラダイスに変貌し始めた。最悪の場所においても主イエスは神へと立ち帰る道を切り開いてくださる。そのような恵みに気づかされる場所が私たちの教会であり、日曜日ごとの礼拝である。

礼拝説教要旨(7月7日)聖霊降臨節第5主日礼拝

『霊の導きによって』
使徒言行録8章26-38節
竹島 敏牧師

今朝、私達に与えられましたこの使徒言行録の箇所にはフィリポとエチオピアの高官との出会いの物語が記されています。このエチオピア人の高官の物語は私達にいろんなことを教えてくれます。まず聖書の言葉の中に答えを見出そうと熱心に求めること、そのように求め続けるところに主イエスの霊は導きの御手をたずさえて来てくださるのだと思います。そして新たな出会いを与えてくださりさらに主イエスの神の国へと御導きくださるのです。私達が抱えている様々な問題・課題はその御導きに従っていくなかで解決の方向へと向かっていくのだということがこの物語によって示されています。
私達の主イエスは「まず神の国と神の義を求めよ」とおっしゃいました。そこで言われていることは私達自身のまた私達の家族の様々な問題・課題など小さなことでどうでもいいということなのではなくそのような問題・課題と、「神の国と神の義」がないがしろにされていることには密接なつながりがあるということでした。だからまず神の国と神の義を求めていくことが必要なのだと主イエスは言われたにちがいないのです。
私達自身のまた私達の家族の様々な問題・課題に悩みつつ日々を送っている私達でありますが「まず神の国と神の義を求めよ」と言われたこの主の言葉を心に抱きつつそれぞれのところに遣わされていきたいと思います。そして私達にもまたきっと新たな善き出会いが主の霊の導きによって与えられることを信じてこのエチオピア人の高官のように再び熱心に求め始めてみたいと思うのです。

礼拝説教要旨(6月30日)聖霊降臨節第4主日礼拝

『救われるべき名』使徒言行録4章5-12節
早川 真伝道師

救い、という言葉はキリスト教に限らず世の中に溢れています。多くの宗教が救いを求め、救いに至る道を提唱しています。また世間にも救いという言葉は頻繁に用いられ、私にとっての救いは…などとしばしば語られます。
しかし、今朝の御言葉はそのような思いと真っ向から対立し、私たちを救い得るのはただ一つ、イエス・キリストの名の他にはないと語ります。ペトロははっきりと、イエスを十字架にかけて殺したのは他でもない、あなたがただと語ります。このような大胆なことをペトロが語り得たのは、8節にあるように、聖霊に満たされていたゆえでありましょう。聖霊はペトロに真理を示し、またそれを語る力をも与えたに違いありません。
ペトロは、私たちが救われるのはイエス・キリストの名によるということを繰り返し語っています。イエスとはヘブライ語のヨシュアからきた名前であり、その意味は「神は救う」という意味です。飢えている人にとってパンが与えられたなら、それは救いです。しかし、忘れてはならないのはそのパンを与え救ってくださったのは神であるということです。
神は、罪のゆえに神に背を向け神との関係を自ら破壊した人間に対して、イエス・キリストを通して再び交わりを持とうとしてくださっています。イエス・キリストを通して私たちは、聖霊を与えられ、聖霊の導きによって、互いに愛し合う神の家へと造り上げられていくのです。私たちもまた、聖霊に満たされて、イエス・キリストの名による他に救いはないと、大胆に告白するものとされていきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月23日)聖霊降臨節第3主日礼拝

「悔い改めの恵み」竹島 敏牧師
 使徒言行録2章37〜47節

 今朝の聖書の御言葉は、悔い改めが恵みである、ということを私たちに確信を持って伝えようとしています。それが、まことに主の業である限り、たとえ破れても、また意味のない徒労に見えるようなことがあっても、それは神の目から見れば、たんなる破れではなく、また意味のない徒労ではないのです。たとえ見た目にはどんなに悲惨な状況であったとしてもそこには、光り輝く希望の断片を形成するという神の業がある‥、だから私たちは光り輝く希望の断片を形成するという小さな種まきのような行いをこつこつと続けていくのです。それぞれに与えられた場で、私達がまく小さな種を何十倍、何百倍にも大きく育ててくださる神の力と導きを信じてこの邪悪な時代の風になおあらがいながら、私たちは歩んでいくのです。 
 だから私達にとって悔い改めは恵みです。悔い改めることによってこそ私たちは胸の奥にしまいこんでしまっていた自らの志をもう一度取り出し、生き生きと生きる道を再び歩み始めることができるのです。「やってもむだだ」「どうせ何も変わるはずがない」という私達の消極的な思いを主は打ち消してくださり「あなたは一人ではない」「私が共にいる」と声をかけてくださいます。うまくいかなくても、失敗してもやったことは確実に主が見ていてくださり、私達の想いをはるかにこえて用いてくださるに違いありません。この悔い改めの恵みを信じてもう一度それぞれの場で自分にできる小さな業の積み重ねをこつこつと始めていきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月16日)聖霊降臨節第2主日礼拝

「命に至る道」竹島 敏牧師
 使徒言行録2章22〜36節

 今日の36節の「人々が十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさった」というこの言葉は信仰告白の言葉であり、この36節の信仰告白をくりかえすことは初代教会の人達にとって自らの感じ方や考え方を点検し、場合によっては逆転させて神の御心に立ち帰るよい機会となっていたのではないでしょうか。
 本来、信仰告白とはそのような営みなのだと思います。ただ決められた告白の言葉を口にすることで自らの信仰を告白したつもりになるのではなく、その言葉通りには生きていない自らの姿をじっくりと見つめ修正しようとすることを含んでいるはずなのです。ペンテコステに、この私たちの間にも豊かにくだった聖霊はこの告白を実際に生きるようにと私たちを導いてくださるのです。
 やがては死ぬべきこのからだを墓からよみがえらせてくださる方の霊の導きは私たちが実現不可能と思っていたことを可能にする、その方向に向かって私達一人一人の背中を押してくださるのです。私達の主はこの世界の最も悲惨な場所に立てられた十字架の上からなお愛のまなざしで私達を見つめ私達それぞれの持ち場において本当は何をなすべきかを促してくださるのです。だから私達はこの世の価値観になお振り回されストレスをためこみつつも聖書の言葉を通して働かれる聖霊の導きを待ち望み本当の希望を取り戻しつつ命に至る道をすすんでいくことができるのです。今朝、私達はこのことをご一緒に確認しつつさらに命に至る道へと、また新たな一歩をふみだしていきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月9日)聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ・こどもの日・花の日礼拝

「いのちの風」竹島 敏牧師
 使徒言行録2章1ー11節

 今日は聖霊降臨日、ペンテコステです。心をひとつにして弟子達が祈っていたところに聖霊が降り、教会が生まれ、新しい宣教の第一歩が始められたことを想い起こす日、また、その同じ聖霊を豊かに頂く日です。まずは、かつて弟子達がそうしたように主の約束を思い起こしたいと思います。主は、この小石川白山教会にまた私達一人一人それぞれに、どのような約束をお与えになっておられるのでしょうか。かつて主が語ってくださった様々な御言葉を思いめぐらしながら祈り、そして、その約束の成就を信じて待つ者でありたいと思います。 
 使徒言行録の2章の43節以下を見ると、信じる仲間が次々と与えられて信者たちは、いっさいの物を共有し資産や持ち物を売っては必要に応じてみんなの者に分け与えていた、ということが記されています。聖霊を注がれた信者たちはイエスがされていたことを明確に思い起こし、自分たちもまた貧しい人たちや様々な虐げの中にあって苦しむ人々と共に生きよう、という志を与えられてこのような実践をしたのでしょう。ですから現代のわたしたちにも聖霊が豊かに注がれる時、そのような神の国への希望に満ちた歩みが約束されるのでありましょう。その時には私達一人一人にとっての「いのちの風」である聖霊御自身が、その約束の成就のために、私達に先だって働かれることを信じたいと思います。そして素直に、その働きに身をゆだね、また、仕える者として新しい一歩を踏み出していきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(6月2日)復活節第7主日礼拝

「世の終わりまで」竹島 敏牧師
マタイによる福音書28:16〜20

 今朝のマタイによる福音書には「しかし、疑う者もいた‥、」と記されています。「疑う者もいた‥、」11人の弟子たちのうち、いったい何人くらいが主の復活を疑ったのでしょうか。一人や二人ではなかったような気がします。もしかしたら、半数以上の者が疑ったのかもしれないし、また、この時は疑わなくてもこの後で、あれは本当に主イエスだったのか‥、と疑った者もいたかもしれません。そのように考えるならば、何らかの形で、ほとんどすべての者が疑ったと言ってよいのではないでしょうか。
そしておそらく私たちもまた、この地上で生きている限り数限りない疑いと迷いに取り囲まれて過ごすのでしょう。実に復活の主イエスに出会い、ひれ伏しつつも疑う弟子たちの姿は、そのまま、私たち一人一人の姿なのです。しかし、そのような疑い迷う者たちと、終わりの時まで‥、神の国が完成するその時まで‥、主はいつも、共にいると約束してくださいました。疑い迷う私たち人間の姿を、主は、自然な姿だ、と受けとめてくださるのです。だから私たちは、恥じることなく疑い迷いながら、歩んでいくことを‥、時には、ただただ、たたずんでいることを許されているのです。そこにこそ、神に造られた被造物としての限界のなかで、せいいっぱい誠実に、ひたむきに応えていこうとする美しさが輝くのです。 
 疑い迷う私たちの弱さを主は祝福し、用いてくださることを信じて、ありのままの姿で仕えていきたい‥、その姿をもって証し続けていきたいと思います。

礼拝説教要旨(5月26日)復活節第6主日礼拝

「お言葉をください」早川 真伝道師
ルカによる福音書7章1〜10節

 ここに出てくる百人隊長は、イエス様に驚かれるほどの信仰を持っていました。この記事には、確かにこれこそ信仰であると思わずにいられない説得力があります。それは百人隊長が、自分のしもべがいやされるためにはイエス様のひと言で十分であるという神への絶対的な信頼を表しているからでありましょう。
例えば何かを人に頼む時、「ああは言っているけど、どうせやらないだろう。」そのように思うことがあります。やるといったことをやらなかった、そのような経験が積み重なって人間関係は破綻していきます。また、電話における詐欺、オレオレ詐欺なども言葉を使った詐欺であって、自分の利益のために相手を利用する手段として言葉が用いられています。そのような中で私たちは言葉というものに対する信頼を失っていくのではないでしょうか。
百人隊長の信仰にイエス様が驚かれた理由は、彼の言葉に対する信頼、自分の部下がいやされるためには権威ある者のたったひと言で良いとの絶対的な信頼にあったのではないかと思わされます。そのような信頼があったからこそ彼は最も速やかに自分の部下をいやしていただくことができたのでしょう。
礼拝において、また聖書を通して私たちは大胆に神に近づき神の言葉を聞くことができる幸いが与えられています。願わくは、私たちはこの百人隊長のように神のひと言によって死から命へと移される、その神の権威を信じる者とされたいと思います。そして、そのような期待と信仰とをもって御言葉に与る一人一人でありたいと思います。

礼拝説教要旨(5月19日)復活節第5主日礼拝

「主の任命」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書15章12〜17節

 今日のこのヨハネ福音書の箇所を読む時、イエスはここで、まるで母親のような愛で、ひたすら待つ覚悟を決めているのではないだろうかと私は感じます。「互いに愛し合いなさい」つまり「互いに大切にしあいなさい」、それが「わたしの命令である」と命じつつも、なかなか命じたとおりにはできないだろうことをお見通しの上で主は、「友よ」と呼び続け、慰め、励ましつつ、できるようになるまでひたすら待ち続ける覚悟を決めておられるように感じるのです。実に私たちは、そのような方に見守られているのだと思うのです。すれ違いの愛や一方通行の愛に満ちているこの世界の中で私たちは今朝、あらためて、アガペーの愛‥、すなわち互いにその人をその人として大切にしあう道へと招かれ、導かれようとしているのです。互いにその人をその人として大切にする‥、このアガペーがまことに実現しない限り、この世界から憎しみや争いはなくならないのだということを覚えておきたいと思います。
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と、今日ここに集められた私達一人一人にも語りかけてくださっている主イエスに信頼して、まことに人を愛せる者へとさらに一歩一歩、成長していきたいと思います。

礼拝説教要旨(5月12日)復活節第4主日礼拝

「終わりの日の復活」竹島 敏牧師
 ヨハネによる福音書6章34〜40節

 私たちは皆、ある意味、パンを得るためにあくせく働いて生きています。けれども今朝の聖書の箇所の最後に記されている「終わりの日の復活」はそのように生きざるをえない私たちにとって本当に大きな福音なのではないでしょうか。それはパンを得るために生き、自分らしく生きることを阻害されて、ボロボロになった私たちもまた終わりの日には完全なかたちで自分らしさを取り戻し、生き生きと復活するという約束なのではないでしょうか。だからその時に向けて今、ここからもう一度立ち上がっていきなさいという促しが与えられているのではないでしょうか。
 「終わりの日の復活」、それは実に失われた自分自身が完全に回復される時です。まず腹を満たすパンを得るためにではなく、まことの命のパンである主イエスの言葉を何よりも大切にしその言葉を生きはじめるなら失われた自分自身が完全に回復される時に向けて私達は歩み出したのです。そして絶望に向かってではなく希望に向かって一歩一歩歩み始めた自らの姿を再び見出せるようになるのではないでしょうか。
 不可能であるとしか思えないような状況においてこそ主イエスは私達一人一人の「命のパン」として、勇気を出して立ち上がる原動力になってくださいます。腹を満たすパンの問題に悩み苦しみ続ける私達でありますがあえてそこからいったん目を離してまことの「命のパン」である主イエスの言葉に目を注ぐ時、根源的な解決に向けて事態は動き出すのだということをいつも覚えていたいと思うのです。

礼拝説教要旨(5月5日)復活節第3主日礼拝 

ルカによる福音書24章36〜49節
「聖霊に満たされて」竹島 敏牧師

 今日の聖書の箇所には、復活された主ご自身と再び出会って力強い言葉をかけられ、喜びに満たされた弟子たちの姿がえがかれています。この主との再会によって弟子たちはこれから自分たちによって始まろうとしている世界宣教は、他者を力強く生かす復活者イエスの命によってなされるのだということをはっきりと悟ったことでありましょう。そしてそのためにまず自分たち自身が、復活者イエスの命に生かされ、動かされていなければならないということをはっきりと悟ったのでありましょう。
そのような悟りを得た弟子達に復活者イエスは49節以下において、次のように語られました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。この父が約束されたもの、高い所からの力とは復活者イエスの霊・聖霊のことです。その聖霊の力に覆われるまでは都にとどまっていなさいというのです。約束された聖霊の力を豊かにいただくまでは決して勝手に動いてはならない、活動を開始してはならないというのです。それまでは準備の期間として都にとどまっていなさいと弟子達は命じられたのです。
 復活の証人・復活者イエスの証人となるためにはまず何よりも、主イエスの復活の命をこの身におびる必要がある、その霊に覆われる必要があるということなのだと思います。そのように復活者の霊に包まれその霊を身におびた時、初めて復活者イエスの宣教の業に十分に正しく仕える者とされていくのだということを覚えておきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月28日)復活節第2主日礼拝

ルカによる福音書24章28~35節
「心は燃えていた」竹島 敏牧師

 今日の聖書箇所が私たちに伝えようとしているのは私たちが肉体を伴った復活者イエスと出会い認識することができたとしても、それはほんの一瞬でしかないのだということです。つまり主の復活において何よりも一番大切なことは聖霊・イエスの霊によって「心が燃える」ような内面的な深いところでの復活体験をしたかどうか、しているのかどうかなのだということです。そのことを今日の聖書箇所における弟子達の体験は私たちに指し示し、また促しているのではないかと思うのです。
 かつて弟子達は信仰に燃え、彼らなりの信仰理解にもとづいて希望を抱きつつはげんでいました。しかしイエスの十字架の死という出来事によってその希望は木っ端みじんに打ち砕かれてしまいました。彼らが信じていた事柄は全て失われてしまいました。しかし、そのような深い喪失感の内に漂っていた時、再び聖書にもとづいてその真理を深く説き明かし信仰を与え、ふるい立たせてくださる方と出会ったのです。
 どんな状態にある時も、私たちが主に心を開き続け主の霊を求め続けるならば、かつてエマオ途上において二人の弟子達に起こった復活体験は今日の教会においても、今日の私達においても豊かに起こされるのです。主イエスの霊によって起こされる復活体験はそのような奇跡なのであり、そこからあらたな希望がうみだされていくのだという事を今朝私達は、再びご一緒に確認しておきたいと思います。そしてその静かな喜びに満たされて与えられているそれぞれの課題になお向き合っていきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月21日)復活節第1主日・イースター礼拝

ルカによる福音書24章1~12節
「主の復活」竹島敏牧師

今朝与えられましたルカによる福音書に登場してきた人たちは、みんな空の墓に気が動転し、主イエスの復活の約束などすっかり忘れてしまっていました。また、その約束を思い出してもなお、それを信じることができませんでした。婦人達は、イエスの直弟子たちにその事を伝えることによって、もしかしたら正しい判断を仰ぎたかったのかもしれません。しかし11節にありますように、弟子達はその話を「たわ言のように」聞くことしかできませんでした。このように、今日のこの箇所に記されているのは本当に情けない、弟子達の様子でしかないのです。
 この時、復活された主は、どのような想いでおられたのでしょうか。しかしその後の箇所を読んでいくと、そのような弟子達のために、復活の主ご自身の方から出会ってくださり、なおも気づかないでいる鈍感な弟子達に様々な言葉とふるまいを通して気づかせてくださる、ということが記されています。
 私達もまた、この現代社会のなかで主イエスを感じる信仰的感性が鈍らされていることを想います。当時の弟子達のように主イエスを見失い、自分自身をも見失いがちであることを想います。しかしどんな時も、洗礼によって私達の中に与えられた恵みに心の目を向けさえすれば、私達は永遠に導かれていくのです。イエスキリストに近い者、似た者とされていくのです。この真理を今一度、ご一緒に深くかみしめたいと思います。この大いなる恵みに静かに目を向ける者に、今日、復活された主イエスは出会ってくださるのです。

礼拝説教要旨(4月14日) 受難節第6・棕櫚の主日礼拝

『十字架の希望』
ルカによる福音書22章39-53節
     竹島敏牧師

 今日から受難週に入りました。実に主イエスはすべての望みが断たれ思わず「なぜ見捨てたのか」と神に向かって叫びながらも最後には、神に自分の全てをおゆだねになったということなのだと思います。つまり具体的には何の望みもない中でなお、神にゆだねきることで希望を見ていたということなのだと思います。
 受難週のこの時、私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何でしょうか。それは、すべてを失ってもなお向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。絶望の中で枯れるほど涙を流しながらなお向こうから一方的にさしてくる光、これが十字架の希望です。イエスはおそらく、ユダやその他の弟子達にも捨てられ神にさえ捨てられたと感じてもなお、十字架の上でこの光を見続けていたにちがいありません。この光に照らされていたからこそ「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつも最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と告白したにちがいないのです。そして十字架の向こうから射してくるこの光を主はユダの裏切りによって逮捕されていくこの時すでにしっかりと見つめていたからこそ憐れみのまなざしをもってなおユダを見つめ、またこれから次々と自分を裏切っていく弟子達をなお守り抜くことがおできになったのではないでしょうか。
 私達の救い主・受難と復活の主イエスがすでにこの時から見続けていた光を私達も見つめつつこの受難週を歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(4月7日)受難節第四主日礼拝

ルカによる福音書9章18~27節
「隅の親石」竹島敏牧師

 今朝、私たちに与えられましたのは「ぶどう園と農夫」のたとえですが、ここに出てきた農夫たちのなかには、跡取りを殺すことについては本当は反対だった、という人が何人かはいたのではないか、と思います。そんな事やめようと本当は言いたかったけれども、こわくて言い出せなかったという人がいたのではないかと思うのです。実に私達の多くは、積極的にまた意識的に罪をおかすというよりも、しらずしらずのうちに罪を黙認することになっていたり罪に荷担することになっていたりするのではないでしょうか。
 けれども全ての事を片隅から見つめ見守り続けておられる…、その方のまなざしを感じ取ることができたなら私達はそのまなざしに促されて、この世の価値観やそれぞれの場の雰囲気に流され続けるところから解き放たれていくのではないでしょうか。それは確かに本当にささいな小さなことなのかもしれません。しかしそこから何かが変わってくる、ということがあるのではないでしょうか。
 この世界の隅の親石である私達の主は、今朝もこの世界の片隅から私達の生きる世界全体を見つめ続けておられるのだということを思います。理不尽な苦しみに満ちたこの世界を、主は涙を流しつつ憐れみと慈しみのまなざしをもって見つめておられ、そして今までとはちがう新しいあり方、生き方を、私たち全ての者に促し続けておられるのではないかと思います。そのまなざしを深く深く感じながら、受難節、このレントの時を歩み行きたいものだと思います。

2018年度

礼拝説教要旨(3月31日)受難節第4主日礼拝

『神は愛』
ヨハネの手紙一4:7―12
岩本幸太郎伝道師

愛とはいったいどこにある。存在するのでしょうか。愛はもうすでにあり、これからも愛は存在し続けるのです。すべての人に愛という賜物が注がれているのです。わたしたちの間にも愛が存在して下さって私たちを互いに結びつけあっています。その愛のおおもとは父なる私たちの神様なのです。その愛がイエス様を通して私たちにもわかりやすいように神様は現されました。
そのイエス・キリストによって愛が見えない私たちのためにも見えるようになったのでした。愛の源流が神様なのです。わたしと皆様は愛の源流ではありません。湧き出した源流の愛をいただくのが私たちなのです。隣人を愛せよ!というとき我らは自分自身の力で愛そうと生み出そうとします。イエス様のように犠牲にならなければいかぬのだろうか。生真面目なる正統派の人たちはそう悩んでしまいます。私たちの内側と間には神に頂いた愛があるのです。その頂いた愛をまず隣の人へ伝えるということが我らの第一歩となります。なぜならばイエス・キリストが来られたのは人間を救うためと神様の愛を伝えるためです。
私たちの今日、今この瞬間からの使命とは愛を伝える、分け与えることです。
わたしたちの間、内側に与えられた愛とは尽きることのなき、限りなき、永遠の愛なのです。分け与えても少なくなることも尽き果てることもありません。ですからいただいた愛を惜しみなく隣りの人々に分け与えましょう。神の愛は礼拝に集うすべての人たちに分け与えられております。まずは感謝して今日の御言葉を心新たにいただき味わいましょう。さらに神様に感謝し愛を他の人々へ与えましょう。互いに愛し合うことを今日からはじめましょう。

礼拝説教要旨(3月24日)受難節第3主日礼拝

ルカによる福音書9章18〜27節
「苦難をこえて」竹島敏牧師

 今朝、私達の主イエスは「たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」とこの場に集った私達一人一人に語りかけておられます。また今朝、私たちに与えられたこのイエスの言葉は私たちの人生は苦難の連続であるということ、そして、人生とは時間であり、刻々と失われていく自分に与えられた時間をどう使うかにかかっている、と告げています。
 私たちは誰もが皆、この地上においてはやがて滅びゆく定めをこの身におびて生きています。確かにその先には、この地上では果たし得なかったほどの近さで主イエスと出会えるという喜びや終わりの時に復活するという希望が与えられていますがそのような約束の前に長い長い苦難の道がおかれているのもまた事実です。けれどもその苦難の道にすでに主イエスが先立っておられ招いてくださっているのを見出すことができたなら、それはただただ苦しいだけの道ではなくやがて復活へと導かれる輝かしい道となっていくのです。
 自分の十字架を背負って主イエスに従っていく生き方は確かに世界を手に入れようとする生き方の対極にある生き方なのかもしれません。しかしそこにこそ、本当の意味であなたの命を救う道が備えられていると聖書は呼びかけています。今朝のこの御言葉をとおして命の尊さとはかなさ、そしてどう生きどう死んでいくのかが、まさに問われている私たちですが受難節のこの時、何よりも十字架の主を見つめながらご一緒に受難と復活の道を…、命が救われる道を‥、永遠の命へと導かれる道を歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(3月17日)受難節第2主日礼拝

ルカによる福音書11章14〜26節
「神の国へと続く道」竹島敏牧師
 
私達の主イエスがひたすら歩まれた道は、神の国へと続く道でした。主は出会った全ての人をその道へとお招きになりました。主は出会った一人一人の困難、苦難、病を担い、共に歩もうとされました。そのような道を歩もうとする一人一人に、聖霊の助けと導きが与えられました。全ての人が同じように力を出し合えたわけではありません。一人一人が、自らに与えられている賜物を謙遜に見つめ、それを喜びをもって献げ、集められた実りを分かち合って、皆が神の国を目指して歩んだのでした。
 このような主の道に敵対し、自分さえよければよいという歩みへと人々を誘いこもうとするのが、悪霊のなせる業であったのは言うまでもありません。危機的状況に際して、自分よりももっと苦しい状況に置かれている人々とのつながりを持たせようとせず、想像することさえさせずに、ひたすら自らの利益を求めさせ、自分だけを守らせようとする‥、人々に対するそのような悪霊の導きを追放しようと、主は十字架の死に至るまでたたかわれました。そのようなたたかいの道を貫かれました。
 悪霊の誘惑から全ての人を解き放ち、神の国に向かう道へと立ち戻らせる‥、この時、主は、そのような悪霊とのたたかいをしておられたのです。受難節のこの時、主イエスがたどられたその、たたかいの道を深く見つめつつ…、また今も主は、神の指で、悪霊追放の業をしようとしておられることを想いつつ…、私達もまた、この神の指の業に参与させられたいと心から願うのであります。

礼拝説教要旨(3月10日)受難節第1主日礼拝 

ローマの信徒への手紙10章5—13節
「キリストの言葉によって」竹島 敏 牧師
 
 私達は、自分の人生においてどんな苦しい状況にある時にも、その状況に意味を与える言葉を聖書から頂くことができます。そしてやがてその言葉は、苦しい状況を切りひらいていく力になっていきます。しかし私達は、今、置かれている状況に意味を与えてくれる聖書の言葉に自分では気づくことができないことも多く、隣人の証しから、気づかされることが実に多いのではないでしょうか。それは言葉による証しだけではありません。その人のちょっとした小さな振る舞いや態度にふれて…、また、その人の態度や振る舞いの基盤に聖書の言葉があることを知らされて…、自分もああいうふうにありたいものだな…、と気づかされることがあるのではないでしょうか。そのようにして、良き知らせを宣べ伝えあう、ということが信仰者の間に起こされるのです。
 確かに証しする機会はそう多くあるわけではないのかもしれません。しかし、多くを語らずとも、私達一人一人の一日一日の生き方そのものが、たとえ、針の穴ほどの小さなものであったとしても、証しとなって用いられていくのです。私達一人一人の存在そのものが、キリストからの手紙として…、かけがえのない、良い知らせとして用いられていくのです。私達はそのようにして、良い知らせを告げあっていくのです。それが私達キリスト者の群れにとって、とても大切な役割なのであり、そのような教会こそが、神の宣教の道具として豊かに用いられていくということを、今朝の聖書の箇所は私達に指し示しているのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(3月3日)降誕節第10主日礼拝

ルカによる福音書9章10—17節
「自立して歩む」竹島 敏 牧師

 今朝、私たちに与えられましたルカによる福音書には、五千人をはるかに超える人達に食べ物を分かち与えられた‥、というイエスの奇跡が描かれています。この五千人に食べ物を与えるという奇跡においてイエスは、神の国を指し示された…、11節において「神の国についてお語りになった」、とありますが、お語りになっただけではなく、「実際神の国というのはこういうところなのだよ」と、人々に経験させたのです。そこにはもはや病もなく、飢えもない…、全ての人が平等に満ち足りている、そういう世界がそこにある…、それを人々に体験的に味わわせるためイエスはこのような奇跡を起こされたのです。そしてこのイエスの奇跡を味わった人たちは皆、肉体的にも精神的にも満ち足りた、というのです。そしておそらく、神の国を求めてイエスに従う歩みを始めた人たちが、ここから大勢生み出されたのではないでしょうか。このことが、この聖書の箇所において最も重要なことなのだと私は思います。
 実に主イエスの奇跡とは、それにどこまでもすがり続けるべきものなのではなく神の国とはどんなところなのかということを人々に指し示し経験させ、そしてそこに向かって進ませていくための原動力なのではないでしょうか。そのような「神の国の経験」を私たちも想い起こしつつ、またこれから新たに経験させられつつ、その経験に支えられさらに神の国へと押し出されてまいりたいと思います。そのように自立して歩む神の民を、主は慈しみのまなざしをもって見守っていてくださるのです。

礼拝説教要旨(2月24日)降誕節第9主日礼拝

ルカによる福音書5章12—26節
「主の癒し」竹島敏牧師

 イエスは様々な癒しの業をされたと聖書は伝えています。その癒しの業に共通しているのは、病の痛みや症状の改善と同時に、生き生きと生きていく道筋が与えられたということでした。今朝の箇所に登場してきた重い皮膚病を患っていた人にも、またこの中風の人にも、そのような道筋が与えられたのでした。「汚れた者」また「罪人」というレッテルがはがされかつての自分の居場所に帰っていく‥、そしてそこで以前のように様々な人と共に暮らしていく‥、そのような道筋が示されたのでした。すなわち主イエスの癒しとは、誰かを罪人にすることによって自らの正当性を確保しようとする全ての企てから、人々を解放しようとするものであったと言えるのではないでしょうか。だから主は病の癒しに際して「罪の赦し」を宣言されたのでありましょう。
 「ただ神のほかにいったい誰が、罪を赦すことができるだろうか」、21節にある律法学者たちの問いは確かにそのとおりでありましょう。しかし、であるならば彼らは同時にこのことも言わなければならなかったはずなのです。「ただ神のほかにいったい誰が人を罪に定めることができるだろうか」と。しかし彼らはそのような謙遜を持つことなく自分たちの律法解釈のみを絶対的な基準として次々と人を罪に定めていったのです。そして「ただ神のほかにいったい誰が罪を赦すことができるだろうか」と言って決して赦すことはなかった‥、そのような状況の中で主イエスは「罪の赦し」としての「癒し」を御自身の命を賭けて行われていたのだということを覚えておきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(2月17日)降誕節第8主日礼拝

礼拝説教要旨(2月10日)降誕節第7主日礼拝

礼拝説教要旨(2月3日)降誕節第6主日礼拝

ルカによる福音書5章33〜39節
「時を知る」竹島敏牧師
 
 今朝のこの聖書の箇所においては、断食しない、ということだけでなくイエスの弟子たちが「飲んだり食べたりしている」点にファリサイ派の人たちの非難が向けられています。
 しかしイエスにとって宴会の食事とは、実に、神の国の宣教を特徴づける「しるし」としての行為でした。つまりそれは。終末‥、すなわちこの世の終わりの時に完成する神の救いの具体的な一つの姿をあらわすしるし、であったのです。しかしファリサイ派の人たちは、それを正しく理解せず、イエスはそのようなファリサイ派の人たちの誤りを指摘し、この時代に、神が本当に望んでおられることは何か‥、律法を表面的にではなく‥、また形式的にではなく‥、根本的に読みなおしていく必要を説かれたのでした。
 ひるがえって神は、この地にイエス・キリストのからだなる教会をお立てになり。導いてくださいました。今、この時代に神はこの小石川白山教会を用いてどのような御業を起こそうとされているのでしょうか。今、この時代に、神が本当に望んでおられることは何か‥、私たちもまた神の言葉を、聖書を、表面的にではなく‥、また形式的にではなく‥、根本的に読みなおしていくよう‥、主イエスから促されているのではないでしょうか。
 私たちもまた本当の意味で新たにされることが必要なのでありましょう。そのためには根本に立ち返ることが必要です。飛躍するためには、かがんで力を蓄えることが必要です。私たちは今、再び、神の言葉に、聖書の言葉に深く深く沈潜していくよう促されているのだということをしっかりと心に留めておきたいと思います。

礼拝説教要旨(1月27日)降誕節第5主日礼拝

ルカによる福音書21章1〜9節
「いのちを得る道」竹島敏牧師

 今朝のルカによる福音書の箇所の最初には、神殿で、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのをイエスがじっと見つめておられた様子が描かれています。見事な石と奉納物で飾られている神殿を前にして主イエスは何を見つめるべきか、をはっきりと示されました。見つめるべきは見事な石と奉納物で飾られている神殿ではない、と。
 結局今朝の、このルカによる福音書に描かれている状況においてレプトン銅貨二枚を献げた貧しいやもめを見出したのは主イエスだけでした。他の全ての人は、うわべの美しさや荘厳さに目を奪われ物事の本質を見極める目を失ってしまっていたのです。ただ主イエスだけが、世の終わりが近づき神の御心に逆らって立ち続ける神殿が崩壊し、そしてまた世界も崩壊していく、という悲劇を回避する道を御存じだった‥、そしてその道を示してくださったのです。
 今朝私たちは、このイエスが指し示してくださった道を見つめつつ私達にもまた、レプトン銅貨二枚を献げたこの女性のような真剣さ、切実さが、より深く、より強く生み出されてくることを祈り願いたいと思います。まさに、この、暗闇のような、終末的な状況のなかでレプトン銅貨二枚を献げたこの女性のように、切実に真剣に祈りつつ、闇に輝く小さな光のような証の業を積み重ねていくならば、きっと主は神の国を私達の心にありありと描かせてくださり、その希望に生き生きと生きることができるようにしてくださるのです。共々にそのような道を再び信仰によって見出し、歩み出していきたいと心から願います。

礼拝説教要旨(1月20日)降誕節第4主日礼拝

『あなたは愛されるために生まれた』
ヨハネによる福音書3:16
岩本幸太郎伝道師

今日の箇所を何度も声に出して読んでみると私たちの創り主でもある神様がどんな御方で、そして何をしてくださったのかが実感持って迫ってきます。
皆様。神とはいったい、あらためてどんな御方なんでしょうか。それは『世を愛された』方だということです。
今日の箇所にて神様は宣言されました。
神様は世を愛される。しかし私たちは現実的に月日を重ねることになり年をも重ね、この世を歩んでゆくと同時に疲れ、衰えも出てきます。そのような我々をなんとか愛している。救いたい。なんとかユダヤ・イスラエルの民族中心限定ではなくすべての人類を救われる方法はないものかと別に神様のお考えを推理はできませんが、そう苦悩されたこともあったはずなのです。今いるこの世だけでの限りある生命ではなく、天の国へといずれは帰ってきてほしいと愛を捨てられませんでした。そのため、すべての人間を愛するあかしのためにも自らの独り子・イエス・キリストを私たちにお与えくださったのです。
誰でもイエス・キリストを自分の救い主としてあらためて信じるならば、永遠の滅びのない生命を持つことになります。そのことを神様は今日の箇所ではっきりと約束しているのです。
我らの神様は大歓迎であなたのことを待っていましたよという意思表示をしてくださるでしょう。
イエス・キリストはあの十字架上にて主自ら真っ赤な血を流して、神の唯一なる御子であることを証明するために死という我らの最大の恐怖からの解放を宣言しました。独り子は自ら天に昇り神の右の座に就かれこれは永遠の存在であるということを証されました。
「世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
世をあいされたということはみなさま一人一人を愛されたそのことは絶対です。あなたは愛されるために生まれたのです。これからも我らが神の愛をあかしして歩んでいきたいものです。

礼拝説教要旨(1月13日)降誕節第3主日

礼拝説教要旨(1月6日)降誕節第2主日・新年礼拝

ルカによる福音書3章15—22節
「イエスの決断」竹島敏牧師

 今朝、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所にはイエスが洗礼を受けられた、と記されています。21節に「民衆が皆、バプテスマを受け、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると‥」とあります。私たちの主イエスは、大いなる決断をもってあえてバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。いつも共にいて、私たちが味わう人間関係の全ての痛み苦しみを共に味わい、癒し、新たに導くために‥、そのために主イエスは、全き神の子でありながら、人となって。私たちの間に来てくださったのです。この主イエスの大いなる決断を私たちは感謝して受け入れ、私たちもまたこの主イエスと共に新たに歩み出す決心をすべきなのではないでしょうか。
 今、私達の主イエスは、福音書に記されている数々の物語からぬけ出て私達が生かされている困難な現実の中に入ってこられ、共に生きようとしておられます。そしてあの福音書の数々の物語において様々な困難を覚えている一人一人にやさしく語りかけられたように‥、また黙って抱きしめられたように‥、また時に厳しく戒められたように‥、私たち一人一人にも接しようとしておられるのです。
 今こそ私たちはもういちど心からの信仰をもってこの主イエスに呼びかけたいと思うのです。どうか主よ、助けてください、と。そして全ての想いを主に告白し聖書の言葉を通して主イエスの導きを受けたいと思うのです。そのような決心を明らかにする時にこそ私たちが抱える人間関係の問題は私たちの想いを超えた形で解決に向かってあらたに動き出すのではないかと思うのです。

礼拝説教要旨(12月30日)

ローマの信徒への手紙8章18―25節
「ここまで来た。けれどさらに歩む」
岩本幸太郎

ローマの信徒への手紙、特に8章とはあらためて私たち主イエスを信じる者の救いがどれほど素晴らしいことがわかります。小見出しに【将来の栄光】とやがて来る将来の栄光に比べれば現在の苦しみは取るに足りない、と説きます。表されるはずの将来の栄光を信じて夢見て生きるとは、どんなにか素晴らしいことでしょう。けれど20節を読むと被造物全体がうめいているとはなんでしょうか。
この世界とは神がお造りになった賜物なのです。いつのまにか人間が欲のためにコントロールするようになり人間の罪のために被造物がその本来の目的からずれてゆくことに。楽園を追い出され苦しみと同時に虚無感というものが付いてきた。そのためにすべてうめき苦しんでいます。
けれどもここで終わらないが聖書の福音の醍醐味。今日、ここで私たちは本来、神の与えて下さった目的・使命感を年度末年始のせっかくここまで来たのでありこの機会、見直し帰還すべき場、福音を携えさらに年末年始励みとして跨ごうではありませんか。21節『つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由に預かれるからです』
私たちを待ってくれるのは解放・希望。栄光に輝く自由。それらを完成される御方イエス・キリストです。
主の救いが栄光が誰の目にも明らかになるときがやってくる。うめきから希望へ。それは今日の小見出し『将来の栄光』ついでに希望という御言葉の中には神様は決してあなたを見捨てないとの本物の断言・約束が含まれてあります。まさに万事は益とされる。
神と共にこれからまで歩んできたようにこれからも持つのです。神の計画の只中にて、そう私たちは生きているのではなく、生かされているのです。
全被造物の期待に応えるためにこそ、私たちはそれは神のこれからの偉大な計画に今日の年度末、私たちの一人一人の存在の意味が今日あらたにわかりました。神様の計画には皆様一人一人の参加が必要なのです。

礼拝説教要旨(12月23日)アドベント第4主日・クリスマス礼拝

ルカによる福音書1章26〜38節
「主が共におられる」竹島敏牧師

 このクリスマス礼拝の朝に私たちに示された聖書の箇所には、マリアに与えられた特別な使命が記されています。神はしばしば、マリアにされたような…、私達人間には不可解な、にわかには信じがたい御業を起こされます。それゆえ神とはいったいどういう方なのか…、神がわからなくなる、見えなくなることもあるのでしょう。しかしひとつ言えることは、そのような葛藤なしに、私達は神との深い出会いやイエスとの深い交わりを味わうことは決してできない、ということです。
 自分に与えられた課題の重さに、もう一歩も前に進めない、という想いのなかでうずくまってしまうこともあるいはあるかもしれません。しかし、そのような時にこそ、主イエスは私達一人一人の傍らにいて言葉にならない私達のうめきを祈りとして受けとめ、とりなしてくださいます。そのような方が、私達一人一人の傍らに来てくださった…、それが私達に与えられるクリスマスの喜びなのです。   
 私達の主イエスは、神の身分でありながらそれに固執することなく、この地上のもっとも低き、暗き、ところに来てくださいました。そして私達と共に歩んでくださる、それが今日、私達に与えられた、「よき知らせ」なのです。今日、私達一人一人の心の内深くに、この御子イエスをお迎えしたいと思います。そして、闇夜のなかで、ただ一人、立ちつくしているような想いに満たされる時も、この御子の光に照らされ導かれて、この御子と共に一歩、また、一歩とすすんでいく者になりたいと思います。

礼拝説教要旨(12月16日)降誕前第2・アドベント第3主日礼拝

ルカによる福音書1章15〜25節
「闇は光に勝たなかった」竹島 敏牧師

 今朝の聖書箇所において言われている一つのことは、神は、人間の不信のゆえに御業を中断されたりはしない、ということです。喜ばしい天使のお告げが、あまりにも信じられないほどの内容であったがために思わず証拠を求めてしまったザカリア…、しかし、その不信仰の故に、神は御業を中断したりはされなかった、むしろ、その不信仰をも用いてさらに豊かに御自身の業をすすめていかれたのです。
 しかしながら私たちそれぞれのこの1年の歩み、それはあまりにも「なぜ」という問いに満ちたものだったと言わざるをえないのではないでしょうか。私自身もまた、様々な「なぜ」という問いに取り囲まれて、この1年を終わろうとしています。 例えば、「なぜ、あんなに生き生きと、お元気に、愛に満ちた働きをされていた方が、こんなにも早く、この世を去らねばならなかったのか」とか…。
 しかし、そのような様々な「なぜ」を抱えながらも、全ての「闇」にうち勝たれたお方が、再び共に歩んでくださる…、だからいつかきっと、この私の「なぜ」、にも答えが与えられる、その希望のしるしがアドベントクランツの4本のろうそくの光なのではないでしょうか。 
 祭司ザカリアの不信をこえて御業を成就させた神…、その神が、私たちの不信の叫びをも超えて、必ず御業を成就させてくださる…、再び希望を与えてくださる…、その想いを深めつつ、アドベントクランツの4本目のろうそくに明かりが灯されるその日を静かに待ちたいと思うのです。

礼拝説教要旨(12月9日)降誕前第3・アドベント第2主日礼拝

マタイによる福音書1:20―23
「おかえりなさいませ」岩本幸太郎伝道師


2018年度のアドベントの時を過ごしております。降誕前節、文字通りに御子イエスの誕生の時を待ち望み、祝う季節。アドベントの語源とはなんでしょうか。ラテン語のアドベントゥスこれには「待つ」の意味より、「来る」という本来の意味なのだそうです。天の彼方から神の御子が人の子として聖霊によってマリアという一人の女性に宿り、人間の子として生まれる。そのようにしてこの世に来られた。よく考えるとこれは、とてもリスクのある、非常に危険なことをされたのです。だから、アドベントとはのちにアドベンチャーといった英語の語源にもなったそうです。アドベンチャー(冒険という意味)それは天から地上へ、そして霊の存在なるお方が地上へ来たるイエス・キリストがこの世に送られてきたということは、神様はこの世の人々を救うために御子を直接送られた、誕生させてくださった。その救い主のご誕生を祝うのが本物のクリスマスなのです。
でもなぜ毎年、御子イエスの誕生の記念の日を日本全国総出で祝うのでしょうか。人々は何かこう繋がりを感じたい、あたたかいものを求めずにはいられない。その極みの日もクリスマス。一般的な人も何か家族や愛する人、あるいは一人であったとしても神聖なる賜物に導かれ、そこの扉を開けると、
『おかえりなさいませ』とこのクリスマスシーズンにおいて迎えてくれる何かを求めているように私は感じ入るのです。
でも今日の箇所であかしされました。
神様はどんなに寒く、暗闇の只中でもあなたを見捨てず、見放さず「インマヌエル」
そう共にいてくださる約束。その約束を形で現されるためにもイエス・キリストは人間となってこの地球に降りてきてくださった祝福を分かち合う日。だからこそ今度は全世界が総出で御子の誕生を祝うのです。
次に私たちにとって向かう帰るべく場所、まことの家は天にある。そのことに気づきを与え導くためにもやってこられたイエス様。いつの日か『おかえりなさいませ』とハッピーエンド、喜びある天への凱旋をもたらすために来てくださったのです。
2018年度のクリスマスを小石川白山教会にて体感できることを本当に感謝いたします。

礼拝説教要旨(12月2日)降誕前第4・アドベント第1主日礼拝

ルカによる福音書21:25-36
「終末のしるし」竹島 敏牧師

私たちの主イエスは日中は神殿の境内で教え、また出会う一人一人の苦難を共に背負い、病を癒すという多忙を極める働きをこなし、そして夜はオリーブ山において今日出会った、また今日までに出会った様々な一人一人のためにとりなしの祈りをし続けられたのです。そのような歩みを十字架の死に到るまで続けられたのです。弟子たちも含め出会った一人一人がイエスの教えに反して祈りをおろそかにしている時も、またイエスのことを忘れ去ろうとしている時でさえ、イエスは一人一人を覚え続け、とりなしの祈りを続けられたのです。それが神の子・イエスの弟子たちに対する愛であり、また、今も現代の弟子である私たちに対して変わることなく続けられている神の愛の業なのです。
イエスの御降誕は、「神の子」が「人の子」としてこの世に現れてくださった、ということです。もっと端的に表現するならばそれは、神が、イエスキリストとなってこの世に現れてくださった…、ということです。
確かに私たちもまた、あの弟子たちのように、悲しみの果てにすぐに眠ってしまうのかもしれません。しかしそれでも、目を覚まして祈ろうとつとめつつ、神が、再びイエスキリストとなって、私たち一人一人の心の中に宿ってくださる日を待ち望みたいと思います。そして私たちの不信仰や弱さのただ中に共に立ち、とりなし続けてくださる主イエスに支えられて生涯を歩む志を再びかたく持ちたいと思います。その時こそが私たちにとっての解放の時、神の国に向かって再び救いが前進しはじめる時なのです。

礼拝説教要旨(11月18日)降誕前第6主日・幼児祝福礼拝

テサロニケの信徒への手紙一 1章1〜10節
「わたしたちの神さま」竹島敏牧師

 この世では、いろいろな神があがめられていますが、イエス・キリストをとおして本当の救いを与えてくださるわたしたちの神さまは、わたしたちに聖書を与えて一つの約束をしてくださいました。その約束とは一言で言うならば救済史、救いの歴史であると言えましょう。そもそも聖書というのは、このキリストによるところの救いの歴史を証言し、かつ約束している書であるのだ、と言い切ることができます。
 つまり聖書は私たちが生活しているのは救済史という場なのだと証言しているわけです。だから、この救済史を生きる志を持ち続けるならば、どんなにこの世が絶望に満ち、救いがたい状況であるかのように見えているとしても、そして教会もまた、罪をおかすことがあったとしてもそれで終わりなのではない、それとは別のキリストから見た見方がある‥、救済史という救いの約束がしっかりと与えられており、悔い改めその都度、新しくされていく者達には希望は絶えることはない、ということなのです。それが、聖書が私たち一人一人に力強く語っていることなのです。
 一人一人がまるで自分自身が小さな神であるかのように自分を絶対化し、発言しふるまい、相争うという状況が世に満ちている中で、しかし私たちは、私達一人一人の十字架を共に担って歩んでくださるほんとうの神さまだけを見上げたいと思います。そして、このキリストに出会い、捉えられて、自らの日常における具体的な罪をも悔い改め、新しくされて、それぞれの場へと力強く遣わされていきたいと思います。

礼拝説教要旨(11月11日)降誕前第7主日・創立116周年記念礼拝

ルカによる福音書3章1〜14節
「神の救いを仰ぎ見て」竹島 敏牧師

 今朝私達はここにこうして集められ共に教会創立116周年の記念礼拝をお献げしています。そこでまず思わされますことは「私たちは今、ここに生かされている者達だけで礼拝をお献げしているのではないのだ」ということです。先に天に召されそこから私たちを見守っていてくださる方々と共に礼拝をお献げしているのだ、と。
 このことをもう一度深く心にとめて今ご一緒に祈りを合わせ「世の光」としてのイエス・キリストを待ち望むならば、私たちはきっと心の一番深いところに静かな平安を与えられ、さらに先に天に召された方々お一人お一人のきらめく星のような信仰を受け継ぎつつ神の子となる力を大いに頂くことになるのでしょう。
 その天と地を結んでくださる交わりの主はイエスキリストです。私達一人一人がどんなに苦しもうと同じ苦しみを苦しみ同じ痛みを痛み、担い、癒し、導いてくださる御方です。そのような方として永遠に私達と共にいてくださるしるしとしてイエスは私達と同じ姿になってくださったのです。
 私たちに求められていることは、私たちもまた、あの洗礼者ヨハネのように、自らの力を誇らず、本当のことを告白しつつ素直に主に頼っていく、ということでありましょう。
 先に天に召された方々もまた、そのように生き、私たちに数々の証を残してくださった、そのひとつひとつを今、想い起こしながら、素直に主イエスに頼り従っていくという希望と勇気を、教会創立116周年のこの朝、ご一緒に頂きたいと思います。

礼拝説教要旨(11月4日)降誕前第8主日礼拝

ルカによる福音書11章33〜41節
「心のともし火」竹島 敏 牧師

 私達の世には、私達の内側に与えられているともし火よりも、もっと強く見える光、荘厳に見える光、高価に見える光が確かに存在しています。そしてその光が、私達を強く引きつける時もあるのでしょう。
 けれどもどんなに引きつけられようとも、私達はこのことを知っておかなければなりません。どんなに強く、魅惑的な光も、一時的なものであり永遠に続くものではないのだ、と。
 私達がイエスをキリストと信じる告白をした時に、私達一人一人の内側にともされたともし火…、一見、弱く、はかなく、小さいこのともし火こそ、決して消えることなく永遠にともり続ける命の光なのです。
 だから今朝、私達は、どんな時も、この自分の内側に、イエスキリストというともし火が、ともっているということを…、そして、この心のともし火は、時に消え入りそうになっても、決して消えず、永遠にこの私を照らし続けてくださるのだ、ということを、覚えておきたいと思います。
 様々な困難が、次々と迫ってくる私たちの日々において、何よりも私たちは、まず、私たち一人一人の一番深いところにすでに与えられている、この、ともし火に、目をとめ、見つめ、そこから、永遠の命に至る力と導きをいただきたいものだと思います。そしていつか、この世の生涯を走り終え、天に召されるその時まで、このともし火に照らされて、このともし火のようなあたたかさを私達自身が放ち、この闇の世に、主イエスのぬくもりをせいいっぱい証していきたいと思います。

礼拝説教要旨(10月28日)聖霊降臨節第24主日礼拝

ルカによる福音書15:11―32
「親子」
岩本 伝道師

弟息子は、父親の元から離れようと決意し貰うべき財産を早々と手中に収め、さっさと家を出て、独り立ちしようと出てゆく、その小見出しのように放蕩三昧をした次男はすぐに失敗しました。さらにその地方一帯に大きい飢饉が起きた。彼は何とか、その地方に住むある人に身を寄せたところ、その人は次男に豚の世話をさせ、餌のいなご豆を食べて、飢えを何とか凌ぐ・・・そこまで落ちたということです。
17節、「そこで、彼は我に返って言った。」
自分の父親のことを思い出したのでした。これはこの次男が心入れ替えた瞬間でした。父親、神に対して自分はなんて悪いことをしていたのだと。父の元へと帰ろう。
18節「『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』」
「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」
父親は無条件で赦す、天の父である神の大いなる赦しの愛です。ここには、一人の罪人が悔い改めて帰還してくるとき、どれほどの大きな喜びが天の父親、すなわち神様が持たれるのかということを示しているわけです。
しかし、この様子を見て憤慨する兄がいた。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。』と兄・長男が父親に不満を露わにする。
「すると父親は言った『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」この御言葉こそが天の神様の愛の心のなのです。
次男・弟息子のように放蕩三昧に身を持ち崩した人たちも、また優等生かつ模範的であった長男兄のように律法主義的な生き方をしている人たちも共に愛しているということ。神様にとって二人とも、我が子であり、親子なんだよと。
私たちもその名のとおり兄弟姉妹であって、私たちは天のお父様と自然にお祈りできます。これは驚くべきことです。なぜでしょうか神様と私たちは親子の関係性であるからなのです。

礼拝説教要旨(10月21日)聖霊降臨節第23主日・神学校日・伝道献身者奨励日礼拝

「神の守りのしるし」

ヨハネの黙示録7章1〜12節
 竹島 敏 牧師

 今日のこのヨハネの黙示録には神の刻印、すなわち洗礼にあずかるべく招かれている者全てに洗礼がさずけられるその時までこの世界の決定的な破滅から天使達が守ってくれるという福音がしめされています。今日の7章以下の箇所において神の僕たち全てに神の刻印が押されてしまうまでは世界の決定的破滅は延期され、またどんな時も神の刻印が神の僕たちを守るということが明らかにされています。
 ひるがえって私達が今、生かされているこの時代も、ヨハネの黙示録の時代のような終末的な状況であるとよく言われます。まるでこの世の終わりを予感させるような出来事や事件が日々起こり、希望を見出すことがむずかしい時代だと。
 今、私達の身近にこの黙示録が書かれた頃のような迫害はないかもしれません。しかし息がつまるような閉塞したこの時代のなかでキリスト者として生きようとする時、いろんな壁にぶつかったりいろんな抵抗にあったりすることがあるのではないでしょうか。自らの無力さに打ちひしがれたり絶望しそうになったりすることも多くあるかもしれません。
 しかしそんな時こそ、今日の黙示録の箇所に示されていたように、私達の思い煩いをはるかに超えて、神の刻印が私達にも押されており、それが、救いの保証となっていることを再び想い起こしたいと思うのです。神の刻印を身に押された者として、主の霊・聖霊を豊かにいただき、主の見守りと導きのうちに生涯を歩んでいく幸いを、証しあう私達でありたいと思います。

礼拝説教要旨(10月14日)聖霊降臨節第22日礼拝

礼拝説教要旨(10月7日)聖霊降臨節第21主日礼拝

「求めるべきもの」               
ルカによる福音書12章22〜31節
竹島敏牧師

 今朝の御言葉は、「命のことで何を食べようか」、「体のことで何を着ようか」と思い悩む私たちに対する勧告の言葉です。ですが、そのことがいけないと言われているわけではなく問題は、誰の命のことで、何を食べようかと悩むのか‥、また、誰の体のことで、何を着ようかと悩むのか‥、ということなのではないでしょうか。つまり、自分のためだけに生きようとするのか、それとも、自分以外のあらゆる人とも連帯して生きようとするのか‥、という問いかけがなされているわけです。「自分以外のあらゆる人とも連帯して生きようという志をもとう」。それこそイエスが最もおっしゃりたかったことなのではないでしょうか。
 自分のことだけでせいいっぱい‥、と感じることの多い私たちの日々であるかもしれませんが、本来私たち、人は、自分以外の誰かとのつながりの中でしか、自分の存在意義を感じることができないように神によって造られているのです。だから、一人は、自分以外の他の一人のために何かをする使命を常に神から託されている、と言えるのだと思います。その使命を見出し、果たすところにこそ、生きていく充実が与えられるのではないでしょうか。
 どんなに財をなしても、死の時を自由に自分で延期させたりすることはできません。いつか、必ずやってくる死…、それまで、託された命を、ゆだねられた命を、あなたはどう生きるのか、どう使うのか、と、今朝、私達一人一人が、主から改めて問われているのだと思います。

礼拝説教要旨(9月30日)聖霊降臨節第20主日礼拝

ヘブライ人への手紙6章4〜12節
「最後まで希望を持つ」竹島 敏 牧師

 今朝、私達に与えられましたこのヘブライ人への手紙の4節から12節までは、その前半の8節までにおいては非常に厳しい勧告の言葉が連ねられているのですが、後半の9節以降は、救いについて、人々に望みを与えるような内容になっています。注目すべきは後半の9節以降ですが11節において著者は「あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」と語っています。
 「最後まで希望を持ち続ける」、希望をもって生きることが本当に困難な今の時代ですがしかし、主イエスから与えられる希望は決して尽きることはない、と覚えておきたいと思います。それは、自分は主から約束されたものを完全に受け継ぐことはできなくても、自分の後に続く人達が受け継ぐにちがいない、という希望です。そのようにして主が約束されたものは受け継がれていき、やがて成就した時初めて、その主が約束されたものを少しずつ受け継いだ全ての人々の上に喜びが満ちるのです。天において、また、地において、そのような喜びが満ちるのです。
 私達キリスト者が受け継ぐ約束されたものとは、そのようなものであるということを今朝、再び、覚えておきたいと思います。そして主イエスが私達の共同体に、また私達一人一人に、どのような約束を新たにお与えになろうとしているのか、敏感に信仰的感性をもって感じ取っていきたいと思うのです。そしてはるかに望み見ながら、その約束に仕えていきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(9月23日)聖霊降臨節第19主日礼拝

コロサイの信徒への手紙1:21—29
「キリストの苦しみにつながって」竹島敏牧師

 今朝私たちに与えられましたコロサイの信徒への手紙の24節以下においてパウロは「今やコロサイの信徒たちのために苦しむことが喜びとなった」と告げています。そして「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしている」と述べています。
 しかしながらこの、「キリストの苦しみにあずかる」ということは、ただたんに耐えてがまんして苦しむ、ということを指しているのではないはずです。今朝のコロサイの信徒への手紙の最後の29節においてパウロは「このためにわたしは労苦しており、わたしの内に力強く働くキリストの力によって闘っています」とありますから大きな苦しみを共に背負い連帯しつつ、主イエスは闘われるのです。まことの正義と平和実現のために神の国めざして、わたしたちの内にあって闘ってくださるのです。そのように闘いつつ苦しみ、苦しみつつ闘ってくださるというのです。
 主イエスが望まれた神の国、まことの正義が打ち立てられ、まことの平和が実現する神の国を地にもたらすためにはイエスをキリストとして崇める礼拝がきちんと行われ、そして礼拝において示されたキリストの教えが日々実践されていかねばなりません。そのための苦しみであるならば私は喜んで苦しもう、とパウロが言い切ったその姿勢を見つめて私たちもまた私たちが日々味わう様々な苦しみの背後に、より大きな苦しみを背負って立っておられる主イエスの姿を認め、この御方の苦しみにつながって歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(9月16日)聖霊降臨節第18主日礼拝

礼拝説教要旨(9月9日)聖霊降臨節第17主日礼拝

エレミヤ書36:27―32
マタイによる福音書24:15−35
「不滅の御言葉」
岩本 幸太郎伝道師

まず新約マタイ書の箇所では主イエスが、やがてくる大きな苦難の預言です。でもあなたたちは信じてはならないと説かれる。マタイ書24章35節にて、
「わたしの言葉は決して滅びない」
と主は約束してくださる。主イエスの発せられた御言葉は永遠に不滅であるのです。はじめに言(ことば)があった。神は最初、創世記の発っせられた御言葉は「光あれ」。その光がイエス・キリスト。
地上は深淵の上、闇であって、混沌を極めていて、そこにまことなる光が来られる。その光は私たちの中にもありがたいことに生きていて下さっています。その光を内にしまいこむのではなく、これからの私たちは現してゆくのです。これこそ、私たちの生きがいとなるでしょう。
ところで今日は旧約聖書の預言者エレミヤの御言葉に耳を寄せました。
この箇所にもやがてくる、大きな苦難の
預言の書かれた巻物を当時の南ユダの王は気に入らずに燃やしてしまう。
この巻物の大まかな意味は、当時、神様が新大国バビロンを用いて罪深いユダ王国を罰するといった預言・警告が書かれていたのです。預言者エレミヤはこのバビロン軍の侵略から聖書の民・南ユダ王国を守るために、王ヨヤキムにバビロン帝国に捧げもの、贈り物をし手を結び合いなさいと勧めますが、ヨヤキム王は御言葉を聞き入れません。
神は、かつて創世記1:1−3において天地を創造されるが、そのままでは混沌と闇だけの状態です。だから何かこう、“良し!”と呼びたいことだったでしょう。それは何?私たちにも必要な賜物です。それは神の栄光・「光あれ」です。そう、イエス・キリストです。
聖書は、私たちのために与えられた、なおも生きておられる真実なる御言葉なのです。神様は世をお創り、光をくださった方です。その愛を貫くためにも、たとえ世の中に大きな苦難が及ぼうとも我らにも乗り越える道を与えて下さります。
「わたしの言葉は決して滅びない。」そのとおり永遠不滅の御言葉なのです。

礼拝説教要旨(9月2日)聖霊降臨節第16主日礼拝

ガラテヤの信徒への手紙1章1〜10節
「僕として立つ」竹島敏牧師

 このガラテヤ書においてパウロは再三、大切なのは律法ではなく福音だということを強調しています。このようなパウロの主張に耳を傾ける時、現代の私たちの教会・教団もまた問われているような気がいたします。あなたたちの教会・教団はイエス・キリストの福音をどのように宣べ伝えてきたのか、またこれから宣べ伝えていくのか‥と。
 言うまでもなく私たちも教会も、この世に立っている限りこの世の影響を受けざるをえません。しかしそのようななかで私たちもまたパウロのように主イエスとの深い出会いを経験するなら、この世の様々な影響を自らが得た福音によってはねのけ乗り越えることができるのではないかと思います。
 まことに僕として立つとは、そのような経過をへて起こってくることなのだと思います。パウロを始めとして主の僕として立たされた多くの人達が最初から主の言葉に従順であったわけではありません。パウロもそうだったと思いますがわからないことはわからないと言い、時には祈りのなかで激しく主に疑問をぶつけたりもしたことでしょう。しかしそれは不従順ということではないと思います。むしろ主に対していつも誠実に向きあっていたということなのだと思います。私たちはそのように主に対して誠実に向き合い続けるよりもどこかであきらめ、形式的には従順に見せながらも静かに絶望しているところがありはしないでしょうか。しかしそれは決して主が望んでおられることではなくまた、まことの福音からも遠い姿なのだということを確認しておきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月19日)聖霊降臨節第14主日礼拝

エフェソの信徒への手紙4章17〜24節
「新しい人」竹島敏牧師


 戦後73年がたちました。先週の8月15日、私たちの国は73回目の終戦記念日を迎えたわけですが今年も私たちはまことの平和がこの地上にくることを心から祈り願いつつ、この時期をすごしたいと思います。戦争が終わって私たちの国は本当に平和になったのか‥また私たちキリスト者はイエス・キリストの神にのみ仕え神が望んでおられるまことの平和への道を正しく歩んでいるのか‥たえず私たちは自らの歩みを聖書に照らして反省しなければならないのだと思います。素直に自分自身を反省すれば今でも誰もがイエスキリストの神以外のなにかを、また誰かを神としたことがある‥と告白せざるをえないのではないでしょうか。また時にはその誰か、が自分自身であったりするわけです。つまり知らず知らずのうちに自分が神になったかのような言動をし隣人を支配しようとしてしまう‥決してイエスキリストの神を否定しているわけではなく信じている‥しかし信じながらも時折、別の何かを‥また誰かを神とするということが両立してしまう‥巧みに複数の神を使い分けて生きるということが今なお私たちの日常において起こっているのではないでしょうか。
 つまり私たちは知らず知らずのうちにこのような偶像礼拝の罪をおかしてしまっているのです。まずそのことを私たちひとりひとりが素直に認めなければならないのだろうと思います。そのことを認めた上でゆるされた罪人の一人として平和に仕える道を求めてすすんでいきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(8月12日)聖霊降臨節第13主日礼拝

マタイによる福音書5章9節
「平和へむけて」岩本幸太郎伝道師


「平和を実現する人々は、幸いである、」平和を実現する者の役目とは、二つポイントを絞って考えてみました。
第一は神様と本来の平和なる関係への回復、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」という状態の実現へ私たちが持ってゆくことです。罪なき主イエスが十字架にかかられたことで私たちの罪は帳消しにされました。その真実があっても世の人々は唯一なる神様を知らない、関心をもたないで生きている人が現実には大勢おります。その人たちのためにも御子のなされた御業を伝えたいものです。
二番目は、人と人の間に平和を創造するということ、隣人を愛することです。
一見、難しくみえる、けれども一歩進めばここに秘めたものがあるのでは、と私は考える。この隣人を愛することをこれから念頭に置き、神とともに歩んでゆけば、大きな喜びが私たちに待っているのではと私は信じます。
八月に入り全世界、特に日本人にとって、平和と同時にあの世界大戦のことを考えます。
今まで、世界中でも戦争は起こってきました。今でも起こっています。
人は自分たちこそが正しい、自分こそが正義と主張すると相手側も我こそも正義だ、聖戦だという主張は、結局はぶつかり合うだけなのです。
平和の福音を伝え、人、隣人をも愛し、神様と人間、人と人との間に平和を創り出すことが神の子としての私たちの使命なのです。平和を実現するため、努めましょう。私たちは、イエス・キリストの福音の教えを極めることに心を砕き、平和をもう一回創る者となりましょう。
もうすでに私たちは神の国に属しています。そう神の国に属する子として、これからは強く自覚し、振る舞いたいものです。皆さん、それぞれ一人一人がまことの平和を実現した暁には、
「よくやった、それでこそ我が子だ!」
と天の神はあなたに対していつの日か迎え喜んでくださるでしょう。

礼拝説教要旨(8月5日)聖霊降臨節第12主日・平和聖日礼拝

コリントの信徒への手紙一 13章1〜13節
「大いなる愛」 竹島敏牧師
 
 今朝のこのコリントの信徒への手紙において使徒パウロは、最も大いなるものが「愛」であることを高らかに宣言しています。私たちの人生にとって最も大切なものは愛である‥、と。たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも愛がなければ無に等しい、とパウロは言い切っています。
 もちろん私たちの愛は不完全で、常に独りよがりなものになりがちなのですけれども、しかし、少なくとも愛し合おうと努力していくところには必ず、神様の助けの手が与えられるというメッセージが、このパウロの言葉の背後にはあるのだろうと思います。
 しかしなお私たちが生きるこの世界には、様々なトラブルや争いごとがいつも満ちていて、いったい平和はいつ来るのか‥、と、思わずため息をつきたくもなります。
 けれども、今朝のコリント書においてパウロが指し示したキリストの大いなる愛を見つめる時、私たちもまた、多く傷つくことがあっても、きっとまた、その傷から、主イエスの導きによって、新しい他者と出会う道が開かれていくことを、信じられるようになるのではないでしょうか。そしてその時私たちは、主イエスが望んでおられるまことの平和に仕える者とされていくのです。
 私達誰もが、長く生きれば生きるほど、きっといくつもの傷を負っていきます。それはさけることのできないものです。でも、その傷は、他の誰かの傷をいやす道具ともなり、そのようにして私達は、新しく他者と出会い、自分と出会い、成長し、平和をつくりだす者とされていくのです。

礼拝説教要旨(7月29日)聖霊降臨節第11主日礼拝

コリントの信徒への手紙一 12章14〜26節
「ひとつの霊に結ばれて」竹島敏牧師
 
 使徒パウロは今朝与えられたテキストにおいて多くの痛みと病を負った我らの主イエスがそのかたわらに立たれるところの最も弱く見える部分・人が共同体の中で一番大切なのだという教会論を宣言しています。そこからイエス・キリストの体と言われる共同体形成が始まっていくのだと宣言しています。それはパウロが自分自身の経験を通して得た教会論でありました。ずっと強がって生きてきたパウロが本当は弱い自分自身を素直に受け入れまた、隣人の弱さをも受け入れて共に生きるという新しい道を見出していく過程の中で得た教会論であったのです。
 私たちもまた時として強がることがあってもまた強く見せることをしいられることがあったとしても本当は弱く傷つきやすくはかない存在なのではないでしょうか。しかしもっとも弱く見える部分から大切にされていく共同体・交わりが生みだされていくのならそこに本当にそのままの自分で安心していられる居場所、それぞれにとっての癒しの場がつくられていくのだろうと思います。
 今朝は特に様々な状況にあって教会から離れている人、教会に来ることができない人、今そのかたわらにあってそこから私たち全てをひとつの共同体として抱きしめようとしておられる主の御手のぬくもりを感じながら共に祈りをあわせたいと思います。そして私たち一人ひとりがイエス・キリストの体の部分として、かけがえのない一部分として互いに敬い、協力しあいながら主イエス・キリストの体をこの世界に証していきたいと思います。

礼拝説教要旨(7月22日)聖霊降臨節第10主日礼拝

『わたしたちと主の祈り』
マタイによる福音書6:9-13
岩本幸太郎伝道師

主の祈りとは、まず前半「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」さらに「御心が行われますように」これらはいずれも天の神への賛美、感謝の祈りです。後半の祈りは、三つの柱によって成り立つ、11節、「必要な糧を今日与えてください」、12節「負い目を赦してください」最後13節、「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」のわたしたち自身への三つの祈り。後半最初の柱11節、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください、」これは神様への信頼することの重要さを表し、今日、神様お支え下さいと祈ります。第二番目に当たる12節の、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」
私たちは“あれは許せない”ということがふと時々、思ってしまう。でも主は訓練して下さるのです。だからこそ主の祈りを何度も生涯かけて毎日唱える必要性があるのです。よって私たちは許せない!といった罪、窮屈な囚われからの解放を体感することになるでしょう。最後、イエス様は「誘惑に合わせず、悪いものから救ってください。」と言われ、あなたは誘惑を避け、悪から救って下さいと祈りなさい。と言われる。今日の箇所を読み返してみれば、前半は神への賛美、後半は前半と共に「わたしの主の祈り」ではなく「わたしたちと主の祈り」なのです。ここに信仰の目が開かれるのです。
主の祈りについて、今一度意味を知り、主の祈りから、私たちは主の祈りを教会にて祈ることにより、天の国、神の国とは、私たちが地上の生涯を終了してやっとでたどり着く場所ではなくて、私たちが主の祈りを唱えることによって既に私たちの間に神の国はもうある。主イエスを受け入れた、みなさん、天へ昇ってから始まるのではなく、今生きているこの瞬間からすでに始まっているのです。(ルカ17:20―21)これからも主の祈りを祈りながら、あらゆる誘惑に陥らぬように、イエス様と共に父なる神様に従い、さらなる祈り歩んでいきたいものです。
できるはずです。私たちが礼拝にて集い、「主の祈り」を唱えることによって、神の国を今度こそ世に証してゆけるでしょう。もう一度、一日一日、主の祈りに挑み信じていきましょう。

礼拝説教要旨(7月15日)聖霊降臨節第9主日礼拝

フィリピの信徒への手紙4章1〜7節
「主において喜ぶ」竹島敏牧師

 今朝の聖書の箇所には、「主において常に喜びなさい」というすすめがなされています。これはどんなことでも喜ばなければならない、ということを言っているのではありません。そうではなくこれは、主が共にいてくださるから‥、そして導いてくださるから、たとえ今はどんなに「喜び」からほど遠い現状であっても必ずよい方向に導かれる時を信じて‥、その時のことを祈りのなかで望み見て、前もって喜びなさい、ということなのです。
 「主において喜ぶ生活」、それは、思い煩いのない生活なのではありません。それはむしろ、様々な思い煩いが起こってくるなか、その都度、全てを主にゆだねて、祈りつくしていく生活のことなのです。そして今はまだ何も解決していないも関わらず、必ず主が共に働いてくださり、よき方向に導いてくださることを信じて祈りつつ、前もって喜ぶ生活のことなのです。
 私たち一人一人の限界はあまりにも小さく、私たちは様々なことにすぐにつまづき、思い煩いの世界に入っていきます。しかし、そのような時こそ、「主がすぐ近くにおられる」という今朝の5節の言葉を思い出したいと思います。あまりにも小さな限界を抱えてたたずむ私たち一人一人の傍らに、主が立ってくださり、限りない慰めと励ましをいただくことができる‥。そのような幸いが与えられていることに感謝しつつ、この週も、怒り悲しみ、思い煩いの多い日常のすべてを神にうち明けつつ、主において喜びながら歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(7月8日)聖霊降臨節第8主日礼拝 

テモテへの手紙一3章14〜16節
「教会の希望」竹島敏牧師

 今朝のテモテへの手紙で語られているように確かに教会は神の宮であり聖霊の宿るところです。しかしそこに集う人間は決して聖いわけではない‥、どんなにあがいてみても決して聖くなどなれない者たちなのです。そしてもはや自ら聖くなろうなどと誤った努力をする必要などなくなった者たちなのです。
 私たちの教会の希望は私たち全ての者が主イエスの御前では愚かな罪人の一人にすぎないのだということを心底認めるところから生み出されます。傲慢な想いが徹底的に打ち砕かれ、一度自分自身に絶望し隣人にも絶望する‥そこから本気で神に向かい‥主イエスに向かって‥すがりついて歩んでいきたいという心の態度が形成されるのです。
 16節の最後のところで使徒パウロはキリストのことを「世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」と述べています。これは終末時の救いの完成をこのような表現で述べているのだと言われていますがそのようなこの世界の救いに、教会が用いられるのだということ‥私たち一人一人がそのような主イエスの業に仕えるべく毎週、教会に呼ばれているのだということを覚えておきたいと思います。
 もしかしたら教会は私たち一人一人の願望が一度は徹底的に打ち砕かれる場所であるのかもしれません。しかしそこに主イエスに服従して生きる新たな人生と決して消滅することのない主にある希望が永遠に与えられるのです。この約束を信じて毎週の主日ごとに、打ち砕かれつつ歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(7月1日)聖霊降臨節第7主日礼拝        

ガラテヤの信徒への手紙5章2〜11節
「主イエスを仰ぐ」竹島敏牧師

 神の創造の業の途上におかれている私達は皆、神によって造られていた本当の自分らしさを取り戻す旅を続けていると言えましょう。すでに神の御心にそわない世界に生まれ落ちた私たちです。その世界の影響や束縛を受けて生きてきた私たちの親などによって、どうしても、神の御心からそれた歩みにならざるをえなかった私たちです。神によって造られていた本当の自分‥、その自分を純粋に、素直に伸ばしていくことなど不可能であった私たちなのです。しかし洗礼を受けてイエスキリストにしっかりと結ばれた今は再びそのことが可能となっていくのだ‥とここでパウロは言っているのではないでしょうか。だからもう、この世の規範や慣習やまわりの人の目などにとらわれるな‥と。主イエスのみを仰いで十字架の言葉にのみ賭けて生きていきなさい‥と語っているのではないでしょうか。
 確かに本当の自分らしさを取り戻していくその旅は、いつもおだやかな心安らかなものではなく時には激しい葛藤や怒りをも伴うものであるのでしょう。しかし苦しみつつ旅を続ける私達の歩みに主イエスは同伴してくださり、生きていて本当によかったと、しみじみ感じられるようになるところまで必ず同伴し続けてくださるのです。それが洗礼によってキリストとしっかり結び付けられた私たちに与えられる恵みなのです。共に新しく創造されていくという主の導きを妨げることなく配慮しあい、神によって造られていた本当の自分らしさを取り戻す旅を続けていきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月17日)聖霊降臨節第5主日礼拝

マタイによる福音書5:1―12

「山の上から」岩本幸太郎伝道師

マタイによる福音書5章に入ると小見出しに「山上の説教」とあります。5章1−12節までです。まず、今朝の箇所ですが、“今から言うこと、この御言葉に従えば成功できる”といったものではありません。今日は主が与えられる幸いとは?山上の説教・最前半部分のテーマです。見上げると主イエスが山に登られ、腰を降ろされて、群衆、今の我らにも語りかけるのです。さて3節から説教が始まります。3~5節をもう一度読んでみましょう。

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」

「幸いである」という言葉が3~11節の中で9回も繰り返されます。ここには、主イエスによって神のみ前に招かれた人、神を信じる人とされた信仰者の幸い、幸福、喜び、平安が語られています。

原文の聖書では、「アシュレイ:幸いである」という言葉が文章の頭に置かれています。9つとも同じです。文章の頭に置かれているのは、強調ということです。

わたしたちが毎週詩編を読むとき、詩編1篇の入り口で「幸いなるかな」という祝福のみ言葉がわたしたちを迎え入れてくれるのです。それと同じように、今日の山上の説教で、「幸いなるかな」と本物の祝福のみ言葉がわたしたちを迎え入れるということです。なぜ、この山上の説教はいまでも語り継がれているのでしょうか。そこに主の栄光をかい間見るからで、おびただしい群衆を見て、イエス様は山に登られたのです。今の私たちにも今日のみ言葉を確かに残すためです。今日の山上の説教には、何度も何度も、皆様がこれからも主にあってたぐい寄せられる箇所であります。なぜなら、本日の箇所を開くたびにてキリストはあなたの呻きや苦しみの祈りがたとえあろうとも必ずや栄光に登る道へと、導くのだ!強きイエス・キリストの約束があるのだから、信じましょう。

今日の主の御言葉は短いですが同時に偉大であってイエス・キリストが私を見上げよと教えられています。今日は山の上から私たちに語られる主のメッセージ、まことの幸いを教わりました。一見なにか深い、いや巨大さを感じますが、直接的なイエス・キリストの御声を聞いたような気がします。山の上におられるイエス・キリストを見上げる。12節には喜びなさいと言われております。私たちは俯いたままではいけません。山の上におられる主イエスの顔をみあげましょう。唯一なる光に向かいましょう。なぜなら、そこは大いに喜びあり、天には大きな報いがあるのだとイエス・キリストは断言されておりますから。

礼拝説教要旨(6月10日)聖霊降臨節第4主日 花の日・こどもの日 礼拝

       
ローマの信徒への手紙13章8〜10節
「イエスさまの愛」竹島敏牧師

私たちはイエスさまの愛のことばによって慰められ強くされるのですが、さらに、その私たち自身がイエスさまのことばとなって、さみしい想いをしている人や、苦しい想いをしている人を支えられるようになると今朝の聖書は私達に語っています。それがイエスさまの愛を伝えるという伝道の業になっていくのだと…。
 たとえば、何も話さずただじっと傷ついた人のそばにいることが、その人を支える大きなことばになることがあります。慰めよう支えようと何か無理に言葉をかけるよりも、そのほうがその人をはげます大きなことばになることもあるのです。そのように私たち一人一人が、教会において、また、地域や家庭において、心をこめてはたす小さな働きのひとつひとつを、イエスさまはあたたかく見守ってくださいます。そして、その働きの全てを、ご自分のことばとしてくださいます。そのように知らず知らずのうちに私たちの働きが用いられていくのです。
私達一人一人もまた、なお様々な悩みや課題を抱えつつもイエスさまの愛の力を信じ、待ち望み、ゆだねつつ、生きているという、そのままの私達を示していくならば、主はきっとそこに新しい出会いの出来事を起こしてくださるのでありましょう。イエスさまのことばとして遣わされた私たちに、そこで、互いに慰めあい励まし合って生きていく新たな友が与えられるのです。私達の想いや意識をはるかにこえたイエスさまの愛の力によって、そのような出来事が起こされる…、そのことを私たちは信じていきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月3日)聖霊降臨節第3主日礼拝  

ローマの信徒への手紙8章12〜17節
「神の相続人」竹島敏牧師

 今朝のローマの信徒への手紙において使徒パウロは、「私たちは神の相続人である」と語っています。17節のところです。「しかもキリストと共同の相続人である」と。何を相続するのか‥、それは一言で言うなら、神の最終目標である「神の国」だ、と言えましょう。
 そして今朝のローマの信徒への手紙8章の15節においてパウロはこう語っています。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と。
 パウロが生きた時代にも、私たちが今生かされている時代にも、物やお金に人の心を縛り付ける霊など様々な霊が存在しています。しかし、私たちはそのような、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けて、本来の自分らしく、生き生きと歩んでいく力をいただいているのです。
 あまりにも目に見えるものにとらわれ、ふりまわされている私たち‥、なのかもしれません。しかし、目に見えるものにとらわれ、ふりまわされる日々から解放されるために、そして、うすっぺらではない本当の生きる希望を見いだしていくために‥、そのような神の国の希望を見出していくために、まず、私たち一人一人に与えられている心の目で聖霊をしっかりと見つめ、そしてその霊の導きによって、聖書の言葉に深く聴き、その聴き取った意味をしっかりと生きる‥、そのような歩みを一歩一歩積み重ねてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(5月27日)聖霊降臨節第2主日礼拝『ことばのよみがえり』

創世記11:1-9 使徒言行録2:1-9

岩本幸太郎伝道師

先週は聖霊降臨主日礼拝でこれは数えきれない種類のことばが飛び交い、鳴り響いたという日でした。想像をも超越した現象です。ところで、遠い昔、こういった現象とは対称的な事件がありました。旧約聖書の創世記11章に伝えられているバベルの塔の事件です。この建設計画途中まで、当時、人間の話す言語は一つで、

「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう』と言った」(創世記11:4)一言でいえば天の神に挑戦状を叩きつけたのです。

しかしバベルの塔の建設計画は途中頓挫する。これはこんにちの我々にも問いかけ、またこれらは人を本当の幸福にするのでしょうか。

“さあ天まで届け、有名になろう!”

と意気込んでも、人間とは結果混乱になるだけです。イエス・キリストの生涯を振り返りましょう。

 むしろ、天から降ってきてくださり低さや小ささや弱さや少なさに意を注いだ人生だったのではないのでしょうか。

使徒言行録2:4―8に戻りますが、、

「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」それぞれ違う話しことばが聖霊の降りによって発せられた。聖霊を通した言葉とはヘブライ・アラム語、ギリシア語だけではなかったということです。注目したいのは、天の神と人との交わり、神のことばのよみがえりにはどこの国の言葉でも可能だということが証しされています。断言すれば教会とは様々な多様な言葉を使っても構わない、それでよし。と神は認められたのです。イエス・キリストの福音はすべての次世代を超え、すべての原語・ことばをも超える。新約聖書が云わんとするのが、

福音の救いはすべての人が含まれているという真実です。みなさんの祈りの言葉、賛美の歌はすべて主の御名によって届かれています。安心しましょう。

礼拝説教要旨(5月13日)復活節第7主日礼拝

ヨハネ福音書17:1―13
「天に属する者」竹島敏牧師

 今朝のこの聖書箇所においてイエスがまず主張したかったのは、真の神を信じる者たちは
皆「天に属する者」である、ということです。
 日頃から主が一番に願っておられたことは、天において成就している神の御心が、地においても実現していくことでした。つまり主は弟子たちに常に、天を仰いで生きよ、と教えておられたわけです。たとえこの地がどんなに汚れ、闇の世であっても、絶望しきってはならない、と。はるか天を見上げて、そこではすでに神の御心が成就していることを想え、と。そして、その天の国が、神の導きによって確実にこの地に近づきつつあることを信じて、うまずたゆまず神に仕え続けよ、と、主は教えておられたわけです。だから、この地上の事柄に執着してはならない‥、と主は教えられました。
 確かに私たちには、この地上の事柄に様々な執着があると思います。けれども、天に目を向けること‥、この地上の事柄に対する執着はとりあえずそのままにしておいて‥、天にも目を注ぐこと‥、これならできるのではないでしょうか。そして天においてはすでに神の御心が成就していることを信じ、そのような天が、神の御導きによってこの地上に近づきつつあることを信じる‥、思い描いてみる‥、ということが大切なのではないでしょうか。
 天を見上げ、見つめることによって私たちは、どんなにこの地上の生が悲惨であったとしても、私たちにとって世界は、この地上だけではないのだ‥、と。私たちにはもう一つの世界、天があるのだ、と、再び、希望を持ち始めることが可能となるのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(5月6日)復活節第6主日礼拝

          
創世記18章23〜33節
ヨハネによる福音書16章16〜24節
「主の名によって願う」竹島敏牧師
 
 私たちは日々、様々な願いを抱いて歩んでいます。たとえ次々と願いがかなえられずに消え去っても、また、新たな願いを抱き、それを心の支えにして私たちは生きているのではないでしょうか。もし何も願わなくなってしまうことがあるとすれば、それは、自らの人生に対して絶望してしまった‥、ということです。いろんな願いが、かなえられずに次々と消え去ってしまっても、私たちは何とか希望をもって生きていくために、また、別の願いを抱くのです。
 今日のこの、ヨハネ福音書16章24節には「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」、とあります。これは、願ったことや、願ったものがそのまま、与えられるとは限らないけれども、必ず良いものが与えられ、あなたがたは喜びで満たされるにちがいない‥、ということです。だから私たちは、まずは自分の願いをそのままに、神に申し上げてよいのではないでしょうか。願いどおりにはならないかもしれない。しかし、その私の願いが、神の心を動かし、変える場合だってあるのだという思いをもって、素直に神にぶつかっていくことがゆるされているのではないかと思います。つまり、神の思いを推し量りながら、自分の意見も自由に述べて神と対話し、あとはゆだねる、ということ‥、これが「主の名によって願う」ということなのではないかと思うのです。「そのように願う人に主はもっともふさわしいものをさずけてくださる」そこに希望をおいて今週もそれぞれの一週の旅路にむかっていきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月29)復活節第5主日礼拝

「福音開始」
マルコによる福音書1:1-8

岩本幸太郎伝道師

1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め。」

かつてこのような権威ある書き出しがあるでしょうか。これこそがマルコによる福音書の特徴、象徴。簡潔な書き出しです。この書き出しはマルコ書全体を言い現す。今でもイエス・キリストの御働きは続いてきています。

マルコによる福音書という書物は、初の福音書といった試みです。それはこの福音を自分自身のこととして知っている、それは頭の中でただキリストを知っている、知識として知っているというのではなくて、彼もイエスキリストを体験的に知っているからこそ、今度こそ課せられた使命、自分こそがイエスは神の子であると宣言しなくては、その使命を果たそうと強い聖霊の援護もあって筆をとったのでした。

2節以下に洗礼者ヨハネ登場。一言でいうと旧約と新約聖書をつないだ人です。2節は旧約聖書のイザヤ40:3からの引用、ついに旧約聖書の預言されていた出来事がついに実現するということなのです。ただまっすぐに正す方が、「イエス様あなたこそ私の救い主、信じます。」と心から信じ言うことで、まっすぐな道があなたに用意されるのです。みなさん、今日神へ至るストレートな道が用意されたのです。

神はそんな彼に最初の福音書記者に用いたのです。そこで福音が記され、マタイ、ルカ、ヨハネたちの聖霊をも刺激したのです。さあ、まっすぐな道が用意されました。福音開始です。現在進行中です。これにまさる喜びはありません。罪が赦される、そして神の子とされている恵みの中でまっすぐに導かれ歩んで行く、生きてゆく。神様は準備されてくださりました。初まり今日ありき、希望こそ確かにありです。まっすぐにしてくださるお方をお手本にともにこれからも歩んでいきましょう。

礼拝説教要旨(4月22日)復活節第4主日礼拝             

レビ記19章9〜18節
ヨハネによる福音書13章31〜35節
「新しい掟」竹島敏

 「互いに愛しあいなさい」それが、あなたがたに与える新しい掟だ、と主イエスは弟子たちに語られました。そして、互いに愛しあうならば、それがまわりの人達へのよき証になる‥、というふうにも語られました。今朝のヨハネ福音書の13章34節以下のところです。主イエスの具体的なお支えとお導きによって、神の国へと向かう教会を形成する、また社会を形成する‥、そのために互いに祈りあい配慮しあっていく、それが互いに愛し合うということです。
 教会の交わりと祈りのなかで私たちは、神が私たち一人一人に備えてくださった固有の能力・個性を再認識させられます。すなわち、しばしば私たちは教会の交わりと祈りのなかで、この世の価値観によってすでに切り捨てられ、自分でも忘れ去ろうとしていたような能力や個性を再び呼び覚まされるのです。そして自らに本来備えられていた様々な能力や個性をすべて肯定しそれらを生かすために、それぞれのところへと遣わされていくのです。
 私たちの世が、また国家が私たち一人一人をどのような基準ではかり、どのような評価を与えようとも主イエスは、神が私たち一人一人に備えてくださった能力や個性をすべて肯定し豊かに用いてくださる‥、神の国のご用のために生かし切ってくださる、だから今週も、ありのままのお互いを、神様によって備えられている互いの賜物を見いだしあって、これでいいのだと肯定しあって、この世の歩みへと踏み出していきなさいと言われているような気がいたします。

礼拝説教要旨(4月15 日)復活節第3主日礼拝           

ヨハネによる福音書10章7〜18節
「命を与え、導く主」竹島 敏牧師

 マザーテレサは、どんな時も教会のミサをとても大切にし、いつもミサにあずかってから奉仕に出かけた、と言われています。真実の奉仕を続けるためには、復活の主イエスの命にあずかり続けることが必要不可欠であることを身をもって知っていたからでありましょう。 
 このように私たち一人一人にご自身の命を与え、導いてくださるのが私たちの主イエスキリストです。この主イエスを信じて洗礼を受け、真実の心をもって聖餐にあずかり続けるなら、イエスの命が豊かに分かち与えられ、イエスが生きたように生きることを志すようになるのです。イエスが望んでおられた神の国を目指して生きることを志すようになるのです。そしてその命は、この地上の歩みを終えても、終わることはありません。
 「自分さえよければいい」、という考え方、生き方が広がりつつあるこの時代のなかで、このような、主イエスにならう生き方は、新しい生き方です。自分以外の誰かのために、自らすすんで日々、命を削って生きていく‥、それが決して単なる自己犠牲には終わらない‥、むしろそのことによって豊かにされ、心が満たされる生き方‥、そのような新しい生き方へと私たちは招かれ、導かれるのです。そしてその命が、この地上の歩みを終えた時、復活の主はその命を抱き取って、天へと連れ帰ってくださいます。そしてそこにおいてその命は、主イエスと共に、遺されたこの地上の人々の歩みを見守り続けるのです。そのような命を与え、導いてくださる主に心からの感謝の祈りをささげましょう。

礼拝説教要旨(4月8日)復活節第2主日礼拝           

ヨハネによる福音書20章19~31節
「復活の命をうけて」竹島敏牧師

今日のこの聖書の箇所の最後においてトマスは、十字架につけられて、その体に穴をあけられて、苦しみぬいて死んでいかれた方が、今、現実に復活して自分の目の前に立っているという事実を、もはや認めざるをえなくなりました。その事実からもはや逃げることはできなくなりました。そして、「決して信じない」と言いながら激しく問いつめていた立場から、今度は問われる立場へと、ここで一瞬にして大きく立場が変わったのです。
「この釘のあと、槍のあと、それは誰がつけたのか」と静かに問われる立場へと、大きく立場が変わったのです。
この時トマスは、自分が実際に手でふれて確認した、この主の体の釘のあと、また槍のあとは、自分がつけたものなのだ、ということを、はっきりと理解したのでありましょう。
確かに自分だけではない、しかし、他の弟子達も含めて、自分もまた、そこに荷担したのだ、ということをはっきりと理解したのでありましょう。しかし実際には主は、そのような厳しい問いをトマスに投げかけられることはなく、ただ、「見ないのに信じる人は、幸いである」と静かに告げられただけでした。
私たちもまた、トマスのように、「もう決して信じない」という疑い迷いの中に入ってしまうことがあるかもしれません。
しかし、そのような私たちにも、主は御自身の十字架の傷跡を見せて、さわらせてくださる…、それほどの深い出会いを備えていてくださり、復活の主イエスと共に永遠に生きる道をひらいてくださるのだということを、今朝のヨハネ福音書は私たちに伝えているのです。

礼拝説教要旨(4月1日)復活節第1主日・イースター礼拝            

ヨハネによる福音書20章11~18節
「復活の意味」竹島敏牧師

 今朝のこの聖書箇所においてマリアは、主イエスと霊的な新しい関係に入り、信仰的に自立していくことを求められています。神は全てに時を備えておられる‥、今、イエスは復活され、これから天へ旅だっていこうとされている、今や、そのような時が与えられようとしている、そのことをよくかんがえなさい、とマリアは言われているのです。だから、私にもうすがりつくな、すがりつく必要はもうない‥、ということなのです。
 このようなマリアの物語を受けて、私達は、今日のこのイースター礼拝にて、この地上を去っていった方々のことをあらためて想い起こしたいと思います。イースターは、主イエスが復活されたことを喜び感謝する日ですが、それは、天と地という距離を超えて、主イエスと弟子達との霊的な交わりが深められていくその出発点でもありました。主の復活と昇天という出来事は、そのように当時の弟子達と主イエスとの関係を新たなものにしたのです。
 私達もまたやがて、この地上を去っていく者達であります。しかし私達が今、復活の主イエスとの霊的な交わりに深くあずかっていくならば、天と地をつないでくださる復活の主の導きによって、先にこの地上を去っていった人達とのより親密な交わりが与えられるのではないでしょうか。私達の主は、私達一人一人の名を呼んで、慰め、励まし、そして先にこの地上を去っていった人の、声や言葉や姿を、この地上によみがえらせてくださる復活の主でもあるのだということを感謝をもって受けとめたいと思うのです。

2017年度

礼拝説教要旨(3月25日) 受難節第6主日礼拝

『私たちを新しくする生きた水の流れ』
中條康仁神学生
エゼキエル47:1-12、ヨハネ7:37-39

本日の新旧約聖書の御言葉には、それぞれ「水の流れ」について記されています。
ヨハネ福音書では、主イエスは仮庵祭の最終日に大声で叫ばれた(7:37)と記されています。何故そのようにされたのでしょうか。それは主イエスが人々の心の奥底を見られたからではないでしょうか。祭りや儀式を盛大に祝う人々の心は、神を慕い求めるような、飢え渇くような心ではなかった。だからこそ渇きを自覚させるために叫ばれたのです。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(7:37)。これは、わたしを信じなさい、ということです。わたしをあなたの救い主・キリストとして受け入れなさい。そうするならば、あなたの渇いた心は必ず潤される、と約束されたのです。
 また続けて言われました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7:38)。「生きた水」とは聖霊のことです。主イエスを信じるならば、新しくされた心の奥底から、聖霊が川のような水の流れとなって現れる。そして、自分のみならず他者をも神のご支配の元に導かれ、共に神の救いを喜ぶ存在へと変えられていく、という約束です。
 この聖霊の力は、人々の救いに留まりません。渇いた大地をも潤す神の御力です。エゼキエル書では、預言者エゼキエルは回復された新しい神殿の幻を見ますが、そこには命の水が回復をもたらす象徴として語られています。神殿の敷居の下から滴り落ちる水が、やがて大きな川の流れとなり、汚れた海(死海)にまで至る、その過程において生命は甦りの恵みに与る、という幻です。祝福に満ちた幻です。幻は神が見せてくださったものである以上、必ず実現する神の約束です。だからこそ期待して待ち望む必要があります。
 私たちは、神を慕い求める渇きをもって、神の御前に進み出たいと願います。新しく造り変えてくださる神の御力にこれからも信頼して歩めますようお祈りいたします。

礼拝説教要旨(3月18日) 受難節第5主日礼拝

『とわのいのちへ』岩本幸太郎伝道師

ヨハネによる福音書12:12-26

「一粒の麦は地に落ちて、死ななければ」耕やされたであろう一粒の麦は土の中に落ちて、何もなくなってしまったように思われたが、一粒の麦はやがて緑の芽が吹き出し実り、そこに神の不思議な愛のみわざが映し出されているのです。
旧約聖書イザヤ書52章から53章までに語られる『苦難のしもべの歌』があります。ここは読むたびに感動が溢れます。この預言の歌をなぞるように主イエスは来られました。主の歩まれた福音書に戻りましょう。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。ヨハネ12:25の御言葉も一粒の麦について結び合った御言葉として覚えていなければなりません。
「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」(26節)。
大切なことは、キリストは確実にどこにでもいてくださる。その主イエスがおられるところに自分もいるのだと今日は再確認して方向を正してください。

さらに最後26節後半、

「父はその人を大切にしてくださる。」

という御言葉が付け加えられています。

「大切にする」ということばはとても重い意味を持った言葉です。神があなたを重んじてくださる。

“イエス様、あなたこそキリストです!”と告白した時、神はあなたこそ重んじ、宝物にしてくださるのです。イエス様も神の御子、同時に人の子でもあった。悲しい別れもあったことでしょう。しかし人々の救いのために一粒の麦である肉体を捨てる使命を取られたのです。暗闇のなかで一筋の光・栄光へと昇華させるための唯一なる人の子・神の御子でしかできぬ御業を成し遂げるためでした。十字架にかかって人の子であるならば生命半ばにて一見、死、死に敗けたのかもしれない。けれどもイエスは神の最も憎んだ死に打ち克つ。御子によってあなたにいずれ訪れる死を共に倒すためでした。今は卒業、別れの季節です。それらは一見辛いです。でも一粒の麦は土の中に蒔かれ、見えない、でも確実に芽吹き、実るのです。このことを信じるのならば別れ・断絶・消滅・死をも我らは超えます。勝つ!それはイエスをメシア・キリストだと信じる群れは、イエスにあって一つとなり、完成へと昇華する。我らは“アーメン”と言ってさらに信仰を強めましょう。 

礼拝説教要旨(3月11日)受難節第4主日礼拝  

ルカによる福音書20章9〜19節
「捨てられた石」竹島敏牧師

 今朝のルカによる福音書は、捨てられた石が、隅の親石になった、と告げています。またペトロの手紙一の2章の4節以下には次のように記されています。「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」。
 人々からは見捨てられたけれども、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石、それがイエスだと、ペトロの手紙は言っているのです。そしてあなたがた自身も生きた石として用いられるようつとめなさい、と言われています。
 私達の主イエスキリストは、今も、隅の親石のように、この世界の片隅から私達の住む世界を見守り、支え続けてくださっています。決して大事にされず、その存在を覚え続けられることもなく、しばしば捨てられた石のように価値がないものとされている…、しかし捨てられたその石が私達を守ってくださっているのです。この世界の隅の親石である私達の主は、今朝も、私達の生きる世界全体を見つめ続けておられるのだということを思います。
 東日本大震災後7年がたちましたが、今もなお主は、涙を流しつつ、憐れみと慈しみのまなざしをもって被災地にある方々を支えようとし続けておられ、そして、大震災前とはちがう新しいあり方、生き方を、私たち全ての者に促し続けておられるのではないかと思います。そのまなざしを深く深く感じながら、受難節、このレントの時を歩み行きたいものだと思います。

礼拝説教要旨(3月4日)受難節第3主日礼拝   

マルコによる福音書8章27〜33節
「神を思う」竹島敏牧師

 今日のこの聖書箇所でペトロが主張していることは、つまるところ「苦難と十字架ぬきの栄光」ということだったと言わざるをえません。しかし聖書は、そのような自分勝手な願望が挫折していくところからまことの信仰が始まる、ということを示そうとしているのではないでしょうか。
 私たちもまた時に、「苦難と十字架ぬきの栄光」を求めてしまうことがあるのかもしれません。次から次へとやってくる苦難のなかで、私たちもまたペトロのように、イエスに対して文句を言いたくなることがあるのかもしれません。
 しかし、そのような時こそ私たちは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になってくださったイエスを見つめ‥、十字架の死に至るまで従順に歩んでくださったその意味を深く思い起こしたいと思うのです。
 私たちの主イエスは、今も、十字架につけられた御姿を示しつつ私たち一人一人の傍らに立ち、私たちそれぞれに背負わされている苦難に連帯してくださっています。そして、私たちそれぞれもまた、互いの苦難に連帯して生きるように、と促しておられるのです。レントのこの時、この主の促しをどれだけ深く感じ取っていけるのか‥、そこに、復活に向けた私たちの希望がかかっているように思います。
 私たち一人一人の救いのために十字架にかかってくださった神・イエスを思い、その促しに従っていくことこそが、まことに人を愛することにつながっていくのだと信じて、このレントの時を歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(2月25日)受難節第2主日礼拝

『御子をほめたたえよ』

マタイによる福音書15:29-39
岩本幸太郎伝道師

さて、今日はマタイによる福音書第15章29節から39節から御言葉に聞きます。ここでは、イエスキリストの成された合計2つの奇蹟が記されています。

まず一番目、小見出しにもありますように主イエスが大勢の病人をいやされた。

二番目、主イエスは四千人に食べ物を与えました。31節によると主イエスの癒しの御業を見た群衆の反応が記され、そうイザヤ書35章にて預言されていた神の約束が、主イエスの御業によってついに実現したのです!いよいよ群衆はこの神の救いの御業を目の当たりにしたのです。そして「イスラエルの神を讃美した」とあります。主イエスこそが預言されていた救いをもたらす御方、旧約聖書・イスラエルの神の御子という確かな救い主であるといったあかしです。異邦人の

「イエス様!主よ、どうかお助けください」の願い、祈りをも顧みてくださるという真理がここで証明されているのです!

次に、大勢の病人を再びイエスキリストは癒されました。次に弟子たちを呼び寄せ、「群衆がかわいそうだ。」とナザレのイエスという人は他の人たちのことに感心をもって嘆かれました。その人の悩み、苦しみ、このイエス様の“かわいそうだ”という嘆きを私たちもわが思いにもしたいと皆さんは感じませんか。さらに今日の主イエスは弟子たちを呼び寄せて「空腹のままで解散させたくない。」と問われるのです。主イエスが弱っている人々をその憐みの眼差しよって養われ、慰められ、力づけて下さるのです。そして今、主イエスは私たち一人一人に、同じ恵みを与えられます。主イエスがご自身の命を犠牲にするほどの深い憐れみと同情とを持たれた、そのことを覚えながら受難節を過ごすことが重要です。

イエスキリストの愛によって私たちの心が満腹し、養われ、力づけられていくためです。この四千人の人々と共に主イエスの恵みに連なり、救い主の愛に満たされ、御子をほめたたえたいと思います。

礼拝説教要旨(2月18日)

礼拝説教要旨(2月11日)降誕節第7主日礼拝・信教の自由を守る日

マルコによる福音書2:1-12
「ひとりのために」竹島敏牧師

 今朝私たちに与えられましたマルコ福音書には、「信仰」とは何か、また「教会の交わりとは何か」ということが示されているように思います。
 この四人の男性たちは、あえて常軌を逸した行動にでました。そして主イエスは、この常軌を逸した行動を、「信仰」だ、と評価されました。そしてこの四人の男性たちの「信仰」の故に、重い病を負うこの人を癒されたのでありました。ここで、癒されたこの人の信仰は何も問われていない‥、この人を連れてきた四人の人の「信仰」の故に、癒しの業が行われた‥、ということに、私たちは注目しておかねばならないと思います。
 この四人は、隣人の痛みをわがことのように捉え、何としてもなおしたい‥、少しでも楽にしてあげたい‥、その一心で行動しています。
 今日、こうして新たに信教の自由を守る日を迎えて私たちは、新しい気持ちで信仰の歩みを踏み出していきたいと思うのですけれども、しかし最も大切なことは、大きな事業を行うとか、大きな集会を行って何人人が集まった‥、ということだけなのではなくて、ずっと苦しみ続けてきた一人の人の痛みが、いやされる、ということなのだと覚えておきたいと思います。
 様々な争いや分裂に満ちたこの社会のなかで、また、この教団のなかで、私たちは、あくまでも出会う一人一人を大切にし、違いを認め、学びあい、痛みを共有する、という、この小石川白山教会の信仰をこれからも大事に証し続けていきたいと心から願うものです。

礼拝説教要旨(2月4日)降誕節第6主日礼拝

『良い地に落ちた種』
箴言2:1-9
マルコによる福音書4:1-9
竹島 敏牧師

今朝、私たちに与えられましたマルコ福音書は、種を蒔く人のたとえ、です。大変有名なイエスのたとえ話ですけれども、読むたびに、新たな気づきを与えてくれる深みのある話です。その下の段には、このたとえ話の説明、が出ていますけれども、それによれば、種とは、神の言葉である、となっています。
神の言葉・種をいただいたなら、心の中にそれをしっかりとおさめて育み、芽を出させ、実りを得させるよう努めなければならない‥、そんな良い土地になるよう励みなさい‥、というのが、このたとえ話で言われていることなのだろうと思います。
いっぽう、そのような種を盛って生きる私達人間存在を「悲しみの器」という言葉で表現された方がおられます。「人は皆、悲しみの器だ」と。
有国智光さんという僧侶ですが、本当に真実を突いた言葉だと思います。
確かに、私たちの日々は、様々な不条理と悲しみに満ちています。
誰もが、宇宙的な孤独を抱え、様々なやるせなさを抱えて、何とか生きています。しかし、そのような日々の中で、なお、自らの心の中に蒔かれた種を‥、御言葉を、大切に育んでいく良い土地であろうとつとめていくならば、きっと誰にも、光り輝く思いがけない一瞬が与えられるのではないでしょうか。そしてその一瞬が、光り輝く思い出のひとこまになり、私たちの重たい日々を支えて、やがて私たち一人一人を神の国へと導いていくのだろうと思います。
私たち一人一人に、「光り輝く思いがけない一瞬」という実りを得させてくれる御言葉の種を、心の中で大事に育み続けていきたいと思います。

礼拝説教要旨(1月28日)降誕節第5主日礼拝

申命記30章11〜15節
マルコ福音書1章21〜28節
「主イエスの教えと業」竹島敏牧師

 今朝のマルコ福音書の箇所は、安息日に会堂で、神の教えを人々に伝えるイエスの姿を記しています。しかし主イエスの教えと業は、私たちにははかりがたい‥。主は時に、私たちの思いや考えをはるかに超えて宣教の業を起こされます。しかし、「そんなこと起きるはずがない‥、」と私たち人間が決めつけてしまうと、その業は起こされないままになってしまうのです。なぜなら主は、私たち一人一人を用いて、宣教の業をすすめるお方だからです。その私たちが身を引いてしまったら、多くの場合、主イエスの宣教の業は起こりようがなくなってしまいます。ですから私たちは常に、主イエスが今、この地上の世界をどのような眼差しで見つめておられるのか‥、そしてどのような新たな導きを私たち一人一人に用意してくださっているのだろうか‥、と、思いめぐらしていることが大切です。そして、心を開いていることが大切なのです。
 私たちが生かされているこの時代にも、「汚れた霊」、すなわち、神に創られた私が、ありのままの私として生きていくことをゆるさない、さまざまな力が存在しています。
様々な抑圧を生み出す「汚れた霊」の力は強く、時に、教会の中にまで、その霊の力は及んできます。しかし私たちは、何よりも教会にとって大切なことは、人の権威ではなく主イエスの権威が‥、神の国をこの地上にもたらす主イエスの権威が教会の中に充ち満ちていくことなのだということをしっかりと心に刻みつけて、命と幸いを得る道を、一歩一歩、歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(1月21日)降誕節第4主日礼拝

『招かれた罪ある人』
マタイによる福音書9:9-13
岩本幸太郎伝道師

マタイは収税人といった職業で、実はこの仕事はユダヤの民衆から嫌悪されていた、当時ユダヤはローマ帝国の植民地でした。収税人マタイはローマ帝国に収める税金を民衆から取り立てる人だったのです。

イエスキリストは収税所の場にて腰掛けているそのマタイを見かけられ、収税所の中に立ち寄るのです。そのマタイのこれまでのこと、一切を主がとらえた瞬間でした。イエスはこう声をかけられました。

「わたしに従いなさい。」

マタイは特に収税人となって以来、誰も彼に向けて声をかけてくれないような人だったかもしれない。主の『わたしに従いなさい』とは、友よ、これから共に歩んでいこうといった、決定的な出会いがこの短い文章に含まれています。

生きながらもうつむきながら、金銀まみれの収税人生活を送ってきたマタイですが、今日のイエスキリストの招き、差した光に向かい、彼は顔をあげました。するとすべてが変わったのです。主イエスは私たちに対しても「あなたはうつむいている顔をあげなさい、闇ではなく、光を受け入れなさい。立ち上がりなさい。」と今日、あらたに2018年を歩んでゆく我ら一人一人に対しても語られるのです。

そこで彼は自分を招き声をかけてくれたイエス様にぜひ、ということで今度は彼自らが招く側になりました。彼は仲間を集めて救われ、新しく生まれ変わった自分の誕生会を催すのです。 そうイエスというお方は罪人を招き、みなさん、人の肉体を御子は地上にて移り人の生活を体感されました。だからこそ私たち人間の気分や気持ちも苦しさもよくわかってくださるイエス•キリストなのです。さらに罪人を招くために天の国からやってきたのだ、と語られるのです。

礼拝説教要旨(1月14日)降誕節第3主日礼拝

『主イエスの決意』

マルコによる福音書1:9-11
竹島敏牧師

主の年2018年、この地上に下り、あえて洗礼を受けられた私たちの主イエスキリストは、私たちそれぞれの下り坂の人生を、十字架と復活に向けて共に担う決意のもと、今、私たちの傍らに立っておられるのです。そして手をさしのべて「共に下っていこう」と呼びかけておられるのです。この呼びかけに応え、さしのべられた御手をしっかりと握るならばその時、私たち一人一人の心に、かけがえのない平安と、私に与えられたこの現実を直視しよう、という勇気がわいてくるのではないでしょうか。

主イエスがヨハネから洗礼を受けられた時、天から霊が鳩のように降ってきたと聖書は告げています。それは、どんな時も神が聖霊となって御子イエスを守ってくださる、というしるしでありました。下へ下へと下っていくその道筋において、どんな困難がやってこようとも神の霊が共にあり、支え守っていてくれる…、この約束は主イエスにとっても非常に大きな力であったに違いありません。そしてその、大きな力は、この私達一人一人にもおよんでいる…、私達が、やはり下へ下へと下っていくその道筋にも…、その不安で、時にわびしくも感じるその道筋にも…、主イエスの霊はいつも共にあり、この私達の心を平安へと導いてくださる…、不安や悲しみやわびしさで、私達の心と体が壊れてしまうことのないように主の霊で包み込んでくださり、温めつつ、導いて下さるのです。その約束のあたたかさが、今日のこの福音書には満ちあふれているのです。この約束を信じて、新しい年のそれぞれの歩みを大きく踏み出してまいりましょう。

礼拝説教要旨(1月7日)降誕節第2主日・新年礼拝

ルカによる福音書2章41〜52節
「新たな歩みに備える」竹島敏牧師
 
 私たちは光なる主イエスと共に、2018年という新しい1年の歩みを始めました。
過ぎ去った1年を思い起こす時、確かに私達の人生において光は強くなったり、弱くなったり、様々でありました。それはおそらく、この1年も同様でありましょう。しかし、どのような状態であろうとも、光は決して消え去ることなく、私たちと共にあったのです。そして今や、再び強く迫ってきているのです。ですから私たちは、その光をしっかりと見つめ、新たに歩み出せばそれでよいのです。この光が次第に弱くなってくるかもしれない‥、などということに気をとられず、素直に前へ足を踏み出せばよいのです。光が強かろうが弱かろうが、その光と共に歩んでさえいれば、必ず、神の国へ到達できる‥、そう信じて歩み続ければよいのです。
 神の子・救い主でさえ、ある時突然、神から特別な力をいただいたのではなかった‥、毎日こつこつ努力し、徐々に知恵をつけ、体力をつけて成長していかれた‥、私たち全ての人間がそうであるように、イエスにも、そのような準備の時があった‥。
 神の子であったにもかかわらず、それほどまでにイエスは、私たち全ての人間と同じように、労苦を味わう道を選び取ってくださった、という、このことに私たちは注目しておきたいと思います。
 私たち全ての人間と同様に、あえて労苦を味わう道を選び取ってくださったイエスが、この年も、私たち一人一人のかたわらにいてくださることを何よりも支えにして、どんな時も一歩一歩、小さな歩みを積み重ね続けてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(12月31日) 降誕節第1主日礼拝

『種を蒔きながら』

マタイによる福音書13:1-15

岩本幸太郎伝道師

信仰の世界では、ときをかけないとどうしてもわからない、自らの掌にて、掴んだ種を蒔こうとしないとどうしてもわからないということがあります。

今日の「『種を蒔く人』のたとえ」小見出しにある「種」とは神の御言葉です。そう福音そのものです。

まず第一、4節「道端に落ち、」

は種が道端で蒔かれた、落ちたというのは、その人の中心で聞いていない。文字通り「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」二番目は、5節では「石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ目を出した。」とは、土が少なく、しっかりと根っこの元がはらないのです。つまり表面だけといった根がない。三番目は、7節「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。」とあり、これは御言葉を聞くのだけれど、世俗的で、あっちのほうがいいんじゃないのかとか目移りする人です。最後四番目、8節「ところが、他の種は良い土地に落ち、」

ようやく、ここが御言葉を聞いて受け入れる人で何倍もの実り、祝福があるという約束です。

イエス・キリストの御言葉を受け入れる人には神が成長を促してくださる。そこには豊かな祝福がある。だからみなさん、御言葉へ耳を向けるのです。考えてみると植物にしろ、野菜にしろ、どうしても神秘的で、一粒の種が良い土地へと落下して、芽を出して、茎、葉、穂、さらに実りを結ぶ。教会の歩みも、足取りもそうなのです。一人でも一歩でも一粒でも、福音の種に祈りこそこめ、人々に蒔くということで、我らもさらに福音の確かさの喜びに全身が包まれるのですね。だから絶望せず希望を持ち、いつか神様は実を結ばせてくださる!その日の実りを信じ希望をもって種まきをしてゆくのです。これが教会であって我らの群れの証ではないのでしょうか。

礼拝説教要旨(12月24日) 降誕前第1・クリスマス礼拝

サムエル記上2章1〜10節
ルカによる福音書1章39〜56節
「主の慈しみに生きる」竹島敏牧師
 
 私たちは、さまざまな人生の局面において、どの道を行くか選択を迫られます。真剣に祈って選択しようと努める時、神が、この私に備えておられる一本の道が見えてきます。多くの場合それは、この世的に見て損することの多い道なのかもしれませんが、その道を一歩一歩進んでいくなかで私たちは、主イエスと共に生きているという実感を得ることができるのです。それが主の慈しみに生きる、ということです。自分にとって損か得か‥、ではなく、その道に主イエスが共にいてくださるかどうか‥、その道を主イエスが共に歩んでくださるのかどうかだけが、問題なのです。
 ハンナもマリアも、神の御心のうちに生きる道を選び取ろうとしました。どこまでも神の導きを追い求め、その導きに従う生き方を選び取ろうとしました。それは、そのような生き方こそが、最も確かなものであり、最終的には自分と隣人とを神の国へと導く最も幸いな手だてだと知っていたからです。
 今朝、主イエスの御降誕を記念し感謝するこのクリスマス礼拝において、私たちは、私たち全ての者を神の国へ導こうとされる主の御心をご一緒に確認したいと思います。自分にとって損か得か‥、ではなく、その道に主イエスが共にいてくださるかどうか‥、その道を主イエスが共に歩んでくださるのかどうか、そのことだけを問題にして歩む人生の先にこそ、神の国がある‥、この約束をかみしめつつ、ご一緒にクリスマスの恵みにあずかり、ご一緒に主の慈しみに生きる民としての再出発をしたいと願うのです。

礼拝説教要旨(12月17日)降誕前第2・アドベント第3主日礼拝

イザヤ書40章1〜11節
マルコによる福音書1章1〜8節
「慰めの主」                

 イエス・キリストとはどのような方であるのか。彼は何のためにこの世に来られたのか。イエスは、しばしば自分の弱さを認めず強がる私たち一人一人に仕えてくださる神です。今朝のマルコによる福音書には、洗礼者ヨハネのことが記されていますが、彼は、イエスについて「わたしはかがんでその方の履き物のひもをとく値打ちもない」と告白しています。しかしイエスは、あえてそのようなヨハネの前にひざまづき、洗礼を受けられました。それは、ご自身神でありながら僕のように、私たち人間に仕えてくださり、そのことを通して、「あなたたちもこのように生きよ」と促すためであったのではないかと思います。
 私たちはみな、キリストの前では小さな者であり、人生の導き手であるキリストの奉仕を必要としているのです。弱い、病める、無力な私たちを、慰め、生かし、用いて下さるキリストの恵みの力こそ、神から私たちに贈られる最高のクリスマスプレゼントである、と言うことができるのではないでしょうか。
 ですから私達は、来週、クリスマスを迎えるにあたって、今一度、自らの弱さや小ささをありのままに、見つめたいと思います。しかし、落胆をもってではなく、 そこに、僕のように仕えてくださるキリストイエスが来てくださるのだ、という、期待と喜びをもって今一度、自らの弱さや小ささをありのままに、見つめたいと思うのです。私達のそれぞれの困窮の中に、僕として来てくださる主を、ご一緒に心を静めて待ち望みたいと思います。

礼拝説教要旨(12月10日)降誕前第3・アドベント第2主日礼拝

岩本幸太郎伝道師

マタイによる福音書1:1-17
「初めに系図があった」

新約聖書の1頁を開くと、まずこの箇所、そう系図があります。
1節「アブラハムの」、信仰の父と呼ばれ、創世記ではこのアブラハム、イサク、ヤコブのちのイスラエル、そしてエジプトに渡り、総理大臣にまでなったヨセフ。彼らユダヤ民族一家の物語の中心となっているのです。
もう一人の人物1節後半「ダビデ」。出エジプトを果たしたイスラエル民族を引き継ぎ彼は、王として紀元前1000年、エルサレムを首都として統一。このダビデは親愛を抱かれました。ダビデから14人の王がここで書かれて、やがて16節の「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。」
福音書記者マタイはこの書簡を書く決断をしたとき、最初に救世主は民族の父アブラハム、王ダビデの血統から誕生する。これが正真正銘のメシア・キリストの系図だと訴えたかったのでした。
特に古代のユダヤ・イスラエル人が自分史・伝記を記録するには、系図からはじめるというのが基本で、彼らは血の純潔を守った民族だった。けれど問うべきことが3、5、6節。そのなかに4人の女性の名前が登場してくるのです。まず3節タマル(創世記38:6—30)は不義を犯す。次のラハブは(ヨシュア記6:25)遊女。
続いて6節の「ダビデはウリヤの妻によって」とあり、有名なバト・シェバ事件(サムエル記下11)。そしてルツ(ルツ記)彼女は外国人だから除外です。けれど、その連帯する、たとえ罪と恥とに満ちた者や外国人が先祖にいたとしても、なおも愛する神の愛であることを堂々と指し示す。最後に異邦人でもイエスを救い主と信じるならばみんな救われるとこの系図は証する。これこそ福音なのです。
真っ暗闇の中にあって、ただ滅び向かう者でしたけど、イエスキリストによって救われるのです。イエスを自分の救い主だと受け入れた人たち全員は神の計画されている連帯の、救いの系図の帳簿に記入されるのです。

礼拝説教要旨(12月3日)降誕前第4・アドベント第1主日礼拝

イザヤ書51章9〜11節
マルコによる福音書13章28〜37節

「主にあがなわれた人々」

 今朝のマルコ福音書13章28節以下には、
「救い主はどこにいるのか」というテーマが語られていますが、
昔も今も、キリストは、上から、天から、聖霊をつかわして、
下から、しかも一番苦しい想いをさせられている人達のさらに下から、
全ての人を支え、仕えようとしてくださっているのだと思います。
そこに私たちは希望を見いだしていきたいと思うのです。
 また、私たちにも時に、かつてのイスラエルの民のように、
ひとりの神に飽き足らず、イエスの神と共に‥、同時に‥、
他の何かを神とする、ということが起こりがちであることを思います。
しかし、そのような罪を私たち一人一人に思い起こさせ、
イエスの神のみをしっかりと見つめるところへと私たちは今、招かれたのです。
アドベントを迎えて、このイエスの神のみを見つめて、
私たちもまた、この神にあがなわれた民として、
現代というこの暗闇に一筋の光をもたらす業につかえてまいりたいと願います。
幼子イエスから発せられる命の輝きをしっかりと見つめて歩んでまいりたいと思います。
 私たち一人一人の、それぞれの痛みや悲しみ、
また不安や生き詰まりのただ中において、上から聖霊をつかわし、
下から、しかも一番苦しい想いをさせられている人達のさらに下から、
全ての人を支え、仕えようとしてくださるイエスを、今年も切に待ち望み、
静かな力と希望に満たされた本当のクリスマスを御一緒に迎えたいと、
心から願わずにはおれません。

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礼拝説教要旨(11月26日)降誕前第5主日・幼児賛美礼拝

サムエル記上16章1―13節
マルコによる福音書10章17―31節

「主は心によって見る」

 私たちは、互いに理解しあうことを諦めることができずに、いつまでも、相手を「理解できない」、また、自分は「理解されていない」、と苦しむことがあります。しかし、そもそも互いに不完全な人間である以上、完全に理解し合うことなど不可能なのだと思い知ることこそが、最も大切なことなのではないでしょうか。そしてそのことを諦めた時初めて私たちは、互いのことを全て神にゆだね、許し合う道へと徐々に導かれていくのではないでしょうか。
 サムエルもまた、自分の目で、次のイスラエルの王を選ぶことを諦めたからこそ、神の目にのみたよる想いへと導かれたのではないでしょうか。彼が、正しくダビデを選ぶことができたのは、自分の目を、もはや信じることができず、ただ、神の前に立ちつくして、神の目に全てをゆだねたからでありました。
 私たちはしばしば、深刻な人間関係の危機に立たされ、理解できない‥、理解されない‥、と悩み苦しみます。しかしどうか、そのような時こそ、人の心・内面を全て正しく見通されるのは神だけだ、ということに想いをはせたいと思うのです。その神のまなざしから支えと慰めをいただいてこそ、謙遜に、ゆるしあいながら、少しずつでもわかりあっていくという道が、あらたに見えてくるのではないでしょうか。私達人間の限界を受け入れ、前向きな「諦め」をもって、いったんは全て神のまなざしにゆだねる‥、そこにこそ、まことの解決に向かう扉があると、今朝、聖書は私たちに告げているのではないでしょうか。

 

礼拝説教要旨(11月19日)降誕前第6主日・幼児祝福礼拝

ヨハネによる福音書6:27-35

「よろこんで生きる」

 神様は、私達が悲しい時、苦しい時、永遠の命に至る食べ物である神様の言葉を私たちの心に語りかけてくださり、私達を支えようとしてくださいます。
私達が、他の人から、いろんな嫌な言葉を投げつけられて、傷ついてしまった時も、聖書に書かれているやさしく語りかけるような神さまの言葉を聞くことによって、なぐさめをいただくことができるのです。失敗して、自分でもどうしたらいいかわからなくて、立ち尽くしてしまっているような時でも、そばにきて、語りかけてくださり、今、何をすればいいのか教えてくれて、導いてくださる…、そういう導きの言葉を与えてくださるのです。聖書には、そのような知恵と力に満ちた言葉がつまっています。 
今日はこの後、幼児祝福式があります。これは、赤ちゃんから小学校6年生までの子どもの皆さんに対して行われるものですが、考えてみますと、ここにいるすべての人が神さまの目から見ると、神さまの子どもなのであり、神さまの祝福のなかに入っている人たちなのだと思います。
神さまの祝福を受けると、私たちは、今の自分が、そのままで素晴らしいということがわかるようになっていきます。ですから、かっこつけて、うその自分を人に見せたりしなくてもすむようになります。今の自分が好きになり、今の自分のままでもっと一生懸命生きようとするようになります。そのような生き方へとすべての人が今日、神様によって招かれているのだということを聖書は私たちに伝えようとしているのです。

礼拝説教要旨(11月12日)降誕前第7主日・教会創立115周年記念礼拝

マタイによる福音書21章12〜17節

「祈りの家」

 「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」、今朝の聖書の箇所において主イエスはこのように激しく怒っておられます。

 教会は、祈りが満ちている場所です。苦しみ、悲しみ、うめきなど、切実な祈りが満ちている場所です。未だかなうことのない切なる願いが、つまっている場所です。ですから私達もまずは、教会創立115周年の歩みを振り返りながら、この教会の礼拝堂の空気に刻みつけられてきた切なる祈りの数々に想いをはせたいと思います。そして私たちもまた、その祈りを祈り継いでいきたいと思います。真実かけて祈った祈りは、どんなことがあってもかき消されることなく、祈り継がれていきます。私たちがその祈りを祈り継いでいく限り、かき消されることはありません。

 時に祈りが、力に欠ける弱々しい祈りに聞こえることがあったとしても、祈りの根拠は私達の側にあるのではありません。祈りの根拠は、苦難の中で共に祈ってくださるイエス・キリストにあるのであり、どんな力に欠けているかのように見える祈りにも、いや、たったひとつのため息でさえそのため息の中に秘められている想いの全てを聴き取り、神にとりなしてくださるその主の導きによって、力強い救いの業へと変えられていくのです。

 今日115周年を迎えたこの小石川白山教会が、さまざまな苦難と共におられる主イエスが望まれるまことの祈りの家として、ますます豊かに用いられるように整えていきたいと心から願います。

礼拝説教要旨(11月5日)降誕前第8主日礼拝

創世記4:1-10
マルコによる福音書7:14-2

「共に罪を担って」

今朝、私たちに与えられました創世記の4章には、有名なカインとアベルの物語が記されています。神が創造された最初の人、アダムとエバの子、カインとアベル‥、兄のカインが弟のアベルを殺してしまう、という物語です。
ここに記されているのは、人類最初の殺人だ、とは、よく言われることです。このことをめぐって私は、
「人は、他者から愛されることなくして、正しく生きることはできないのだ」
ということを改めて、思わされます。
しかし、人類最初の殺人、という罪をおかしてしまったカインもまた、生きながらえることをゆるされるという、神の愛・神の憐れみにより、悔い改めることができました。
そしてようやく、正しい方向に、生き始めることができたのです。人間である以上、すべての者が、誰もが、自らの命の奥深くに、ひそかに罪を抱えていた、また抱えている、ということを思わされます。
しかし、そのようにひそかに罪を抱えながら歩む私たち一人一人の命に差し込んでくる、キリストの愛の光がある‥、そしてその光を仰ぎ見ながら歩む‥、それが私たちキリスト者の人生なのではないでしょうか。
自分の罪からも、他者の罪からも目をそむけず、また何よりも共に罪を担って歩んでくださる十字架の主イエスを一心に見つめて今朝、私たちは、ますます闇が深まってくるかのようなこの地上の世界に、何としても一筋の光をもたらす者にされたいと心から祈り願いたいと思います。

礼拝説教要旨(10月29日)降誕前第9主日・宗教改革記念礼拝説

使徒言行録9章36~43

「信仰のいのち」

今年は宗教改革500年という記念すべき年です。何よりもルターは、自ら生かされていた、あの時代と社会の状況の中で、人々の信仰のいのちが失われ、形骸化していくことに何よりも耐えがたい苦しみを覚えたのではないでしょうか。例えば、お金を払って免罪符を買えば、救いと赦しが与えられるという状況になってしまっていた当時の社会…、それが、さほど愚かなことでもないという認識が知らず知らずのうちに多くの人々のなかに浸透してしまっていた時代…、このままでは、まもなく誰も、このことを「問題である」と叫ぶことができなくなってしまうのではないか…、という危機感がピークに達してルターは、とうとう事を起こさざるをえなくなったのではないでしょうか。
私たちが、宗教改革500年を記念して学ぶべきこと、また、ルターと共に共有すべきことは、あの時ルターが抱えていた「切実さ」なのではないでしょうか。このままでは、信仰が形だけのものになり、その命が、霊的な命が、失われてしまう…、なんとしても、この信仰のいのちを取り戻さなければならない…、そういう「切実さ」を今、あらためてあなたたちも持つように…、と促されているのではないでしょうか。
その「切実さ」を私達が今、再び共有しようと祈りをあわせる時に、この私達の間にもあのタビタのよみがえりに匹敵する出来事が主イエスによっておこされ、私達もまた豊かに信仰のいのちを取り戻すことができる、と今朝の聖書は私たちに伝えているのではないかと思うのです。

礼拝説教要旨(10月22日)神学校日・伝道献身者奨励礼拝

ローマの信徒への手紙1章16~17
「御言葉の力」岩本幸太郎伝道師

 今回のローマの信徒への手紙というのは、今の時代に生きる我らにまさに作者が願い祈り託した手紙とも言えます。また実は結論をも含む。ということは、少し極端な言い方をすれば、こののちに続いてゆくのは今日の箇所の説明であるとも取れます。
 ローマの信徒への手紙の背景を大まかにいうと、パウロという人は当時の世界最大帝国の中心ローマに向かい、福音の力によって立つことにより表したいと思った。
「わたしは福音を恥としない」
信じる者、すべての人たちへ福音こそが救う御言葉の力に気づいて欲しいとメッセージを送ってきています。
「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
 さて、福音とはみなさん、「よき知らせ」なのです。福音の枢軸・中心・集中はもちろん、十字架。すべての人たちへと広がる神の御言葉の力なのだから。
「福音には、神の義が啓示されていますが、」ここに「神の義」という言葉が出てきます。この「神の義」という言葉はいったいなんだと思いますか?福音には一点集中。それは、イエスキリストにすべての神の義が啓示されているから。まず神の力でもあり、すべての人たちを救うために神はイエスキリストで表現したと手紙はそう断言する。
 パウロはこれまでたくさんの手紙を残してきた。今回彼の最終作で、奇跡の手紙とも言われるローマの信徒への手紙を書き、大きな気づきを与えてくれるのです。マルティン・ルターという人の人生もこの箇所に変革されていった。それは義と、正しい者とされたからなのです。ギフトの包みを開け、受け取ったからです。
我らも今日の御言葉を受けつぎ、信じてゆくなら義とされる約束なのです。これこそ福音なのです。私たちも神の御言葉の力を選び取りましょう。

礼拝説教要旨(10月15日)聖霊降臨節第20主日礼拝

イザヤ書33:17-22
ヨハネの黙示録7:9-17 
「涙がぬぐわれる日」

 私たちはみな、うれしいことや楽しいことよりも、悲しいことやつらいことの方が多い、この人生を今日まで生きてきました。なぜでしょうか。それにはいろいろな理由があると思います。つらいことがあまりにも多い日常のなかにも、小さな楽しみや、喜びがあるから‥、また、家族のため、友人のため、職場の仲間のために、頑張って生きてきた、という方もおられるでしょう。また、生きていく理由など、特に考えるひまもなく、つらい、苦しい、と想いながらも、日々のなすべき事に追われて、今日までやってきた、という方も多くおられるかもしれません。
そのような私たち一人一人に、今朝のヨハネ黙示録は一つの希望を与えようとしています。いつか神が、そのような私たち一人一人の涙を「全て」ぬぐってくださる、というのです。それは、この世の終わりの時、終末の時であると告げています。ヨハネの黙示録7章17節のところです。ここで「全て」と言われていることが重要です。
確かに神は常にわたしたちの悲しみによりそい、涙をぬぐってくださるのです。しかしそれでもなお、心の底にわだかまりが残るという場合があります。完全に心が晴れたわけではない、ということもあるのではないでしょうか。しかし、そのような私たち一人一人の心の底にたまってしまったわだかまりも「全て」神がぬぐってくださる時が来る、と聖書は語っているのではないでしょうか。そのように私たちの流した涙が「全て」ぬぐわれ、労苦がむくわれる時がやってくる‥、そのことを信じて、その時をはるかに望み見ながら、今、主が備えてくださる新たな道を見出し、その道を歩みはじめていきたいと思います。

礼拝説教要旨(10月8日)聖霊降臨節第19主日 永眠者記念礼拝

コヘレトの言葉3章1〜13節
テサロニケの信徒への手紙二 3章6〜13節
「使命に生きる」

 「使命に生きる」という時、とかく私たちは何か神様から大きな、特別な役割を授けられること、と考えがちであるかもしれません。しかし、ここで言われていることは、あくまでもこつこつと、たんたんと、今の自分に与えられている役割を誠実に果たしていくことのなかに使命があるということです。明日、この世界が終わるという時にも、いつもと同じように落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べる‥、あなたはそこまで、神に信頼して歩めるか‥、と問われているような気がいたします。
 明日、この世界が終わる、という時、また、明日、この自分の人生が終わる、という時、果たして私たちは、動揺せずに落ち着いて最後の一日を送ることができるでしょうか。全ての時を神が備えておられる、という信仰をかたく持っている者のみが、そのような平安な最後の一日を過ごせる、と聖書は語っているように思います。
 そのような信仰にもとづく一日一日の積み重ねによって、神の導きにゆだねる生き方がつくられていき、自らの人生の終わりの時をも、神の導きの御手にゆだねることができるのだと思います。勿論、全く動揺することなく、というわけにはいかないかもしれません。しかし、そのような愛の御手に守られ導かれて永遠に向かって旅立てるというのは幸いなことだと思います。そのような生涯こそが使命に生きた生涯と言えるのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(10月1日)

礼拝説教要旨(9月24日)聖霊降臨節第17主日礼拝

コリントの信徒への手紙一13:1-13
「十字架の愛」

 かつて、マザーテレサが来日された時、愛について語られたその言葉を聞いて、どきっとしたことがあります。それは、愛、とは、決して心地よいものなのではない、という言葉でした。愛とは、その人のために自分が痛むこと…、痛みを感じるようになるまで愛して初めて、本当の愛と言える、ということでした。そこで再び、福音書に記されているイエスの愛に注目してみると、それはまさに、ご自身が激しく痛むほどに愛する愛だった、ということがわかるのです。
 福音書の中にはイエスが憐れまれた、という言葉がいくつも出てきます。この憐れむ、という言葉のもともとの意味は、はらわたが痛む、はらわたがちぎれる、ということです。いろんな人が、このイエスの愛にふれて…、激しく痛みを感じるほどに自らの痛み苦しみに共感してくださるその姿にふれて…、癒されたことでしょう。その究極は、全ての人のために痛み苦しみぬかれた、あの十字架上でのお姿にあらわされています。
 たしかに私達は、愛すること、愛されることにおいて様々なつまづきを経験します。悩む、苦しむ、どうしたらいいのかわからない、何もできない、ただ、その場にたたずんで、「痛み続ける」、ことしかできない、そういう時もあるかもしれません。自分には愛がない、と、自らの無力さに打ちひしがれて、情けない想いでいっぱいになることもあるかもしれません。しかし、そのような私達の主観に反して、今朝、聖書は、それこそが愛なのだよ、と告げているのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(9月17日)聖霊降臨節第16主日礼拝説

『いちばん大切なこと』竹島 敏牧師
ローマの信徒への手紙11:33-36

忍耐してじっと待つ…、というのは一見とても、消極的な行動に写ることがあります。しかし、時に、とても大切なことなのだと思います。
 苦しみや悲しみに満たされている時、私達は、どうしていいかわからなくなることがあります。じっと状況を見据えるよりも、自分の力で思いつくままに動き回り、力と時間を浪費してしまうこともあります。また問題をより複雑なものにしてしまうこともあるのではないでしょうか。
 しかし、そこに、自分は一人ではない、神さまがそばにいてくださって一緒に解決の方向に向かって歩んでくださる、という信仰があったなら、事態は全く違ったものになっていくのではないでしょうか。神さまからの知恵を待ちつつ、事態をじっくりと見つめる余裕ができてくるのではないでしょうか。そのように信じて忍耐して待つところに神様の知恵は下り、神様とともに歩む人生が開けていきます。
 ならば、もう、すべてを知ろうとする必要はなくなります。全てをご存知である神様に全てを委ねて、その神さまから今、促されていることに集中していけばいいのです。そのようにどんな時も、低きにくだる神様の知恵を待つ心を持ち続ける、ということ。そのようにあくまでも不完全な人間として、自分自身の限界を見極め、イエスさまと共なる人生を静かに歩み出していく、ということ、それが私達の人生においていちばん大切なことなのだと言えるのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(9月10日)聖霊降臨節第15主日礼拝

『神様が下さる救いと安心』古谷正仁牧師
マタイによる福音書13:44-50

私はごく普通の日本人の家庭に生まれた。両親は私を愛してくれたが、のんびり屋の私を歯がゆく思い、叱咤激励した。私は次第に家庭に居場所がなくなっていった。
 明治学院高校へ。16歳の時、心臓病だと分かる。無気力に生きていた高1の夏休みに、禅寺で1か月小坊主をした。私を受け入れてくれたのが嬉しかったのだ。やがてその高校にも、私を受け入れてくれる大人達(教師・職員)がいることを知る。この人々がキリスト者だった。
やがて教会へ。ここでも個性豊かな人々との出会いがあった。みんな不思議な魅力があった。神を信じることから生まれる魅力。自分も神を信じてみたい…。賭けのような気持ちで洗礼を受けた。
3年目に挫折を経験し、教会に行けなくなる。生きているのが辛くなる。その時、帰って来いと呼びかけてくれた仲間がいた。でも妻は言う。「あの時、みんなあなたが苦手だった。」「じゃあ、どうして呼びかけてくれたの?」「それはね、神様があなたのことも大事に思っていると感じたから。」ここに神を知るということの最大の価値がある。私たちは神様のお気に入り。みんなに嫌われていた私でも、もったいないほどに大事にして下さる方と出会うことが宝物との出会いなのだ。
三つ目の譬えは恐ろしい。「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。」しかしある神学者は言う。「これも天の国(神様の救い)の譬えだ。私たちは、神が世の終わりまで(私たちに完全な救いを与えるまで)より分けることを待って下さることに注意しなければならない。」ここでも私達は愛されていることを知る。
神に出会うことによって、私たちの本当の、安定した生き方が生み出される。

礼拝説教要旨(9月3日)

礼拝説教要旨(8月27日)聖霊降臨節第13主日礼拝

コリントの信徒への手紙一 15章35~52
「霊の体」

今日のこの聖書の箇所はパウロが
「霊の体」について語っているところです。
難解な箇所ですが、要するにここでパウロが一番伝えたいと思っていたのは、「イエスを救い主と信じる者は、イエスが死なれたように、肉体の死を味わうけれどもその後、イエスの命に包まれて、天において、その命のなかで、安らかに存在し続ける‥、」ということなのではないでしょうか。
そして、
「教会の主、交わりの主であるイエスは、イエスを信じる者達一人一人をご自身の命でそのように包み込みながら、終末の時まで、互いの交わりを持たせてくださる‥、」
ということなのではないでしょうか。そのような希望をもって歩むことが私たちにはゆるされているのだと思います。
この地上において信仰の告白にまで至らないまま離れていった方々もまた、この希望から除外されているわけではありません。
ヨハネの黙示録の21章を見ると、人間には二つの死があることがわかります。
第一の死は肉体の死です。そして第二の死は、第一の死の後に、主イエスと出会ったにもかかわらず、慈愛に満ちたその招きを拒否し続けた者にやってくる死です。ということは、信仰の告白に至らずに第一の死を経験しても、まだ、希望がある、ということなのです。
だから私たちは、とりなしの祈りを熱心に献げ続けることが大切なのだと思います。
今朝もまた、そのような天からの希望に包まれて、それぞれのこの世の旅路に旅立っていきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月20日)聖霊降臨節第12主日礼拝

使徒言行録20章25~35
「与える幸い」

今年、敗戦72年を迎え、私たちは、平和への思いを新たに強く持ちました。そこで思わされることは「平和を乱すものは、何と言っても、もっと恵みを受けたい、という人間の『欲』なのではないだろうか」ということです。
なぜ、戦争をしなければならなかったのか、そしてなぜ、やめられなかったのか、を探っていくと、どうもそこにはやはり、国の指導者層の様々な「欲」、たとえば既得権益を守りたい、という欲や、メンツを保ちたい、という欲、があった‥、ということも言われています。
しかしそのような一部指導者層の欲に、この国が引きずられていく、というのは、あの時だけではなく、今も同じだ、と言わざるをえないのかもしれません。どんな立派な大義名分のもとに行われる戦争にも、そのような人間の「欲」が潜んでいるということを忘れてはならないのでありましょう。
主イエスが語り、使徒パウロが身をもって証した「受けるよりは与える方が幸い」、というこの言葉‥、これは、ついつい自分の立場や利益優先になりがちな私たちの姿勢をただし、神の国へと私たちの目を向けさせます。
全ての人が神から同じように愛されて、この世に送り出されていることを想う時、私たちもまた「受けるよりは与える方が幸いである」、というこの主の言葉を、繰り返し思い出しながら、それぞれの仕方でこの主の言葉に従い、まことの平和を求めていきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月13日)聖霊降臨節第11主日礼拝

『聖書の真珠』 岩本幸太郎伝道師
詩編23篇

今日の詩編23篇を、あの貝殻をイメージしてください。貝のなかに塵などが入り、その痛みを覚えた貝が涙を流して、その涙が美しい真珠をつくり、そうなった真珠のような詩の集まりの代表格が詩編23編だといえるのです。1—3節では、羊飼いである主とわたし(作者)の関係を謳うのです。4節、
「あなたがわたしとともにいてくださる」
たとえ、そこが死の陰の谷であろうとも。主が我らとともに。
 今日の詩編23篇作者ダビデはイスラエル国家統一、平和を願い先頭に立って戦争してきました。その彼が、このような詩編を書いたのです。彼はそういった状況でも信仰心を失わず、平安を得ました。我らも平安を得ているのです。その平安を他の人と分かち合い、今度は平和のために何をすべきなのか、深く祈って生きたい。たとえ時代は変化しようとも絶対に変わらないのが、神です。逆に絶対我らが変えてはいけないものもあります。それは、まことの平和を求める訴え、祈りです。平和のために、これは課せられた使命・目標として、皆さんと祈り歩みたいと私は感じます。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
(新約聖書ヨハネによる福音書10:11)
キリストは、生きていてくださる。よい羊飼いイエスキリストは、羊のような我らのためにその命を投げ捨ててくださった。そこに羊飼いと羊の関係をかいまみるのです。さらに神様と我々の関係もみえる。イエスはまだ未来があった若い年齢の時にメシアとしての使命のため、命を捨てられたのです。しかも復活し、天に今、おられるのです。
ここにいる私たちも応答しましょう。なぜなら平安をもう得ているから・・・。だからこそ全世界の世の平和のために、祈りのリレーを決して辞めないようにしましょう。それが今の我らに託された奉仕・使命・目標なのです。

礼拝説教要旨(8月6日)聖霊降臨節第10主日礼拝

使徒言行録9章26~31
「共に泣く交わり」

サウロ、後の使徒パウロは、主イエスとの真実の出会いを経験することによって、弟子達の交わりに飛び込み、自分の弱さを含め全てをさらけ出すことができました。そのようなサウロの姿勢は、さらにまわりの人たちにも影響を与えることになり、そこに痛みや苦しみ、弱さをわかちあう、共に泣く交わりが形成されていったのだと思います。そして、そのような交わりのなかでサウロは、あのコリントの信徒への手紙二の12章9節10節の言葉を告白するのです。すなわち、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と。
今朝の聖書の箇所を通して私たちは、本当の強さとはいったい何なのか、改めて考えさせられます。サウロの回心の経験を通して、強さと強がりとは全く違うもので、自らの弱さを認め受け入れ、隣人の弱さも認め受け入れ、共に分かち合っていくところに、まことの強さが生み出されるということを知らされました。
今、私たちが生かされている決して平和とは言えないこの時代に‥、この悩み多き時代に、どうか、痛みや苦しみ、弱さをわかちあう、共に泣く交わりを形成していくことができますように、偽りの強さにこだわらず真の平和をかたちづくっていく一人一人として歩んでいけますように共に祈りをあわせたいと思います。

礼拝説教要旨(7月30日)聖霊降臨節第9主日礼拝

ローマの信徒への手紙9章19~29
「憐れみの器」

あさってから8月に入り、次週は平和聖日を迎えようとしています。神がいるなら、なぜ、戦争という悲劇が起こるのか‥、神はなぜ、戦争に直接介入してやめさせようとしないのか‥、よく、そういう質問が出されます。しかし、今朝の聖書の箇所を通して私たちは、問われているのは神ではなく、私たち一人一人であることを知るのです。
そもそも神は一方的に歴史を担い、導くのではなく、人間と共に歩もうとされる方です。そして人間との共同の歩みの結果を歴史にきざみつけようとされるお方なのです。それほど神は、人間の存在、そして主体性を尊重し続けてこられました。だから、ロボットのように人間を操るのではなく、一人一人の主体性に呼びかけ、待つ、という方法をとられるのです。
24節には「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」とあります。私たちは、そのような神の憐れみの器として用いられようとしています。その導きに応えることによってのみ、主の平和が実現していくのです。人間のこの応答なしに、神が歴史に直接介入し平和をもたらす、ということはありません。だから問われているのは神ではなく、私たち一人一人なのです。
私が自分を見捨てたような時になっても私を見捨てない方がいる‥、私が自分を愛する以上に私を愛していてくださる方がいる‥、その方が、この私を、憐れみの器として用いようとされている‥、そのことを心に深くとどめておきたいと思うのです。 

礼拝説教要旨(7月23日)聖霊降臨節第8主日礼拝

『少年時代』 岩本幸太郎伝道師
ルカによる福音書2:41-52

12歳になった少年イエスが、両親につれられてきて、都・エルサレムに到着しました。12歳になったときは、父親が一年間、ユダヤ社会・13歳の成人式に向けてコーチ、準備をするのです。つまり、今日の箇所におきまして、イエスはこの日から一年後、成人となり律法厳守の生活にいよいよ入る。一ユダヤの男性として地上を生きてゆくのです。
そう、繰り返しますが、この世界・地上へと降りてきてくれた主イエスも一人の男子として律法の束縛の下におかれていたのです。よく考えてみると12歳から13歳のイエスはこの過越祭の日からおよそ17、18年間、人が生きるということを体験され、同時に唯一の神の御子としての狭間のなかを歩まれたのです。
また、イエス様は少年時代、謎のような時を過ごされます。しかしルカだけが少年イエス12歳過越の祭・三日目のときを記していました。
少し前の2:40と後の2章終わりの御言葉とはどちらも、神の恵みを、豊かに受けて成長をされたというのです。すべては神の恵みによって、導かれていたことがとても大切であった。
これから主の昇天にまで、息子イエスと母マリアは共におられることになります。つまり、我が子・御子イエスが十字架上にてはりつけになる現場に彼女は遭遇する。しかし彼女の信仰はどうなってゆくのでしょうか。我が子の幼少から少年期までを見届けた息子イエスの無残な殺されかたを見てしまう。しかしそのままでは終わらない。
 そう母は、我が子が救い主であって、死に打ち勝ち、我が子イエスが天に昇られる現場を体験、祝福を得たのでした。
我が子の復活を目撃し、初代教会では祈りの場にも自ら参加して、聖霊をいただくことになります。その母マリアの聖霊、そう同じ聖霊をこの教会にも今でも息吹き受け継いでいるのです。
 主の少年時代は両親に仕え、神と人とに愛された。その主イエスはあなたを今でも愛しています。主の愛に応えましょう。

礼拝説教要旨(7月16日)聖霊降臨節第7主日礼拝

テモテへの手紙一 2章1~7
「とりなしの祈り」

私たち誰もが様々な限界を負いながら、互いにとりなしの祈りを献げあい、神の助けを求め、また私たち同士、具体的な助けの手をさしのべあいながら、生きていきたいと願っています。
しかし人はいつか、体を動かすことがだんだん不自由になり、そして最後は祈ることしかできなくなっていきます。そしてさらに死の間際には自分で祈ることもできなくなり、ほかの人たちの祈り、すなわち教会の祈りに包まれ支えられて、この世を旅だっていくのです。
とりなしの祈りを献げ続ける私たちが、いつか来るこの地上の生涯の最後には祈れなくなり、教会のとりなしの祈りに支えられ包まれるのだというこの真理は、教会という信仰共同体が、まさに、そのようなとりなしあう共同体であり続けるべきだと指示しているのではないかと思います。                       
カトリックの司祭ミシェルクオストは「キリストの目をもって、この世界に目を注ぐ」ということ、すなわち「キリストの目をもって、世界中の隣人に目を注ぐ」ことをすすめていますが、それは、とりなしの祈りにおいてこそ、可能になることなのではないか、と思います。やがて来る教会のとりなしの祈りに支えられ包まれて旅立つその時まで、共に、とりなしの祈りを献げあい、キリストの目をもって互いに見つめ合い、具体的な助けの手をさしのべあう‥、そのような祈りの共同体として、この小石川白山教会がますます成長していくよう、祈りをあわせたいと思います。

礼拝説教要旨(7月9日)

礼拝説教要旨(7月2日)聖霊降臨節第5主日礼拝

フィリピの信徒への手紙2章12~18
「神への従順」

今朝のフィリピの信徒への手紙には、パウロの神への従順を示した言葉がいくつも連ねられています。
それは、パウロが殉教を意識して語った言葉だとも言われています。フィリピの信徒たちが礼拝を献げ続け、信仰の養いを受けて世に出ていく時、彼らを指導してきたパウロが、世から憎まれ、殉教へと追いこまれていく可能性を示唆している言葉です。
キリストの教えとこの世の教えがしばしば対立するのは、パウロの時代も現代も同じです。しかし特に現代の私たち、また教会にとって大切なのは、安易に世に妥協するのではなく、対立し続けることなのではないでしょうか。妥協することによってこの世に受け入れてもらい居心地よく生きていくことはパウロの生き方とは相反するものです。もちろんイエスの生き方とも相反するものです。
教会は‥、私たちは‥、この混迷を極める時代において、あくまでもキリストの言葉にしっかりと立ち続け、時には世と対立することがあっても、それをよしとし、キリストの祝福と導きに全てをかける生き方を選び取っていかねばならないのだと思います。それが、殉教者たちの生き方を継承していくことであり、神への従順を貫くことなのだと思います。
私たちもまたパウロのように、たとえ目に見える成果が、すぐにはこの手に与えられなくとも、私たちに先立って働かれる主が、いつか私たちの小さな業をも用いて必ず事をなしてくださることを信じて、静かな喜びのうちに、日々の歩みをすすめていきたいものだと思います。

礼拝説教要旨(6月25日)聖霊降臨節第4主日礼拝

『天におけるように地の上にも』
岩本幸太郎伝道師
マタイによる福音書26:36-46

主イエスはゲッセマネの園にて神の御子として、また人の子としての決死の祈りをされました。それは悶え苦しむほどの祈り、この世にて最終段階での祈祷でした。まさに神の御子と人の子としての間・中心にいるといった孤独の中での祈りだったのです。のちに弟子たちは全員、彼を見捨て逃げてしまいます。
イエスは人の子として、母マリアの子として、育ったのだから私はふと考えました。イエスは“死にたくない・・・。”
そう思った、当然そういう気持ち、瞬間もあったでしょう。
肉体の叫びを汗が血のようにしたたりのように、必死になって祈ることによって抑えていたのでしょう。それも間違いではありません。
イエスはキリストですから、とてつもない権威を持っています。だからこのゲッセマネの場にてすぐにでも天からの御使いたち、天使軍団を呼び寄せ、力によって捕まえにきたローマ兵を粉砕することもできたでしょう。しかし、彼はなんといっても御子なのでした。たとえ荊の冠を被らせられようとも、槍で横腹を突かれようとも、我らの救いのために十字架の道を選ばれるのです。
罪なき神の御子イエスは、
「わたしの願いどおりでなく、御心のままに」
このたった一つの文章ですが、神よ、わたしはあなたにゆだねますと。ここにすべての人への救いをイエスキリストは選ばれ、完成へと至るのです。
ゲッセマネで祈る、小見出しにそうあります。イエスのゲッセマネの園での祈りとは、弟子たちや、ここにいる私たちや、また敵対したすべての人たちやすべての人間への天へ向けて、それはとりなしの祈りだったのです。

礼拝説教要旨(6月18日)聖霊降臨節第3主日礼拝

エフェソの信徒への手紙1章3~14
「神の国を受け継ぐために」

今朝の14節において、聖霊は私たち
が神の国を受け継ぐための保証である、と言われています。
その聖霊を受ける時、私たちは神の国の息吹を受けているのです。その聖霊を感じる時、私たちは神の国の息吹を感じているのです。聖霊を受けるなら私たちは、そのような神の国へと向かう働きに招かれ、導かれていくのです。
確かにその道のりは決して楽観的なものではないかもしれません。神の国へと向かっていく働きは、時に、停滞してしまっているかのように‥、あるいは、逆行してしまっているかのように‥、感じることもあるかもしれません。けれども、そのような時こそ、それは私たちだけではなく、あのエフェソの信徒たち一人一人もそうだったのだと、思い返したいと思います。
私たちの目にうつる日々の現実は、確かに厳しいものでありますが、しかし、私たちの目にうつる現実だけではなく、もうひとつ別の‥、主イエスの目にうつっている現実があるのだということを覚えたいと思うのです。
いつも主イエスが共にいてくださり、私たちの目にうつる日々の現実にあらたな光を注いでくださるのです。別の光を‥、別の現実を発見させてくださるのです。
ほとんど絶望的な状況しか見えていなかった現実に、別の明るい光が少しずつでも見いだせるようになってくるのです。それが、私たちに与えられるかけがえのない一筋の光なのです。

礼拝説教要旨(6月11日)花の日・子どもの日合同礼拝

コロサイの信徒への手紙1章24~29
「イエスさまの力によって」

 今朝の聖書はイエスさまの力とは、かつてイエスさまがおかたりになった言葉の中に込められていると伝えています。でもイエス様の言葉というのは時として、まるでなぞなぞのようです。すぐにはよくわかりません。だからいったんその言葉を大事に心の中にしまっておいて時々、取り出してながめてみる、そしてお祈りをするのです。
 そうしているうちに「ああそうだったのか」とイエス様が語られていた言葉の意味がだんだんわかってくるのです。
聖書ではイエス様の言葉はよく植物の種にたとえられます。
 種は雨をもらわないと育っていくことができません。しかし種は自分の力で雨をふらせることはできませんから待っているしかないわけです。そのように私たち一人一人にも自分の力ではどうすることもできないことがあるのだと思います。
 よくわからないイエス様の言葉・種を心の中に抱えたまま過ごさねばならない時もあるでしょう。しかし大切なのは種を捨ててしまわないことなのだと思います。
 お祈りしながら持ち続ける‥、そうすれば必ずいつか芽が出てきていろんな形の実りが与えられてくるのです。そのように、イエス様のちからはイエス様の言葉とともに働いて私達一人一人を成長させてくださるのです。この力によって私達はそれぞれにいろんな花を咲かせいろんな実をみのらせて幸せになっていけるのだと聖書は私たちに語りかけているのです。

礼拝説教要旨(6月4日)ペンテコステ礼拝

ルカによる福音書24章44〜53節
「聖霊の約束」

私たちは今日、教会の誕生日、とも言われるペンテコステをむかえました。
かつての弟子たち‥、また弟子たちをとりまく一人一人が、
様々な問題・課題を抱えながら信仰の生涯を送ったように、私たちもまた、
様々な問題・課題を抱えながら日々過ごしています。
時には、その重い課題に押しつぶされそうになり、信仰を失いかけ、あせって、
自分の力でじたばたし始めることもあります。またあるいは、
十分に聖霊の導きを吟味せずに、走り出したくなる‥、
しかし、主イエスは言われるのです「高い所からの力に覆われるまでは、
都にとどまっていなさい」と‥、あせるな、と、言われるのです。
大喜びでエルサレムに帰った弟子たちは、はやる気持ちをおさえながら、
「その時」を待ちました。私たちもまた、まずはふみとどまって、
聖霊の導きを思いめぐらしつつ待つ時を持ちたいものだと思います。
確かに私たちの忙しい日々の生活において、そんな時間はじっくりとはとれないかもしれません。
しかし、一日のうちのほんのわずかな時でも、そんな時間をつくっていき、
その積み重ねを行っていくことがとても大切なのだと思います。
そうしていくなら、この私たちの上にも、かつて弟子たちの上に起こったような
ペンテコステの出来事が起こるのだと思います。
聖霊の約束とは、「どんなことがあっても決してあなたを見捨てない」という
主イエスの愛に満ちた約束です。私たちが、聖霊による救いの手だてを見逃し、
あるいは無視してしまう時も、決してそのような私たちを見捨てず、
導きの御手をさしのべ続けてくださる‥、それが、聖霊の約束なのです。

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礼拝説教要旨(5月14日)復活節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書14章1〜11節
「イエスの道」

私は長い間、キリスト教の神、聖書の神を想う時に、幼い頃から知らず知らずのうちに
私の心に影響を与えてきた神道の神のイメージが入り込んでしまっていました。
この日本社会にじわじわと入り込んでしまっている神道の文化や慣習からくるイメージにまどわされて、
聖書が神をどのように規定しているのかを純粋に見つめることができなかったのです。
しかし、今朝の聖書の箇所の9節後半には、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とあり、
つまり、イエスを見た者は神を見たことになる‥、
だから大切なのは、神について様々に思いを巡らすことなのではなく、聖書を読むことを通して、
また、祈ることを通して、イエスという方をしっかりと見つめることだけなのだ、と次第にわかっていきました。
イエスが神なのだ、イエスだけを見つめていればいいのだ、その事がわかった時、
やっと私は神、という言葉から解き放たれて、イエスを見つめること、
そしてイエスと共に歩む道へ踏み出すことができました。
主イエスのみをしっかりと見つめることを通して私たちは、6節に記されている
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」
という主イエスの言葉を実感することができるのです。
私たちが生かされているこの日本にも、実に様々な神がいることを思います。
しかし様々な神が私たちの日常をおおっている中で、主イエスが導かれる道を、
主イエスと共に歩むことを通して、まことの神を証していきたいと思うのです。

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礼拝説教要旨(4月9日)受難節第6・棕櫚の主日礼拝

マタイによる福音書27章32〜44
「自分を救わない神の子」

今日から始まるこの受難週、私たちは、様々な威圧と暴力が満ちている私たちのこの世界、そして日常のただ中に、あの、十字架につけられた主イエスの御姿を見出し、その御姿を見つめ続けて、私たち一人一人に対する新たな御導きを求めていきたいと思います。
不条理な出来事や、困難の只中にこそ主は共にいてくださいます。まずは、そのことをしっかりと感じ取る信仰的な感性を授かることができますように、と共に祈りをあわせたいと思います。また、不条理な出来事や困難の中にあって孤独を感じる時にこそ天を見上げたいと思います。そこに、主がおられることに気づくまで、感じ取れるまで、祈りつつ天を見上げたいと思います。そして、その主のお導きに従って一歩ずつ歩みを進めていきたいと思います。私達にとって最も大切なことは、自らに課せられた問題が即座に解決することなのではありません。そうではなく、主の御心にかなった道を歩んでいるかどうか、なのです。
主の御心にかなった道を歩んでいるのであれば、やがて必ず問題は解決していくのでありましょう。しかし、主の御心にかなわない道を歩んでいるのであれば、たとえ、問題が解決していくように見えていても、それは決して真の解決にはなっていかないのです。だから大切なのは、たとえ遠回りのように見えていても、主の御心にかなうと思われる道の方を選び取っていくことなのです。その方を選び取り続けていくことなのです。
受難週のこの時、今、私達一人一人に課せられているそれぞれの問題に思いを馳せつつ、主が歩んでいかれた十字架への道を今一度しっかりと直視したいと思います。

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礼拝説教要旨(4月2日)受難節第5主日礼拝

マタイによる福音書20章20~28節
「仕えるために」

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」、今朝のマタイ福音書20章28節に、そう記されています。また主は「自分の命を献げるために来た」とも語っておられます。ここで主イエスがおっしゃりたかったのは、仕え合う、ということだったのだと思います。
主が献げつくし仕えつくしてたどり着いたその最期は十字架でありました。誰からもうやまわれず、したわれず、見捨てられて、苦しみ抜いて死んでいかれました。しかし、そのような主の心のなかには、この死をよく見ておきなさい、という想いがあったのではないでしょうか。そしてそのようなイエスのあとに従っていく、ということは、自分もまた、そのような人生を歩む、ということを承認することでもあるのです。
受難節のこの時、私たちもまた、ひとつの覚悟を決めるよう促されているような気がします。自分は誰のために、あるいは何のために、自分の命を献げようか‥、と。
祈って、そのような志をたてて歩んでも、私たちもまた生きているうちにその成果を見ることはないのかもしれません。しかし、だからといってこの世の価値観の流れに身をまかせ、惰性で生き続けることが幸せなのでしょうか。希望や理想を語ることがきわめて難しくなりつつあるこの時代の社会において、たとえ、生きているうちにその成果を見ることはなくても、主にある希望や理想に仕えて生きることが、私たちキリスト者の生き方なのではないでしょうか。そのように生きようと一歩を踏み出す時にはじめて私たちは、十字架の主イエスのからだのぬくもりを感じることができるのだと思います。

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礼拝説教要旨(3月12日)受難節第2主日礼拝

マタイによる福音書12章22~32節
「呼びかけ続ける主」

今朝のマタイ福音書30節において主イエスは、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」と言われました。これは単なる批判の言葉なのではなく、「わたしに味方し、わたしと一緒に集めよう」という呼びかけが、この言葉の裏には隠されています。ここには、主イエスの基本姿勢がはっきりと示されています。すなわちまず主は、誹謗中傷や迫害に対して、誹謗中傷や迫害で返したりはなさいませんでした。冷静に毅然とした態度で聖霊の意志を語られました。そしてさらに、「共に、この聖霊の意志に従い行動しよう」と呼びかけられました。そしてたとえ、この呼びかけが無視されようとも、生涯、このように呼びかけ続けられたのです。これが、生涯貫かれた主イエスの基本姿勢だったのではないでしょうか。
決して力でねじ伏せようとはしなかった。どんな相手にも、その相手の主体性に呼びかけ続けるという方法をとられました。その方法は、十字架の死に至るまで貫徹されました。
ご自分を憎み、殺しにきた人達に対してさえ主は、そのような方法を貫徹されたのです。
それができたのは、どんな人にも、正しい道に立ち返る可能性がある、という希望を最後まで持ち続けておられたからなのでありましょう。だから主イエスは決して押しつけずに、どこまでも一人一人の主体性に呼びかけ、訴え、促し続ける、という方法で関わられたのでありました。この主を見上げ、見つめつつ、この受難節の歩みを進めてまいりたいと思います。

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礼拝説教要旨(2月19日)降誕節第9主日礼拝

マタイによる福音書15章21〜31節
「小さくされた者の声」

「小さくされた者」とはいったいどういう人のことでしょうか。それは、本当はもっとのびのびと自由に生きていいはずなのに、何らかの理由で、そのような自由を奪われていたり、制約されていたりする人のことだと思います。「小さくされた者の声」は、より大きな力を占有している者たちの声によってしばしばかき消されてしまいます。また、言葉を発する機会さえ与えられずに、たとえば、数の力によって意見表明を封じられてしまうこともあります。また、そこまでいかなくても、様々な圧力を感じて結局、自らの心の内に声を閉じこめてしまう、ということもあるのではないでしょうか。
そして、今、ここに集められている私たち一人一人にも、様々な痛み苦しみがあることを思います。この社会のひずみのなかで、それぞれに生きにくさを感じ、行き詰まりを感じながら私たちは生きています。このように生きたい、という願いを持ちながら、願い通りにはならないことの方が多い人生に、がっかりしながら、ただ、たたずんでいるしかないこともあるのかもしれません。
しかし、決してあきらめずに、自らの内側に閉じこめられた声をイエスに向かって発していくなら、必ず主はその声を聴いてくださり、一人一人との対話の中で、きっと道を指し示してくださるのではないでしょうか。その道を模索しながら歩いていくことによって、私たちは、自らの内側深くに声を閉じこめなくてもすむようになるのです。私たち一人一人の声にならない声、うめきをも、じっくりと聞き、これまでのお考えをも時には変更して先だって歩き、導いてくださる主イエスに、この主日、じっくりと心を向けたいと思います。

礼拝説教要旨(2月12日)降誕節第8主日礼拝

マタイによる福音書5章1〜12節
「幸いな人」

私たちは誰でも、幸いな人生を送りたいと願っています。幸せになるために生まれてきたと思っています。そして実際、幸せを得るために一生懸命努力しながら生きています。
けれども人生は、なかなか思ったようにはいきません。自分の望む幸せが得られずに、しばしば私たちは思い悩み、落ち込むのです。
しかし、そのような私たちに今朝、主イエスは、ではそもそも幸せとは何なのか‥、幸いな人生とは何なのか‥、と問いかけておられるように思います。
私たちが真実に正しく生きようとする時、必ず壁が、たちはだかります。しばしば私たちはその壁にたじろぎ、妥協し、また、前進するのをあきらめることもあるのではないでしょうか。そして、その壁の前で、正しく生きられない空しさを感じながらも、まぎらわして生きることがあるのではないでしょうか。
そんな私たちに、今朝のマタイ福音書は「本当の幸いとは何か‥、それは、何よりも天の国の実現に向かうふるまいを、こつこつと積み重ね続けることではないか」と、語りかけているのです。
主イエスは、天の国の実現に向かうふるまいには、必ず迫害がある、と言われました。しかし、それでもなお、その道を行く時にこそ、主イエスとの本当に深い出会いと心の静けさが与えられるのだと思います。そして、その心の静けさにまさる幸いはないのだ、ということを覚えておきたいと思います。今、ここからそれぞれのところに遣わされて歩む、この一週間の旅路におきましても、様々な、困難や苦難があることでしょう。しかし、そのような時こそ主が共にいてくださることを覚え祈るならば、人知を超えた平安が与えられる、ということを忘れずにいたいと思います。

礼拝説教要旨(2月5日)降誕節第7主日礼拝

マタイによる福音書4章12〜17節
「闇から光へ」

今朝、私たちに与えられましたマタイによる福音書においては、「悔い改め」のすすめがなされています。この「悔い改め」とは本来、「後悔の念」とか「反省」とかいうことではなく、人生の進路の全体的方向転換、とも言うべき事柄なのでありました。神との人格的関係へ再び入り直すことであったのです。そのような意味において「悔い改めよ、そうすれば天の国は近づく」とは、旧約の時代からよく言われていた言葉でありました。
しかし、そのような言葉に対して、今日、ここでイエスが語っておられる「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は少し違っています。ここでイエスが言われたのは「悔い改めよ、そうすれば天の国は近づく」、ということなのではありませんでした。そうではなく、「悔い改めよ。なぜなら天の国は近づいたのだから」ということだったのです。つまり、天の国の到来は、人間の態度によって左右されるのではない、ということが明言されているのです。このような一方的な神の恵みに支えられるときにこそ、悔い改めは卑屈な告白でも、神との取り引きでもなく、自らの過去と現実を勇気をもって見直す喜びの行為となりうるのでありましょう。
この世の暗闇のような状況の中で、たえず、神に立ち帰ること‥、すなわちたえず、悔い改めること‥、そして主イエスの光を証するという使命を果たしていくこと‥、これらのことが、今朝のこの聖書の箇所から私たちに促されているように思います。そのように、光の子としての使命を果たしていきなさい、と告げられているように思います。

礼拝説教要旨(1月29日)降誕節第6主日礼拝

マタイによる福音書21章12〜17節
「祈りの家」

今朝のマタイ福音書において、イエスは非常に激しく怒っておられます。神殿の境内で売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された…、これほどまでに激しく怒り、実力行使で物事をすすめようとされる主イエスの姿を、私たちはこの場面以外にあまり見ないのではないでしょうか。
当時のいわゆる神殿当局者たちにしてみれば、なぜ、こんな非難を受けなければならないのか、よくわからなかったかもしれません。決められたことを、淡々と実行しているだけのことだった‥、しかしそれが、目の見えない人や、足の不自由な人達を排除することになっていた‥、その人達の祈りをかき消すことになってしまっていたのです。そのような神の愛と正義にもとるふるまいが公然と行われ続けていたことに対して、イエスはこれほどまでに激しく怒られたのでありました。
「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」。教会は、祈りが満ちている場所です。苦しみ、悲しみ、うめきなど、切実な祈りが満ちている場所です。まずは、私たちは今日再び、これまでに、この教会の礼拝堂の空気に刻みつけられてきた切なる祈りの数々に想いをはせたいと思います。そして私たちもまた、その祈りを祈り継いでいきたいと思います。真実かけて祈った祈りは、どんなことがあってもかき消されることなく、祈り継がれていきます。私たちがその祈りを、祈り継いでいく限り、かき消されることはありません。今日、私たちは、この小石川白山教会が、主イエスが望まれるまことの祈りの家として、ますます豊かに用いられるように、祈りを合わせたいと思います。そして、教会の業を整えていきたいと願います。

礼拝説教要旨(12月4日) 降誕前第3主日礼拝

             
マタイによる福音書13章53〜58節
「神のまなざし」

イエスの故郷ナザレの多くの人々は、信仰的にイエスを見るこ
とができませんでした。それでつまずいてしまったのです。57節後半において主イエスは「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と語られています。この故郷においてイエスは、ただ単にこの世的な、人間的な、興味本位の関心を持たれただけでした。それで最後の58節を見ると「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」とあります。これは実際には「奇跡をなさらなかった」のではなく「奇跡を起こせなかった」ということなのではないかと思います。今日のこの箇所の並行箇所、マルコ福音書の6章1節以下、その5節を見ると、次のように記されています。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」。おできにならなかった、つまり、奇跡を起こそうにも起こせなかった、ということなのです。
私たちは今、アドベントクランツの光を見つめながら、神の御子が、自ら最も小さく、低くなられてこの世に来てくださった、という奇跡を再び思い起こしています。そしてその奇跡を信じて仰ぎつつ、私たちは、神の国の成就という奇跡の完成に向かって導かれていくのです。イエスを仰ぎ、信じ、従っていこうとすること‥、そのような信仰を持つ人達が集められているところに、イエスの奇跡は起こります。そのような信仰が失われてしまったところには、イエスの奇跡は起こりません。このことを深く心に覚えつつ、アドベントの時をさらにすすんでいきたいと思います。

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礼拝説教要旨(11月13日) 降誕前第6主日・教会創立記念礼拝   説教要旨 

ルカによる福音書8章4〜15節
「御言葉の実り」

今朝私達に与えられましたのは、「種をまく人のたとえ」です。御言葉という種をいただくために私たちは毎週教会の礼拝に出席しています。私達が教会に集う時、私たちは自分自身の悩みや課題を抱えて、礼拝堂の椅子に座ります。人に話したところでどうすることもできない悩みや課題、また、誰にも話したくない悩みや課題もあります。それぞれが胸のうちに様々な思いを抱えて礼拝堂の椅子に座っています。お互いに胸の内をすべてあかしているわけではありませんから、完全に理解しあっているわけでもありません。しかし、それでも、そこに集った者たちは、互いに互いの様子を気遣い、配慮し合いながら同じ時を共有します。この一週間、何があったのか…、どうしてそんなに悲しい顔をしているのか、根掘り葉掘り聴くこともせず、ただ、互いに祈り合うことを通して、すべてを神にゆだねます。するとそこに、集っている一人ひとりを抱きしめ、温め続ける神の御手が働かれるのです。
それが、聖別された主日のあるべき姿なのであろうと思います。教会においては、たとえ互いにいろいろな言葉を交わさずとも…、黙っていても…、互いに互いのことを主イエスに委ね合う祈りの交わりのなかで、主の愛が満たされ、一人ひとりに主から、新たなお導きが示されていくのです。そのような交わりを土台として、この小石川白山教会は114年の歩みを続けてきたのです。
創立114周年を迎えて、あらためて私達は、肉眼の目では決して見ることのできない実り、信仰の目でしか見ることができず確認することのできない百倍の実りを求めて歩むようにと今、主イエスから促されていることを想います。

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礼拝説教要旨(9月25日) 聖霊降臨節第20主日礼拝  説教要旨              

ヨハネの黙示録7章1〜8節 竹島 敏牧師
「神の刻印を押されて」

今日のこのヨハネの黙示録に示されているのは、神の僕達の額に、神の刻印が押されるまで、大地や海を大きく損なうような激しい風は、天使達によって押さえられていた、ということです。神の刻印、すなわち洗礼にあずかるべく招かれている者全てに、洗礼がさずけられるその時まで、この世界の決定的な破滅から天使達が守ってくれる、という福音が、ここにしめされていると言えるのではないでしょうか。
このヨハネの黙示録は、紀元95年頃、ドミティアヌス帝の治世の時代、諸教会に対する迫害が徐々に激しくなりつつある頃に書かれました。ローマの属州アジア州の諸教会は、帝国の政治的迫害に苦しんでいました。黙示録の著者は、そのような状況のなかで、差し迫ったキリストの再臨、この世の終末と完成を告げて、殉教の危険にさらされていた諸教会を激励しようとしたのでした。
今日の7章以下の箇所においては、神の僕たち全てに神の刻印が押されてしまうまでは、世界の決定的破滅は延期され、またどんな時も、神の刻印が神の僕たちを守るということが明らかにされています。
私達が今、生かされているこの時代も、終末的な状況である、とよく言われます。まるでこの世の終わりを予感させるような出来事や事件が日々起こり、希望を見出すことがむずかしい時代です。しかし、今朝の黙示録の箇所に示されていたように、そのような私達の主観をはるかに超えて、神の刻印が私達にも押されており、それが、救いの保証となっていることを再び想い起こしたいと思うのです。

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礼拝説教要旨(9月18日) 聖霊降臨節第19主日礼拝  説教要旨              

ヨハネの手紙一5章13〜21節 竹島 敏牧師
「真実の神」

私たちが生かされているこの現代社会には偽りの神が満ちています。たとえば、「常に」ではなくても「時として、また突然」神のごとくふるまいだす‥、そういう人がいないでしょうか。真実の神の前には、本当に破れだらけの一人の人間であるにもかかわらず、そのことを認めることなく、神のごとくふるまう‥、
私たちが生かされているこの現代社会は、そのような様々な偽りの神に満ちあふれており、そのような社会において私たちは、絶えず、恐れ、傷つきながら日々を送っているのではないでしょうか。
しかし聖書は、そのような社会においても偶像である偽りの神々に決して目を奪われず、真実の神のみを見つめよ、と私たちに語りかけているのです。
「真実の神」・私たちの主イエスは、全き愛で、今も、私たち一人一人を包みこもうとしておられます。その愛に包まれたなら私たちは、たとえ、神のごとくふるまう人達によって傲慢な仕打ちを受けることがあるとしても、その痛みをはらすために、別の誰かを苦しめようとは決してしないでありましょう。
様々な偽りの神・偶像が満ちているこの社会において私たちは、時に、今まで体験したことのないような厳しい状況におかれても、真実の神・永遠の命である主イエスから決して目をはなさず、この方の言葉に包まれそこにとどまって新たな力をいただきたいと思います。それがきっと、危機的な状況から解き放たれていくエネルギーになることを信じて、真実の神・永遠の命である主イエスの内にとどまり続けていきたいと思うのです。

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礼拝説教要旨(9月11日) 聖霊降臨節第18主日礼拝 説教要旨              

エフェソの信徒への手紙3章14〜21節 竹島 敏牧師
「主の愛に立つ」

私たちの人生には、まことに様々な予期せぬ出来事が起こってまいります。
突然の病気やけが、思いがけない事故‥、どんなに気をつけていても避けられない場合もあります。
しかしそのようななかで、私たちが最もとまどい、悩むことの多い問題のひとつは、人間関係にまつわるものなのではないでしょうか。
社会の先行きが不透明で、なおかつ、いろんな考え方や価値観があるなかで、私たちをとりまく人間関係はますます複雑でむずかしいものになりつつあるのではないでしょうか。
そのような中で正しく隣人との人間関係を築いていくためには、やはり正しく礼拝を献げ正しく聖餐にあずかっていなければならないのでしょう。
ゲルトタイセンという神学者は聖餐について次のように述べています。「聖餐式はそれに参与する者を人間愛へと義務づける」。
つまり、聖餐を受けるということは、キリストとひとつになる、ということ。
それはキリストに、この私の苦難を共に背負っていただくと共に、この私も、キリストがなさったように、他の誰かの苦難を共に背負う、ということにほかなりません。
そのような実践を通してこそ私たちは「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」なるのです。
「そのようにして主の愛に立ち生きよ」と今日、呼びかけられていることを心に深く覚えたいと思います。

礼拝説教要旨(9月4日) 聖霊降臨節第17主日礼拝 説教要旨  

ペトロの手紙一 2章11〜17節 竹島 敏牧師
「神の僕として」

今朝のこのペトロの手紙には、「神の僕として生きよ」という小見出しがつけられています。
16節で「神の僕として行動しなさい」、と言われています。と同時に13節においては「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」とも言われています。
「主のために」とは、いろんな意味にとれる言葉ですが、「主イエスを証するために」、とか「主がそうされたように」ということでありましょう。
ところで私たちの身近な日常において、神の正義は貫かれているでしょうか。
仕事や、様々な交わりをすすめていくなかで、心が痛むことや、憤りを感じることが数多くあるのではないでしょうか。
ささいなことでも、その一つ一つに心をとめ、神の正義が取り戻されるために、今、主イエスは、この自分に先立ってどのような働きをしておられるのか黙想し、祈ること、そして、その主の御業に仕えるように行動していくこと‥、それが、私たちの日常において主を証するということなのであり、神の僕として生きるということなのではないでしょうか。
そのような、極めて日常的なこと一つ一つを通して私たちは、地の塩としてこの世に従属し、とけこみつつ、神の正義を証し、神の僕として生きていくのです。
私たち一人一人の内側に聖霊として住まいつつ、御自身の業と私たちそれぞれがなすべき業を示しつづけ呼びかけ続けてくださっている主イエスの声に耳をすませ、その声に、言葉に、勇気を出して従っていく私たちでありたいと思います。

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礼拝説教要旨(8月7日) 聖霊降臨節第13主日礼拝  説教要旨            

ローマの信徒への手紙8章18〜25節 竹島 敏牧師
「見えないものを見る」

今朝の聖書の箇所において使徒パウロは、現在の世界の状況を「被造物は虚無に服している」という言葉で言い表しました。
このような虚無は、現代においても人間が人間として見られないような場所にはどこにでもある‥、と言わざるをえないのでしょう。
たとえば、様々な圧力によって、自由な発言を封じられる経験をしたことはないでしょうか。
学校や、職場や、時には家庭においてさえも、そのような経験を少なくとも何度かはしたことがあるのではないでしょうか。
また、お金のため、生活のためとはいえ、なぜ、こんなにあくせく働かなければならないのか‥、時に物のように扱われ、侮辱されながらも、必死に耐えて働き続けている‥、そういう経験も多くの方がお持ちのことと思います。
それが、現代の虚無に生きる私達の現実です。人間が人間として扱われない‥、一つのモノのように‥、交換可能な、返品可能な一つのモノのように扱われる、そういう現実がいたるところにあります。
しかし、私たちは、そうなりながらも、そこに立ち止まり続けるのではなく、そこで聴き続ける聖書の言葉に促され押し出されて神の国へと新たな一歩を踏み出したいものだと思います。
聖書の言葉が指し示す、私たちの目にはまだはっきりとは見えてこない目標‥、しかし、時が来れば必ずはっきりと見えてきてその通りに成就していく目標‥、それこそが、私たちキリスト者の希望であり命なのだということを覚えておきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(7月24日) 聖霊降臨節第11主日礼拝  説教要旨           

コリント一11章23〜29節 竹島 敏牧師
「主が来られるとき」

私たちの救い主イエスキリストは、「いのち」の交わりの主です。これが今日の聖書箇所の大切なポイントです。そしてイエスをキリストと信じる者達はすでに、聖餐を受けるたびごとに、イエスの命を受け継ぎ続けているのです。つまり、十字架の死に至るまで神の御心に従順に、徹底した非暴力で神の国への戦いを続けていかれた主の命を受け継ぎ続けているのです。私たちはその命の継承者であり、また、その命を隣人に証する使命を託されています。聖餐のたびごとに、このことを思い起こし、主の「いのち」を深く受け入れていくことが大切です。そのことによって私たちは、イエスを中心にした、ずっと続いていく「いのち」の交わりを形成できるのだと思います。そのようにして私たちは、主が再びこられる時まで、主の死を告げ知らせながら、交わりを形成していくのです。
確かに、この地上での命がおわる別れの時は、耐え難い悲しみの時です。しかし、誰もがいつかは迎えなければならないその時に備えて、今、互いに生かされているこの一瞬一瞬を大切にし、互いの「いのち」をわかちあっていきたいものだと思います。そして受け継ぎあっていきたいものだと思います。そうすることによって「いのち」は孤立することなく互いに輝きはじめるのです。
主が再びやってこられ、主の救いが完成するその時がいつなのかはわかりません。しかしいつか必ずやってくるその時まで、私たちもまた、このパウロたちのように、「いのち」の交わりを続けながら、希望をつないでいきたいと願うのです。

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礼拝説教要旨(6月26日) 聖霊降臨節第6主日礼拝  説教要旨

エフェソの信徒への手紙2章11—22節 竹島 敏牧師
「一つの霊に結ばれる」

今朝の19節以下においては、「主における聖なる神殿」へと共同体が成長していくことについて述べられています。そしてキリストは、その隅の親石、また、かなめ石であると語られています。21節には「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」とありますが、そのように様々な違いを持つ一人一人を、教会という一つの体に「組み合わせていく」のがキリストの愛の働きであると告げられています。このキリストの愛の働きなくしては、建物はばらばらになり、分裂分派してしまうのです。
そして最後の22節では、「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」と告げられ、共に、このキリストの愛の働きに参加し仕えていくようにという促しが与えられています。
私たちが生かされているこの時代は、もはや、様々な多様性を認め合いながら共に歩んでいくために、互いに向き合ってじっくりと対話する‥、という余裕を失ってしまったのかもしれません。しかし、そうであるならそこには、いつまでたってもキリストイエスの愛がない殺伐とした風景しか見えてこないのではないでしょうか。
どうか私たちは、そのような時代のなかにあっても、「敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄」してくださった十字架の主イエスを見失うことなく歩んでいきたいと思います。そして、どのような場にあっても、教会の内でも、外でも、その主を見つめ証し続ける道を歩み続けていきたいと思うのです。
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礼拝説教要旨(6月12日) 花の日・こどもの日礼拝  説教要旨  

使徒言行録20章32〜38節 竹島 敏牧師
「神さまの国」(子どもたちへのメッセージ)

みなさんは「神様の国」という言葉を聞いて、どんな光景を思い浮かべるでしょうか。
もしかしたら、偉そうにしている神様がいて、まわりの人達にびしびし命令しているというそんな国を思い浮かべてしまうかもしれません。しかし聖書が言っている「神様の国」はそういう国ではありませんでした。そうではなくてみんなの中で一番困っている人や弱っている人、苦しんでいる人が、一番大切にされる国のことだったのです。
そんな国いったいどこにあるんだ‥、と思うかもしれません。確かに、パウロさんが生きていた時代にもそんな夢のような国はありませんでした。でもいつか、そんな神様の国がやってくる‥、イエス様がそうおっしゃっていたから、そう約束してくださっているから、必ずいつか、そのような国がくる、そう信じてパウロさんは、そのことを一生懸命伝えたのです。私たちが今いるそれぞれの場所が、小さな神様の国になっていくような小さな行いを積み重ねながら、信じて待っていなさい、と言われたそのイエス様の言葉をパウロさんは一生懸命、宣べ伝えていったのです。
困っている人や、苦しい想いをしている人に、やさしい言葉をかけてあげたりちょっと助けてあげたり、そういう心遣いをお互いにすることで、みんなが幸せな気持ちになれる。その場所が小さな神様の国になっていく。パウロさんは、そういう小さな神様の国を自分たちのまわりに、たくさんつくっていきながら、いつか世界中が神様の国になって、神様の望んでおられることが完成するように、と祈り続けていたのです。
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礼拝説教要旨(6月5日) 聖霊降臨節第4主日礼拝 説教要旨             

フィリピの信徒への手紙2章12〜18節
「主にある喜びに生きる」 竹島 敏牧師

「主にある喜びに生きる」とは、キリストイエスという信仰生活の目標を目指してひたすら走る、ということです。キリストの教えとこの世の教えがしばしば対立するのは、パウロの時代も現代も同じです。しかし特に現代の私たち、また教会にとって大切なのは、安易に世に妥協するのではなく、対立し続けることなのではないでしょうか。妥協することによってこの世に受け入れてもらい、居心地よく生きていくことはパウロの生き方とは相反するものです。もちろんイエスの生き方とも相反するものです。
教会は‥、私たちは‥、この混迷を極める時代において、あくまでもキリストの言葉にしっかりと立ち続け、時には世と対立し、苦しみつつ、キリストの祝福と導きに全てをかける生き方を選び取っていかねばならないのだと思います。それが、殉教者たちの生き方を継承していくことであり、神への従順を貫くことなのだと思います。今の時代、この日本において、キリスト者であるというただそれだけの理由で迫害を受け殉教する、ということはないのでしょうが、キリスト者であるが故に、この世の様々な考え方や立場と対立せざるを得なくなり、そのために、暴力的な仕打ちを受けたり、排除されたりする、ということはあると思います。しかし私たちもまたパウロのように、様々な困難に出会っても、私たちに先立って働かれる主が、いつか私たちの小さな業をも用いて必ず事をなしてくださることを信じて日々の歩みをすすめていきたいものだと思います。それこそが、主にある喜びに生きる道なのだと信じて歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(5月22日) 聖霊降臨節第2主日礼拝 説教要旨          

テモテへの手紙一 6章11〜16節
「いのちを得るために」 竹島 敏牧師

今朝の聖書箇所の12節後半には「命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」とあります。この御言葉に促されて私達は今朝、神からの純粋な命を取り戻し再び得ていくために、聖霊のお導きを、ご一緒に祈り求めたいと思います。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めて」生きていくためには聖霊のお導きが必要です。聖霊のお導きがあってこそ私たちは、そのような生き方を、あきらめずに貫徹していくことができるのではないでしょうか。
先週私たちは、ペンテコステ礼拝をお献げし、主イエスの霊・聖霊を豊かにいただきました。その一方で私たちの日常には確かに、命すり減らす思いをさせられる様々な課題があることも確かです。しかしたとえ、これから、そのような課題に押しつぶされそうになることがあったとしても、私たちには、人間関係の様々な破れや失敗の中に絶えずその身を置き、傷ついた人とともに苦しみを負い、慰めを与え続けられたイエスキリストが与えられています。その方の霊・聖霊が与えられているのです。だから、どんなに小さな貧しい歩みに見えようとも、その方の霊の導きに従って一歩一歩歩みをすすめていくならば、失望することはあっても、決して絶望することはない…、そしてそこに「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めて」生きていく生き方が再び始まり、そして成就していくのです。そのことを忘れずにいたいと思います。

礼拝説教要旨(5月15日) 聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ礼拝 説教要旨        

使徒言行録2章1—11節 竹島 敏牧師
「神様の霊」

今日はペンテコステ‥、イエス様が復活して50日目に、熱心に祈り求めていた弟子たちの間に聖霊・いのちの風が与えられ、教会が誕生したことを記念し感謝する日です。
私たちも心をあわせてひとつになってお祈りするなら、きっとイエス様は、力強い風になって私たち一人一人の心の中に吹き込んでくださいます。十字架を背負った姿で、私たち一人一人の心の中にあらわれてくださいます。そして毎日、私達の重荷を一緒に背負って過ごしてくださるのです。
かつて、イエス様を信じますと告白した弟子たちは、イエス様を思い起こすために、イエス様がそうしてくださっていたように、パンを裂き、ぶどう酒をわかちあいました。そうするたびごとに、その場に、イエス様の霊が満ちあふれ、確かにイエス様が自分たちのそばにいてくださる、ということを、弟子達は強く感じることができました。今日もこの後、イエス様を信じますと告白した現代の弟子たちである私たちは、イエス様を思い起こすために、かつてイエス様がそうしてくださったように、パンを裂き、ぶどう液をわかちあいます。するとその場にイエス様の霊が満ちあふれ、確かにイエス様が自分たちのそばにいてくださる、ということを、現代の弟子達である私たちも感じることができるのでしょう。そして現代の弟子達もまた、イエス様の霊に満たされて、平和を作り出していこう、という気持ちと行動が、心の底から起こってきて、そして、この教会から、それぞれのところへと遣わされていくのです。

礼拝説教要旨(4月3日) 復活節第2主日礼拝 説教要旨               

マタイ福音書12章38〜42節
「主の言葉を信じる」

今朝のこの聖書箇所において何人かの律法学者とファリサイ派の人々が「しるし」を求めたのは何か、言葉だけでは信用できない‥、
信じられないから、ということであったように感じられます。つまり、イエスに対して「あなたの言葉は信用できない、信じられない」
だから、「その言葉が真実だという証拠を見せろ」と言っているのではないでしょうか。
聖書は、「人が互いに愛しあうところに‥、愛し合おうとするところに神がおられる」と告げていますが、今もまた、神なき時代‥、
真実に愛し合うことの少ない時代であると言わざるをえないのではないでしょうか。そのような状況においては、言葉は、たんに、
相手を攻め、また自分を守るための道具にすぎなかったりします。
しかし実に主イエスは言葉の大切さ、また、言葉の恐ろしさを知り尽くした方だったのだと思います。
よこしまで神に背き続ける時代のなかで主イエスは、たくさんの心ない言葉を投げつけられました。
そして十字架につけられていく道のりにおいて、多くの侮辱の言葉を受けられました。
そのような侮辱の言葉の数々を受けて、主は全く動じなかったかと言えば、そんなことはなかったと思います。
そのひとつひとつの言葉に主は深く傷つきながら、十字架への道を一歩一歩すすめていかれたのだと思います。
そのように人の言葉の恐ろしさをご自身の身に深く刻みつけながら主は、十字架にのぼっていかれたのだと思います。
だから私たちは今、この一週の間に私たちが発してきた言葉の数々を再び思い起こしつつ、本当に深く反省し、今度こそ、
主イエスのお導きによってていねいに言葉を発する…、愛のこもった言葉を紡ぎだす、その努力をはじめていきたいと思います。

礼拝説教要旨(3月20日) 受難節第6主日・棕櫚の主日礼拝 説教要旨        

ヨハネ福音書18:1—14 竹島 敏牧師
「苦難の主」

今朝のこの聖書の箇所に記されているイエスの御姿をじっと見つめていると、まさに主は、愛されるよりも愛することを求めるように…、と御自分の態度を通して弟子達に教えようとしておられたのではないだろうか、と思わされるのです。
そしてどんなことがあっても絶望しきってしまってはいけない、と呼びかけておられるように思わされるのです。
受難節のこの時、私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何でありましょうか。それは、すべてを失ってもなお、
向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。
絶望の中で、枯れるほど涙を流しながらなお、向こうから一方的にさしてくる光、これが十字架の希望であります。
イエスは、おそらく、ユダや、その他の弟子達にも捨てられ、神にさえ捨てられたと感じてもなお、十字架の上で、この光を
見続けていたにちがいありません。この光に照らされていたからこそ、「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつも、最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と告白したにちがいないのです。
そして、十字架の向こうから射してくるこの光を主は、ユダの裏切りによって、逮捕されていくこの時すでにしっかりと
見つめていたからこそ、憐れみのまなざしをもって、なおユダを見つめ、また、これから次々と自分を裏切っていく弟子達を、
なお守り抜くことがおできになったのではないでしょうか。
私達の救い主・受難と復活の主イエスが、すでにこの時から見続けていた光を、私達も見つめつつ、
この受難週を歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(3月6日) 受難節第4主日礼拝 説教要旨               

ヨハネによる福音書12章1—8節 竹島 敏牧師
「十字架への道」

ここでおそらくユダは、十字架ぬきの栄光を望んでいたのではないだろうかと思います。
そして彼が望んでいたのは、イエスが地上の王・メシアとして力をふるうことであり、
その力にあずかって自分もまた相当な地位を得たい、ということだったのではないでしょうか。
つまるところそれは自己愛であり、自己栄光化への道であったと言わなければなりません。
十字架への道はそのような自己愛の追求、自己栄光化への道なのではなく、共に生きる世界を、
イエスとイエスが招かれた人達と共に、苦しみながら求めていく道なのです。
それは十字架へと歩みをすすめていくイエスの御姿が時に敗北者に見えるように、様々な困難苦難に
さえぎられて、敗北への道を歩んでいるかのようにしか見えないこともあるのでしょう。
受難節のこの時、私達もまたマリアのように、イエスの葬りの備えをせよと求められているように思います。それはイエスの十字架への道、苦難の道をしっかりと見つめ、その道を行かれる主の後に従う決意をする、
ということでもあります。確かにそれは時に、主イエスと共に十字架につき敗北の苦しみを味わうことを
招くでしょう。しかしそれは同時に、復活へとつながっていく道、復活を望み見つつ歩み進んでいく
希望の道でもあるのです。十字架への道は、十字架の向こうから射してくる光に照らされ導かれて、
主イエスと共にその光を見つめつつ歩んでいく道です。
私達一人一人の失敗や敗北をも豊かに用いて復活の御業を起こしてくださるこの方と共に、
十字架への道を歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(2月21日) 受難節第2主日礼拝 説教要旨    

ヨハネによる福音書9章1〜12節 竹島 敏牧師
「神の業を行う」

イエスがここでされた事は、偏見により差別され続けてきた一人の人の中に御業を起こす、癒しの奇跡を起こす、ということでした。そのことによってイエスは、誤った社会の価値観を逆転させようとしたのです。そして、天になるごとくこの地にも神の国をもたらそうとしたのです。
ここでイエスが対決されたのは、この世の法や常識というよりも、ユダヤ教の伝統的な価値観・常識であったということに目をとめておきたいと思います。いわゆる現行のユダヤ教の法や価値観にもとづいてふるまおうとした弟子達に対して、主イエスは、最も大切な戒めに照らして、その価値観や常識を見つめ直すべきだと言われたのです。その最も大切な戒めとは言うまでもなく「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めと「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めの二つです。伝統的な価値観や常識を無条件に受け入れ守る姿勢を示すことによって自分たちの敬虔さを実証しようとした弟子達に対してイエスは「もっと大切なことがあるではないか」と言われたのです。
一番大切なことは、そこらにころがっている「もの」のようにずっと扱われてきた「この人」が、ごく当たり前に、人間的な暮らしを送れるようになることなのではないか‥、それが「隣人を自分のように愛する」ということなのであり、そのようにこの世の価値観や常識をひっくり返すのが神の業なのだ‥、そうイエスは宣言されて、「この人」に神の業・癒しの業を行ったのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(2月14日) 受難節第1主日礼拝 説教要旨    

マタイによる福音書4章1〜11節 竹島 敏牧師
「試練のなかで」

ここでイエスが一貫して語っておられるのは「何よりも神の言葉、聖書の言葉が大切であり、そこから自らの行動を決めていくべき」ということです。この悪魔との論争において主イエスは、常に、聖書の言葉を引用しつつ「聖書にこう書いてある」、と述べられました。
悪魔の誘惑は、神に対してまちがった・的はずれな期待、希望を抱かせるところにその大きな目的があるのかもしれません。実際には起こりえない希望を持ち、裏切られ、失望し、やがて神から離れていく‥、それが、悪魔の誘惑の最大の目的なのではないでしょうか。
私たちもまた、まちがった・的はずれな期待、希望を主イエスに対して持ってしまうことがしばしばあるのではないだろうかと思わされます。
特に様々な苦しみのなかで一刻も早くこの苦しみから逃れたい、という想いのなかで、主イエスの御声を聞き、従おうとするよりも、自分の声を主イエスに押しつけ、主を自分に従わせようとする‥、知らず知らずのうちにそのようなことをしてはいなかったか、よく反省してみたいと思います。なぜなら「祈り」とは、自分の願いをどこまでも貫き通す手段なのではなく、時に、それまで抱いていた「願い」が、神の御心によってうち砕かれ、新たな道へと導き出されていくためのきっかけ、にもなるからです。
今、私たちは受難節の歩みを歩み始めました。かつて主イエスは、この地上の生涯においてどのような苦しみを背負われたのか、そしてそれは何のためであったのか‥、これから約40日間の受難節をとおして、そのことを考えていきたいと思います。

礼拝説教要旨 (12月20日)

ヨハネによる福音書1:1-14 竹島 敏牧師
「ひとすじの光」

「罪」とは、人が神の御心という的を、はずした行いをしてしまうことです。人はしばしば、「このようにあの人を愛しなさい、」という神の御心からそれてしまいます。また「このように、あなた自身を愛しなさい」という御心からもそれて、しばしば自分自身を責め、痛めつけてしまうのです。
しかしそもそも人は、しかられた時にではなく、許された時に、「ああ悪いことをしたなあ」という実感を得るものなのではないでしょうか。きつくしかられれば、しかられるほど、心はかたくなになり、言い訳をし自分を守りたくなる‥、むしろ、やさしく抱きしめられ、ゆるしてもらった時に、「ああ悪いことをしたなあ」という実感がわいてくる‥。
ヨハネによる福音書はその1章4節において「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と告げています。確かに私たちはこの世の現実のなかで、自分らしく生きることを阻害され、それが当たり前のようになりその状態に慣らされていきがちなのです。しかし主イエスから発せられるひとすじの命の光にふれた時、押さえつけられていたその自らの命が自由を得て、再び生き生きと動き出すのです。
1年のなかで、闇がもっとも長く支配する季節はまもなく終わります。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」と口語訳聖書にあるその約束に支えられて、光なる主イエスの御降誕を感謝し、その主から発せられる、ひとすじの命の光を見つめつつ、その導きに従っていきたいと思うのです。

礼拝説教要旨 (9月27日)

テモテへの信徒への手紙4:1-7 竹島 敏牧師
「何も持たずに」

今朝のテモテへの手紙が私たちに教えようとしているのは、「正しい信心を持ち、正しい教えを聞き続けているつもりが、次第に、金銭の欲に捉えられ、金銭を追い求めていくうちに、正しい信仰から迷い出てしまうことがある‥、」ということです。そういうことのないようにくれぐれも注意しなければならない‥、ということです。そのことを今朝のテモテへの手紙は、「信仰の戦い」と呼んでいます。
この信仰の戦いを戦い抜くのは、決して容易なことではない、と、聖書は告げています。12節を見ると、どんなに立派な信仰告白をしたとしても、それで信仰の戦いが終わったわけではなく、むしろそこから、この世の様々な誘惑との戦いが始まっていく、と示されています。そのなかで最も激しい戦いになるのが、金銭の欲との戦いだ、と私達に告げています。10節においては「金銭の欲はすべての悪の根です」とまで言われています。聖書は「金銭を追い求める欲を避けて、永遠の命を手に入れなさい」とすすめています。永遠の命の喜び‥、それは、神の国へと共に向かっていく「いのち」の喜びです。そのような真の命を得るために、私達の教会は、また私達一人一人は、どのような信仰の戦いをすすめていくのでしょうか。私達それぞれが与えられている状況において、正しい決断をなし、永遠の命を感じ、永遠の命を生きる道へと歩んでいくことができるよう共に祈りをあわせたいと思います。

礼拝説教要旨 (7月5日)

使徒言行録20:7〜12節 竹島 敏牧師
「パウロの宣教」

パウロという人は、イエスキリストへの熱烈な想いを持っていた人です。衝撃的なしかたで復活の主イエスと出会ってからは、ただ、この主に仕え、従うことだけを求めて生き、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」、という告白にまで達しました。そのパウロに抱きしめられることによって、エウティコは主イエスと出会ったのです。パウロのうちに生きておられるキリストイエスと出会い、癒され、生き返ったのです。
パウロはただ抱きしめただけでした。この時パウロは、自分の内に生きておられるキリストがエウティコを生き返らせたことにさえ、気づいていませんでした。

そしてここで、今朝の聖書の記事が私たちに伝えていることは、イエスを熱烈に求め、そのイエスに仕え続けている人に抱きしめられることによって、イエスとの出会いと癒しが与えられる‥、ということです。
思い返せばこの私も、そのような人との出会いを通して、復活の主イエスと出会ったと言えます。十字架につけられて殺されそして復活されたイエスが今も生きて働いておられる‥、ということをはっきりと知ったのは、パウロのように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」、という告白を実際に生きている人と出会った時でした。
実に、復活の主イエスとの出会いは、そのようにして、人から人へと継承されていくものなのだと思います。

花の日・子どもの日礼拝 説教要旨 (6月14日)

ヨハネによる福音書3章1〜8節 竹島 敏 牧師
「新しく生まれる」

今日はこのヨハネ福音書の中で、とくに8節の言葉に深く聴きたいと思います。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。
霊から生まれた者、つまり新しく生まれた者とは、どういう者かがここに述べられています。それは風の音を聞いて歩む者だと言われています。
私達は風の音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くのかはっきりと知ることはできません。しかしそれでもその音を聞いて歩みなさい、と言われています。これは神様への深い信頼のもとに、風のような神様の声を聞きながら、手探りで歩んでいきなさい…、ということです。そのようにして少しずつ、自分を信じるよりも、神様を信じて生きる生き方を選び取っていきなさい…、ということです。
神様の声は、すぐには、風のように不確かにしか聞こえてこないのでしょう。それでも、なお、一生懸命聞き続けなさい、といわれているのです。
私達人間は、ほうっておくと、知らず知らずのうちに自分の考え、考え方が絶対に正しい、というふうになっていきます。すると最後には、自分の考えが、神様の考えだ、というところまでいってしまうこともあるのでしょう。ですから私たちは、いつも聖書の言葉の光を自分自身に当てることによって、ついつい絶対に正しい、と思いがちな自分の考えを、なおしていくことが必要なのです。そのようにして私達は、新しく生まれ変わり続けていくのです。

礼拝説教要旨(6月7日)  

使徒言行録2:37−47 竹島 敏牧師
「邪悪な時代のなかで」

今朝の聖書の箇所には、ペトロの説教の言葉を受け入れて新しい生き方を始めた人達の様子が記されています。44節以降を見ると「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」とあります。
ペトロの説教の言葉に促されて新しい生き方を始めた人達は、このような理想を実現させました。まさにそれは聖霊の導きによってなされた奇跡だと言えるのかもしれません。しかし、このような理想的な生活は長くは続きませんでした。
そしてそれがまさに私たち人間の現実の姿なのかもしれませんが、しかし、このような理想がたとえ短い期間であったとしても実現して、神の救いの歴史の一部として、聖書に記録されていることの意味は、非常に大きいと私は思います。
確かに理想的な状態は長くは続きませんでした。聖書はそのことを包み隠さず記録し、私たちに示しています。「だから理想を追ってもむなしい」という読み方もできるのかもしれません。しかし、「たとえ失敗しても、挫折しても、その試みには意味がある‥、」そういう読み方もできるのではないでしょうか。そして私たちの間にも与えられている聖霊は、この箇所をそのように読みなさいと促しているように思えてなりません。

礼拝説教要旨(5月31日) 

使徒言行録2章22〜36節 竹島 敏牧師
「命に至る道」

今朝の、このペトロの説教の一番の中心点は、36節の最後に記されております「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」というところです。これはこのペトロの説教の中心点であると同時に、エルサレム教会の信仰告白でもあった、と言えるでしょう。
人々はイエスを十字架につけて殺した‥、つまり人々はイエスを見下げ、見捨ててしまった‥、しかしそのような人々の見方、考え方を神は逆転させようとするのです。
それが、民が十字架につけて殺したイエスを、神は復活させ、主とし、またメシアとなさった、ということの意味なのです。
ペンテコステに、この私たちの間にも豊かにくだった聖霊は、聖書の言葉を通して私たち一人一人に働きかけ、「人々が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」、という信仰告白へと私たちを導きます。そしてこの告白を実際に生きるようにと、私たちを導いてくださるのです。そして、「ほんとうはその方がいいのだけれども、実際には実現不可能」、とあきらめかけていたようなことに再び取り組む力を与えてくださるのです。
やがては死ぬべきこのからだを墓からよみがえらせてくださる方の霊の導きは、私たちが実現不可能と思っていたことを可能にする‥、
この世の価値観に振り回され、ストレスをためこみつつも、なお、聖書の言葉を通して働かれる聖霊の導きを待ち望み、希望を失わないでいたいと切に思うのです。

礼拝説教要旨(4月19日)

『復活の証人として』 竹島敏牧師
ルカによる福音書24:36-49                  

今朝、私たちに与えられました聖書の箇所において
最も注目すべきは49節以下の御言葉です。

そこにおいて主は、次のように語られるのです。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。
高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。

私達の主イエスは常に
神の救いを律法という民族宗教の枠を超えるもの
として示されました。

特に、安息日の病人のいやしなどで、
イエスはそのことをはっきりとお示しになりました。

そのようにイエスは
民族宗教の枠組みをたびたび超えたために恨まれ、
憎まれて、
十字架へと追いやられていったのですが、
弟子達が、これから復活者イエスと共に
なそうとしている業には、
そのような苦しみを再び経験する可能性があるのだ
ということを十分認識しておく必要があったのです。

だからまずは静かに祈り、
黙想し、
覚悟を決めて待っていなさい、
と、そう言われたのではないでしょうか。

私達にもまた時として、
はやる気持ちをおさえ「待つ」ことが
必要な場合があるのでしょう。

私達の力は弱く、
しかし、私達に授けられた主イエスの御心に反するこの世の力は
あまりにも強い…、
そのことを私達は日常のなかで日々、
痛切に感じているのではないでしょうか。

何とかしなければならないという思いが、
思い煩いになり、
やがて、この世のあまりにも大きな力の前には
何をやっても無駄だ、
という無力感に覆われてしまうこともあるでしょう。

しかしそのような時こそ、
高いところからの力・聖霊に満たされるために、
再び静かにイエスの言葉を学び、
祈りなさいと
言われているのではないでしょうか。

常に私たちに先立って生きて働いておられる主に信頼して、
その復活の主と共に歩んでまいりたいと思います。


礼拝説教要旨 (4月12日)

『心が燃えた日』 竹島敏牧師
ルカによる福音書24:28-35

イエスの十字架の死、という出来事によって、
弟子達の希望は木っ端みじんに打ち砕かれてしまいました。

彼らが信じていた事柄は全て失われてしまいました。

しかし、そのような深い喪失感の内に漂っていた時、
再び、聖書にもとづいて、
その真理を深く説き明かし、
信仰を与え、
ふるい立たせてくださる方と出会ったのです。

それが今朝の聖書の箇所をとおして私たちに示されている希望です。

もう一度30節以降を見てみたいと思うのですが、
このふたりの弟子は
復活者イエスが共に食卓についてくださり、
祝福してパンを裂いてくださった時に、
それがイエスであることがわかった、
とありますから、
これは、道々聖書を説き明かしてくださった時に
「心が燃える」ような体験をし、
そして、パンが裂かれた時に、
その復活者イエスとはっきりと出会った、
ということです。

そして、復活者イエスが、
この二人の弟子にしてくださったことは、
今も、復活者イエスの体なる教会において、
起こり続けている、
と言えるのではないでしょうか。

それは、御言葉の説教と聖餐という形で、
ずっと引き継がれてきた御業なのであり、
私たちは、そこにおいて、
深い挫折と失望の中にあっても、
再び「心が燃える」ような復活体験をし、
共に主の食卓にあずかることによって
主のお姿をくっきりと自らの胸の内に、
刻みつけることができるのです。

どんな状態にある時も、
私たちが主に心を開き続け、
主の霊を求め続けるならば、
かつて、エマオ途上において
二人の弟子達に起こった復活体験は、
今日の教会においても…、
今日の私達においても豊かに起こされるのです。

その事を今朝私達は、
再びご一緒に確認しておきたいと思います。


礼拝説教要(4月5日)

『復活の出来事』 竹島敏牧師
ルカによる福音書24:1-12

イースターのこの朝、
私達に与えられたルカによる福音書は、
イエスの体が見あたらない空の墓を前に、
途方に暮れる婦人達の姿を描いています。

さらに、ここに登場する人たち皆が、
空の墓に気が動転し、
主イエスの復活の約束などすっかり忘れてしまっていた、
と言わざるをえません。

また、その約束を思い出してもなお、
それを信じることができませんでした。

婦人達はイエスの直弟子たちに
その事を伝えることによって、
もしかしたら正しい判断を仰ぎたかったのかもしれません。

しかし弟子達はその話を
「たわ言のように」聞くことしか
できませんでした。

このように今日のこの箇所に記されているのは
本当に情けない弟子達の様子でしかないのです。

この時、復活された主は、
どのような想いでおられたのでしょうか。

しかしその後の箇所を読んでいくと、
そのような弟子達のために
復活の主ご自身の方から出会ってくださり、
なおも気づかないでいる鈍感な弟子達に
様々な言葉とふるまいを通して気づかせてくださる、
ということが記されています。

私達もまた、
この現代社会のなかで、
主イエスを感じる信仰的感性が
鈍らされていることを想います。

当時の弟子達のように
主イエスを見失い、
自分自身をも見失いがちであることを想います。

しかし、どんな時も、
洗礼によって
私達の中に与えられた恵みに
心の目を向けさえすれば、
私達は永遠に導かれていくのです。

イエスキリストに近い者、
似た者にされていくのです。

この真理を今一度、
ご一緒に深くかみしめたいと思います。

この大いなる恵みに静かに目を向ける者の心に、
今日、私達の主イエスは復活してくださるのです。


礼拝説教要旨(3月29日)

『苦難の主 』 竹島敏牧師
ヨハネによる福音書18:1-14

今朝の聖書の箇所は、
主イエスがユダに裏切られる、という場面です。

しかし主は、孤独なさみしい気持ちでいっぱいになりながら、
それでも、そのようなご自身の想いを全てわきに寄せて、
「勇気を出しなさい」と励ましの言葉を弟子達にかけられます。

その主イエスの愛は、
この朝、ここに集められた私達一人一人にも向けられていることを、
まず、しみじみと受け止めたいと思います。

受難節のこの時、
私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何でしょうか。

それは、すべてを失ってもなお、
向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。

絶望の中で、枯れるほど涙を流しながらなお、
向こうから一方的にさしてくる光、
これが十字架の希望です。

イエスは、おそらくユダや、その他の弟子達にも捨てられ、
神にさえ捨てられたと感じてもなお、
十字架の上で、この光を見続けていたにちがいありません。

この光に照らされていたからこそ、
「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつも、
最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と
告白したにちがいないのです。

そして、十字架の向こうから射してくるこの光を主は、
ユダの裏切りによって、
逮捕されていくこの時すでにしっかりと見つめていたからこそ、
憐れみのまなざしをもって、なおユダを見つめ、
また、これから次々と自分を裏切っていく弟子達を、
なお守り抜くことがおできになったのではないでしょうか。

私達の救い主・受難と復活の主イエスが、
すでにこの時から見続けていた光を、
私達も見つめつつ、この受難週を歩んでまいりたいと思います。


礼拝説教要旨(3月22日)

『わたしのために泣くな』 中條康仁神学生
ルカによる福音書23:26-31

死刑判決を受けた後、イエス様は自ら十字架を担がれて
「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」を歩まれました。

その後を民衆や婦人たちが従い行きましたが、
イエス様は嘆き悲しむ婦人たちに対し、
「わたしのために泣くな。」と言われました。
むしろ「自分のために」泣きなさいと言われました。

同情のために泣くのではなく、
イエス様を十字架刑へと追いやった
「自分の」内側にある人間の「罪」に気づき、
そのために泣くようにおっしゃったのです。

続けて「自分の子供たちのために」涙するように言われました。
やがて訪れるエルサレムの苦難の未来、
子供たちが直面する苦難の歴史を
神の目で見ておられたのです。
実際エルサレムはこの後、紀元70年に滅亡します。

イエス様は最後に「人々のために」も、泣くようにおっしゃいました。
近い将来のみならず、遠い先の将来をも見通して言われたこの言葉は、
世界の終末時に神が裁かざるを得ない人々、
十字架の愛と福音を拒み続ける人々、
のことを想って泣きなさい、という意味で言われたのです。

イエス様は、人間の罪ゆえに
御怒りと裁きを受けざるを得なくなった人類のために、
逃れの道を与えるために、
身代わりとして十字架におかかりになりました。

キリストの十字架とは、
神の聖なる裁き(正義)と、神の赦し(愛)が、
御子イエスキリストにおいて一つになった出来事です。

私たちが罪を自覚すればするほど、
罪に泣けば泣くほど、
十字架の赦しの恵みが満ち溢れることとなるのです。

ヴィア・ドロローサの途上、
図らずもイエス様の十字架を背負うことになったキレネ人シモンは、
この後イエス様を救い主と認め、キリスト者となりました。
また家族もローマ教会において素晴らしい働きをするようになりました。
この出来事は、受難節を過ごす私たちとって、慰めの知らせだと思います。

主の十字架を黙想し、
自分のために泣いて、子供たちのために泣いて、
また人々のために泣いて、
主に悔い改め、主の十字架の贖いに感謝し、
主の十字架の赦しを体験する受難節となりますように
お祈りいたします。


説教要旨(3月15日)

『神は知っている』 友野富美子牧会補助者
ヨブ記38:1-18

ヨブ記には、ヨブという一人の人間が悪に翻弄され、
すべてを失って絶望の淵にいるその中で、
どのように神と格闘したかが記されています。

ヨブはなぜこのような苦しみが自分を襲うのかを神に問います。

友人たちがヨブに罪があると糾弾してもなお、
ヨブは「全能者と話したい」と、神に詰め寄るのです。

このヨブに、38章になってやっと神は出て来て答えますが、
示されたのは創造の素晴らしさと、その統治の見事さでした。

これは、なぜヨブがこのような苦しみを背負わされたのか、
という問いの答えにはなっていません。

けれどヨブはこの神の回答にひれ伏します。

なぜでしょうか。

ヨブは、神が自分に、小さな自分の叫びに応えて下さった、
そのことそれ自体に安堵したのではないか、
と思うのです。

ヨブは神に信頼して生きてきました。

神はすべてをご存じだ、そう信じて疑いませんでした。

神は必ず応えて下さる。

だから「神さま出て来い、神さま出て来い」と何度も迫るのです。

そのヨブに神は告げます。
「すべてのものを造ったのは、わたしだ。
この大地も、海も、朝も、死さえも、そして、お前のことも」。

すべてのものを愛をもって造られた神が、
ヨブのことも、また私たち一人ひとりのことも造り、
知っていらっしゃるのです。

私たちにも悪は襲い掛かります。

ヨブ記はなぜこのような悪があるのか、直接には答えていません。

けれど、この悪の中にあってなお、
「汝、生きよ」と私たちを造られた神は命じられます。

神は私たちに必ず応えて下さるのです。

そして私たちには、人間の苦しみ悲しみを
身をもって味わい知っているイエス・キリストが伴って下さいます。

十字架に掛かるまでに私たちを愛し抜かれた方が、
私たちの苦しみに寄り添って下さるのです。


礼拝説教要旨(3月8日)

『たとえ全世界を手に入れても』 竹島敏牧師
ルカによる福音書9:18-27

今朝の聖書の箇所において、
十字架を背負う生き方を
イエスは弟子達にすすめています。

そして今、ここに集められた私達にも、
十字架を背負う生き方をすすめておられます。

「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と…。

この、「日々、自分の十字架を背負う」、
とはいったいどういうことなのでしょうか。

それは、今、私達一人一人が
背負っているものの上にさらに何かを背負いなさい、
ということなのでしょうか。

いや、そうではなく、
すでに背負っているもののなかに、
十字架を見出す、
ということなのではないでしょうか。

今すでに私達が背負っているもの、
そのなかには、
できれば背負いたくなかったものもあるはずです。

また、否応なく私達の身の上に
ふりかかってきた苦しみがあるでしょう。

しかしそのなかに、十字架を見出す、
ということがもしできたなら、
私達は自分が背負わされているものに
積極的な意味を見出し、
喜びを見出すことができるのではないでしょうか。

ここで主が言おうとされたことは、
そういうことだったのではないでしょうか。

今、すでに自分に与えられている課題や苦しみのなかに
十字架を見出しなさい、
ということです。

そしてそのために、十字架を見出すために
まず私達がなすべきことは、
主イエスを見つめることです。

イエスが歩んだ…、
生きた道を見つめることです。

この世界には、
世界を自分の手に入れた、と思った次の瞬間に、
自分の身を滅ぼしたり失ったりする、
という出来事が満ちています。

しかし私たちは十字架への道を歩んでいかれた
主イエスの姿を見つめ、
その後に従っていけますように、
と御一緒に祈りを合わせたいと思います。


礼拝説教要旨(3月1日)

『神の指』 竹島敏牧師
ルカによる福音書11:14-26

今朝私たちに与えられました聖書箇所は、
イエスが悪霊を追放された、
というお話です。

「ベルゼブル論争」という小見出しがつけられていますが、
その最初のところでは、
何の力によって悪霊を追い出すのか、
という論争になっています。

そして、今朝の24節以降においては、
汚れた霊は一度出て行っても、
すぐにまたもどってくる、
とも言われています。

だから気をつけていないといけない…、
でないとまたいつでも汚れた霊、
悪霊にとりつかれてしまう…、
しかも油断していると汚れた霊は、
自分よりも悪いほかの7つの霊を連れてきて、
中に入り込んでくると言われています。

だから油断してはいけない、と…、
いわゆる中立というような立場で、
漂っていようものなら、
すぐに、汚れた霊に魅入られて取り込まれてしまう、
というのです。

汚れた霊に魅入られて
取り込まれないためには、
23節の言葉を借りるならば、
常に、イエスの味方であるという立場を明らかにし、
イエスと一緒に集め続けることだと言われています。

そのような態度をとり続けるならば、
その人の内側にはたえず聖霊が満ちあふれ、
汚れた霊に取り入るすきを与えることはないのです。

私達の主イエスが歩まれた道は、
徹底した非暴力、
非戦の道でありました。

主は十字架の死に至るまで、
徹底した非暴力、
非戦の道を貫かれました。

あらゆる暴力をもたらす霊、
また、戦いを好む霊を、
徹底的に追い出そうとされました。

それが私達の主イエスが
たどられた道でありました。

受難節のこの時、
その道を深く見つめつつ、
また今も主は、
神の指で、
悪霊追放の業をしようとしておられることを想いつつ、
私達もまた、
その神の指の業に参与させられたいと
心から願うのです。


礼拝説教要旨(2月22日)

『苦難の中に示された栄光』 竹島敏牧師
ヨハネによる福音書12:20-29

イエスの宣教の中心は神の国でありました。

天になるごとく
地にも神の国がなっていくことに
イエスは全てをかけられたのです。

苦難の多いこの世に示された栄光、
それこそが神の国である、と、
そのような神の国の香りが、
もう既に漂ってきているではないか、と。

だから、私達は
そのために仕えていくよう招かれているのであり、
そこに仕えるなかで私達自身の悩みや課題も
解決の方向へと導かれていくのです。

私達の人生には
なお多くの悩みや課題が与えられており、
深い不安にとらわれたり、
激しい動揺におそわれたりすることも、
しばしばあるのかもしれません。

しかし、そのような時こそ、
イエスもまた、
十字架の道行きを前に、
激しく心騒がせられたことを
思い起こしたいと想います。

しかし、イエスは、
その道から逃げることなく、
その道にとどまり、
一歩一歩進んでいかれました。

その結果、やがて、
復活という豊かな実りにあずかることができたのです。

私達もまた、
深い不安にとらわれながらも…、
心騒がせつつも、
御国を仰ぎ見て歩んでいくならば、
今歩いている道の先に示されている光が
徐々にはっきりと見えてくるのではないでしょうか。

そして歩んでいく道筋が
次第に明るく輝いて見えてくるのです。

私達もまた、イエスがそうされたように、
神の国が天になるごとく
地にもなるように仕えていきたいと思います。

そのように歩んでいくところに、
私達一人一人の悩みや課題が
解決されていく道が備えられていることを信じて、
その私達一人一人の救いが
成就していく道に照らし出される光を見つめながら、
前進していきたいと思うのです。


礼拝説教要旨(2月15日)

『悪魔の誘惑』 竹島敏牧師
ルカによる福音書4:1-13

今朝のルカ福音書を見ると、
悪魔は非常にたくみです。

聖書の言葉をも巧みに用いて
イエスをそそのかしています。

しかしイエスはその聖書の言葉に、
聖書の言葉で返しています。

イエスはさまざまな
聖書の言葉の中心を貫く
神の御心を知っていました。

またイエスは1節に記されてあるように
聖霊に満ちておられました。

そのように聖霊に満たされていたからこそ、
イエスは聖書を正しく解釈することができました。

そして聖書の言葉を
自分の都合のいいように引用した
悪魔を論破できたのです。

私達もまた様々な誘惑に、
生涯、合い続けるのでありましょう。

しかし私達は今朝
イエス御自身も生涯、
悪魔の誘惑を受け続けられたのだ
ということを覚えておきたいと思います。

13節には
「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」
とありますが、
これは時が来たらまたイエスに近づいて誘惑した
ということです。

悪魔の最後の誘惑は
イエスが十字架への道を行かれる直前になされました。

しかしイエスはゲッセマネにて
苦しみぬき祈りぬいて、
悪魔の最後の誘惑をも退け、
十字架への道を行かれたのです。

受難節を迎えるにあたって
荒れ野での誘惑を退け、
さらに地上での生涯の最後まで
誘惑を退け続けたイエスの姿を見つめるならば、
私達にもきっと聖霊が豊かに与えられるにちがいありません。

祈りつつこのイエスを見つめて
さまざまな誘惑にうち勝つ歩みをなしたいと思います。

確かに誘惑を退けることによって
受難を招くこともあるのかもしれません。

しかしその受難の歩みの向こうに
今はまだほのかにではあっても、
すでに見えている復活の光を見つめながら
歩んでいけたらと思うのです。


礼拝説教要旨(2月8日)

『満ち足りるということ』 竹島敏牧師
ルカによる福音書9:10-17

今朝私たちに与えられましたこのルカによる福音書において、
イエスの周りに集まっていた五千人以上もの人たちはみな、
精神的に、あるいは肉体的に、
痛み苦しみを抱え、癒しを求めていた人たちでした。

満腹になれない原因は
単に貧しさだけではありませんでした。

心の痛みや、体の痛みのために、
十分に食事がとれない…、
この五千人以上もの人たちのなかには、
そのような人も大勢いたのではないかと思います。

しかし、様々な理由で十分に食事をとることができなかった
そのような人たちが、
主イエスの神の国についての言葉を聞いて、
また、主イエスとの交わりの中で癒されて、
そしてイエスの奇跡によってこの日この時は、
再び元気に食事をとり、
満腹することができたのです。

この五千人以上もの人たちが、
この後も、満腹して過ごすことができたのかどうか、
それはわかりません。

なぜならイエスの奇跡行為は、
継続して毎日行われたものとは考えにくく、
その一番の役割は、奇跡行為を通して何かを指し示す、
ということだったと思われるからです。

ここでイエスが指し示そうとされたのは、
神の国とはどういうところなのか、
ということです。

この人たちはこの後も、
神の国における最終的な救いを前もって味わった
この時の出来事を思い起こしながら、
この思い出に支えられて生きたのではないでしょうか。

一度は前もって体験したあの神の国に、
今も自分たちは導かれつつあるのだ、
という希望に支えられてそれぞれの生涯を歩んだのではないでしょうか。

そしておそらく、神の国を求めて
イエスに従う歩みを始めた人たちが、
ここから大勢生み出されたのではないだろうか
と思うのです。


礼拝説教要旨(2月1日)

『主イエスの癒し』 竹島敏牧師
ルカによる福音書5:17-26

今朝のこの物語は、
中風の人を何としても助けたいと
願い考えた人たちの信仰が
主イエスにみとめられて起こった
癒しの業を伝えています。

その信仰とは、
偏見に満ちた当時の常識を破ってしまうほど
強烈なものでありました。

その強烈さは、
群衆がその人たちを
イエスのいる家の中にいれようとしなかったのに対して、
その家の屋根にのぼって瓦をはがし、
天井を破って入っていったという
行動にあらわれています。

この信仰の故に、
主の御業が起こされました。

そしてこの主の癒しは、
病にまつわる偏見や差別を受けての苦しみから
この人を解き放つところから
始められたのです。

主の癒しの業に共通しているのは、
病の痛みや症状が改善されるのみならず、
いやそれ以前に、
生き生きと生きていく道筋が与えられるということです。

今日の箇所に登場してきた中風の人にもまず、
そのような道筋が与えられました。

「罪人」というレッテルがはがされ、
偏見や差別から解き放たれて
家に帰るという道筋が与えられたのです。

すなわち主イエスの癒しとは、
必ずしも私たちの病の症状を取ることなのではなく、
私たち一人一人が死んでいたような状態から目覚めさせられて、
活き活きと、
自らに与えられている全ての賜物を生かして
生き始めるようになることなのです。

私たち一人一人の根底に与えられていた
そのような賜物が目覚めて活動し始める‥、
根底からその人を支え、動かし始める、
そういうことを言うのです。

最後に、この主イエスの癒しは、
本人の信仰というよりも、
そのまわりの人たちの信仰によって
起こされたのだということをもう一度、
深く心にとめておきたいと想います。


礼拝説教要旨(1月25日)

『実を結ぶ人たち』 竹島敏牧師
ルカによる福音書8:4-15

今朝の聖書の箇所には、
私たち一人一人の心の奥深くにまかれた御言葉の種が、
どうすれば実を結んでいくのか‥、
ということが記されています。

確かにそのためには
私たち一人一人の努力も必要です。

しかし、私達は時に、
主イエスの御前でさえ、
立派でありたいとか正しくありたいとかいう
無理な緊張をしていることがあるのではないでしょうか。 

しかし、そんな必要は全くないのだ、
と、私たちは今日の聖書の箇所から
言われているのではないかと思います。

どんなに緊張して、自らを取り繕おうとも、
主は全てをご存知なのです。

立派に正しく見せようとしても、
そんな虚偽の姿はかんたんに見破られて、
くずされてしまうのです。

そんな、おろかしいふるまいはもうやめて‥、
そして、主イエスの光をゆったりゆたかに浴びて、
生かされている喜びに胸を熱くして過ごす日が必要なのだ、
と、そう言われているのではないでしょうか。

そして何よりもそれは、
聖別された主日のあるべき姿なのでありましょう。

果たして私たちは、主日ごとに、
主イエスの光をゆったりゆたかに浴びて、
生かされている喜びに胸を熱くして
過ごすことができているのでしょうか。

もしできていないとすれば、
それはいったいどうしてなのでしょうか。

そして教会において、
たとえ互いにいろいろな言葉を交わさずとも…、
黙っていても…、
なぜ胸が熱くなるのか互いにわかるようであってほしい…、
それが、教会の本来あるべき姿なのだと思います。

今こそ私たちは、再び、
肉眼の目では決して見ることのできない実り、
信仰の目でしか見ることができず確認することのできない
百倍の実りを求めて歩むようにと、
主イエスから促されているのではないでしょうか。


礼拝説教要旨(1月18日)

『崩壊の予告』 竹島敏牧師
ルカによる福音書21:1-9

今朝のルカによる福音書は、
終末的な状況が世を覆っても、
すぐには世の終わりは来ないと告げています。
確かに今よりもっと悲惨な事が次々と起こってしまうのかもしれません。

しかし聖書は「おそれるな、おびえるな」と
9節において告げています。

戦争や暴動が起こり続け、
仲がよかったはずの友達同士が、兄弟が、親子が、
憎みあい命を奪い合うということが後をたたない‥、
まさに終末的な状況が私達をおおっていると
言わざるを得ないのではないでしょうか。

また私達が生かされているこの時代、
まさに自分こそが、
この世を変え、この世を救うキリストだとでも
言わんばかりの人達が出てきています。

このような神の正義、
神の国とはかけ離れた現実が
私達をおおっているなかで、
私達は改めて自らのあり方を振り返りつつ、
神に賭けて…、
主イエスに賭けて生きる生き方を
求められているのだと思います。

そしてこの、暗闇のような終末的な状況のなかで、
自らのあり方をあらためて振り返りつつ
神に賭けて…、
主イエスに賭けて生きる時、
私達にも「この貧しいやもめこそが、
だれよりもたくさん献金を入れた」という見方が、
その時々に応じてできるようになるのではないでしょうか。

そして私達にもまた、
このレプトン銅貨二枚を献げた女性のような真剣さ、切実さが、
より深く、より強く生み出されてくるのだろうと思うのです。

そして、この女性のように切実に、真剣に、祈りつつ、
闇に輝く小さな光のような証の業を積み重ねていくならば
きっと主は、
神の国を私達の心にありありと描かせてくださり
その希望に生きることができるようにしてくださるのだと思うのです。


礼拝説教要旨(1月11日)

『イエスの弟子たち』 竹島敏牧師
ルカによる福音書5:1-11

2015年、新しい年を迎えて約10日がたちました。
新たな希望や目標をそれぞれの胸に秘めつつも、
今年も、よいことばかりが起こるとは限らず、
嫌なことや、つらいことにも多く出会うことになるのかもしれません。

しかし、そのような時こそ、
失意のどん底において主イエスと出会い、
その招きに即座に従っていったこの漁師たちの物語を
想い起こしたいと思うのです。

彼らはそれぞれの悩みや課題を抱えたまま、
即座に従っていきました。

おそらく主の招きに応えて従っていったからといって、
すぐに、それまで抱えていた問題が解決したり、
状況が好転したりはしなかっただろうと思います。

けれども、主に従っていくなかで、
自らの痛み苦しみが、隣人の痛み苦しみに共感する道具として用いられ、
様々な出会いのなかで新たな連帯が生み出されていき、
そこから少しずつ解決への道筋が見えてくるようになった…、
そのような順序で導かれていったのではないかと思います。

現代の弟子である私達一人一人にも、
様々な悩みや課題があります。

しかしきっと主イエスは、私達のそのような日々の痛み苦しみをも全て用いて、
私達をも、主の弟子として用い、派遣してくださるのだと思います。

確かに私達もまたペトロのように疑い深く、主の言葉よりも
この世の常識を優先させがちな者なのかもしれません。

しかしそれでも「恐れることはない、あなたを、人を、
その命を保ったままで、危険から、危機的状況から救い出す人として用いよう」
と招いてくださる主を一心に見つめて、
主の年2015年、この年、自らに与えられる主の具体的導きを
素直に受け入れて歩む心備えをしたいと思います。



礼拝説教要旨(1月4日)

『イエスの決意』 竹島敏牧師
ルカによる福音書3:21-38

今朝、私達に与えられました聖書箇所が私たちに告げていることは、
イエスは全ての人を救うために人となり、
そして、神に向かう運動と自分とを一体化するために、
あえて、ヨハネのバプテスマを受けた、ということです。

私たちの日々の歩みの中にも、
様々な苦労があり、苦難があり、十字架があります。

しかし主が、この私のためにも、
共に苦難と十字架を担って歩んでくださる、
そのことを信じるならば、私たちは、
私たちの前を歩いていてくださるイエスの御姿をしっかり見つめながら、
一歩ずつでも足を前に踏み出していくことができるのです。

私達の主イエスは、
洗礼を受ける必要などなかったのに、
私達と同じ苦しみを苦しみ、悲しみを悲しむ、
そのような仕方で私達を愛し、
支え続けてくださるというしるしとして、
あえて、洗礼を受けられました。

神の子であるにもかかわらず、
神と全く等しい御方であるにもかかわらず、
私達人間と全く同じ姿になってくださいました。

私達が生かされているこの時代は、
神でないものを神としてあがめ、おがみ、
また、自ら神であるかのような振る舞いをする者が増えている、
そんな時代でありますが、
そのような時代に、まことの神が私達と同じ人になられた、
というメッセージは非常に意外なものであると同時に、
ほっと慰められるものでもあるのではないでしょうか。

人を押しのけて神にでもなろうとするような人達がいる一方で、
本当の神は、苦しくつらい想いをしている人達、
そのような想いを強いられている人達と共にあって、
同じ苦しみ、同じ痛みを共有し、
担うところから救いの業を始めようとしておられると聖書は語っているのです。


礼拝説教要旨(12月28日)

『何に導かれるのか』 友野富美子牧会補助者
マタイによる福音書2:1-12

今日の箇所には、お生まれになったイエスさまを巡って
登場人物たちがどのように考え、行動したかが描かれています。

博士たちは星を頼りに「王」を探しています。
自分たちの信じる占星術が正しければ「王」に会うことができるはずなのです。
彼らは自分の信じる「宗教」に従って、星だけを頼りにやってきました。

しかし彼らは生まれたばかりの幼子と出会ったとき、
幼子を「本当の王」と崇め、ひれ伏して礼拝するのです。

この後イエス・キリストと出会った博士たちは、「別の道」を通って帰りました。
それに対する「今までの道」は、星に導かれて来た彼らの生き方を
示しているのではないでしょうか。
彼らはそれを捨て、別の道を行きます。

星をつくり、導いていたのは神さまです。
彼らは神さまの導きで歩んでいたのです。

御子イエス・キリストと出会うことで、彼らは本当の喜びを知りました。
彼らはもはや元の道に戻りはしません。
自分たちの国、生活の場に戻っても、彼らを導くのは今までのものとは違うでしょう。
彼らは新しい、別の道を歩み始めているのです。

一方ヘロデはどうでしょうか。
彼が考えているのは自分の保身だけです。
自分の小ささと恐れの中にいます。
そして恐れと怒りから幼子たちを抹殺するのです。
彼はキリストに出会うことはありません。

私たちは生きていく中で、闇を歩んでいることがあります。
けれど、そのような私たちの傍らに必ず、
幼子の姿のキリストが佇んでいてくださるのです。

私たちはそれぞれに、イエス・キリストと出会います。
そのとき、私たちはどのようにキリストをお迎えするのでしょう。

私たちは何に導かれ、誰と出会うのでしょう。
自分の信じる星、生き方なのでしょうか?
それともキリストに伴われ、神に導かれる生き方でしょうか?

クリスマスのこの時、私たちは問われているのです。


礼拝説教要旨(12月21日)

『低みに生まれた愛』 竹島敏牧師
ルカによる福音書1:26-38

今朝の聖書の箇所に記されてありますように
神はしばしば、マリアにされたような…、
私達人間には不可解な、
にわかには信じがたい御業を起こされます。

なぜ神は、こんな事を言われるのか…、されるのか…、
と、とまどうことや、
できればこのことには関わりたくない、
ということや、
場合によっては怒りたくなるようなこともあるかもしれません。

しかしひとつ言えることは、
そのような様々な葛藤なしに、
私達は神との深い出会いや
イエスとの深い交わりを味わうことは決してできない、
ということです。

自分に与えられた課題の重さに、もう一歩も前に進めない、
という想いのなかでうずくまってしまうこともあるいはあるかもしれません。

しかし、そのような時にこそ、
主イエスは私達一人一人の傍らにいて、
共にうずくまってくださり、
言葉にならない私達のうめきを祈りとして受けとめ、
とりなしてくださいます。

そのような方が、私達一人一人の傍らに来てくださった…、
それが私達に与えられるクリスマスの喜びなのです。

私達の主イエスは、喜びが満ちているところにではなく、
悲しみが満ちているところに
小さな希望の光を灯すために来てくださいました。

そこから全ての人を救う歩みを始められたのです。

そのようなイエスの御生涯のスタートが飼い葉桶という場所だったのは、
非常に象徴的なことだと思います。

私達の主イエスは、神の身分でありながらそれに固執することなく、
この地上のもっとも低き、暗き、ところに来てくださいました。

このような「低みに生まれた愛」・イエスが、
私達と共にいてくださる、私達と共に歩んでくださる、
それが今日、私達に与えられた、「よき知らせ」なのです。



礼拝説教要旨(12月14日)

『不信をこえて』 竹島敏牧師
ルカによる福音書1:5-20

私たちの主イエスキリストは、
飼い葉桶に生まれ、
十字架上で死なれました。

主が十字架の上で最後に叫ばれた言葉は
「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」
という言葉でした。

この主イエスは、
まさに『その全存在が「なぜ」でしかなかったお方』でありました。

しかしその方が、再び、
私たちの間に宿ってくださる、というのは、
私たちにとってまさに一筋の希望の光なのではないでしょうか。

私たちは今、クリスマスを前にして、
様々な「なぜ」という想いを抱え、
真っ暗な闇にたたずんでいるのかもしれません。

しかし、『その全存在が「なぜ」でしかなかったお方』が
再び私たちの間に宿り、
共に「なぜ」と叫びつつ、
一緒に歩んでくださるのです。

だから私たちにとってクリスマスとは、
本来、派手な祝いの時とは無縁なものです。

4本のろうそく全てに明かりがともるその時は、
私たちにとって喜びの成就の時なのではなく
『その全存在が「なぜ」でしかなかったお方』と共に、
なお「なぜ」と問い始めていく出発の時なのです。

様々な「なぜ」を抱えながら、しかし、全ての「闇」にうち勝たれたお方が、
再び共に歩んでくださる…、
だからいつかきっと、この私の「なぜ」、にも答えが与えられる、
その希望のしるしがアドベントクランツの4本のろうそくの光なのではないでしょうか。

祭司ザカリアの不信をこえて、
御業を成就させた神…、
十字架上でのイエスキリストの最後の叫びをこえて、
復活の御業をなされた神…、
その神が、私たちの不信の叫びをも超えて、
必ず御業を成就させてくださる…、
再び希望を与えてくださる…、
その想いを深めつつ、アドベントクランツの4本目のろうそくに
明かりが灯される日を静かに待ちたいと思うのです。


礼拝説教要旨(12月7日)

『言葉を担う』 竹島敏牧師
ルカによる福音書4:14-21

私たちが、聖書を読み始めた時、
そこにはいろんな理由が…、
またいろんな求めが…あったかもしれません。

しかし、私たちが聖書の言葉と向き合い始めたその時から、
聖書の言葉は私たち一人一人の心の扉をたたいていたのです。

私たちが聖書の言葉と向き合うときには、必ず、
聖書の言葉の方から私たちに働きかける、
ということが起こっていたはずなのです。

もし最初はそのことに気づかなくても、
この世にあって様々な苦難困難に出会った時に、
私たちはそのことに気づかされるのではないでしょうか。

そして改めて真剣に聖書の言葉と向き合い、
新しい生き方へと促されていくのです。

そのような生き方は時として、
この世の価値観・この世の言葉との対立を生み出すこともあるかもしれません。

しかしその時私たちは、きっと、
聖書の言葉を担って生きていると思っていた私たち自身が実は、
その、聖書の言葉に担われて歩んでいるのを発見するのでありましょう。

聖書の言葉・イエスの言葉を担うということは、
同時に、その言葉に担われる、ということでもあります。

言葉を担うことによって、その言葉に自分が担われるのです。
支えられるのです。
救われて、導かれるのです。

「言葉を担う」とは、そういうことです。
だからそれは重荷ではなく、恵みなのです。

アドベントのこの時、
私たちは、どんなイエスの言葉に出会うのでしょうか。

その深い意味を新たに知らされ、
その言葉に担われて新たな歩みへと踏み出すことになるのでしょうか。

この暗闇のような世の状況に再び来てくださる主を待ち望みつつ、
その主イエスの言葉・聖書の言葉に新たに出会い、
その言葉を担う者として、再び立ちたいと思います。


礼拝説教要旨(11月30日)

『その時、救い主が来る』 竹島敏牧師
ルカによる福音書21:25-36

今日の聖書の箇所には、私たち人間の弱さと、
しかしその弱さを承知して、
とりなしの祈りと行動をし続けてくださる主イエスの深い憐れみ・愛が
証されています。

そして今日の箇所に続くところには、
イエスはいつもオリーブ山で真剣に祈っていた…、
そして、逮捕される直前も血の滴るような汗を流して切に祈られた…、
と記されています。

しかし弟子たちは悲しみの果てに眠りこんでしまっていた…、
目覚めて祈っていることができなかった、とあります。

さて、今日からアドベントを迎えました。
私たちもまた、あの弟子たちのように、
悲しみの果てにすぐに眠ってしまうかもしれません。

しかしそれでも、私たちはまず、
再び目を覚まして祈ろうとつとめはじめたいと思います。

その結果‥、精一杯頑張った結果‥、
やはり私たちもまた、あの弟子達のように
悲しみの果てに眠り込んでしまったとしても、
主はきっとお許しくださり、
私たち一人一人の代わりにとりなしの祈りを続けて下さるのではないでしょうか。

だから私たちは私たちそれぞれの限界の中で、
目を覚まして精一杯祈り続けていればいいのだと思います。

そのように自らの限界と破れを素直にさらけだして、
主イエスの到来を待っていればいいのだと思います。

そうすればきっと、神が、再びイエスキリストとなって、
私たち一人一人の心の中に宿ってくださるのではないでしょうか。

だから、もう自分一人の力で頑張らなくてもいいのです。
虚勢を張る必要もないのです。

私たち人間の弱さと、しかしその弱さを承知して、
とりなしの祈りと行動をし続けてくださる主イエスの深い憐れみと愛に期待して、
その日を待ち望んでいきたいと思います。


礼拝説教要旨(11月23日)

『ともし火のように』 竹島敏牧師
ルカによる福音書11:33-41

私達の世には、
私達をキリストの愛から引き離そうとする様々な試みがあります。

私達の世には、
私達の内側に与えられているともし火よりも、
もっと強く見える光、荘厳に見える光、高価に見える光
が確かに存在しています。
そしてその光が、私達を強く引きつける時もあるのでしょう。

けれどもどんなに引きつけられようとも、
私達はこのことを知っておかなければなりません。
どんなに強く、魅惑的な光も、
一時的なものであり永遠に続くものではないのだ、と。

私達がイエスをキリストと信じる告白をした時に、
私達一人一人の内側にともされたともし火…、
一見、弱く、はかなく、小さいこのともし火こそ、
決して消えることなく永遠にともり続ける命の光なのです。
この世の命を終えてなお、
その人の存在の内側から、
その人を照らし続け、
地上に遺された者達に、
その人の存在を天から力強く証しする光…、
それが、私達一人一人の内側にともされているともし火なのです。

今朝、この主日礼拝において私達は、
どんな時も、この自分の内側に、
イエスキリストというともし火が、
ともっているということを…、
そして、このともし火は、
時に消え入りそうになっても、
決して消えず、
永遠にこの私を照らし続けてくださるのだ、
ということを、覚えておきたいと思います。

そしていつか、この世の生涯を走り終え、
天に召されるその時まで、
このともし火に照らされて、
このともし火のようなあたたかさを私達自身が放ち、
この闇の世に、主イエスのぬくもりをせいいっぱい証していきたいと思うのです。


礼拝説教要旨(11月16日)

『神のことばをまもるなら』 竹島敏牧師
ヨハネによる福音書8:51-59

今日のヨハネによる福音書には、
人と人との約束ではなく、イエス様と人との約束が記されています。

「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」、

つまり「イエス様の言葉を大事にして生きるなら、
その人は、生きている時も死んでからも、輝き続ける、
そして多くの人の心の中に生き続ける」‥、
そういう約束です。

聖書ではイエス様の言葉は、
よく植物の種にたとえられます。
種は、天から降ってくる雨をたくさんもらわないと、
芽を出して育っていくことができません。

しかし種は自分の力で雨を降らせることはできませんから、
待っているしかないわけです。

そのように私たち一人一人にも、
自分の力ではどうすることもできないことがあるのだと思います。
よくわからないイエス様の言葉・種を心の中に抱えたまま、
過ごさねばならない時もあるのかもしれません。

しかし、大切なのは、
種を捨ててしまわないことなのだと思います。
大事に、祈りつつ抱え続ける‥、
そうすれば必ず、
いつか一人一人にふさわしい芽が出てきて、
いろんな形の実りが与えられてくるのです。

それが、今日のヨハネによる福音書において、
神様が私たち一人一人に与えてくださっている約束です。
私達人と人との約束は、
簡単に破られてしまうことが多いのかもしれません。

でも、私たちには、
この決して破られることのない神様からの約束が与えられているのだ、
ということを、今日は心に深く覚えて、
それぞれのところへと帰っていきたいと思います。


礼拝説教要旨(11月2日)

『神の刻印』 竹島敏牧師
ヨハネの黙示録7:2-4

今日のこのヨハネの黙示録に示されていたのは、
神の僕達の額に、神の刻印が押されるまで、
大地や海を大きく損なうような激しい風は、
天使達によって押さえられていた、ということです。

神の刻印、
すなわち洗礼にあずかるべく招かれている者全てに、
洗礼がさずけられるその時まで、
この世界の決定的な破滅から天使達が守ってくれる、
という福音が、ここにしめされていると言えるのではないでしょうか。

ヨハネの黙示録は、
紀元95年頃、ドミティアヌス帝の治世の時代、
諸教会に対する迫害が徐々に激しくなりつつある頃に書かれました。
ローマの属州アジア州の諸教会は、
帝国の政治的迫害に苦しんでいました。

黙示録の著者は、そのような状況のなかで、
差し迫ったキリストの再臨、この世の終末と完成を告げて、
殉教の危険にさらされていた諸教会を激励しようとしたのでした。

今日の7章以下の箇所においては、
神の僕たち全てに神の刻印が押されてしまうまでは、
世界の決定的破滅は延期され、
またどんな時も、
神の刻印が神の僕たちを守るということが明らかにされています。

私達が今、生かされているこの時代も、
終末的な状況である、とよく言われます。
まるでこの世の終わりを予感させるような出来事や事件が日々起こり、
希望を見出すことがむずかしい時代です。

しかし、そのような私達の主観をはるかに超えて、
神の刻印が私達にも押されており、
それが、救いの保証となっていることを再び想い起こしたいと思うのです。

神の刻印を身に押された者として、
主の霊を豊かにいただき、
主の見守りと導きのうちに生涯を歩んでいく幸いを、
証しあう私達でありたいと思うのです。


礼拝説教要旨(10月26日)

『キリスト者を生み出す教会』 中條康仁神学生
使徒言行録11:19-26

ステファノの殉教をきっかけにして起こった迫害は、エルサレム教会にまで及びました。
愛し合うユダヤ人信徒たちは離れ離れになりましたが、散らされたその中の数人が、
ギリシア語を話す異邦人にも、福音を宣べ伝えたのでした。

神さまは、その名もない信徒を用いて、また迫害という危機さえも用いて、
世界中の人々に福音を告げ知らせようとご計画されたのでした。

「信じて主に立ち帰った者」たちの集まりは、やがてアンティオキア教会となりました。
ユダヤ人とギリシア人が一緒に礼拝する共同体が誕生しました。

この教会を牧会するために、エルサレム教会からバルナバが派遣され、
たとえ困難の中にあっても、「固い決意をもって主から離れることのないように」と信徒たちを教育しました。

彼はまたサウロ(パウロ)を教会に招き入れ、二人は共同で牧会しました。
成長する教会の働きには、お互いの賜物が必要だったからでした。

信徒のことを「キリスト者」と呼ぶようになったのは、アンティオキア教会が始まりでした。
日々キリストのことばかり口にする信徒たちに対し、周りはからかうように、
「キリスト者」(キリストかぶれ)と呼んだのを、むしろ名誉なこととして受け入れたのです。

イエス・キリストに仕えていく人生は、決して順風満帆ではないと思います。
しかし自らを「キリスト者」として受け入れ、主に従おうと決断するならば、
神さまはどんな困難であっても、たとえ迫害であっても、それに耐えうる力を与えてくださる、
と信じなければなりません。
「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」と約束してくださる
神さまがいらっしゃるからです。

私たちの教会がこれからも「キリスト者」を生み出し、献身者を生み出し、
新たな魂を育てて、共に成長していく教会となりますように。
また互いに愛し合いながら、その恵みを世へと宣べ伝えていく教会となりますようにお祈りします。


礼拝説教要旨(10月19日)

『神の国の豊かさ』 竹島敏牧師
ルカによる福音書12:13-21

今朝は幼児賛美礼拝ということで、幼い子どもたちの賛美が献げられましたが、
あの幼い子どもたちが安心して、明るい希望を持って、
未来に向かって生きていけるような社会を作っていく、ということ‥、
それが、神の国を求める、ということなのではないでしょうか。

そしてそのような神の国は、32節に記されているように、「神がくださる」ものなのでもあって、
神ご自身が私達に先立ってそのために働いておられ、私達をその働きに参与させてくださるのです。

今もう一度心を静かにして、目を閉じて、ゆだねられている自らの命の鼓動に耳を澄ませるならば、
私達が生かされている現状が神の国からますます遠ざかっているかのように見えようとも…、
このゆだねられた限られた命を、ゆだねられた使命のままに使い切ることが、自らにとっての幸せでもある、
と思えてくるのです。

今朝の聖書の箇所を通して私達は、自分の命のことばかりを心配し思い煩うのではなく、
何よりもまず、神の国を求めて生き、その豊かさにあずかっていきなさい、
と言われているのではないでしょうか。

誰にでも等しく、いつかは訪れる死を、私達もまた受け入れなければなりません。
それがいつなのかは誰にもわからない…、
どんなに財をなしても、それを自由に自分で延期させたりすることはできない…、
いつか、必ずやってくる死…、それまで、託された命を、神からゆだねられた命を、
あなたはどう生きるのか、どう使うのか、
と、今朝、私達一人一人が、主から改めて問われているのだと思います。


礼拝説教要旨(10月12日)

『光と闇』 竹島敏牧師
ヨハネによる福音書3:13-21

今朝の聖書の言葉には、「御子を信じる」ことの大切さが語られています。
「御子を信じる」とは、多くのうそに満ちた世界にあって、
御子イエスの言葉こそ、本当のことを語っている、と信じることです。
そしてその言葉に従おうとつとめていくことです。
そのようにつとめていくなら、「裁かれない」と言われているのです。
様々な勘違いや、失敗や、不十分な点があったとしても、
そのようにつとめていくなら、「裁かれない」と宣言されているのです。
その上で、今朝のヨハネによる福音書の16節、17節の言葉にもう一度、耳を傾けたいと思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである」

神の御子・私達の主イエスは、かつて地に降ってこられ、
そして十字架と復活の御業の後に、天へと上っていかれました。
それは、天と地を結ぶ交わりを始めるためでもありました。
今、主イエスは天から、この私達一人一人を見つめておられ、
その天には、主が招かれた私達の信仰の先達たちが大勢おられることを想います。
天に帰り、そこから御子イエスと共にわたしたちを見守ってくださっている
大勢の方々がおられることを想います。
今もなお、この地上の歩みを続けていく私達は、主イエスと共に天からあたたかく見守ってくださっている
その方々の期待や、とりなしの祈りに、励まされ導かれつつ、歩んでいきたいと想うのです。


礼拝説教要旨(10月5日)

『キリストのゆえに』 竹島敏牧師
ヘブライ人への手紙9:23-28

今日は世界聖餐日です。
今朝も、この同じ時間に様々な場所で、礼拝が献げられており、聖餐が執り行われるのだろうと思いますが、
今朝は特に、国と国との分裂、また社会内部の分裂、そして私達の身近な学校、職場、
また、家族のなかにある亀裂について、深く思いめぐらし、祈りつつ、聖餐という主の業にあずかりたいと思います。
そのように、大きな世界の分裂という出来事から、自分のごく身近なところでの分裂・亀裂にまで想いをはせる時、
私達は、私達自身が、引き裂かれた世界の断片であることに気づかされていくのです。
そしてその引き裂かれた断片である私達をいやし、再統合するために、
主イエスは、ご自身の体を十字架上で引き裂かれたのだと知るのです。
今朝のヘブライ人への手紙の26節以降に記されてあるように、確かに、キリストの十字架の出来事は一回限りでありました。
しかしそこで完成したのは「多くの人の罪を負う」というキリストの業であり、それで救いが完成したわけではありませんでした。
しかし、ますます世界の分裂が深刻化するような状況のなかで、
キリストは、ご自身の十字架上での姿を私達に示し続けながら、ご自身の肉と血を私達に分け与え、
世界の分裂を修復させ、回復させる方向へと導こうとされるのです。
そのような主が私達と共にいてくださり、救いが完成する時へと導いてくださることに希望を持って、
この世界聖餐日の朝、ご一緒に主の聖餐の業にあずかりたいと思います。


礼拝説教要旨(9月28日)

『約束を受け継ぐ』 竹島敏牧師
ヘブライ人への手紙6:4-12

このヘブライ人への手紙の著者は、アブラハムを非常に強く意識していた、と言われています。
すなわち著者は、この手紙の読者たちに、アブラハムの信仰を見習うように、と強くすすめているのです。
6章11節において著者は、「あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、
同じ熱心さを示してもらいたいと思います」と語っています。
「最後まで希望を持ち続ける」…、
希望をもって生きることが本当に困難な今の時代ですが、
しかし、主イエスから与えられる希望は決して尽きることはない、ということを覚えておきたいと思います。
それは、自分は主から約束されたものを完全に受け継ぐことはできなくても、
自分の後に続く人達が受け継ぐにちがいない、という希望です。
そのことをはるかに望み見ながら歩む時、私達はすでに、次の世代の人達と連帯しようとしているのです。
そして、そのようにして主が約束されたものは受け継がれていき、やがて成就した時初めて、
その主が約束されたものを少しずつ受け継いだ全ての人々の上に喜びが満ちるのです。
天において、また、地において、そのような喜びが満ちるのです。
私達キリスト者が受け継ぐ約束されたもの、とは、
そのようなものであるということを今朝、再び、覚えておきたいと思います。
そして、主イエスが私達の共同体に、また私達一人一人に、
どのような約束を新たにお与えになろうとしているのか、敏感に信仰的感性をもって感じ取っていきたいと思うのです。
そしてはるかに望み見ながら、その約束に仕えていきたいと思うのです。


礼拝説教要旨(9月21日)

『種を蒔く人』 竹島敏牧師
コリントの信徒への手紙二9:6-15

今朝与えられましたコリントの信徒への手紙の箇所は、献金について記されているところです。
最初の6節を見ると、「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、
惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とあります。
ここでは、献金が種まきにたとえられています。
惜しんでわずかしか種を蒔かない者…、つまり、惜しんでわずかしか献金を献げない者は、刈り入れもわずかだ、と、
聖書は10節において、「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、
あなたがたに種を与えて、それを増やし、
あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」と告げています。
私達は自らの人生において、様々な種類の種を蒔きます。
けれども、神が与えてくださった種を蒔くならば、
その種は、人の想いをはるかにこえて必ずいつか、どこかで芽を吹き出すのです。
だから私達にとって大切なことは、献金をお献げして…、すなわち、種を蒔いて、それで終わりなのではなく、
その種がどのように芽を出し実を結ぶのか、祈りつつ見守り続けることだと思うのです。
私達がこの世に生かされている間に、実りを得るものもあるでしょう。
また将来の実りを夢見て蒔き続ける種もあるでしょう。
しかしいずれにしても、主から与えられ蒔かれた種は、いつか、必ず、どこかで芽を出すのです。
人の想いをはるかにこえて必ずいつか、どこかで芽を吹き出すのです。
私達は今朝の聖書の箇所を通してこのことを、信仰をもって、喜びをもって確認しておきたいと思うのです。


礼拝説教要旨(9月14日)

『愛がなければ』 竹島敏牧師
コリントの信徒への手紙一13:1-13

私達は愛すること、愛されることにおいて様々なつまづきを経験します。悩みます。
自らの無力さに打ちひしがれて、情けない想いでいっぱいになることもあるかもしれません。
しかし、そのような私達に、今朝、聖書は、それこそが愛なのだよ、と告げているのではないでしょうか。
確かに私達はどこまでいっても、愛することにおいて、つまづきだらけの生涯を送っていくしかないのかもしれません。
けれども、私達が自分以外の誰かのために激しく痛む時、はらわたがちぎれるほどに痛みつつ、
その人の痛み苦しみに共感しようと努める時、
私達の主イエスは、「それこそが愛だよ」と、
私達に語りかけてくださるのではないでしょうか。
「それこそが私が人々を愛した愛…、十字架の愛だ」と。
愛とは、「どれくらい与えるか」なのではない、とマザーテレサは言いました。
愛の重さは、どれだけのことをしてあげたか、なのではない…、
ましてお金で買えるものなのではとうていない…、
何もできない、ただ、その場にたたずむことしかできなくても…、
自らの無力さに打ちひしがれて、情けない想いでいっぱいになっていようとも、
その人の痛み苦しみに共感しようと激しく痛んでいるならば、
「それこそが愛なのだ」と、主は私達に告げてくださいます。
人がなんと思おうとも、世間がそれをどう評価しようとも、
そのように、誰かのために痛みつつ、祈り続けるならば、
主はそれを、「私が人々を愛した愛」と呼んでくださり、そこに、新しい希望をきっと、授けてくださるのです。



礼拝説教要旨(9月7日)

『異邦人の光』 竹島敏牧師
使徒言行録13:44-52

この今日の使徒言行録のなかで特に注目しておきたいのは、52節の言葉です。
「他方、弟子達は喜びと聖霊に満たされていた」とあります。
これは、パウロとバルナバが迫害を受け、決して心地よい、喜ばしい状況になかったにもかかわらず、
主イエスが共におられる、という平安と喜びに満たされていた、ということです。
今日、ここから、私達は非常に大切な教訓を得ます。
すなわち、私達にとって大切なのは、今、この状況が自分たちにとって順境なのか、逆境なのか、ということなのではない、ということです。
そうではなく、共にいてくださる主イエスを実感しているのかどうか、ということなのです。
共におられる主を実感するためには、主が放つ光を受けて、輝かなければなりません。
私達は、聖書に記されている主イエスの言葉とふるまいから、
主が放っておられる光を感じ取り、その光を反射させて生きていくよう、促されているのです。
パウロやバルナバのように私達もまた、そのように定められている、ということを想うのです。
今朝、私達が聖書の言葉から促されているのは、どんな人でも、大小にかかわらず、様々な失敗や挫折の経験があるのだから、
その時に、主イエスに願ったこと、祈ったことを思い起こしてみなさい、ということなのではないでしょうか。
どんな人にも、失敗や、挫折の経験があり、その内容は様々に違っていても、苦しみや悲しみがある…、
そしてその苦しみや悲しみこそが、主イエスの光を生き生きと反射する鏡として用いられると知っている人は、
誰でも、パウロのように、また、バルナバのように用いられるのです。


礼拝説教要旨(8月31日)

『愚かな宣教人になろう』 中條康仁神学生
コリントの信徒への手紙一1:18-25

 「十字架の言葉」とは、「十字架上で示された神の愛の言葉」であります。
それは、言葉となって生まれた神のひとり子イエス・キリストが、私たちの罪を赦すために、
十字架にかけられて死んでくださった、という神の愛を表しています。
この福音(良き知らせ)を、世の知恵によってではなく、「宣教という愚かな手段」によって、
それを聞いて受け入れる者を救おうとお考えになったのは、神の知恵によるものでした。
「しるし」を求めるユダヤ人にとっても、「知恵」を探し続けるギリシア人にとっても、
「宣教」の中心メッセージである「十字架の言葉・キリスト」を救い主として信じることは、
つまずきであり、愚かなものでしかありませんでした。
しかし「十字架のキリスト」こそ、真の救いをもたらす「神の力、神の知恵」なのだと、
パウロは逆転の真理を用いて告白します。
私たち人間の罪を赦し、かつ「愛」と「正義」という神ご自身の2つの性質を両立するための解決策が、
「神のひとり子イエス・キリストの十字架」でありました。
「十字架のキリスト」を信じる信仰によって、私たちの過去を振り返るならば、それは「恵み」に変わります。
信仰によって隣人に接するならば、それは「隣人愛」に、
また信仰によって未来を見つめるならば、それは「希望」へと変えさせる神の力があります。
この素晴らしい信仰をいただいて、私たちは「愚かな宣教人」として世に遣わされます。
私たちの内側にある「愚かさ、弱さ」を通して神の栄光が現れて、
この世の中でイエス・キリストを「宣教」することができますように。
また教会の中でも私たちの交わりを通して神の栄光が現れて、
新しくいらした方も、神の素晴らしさを知ることができますようにお祈りいたします。


礼拝説教要旨(8月24日)

『私たちは回復させられる』 友野富美子牧会補助者
エゼキエル書11:17-20

教会に毎週来て礼拝を捧げることができる、これは本当に感謝なことです。
けれどそのようなとき、私たちは自分だけの幸せに甘んじ、自分本位な感謝を捧げてしまう危険をもっています。
ご高齢の故に、あるいは病気、子育てや介護、家族の反対、
また教会に何か引っかかりを覚えて、教会に来られなくなってしまった方々がいらっしゃいます。
教会は信仰共同体です。私たちは共に痛む者としてここに召されているのですから、
散らされた民の回復を心から願い、そのために祈り、労することが求められています。
また、ここにいる私たち一人ひとりが、捕囚の民のように絶望の中で、
もがき苦しむ状況に置かれ得る存在であることを思います。
このときに私たちは、「わたしはお前たちを呼び集める」という主のみ声を確かに聴きたいと思います。
偶像にまみれてしまったエルサレムのように、忌まわしいものの中に追いやられることもあるかもしれません。
神殿のあるエルサレムが陥落してしまったように、教会も教会だから安泰、ということはないのです。
神にしっかりと向きを定め、常に新しくされながら歩みを進めていくことが求められます。
思いとは裏腹に状況がその人を困難の中へ追いやるとき、私たちは自分の無力さに泣きます。
けれど、そのようなときに、神は私たちに与えてくださるのです。
二心のない神へのひたむきな心を、新しい霊を、柔らかい、生き生きとした心を。
そして私たちはまた、神に従う歩みを始めることができるのです。
どのような絶望的な状態にあっても、神から引き離されているように感じられる時でも、
神は私たちを呼び集め、回復させて下さるのです。


礼拝説教要旨(8月17日)

『義と平和』 竹島敏牧師
ローマの信徒への手紙14:13-23

今朝与えられたローマ書に記されているのは、信仰者の考え方の違いからくる対立をどう解決していけばいいのか、
ということです。同じ14章の2節には次のように記されています。
「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」。
ここから、野菜だけを食べていた信仰者達と、「何を食べてもさしつかえない」と信じ、
肉を食べ、また酒も飲んでいた信仰者達がいた、ということがわかります。
確かに今日、私達の身近なところで、これと全く同じ事が課題になることはないかもしれません。
しかし、このような立場の違いは、アイデンティティの違いが背景にあります。
そして、現代においては、多様なアイデンティティを持つ者同士が共に生きる、
という課題があると言わなければなりません。
特に少数の側のアイデンティティが破壊されることなく、主の御前にあっては、
すべての人が等しく貴い、という福音が成就していかなければなりません。
日々、私達は自分とは違う習慣や考え方と出会います。
その時、もし、私達が多数の側に立っているのなら、私達は主から、
少数の、自分とは違う習慣や考え方から学びなさい、と言われるのでありましょう。
また私達が少数の側に立たされているのなら、たとえ一方的に裁かれることがあっても、
主の支えと導きを求めつつ、裁く人達との対話を求めていくべきなのでしょう。
そのように今朝、聖書は、本当にささいな日常において、
まず自分の身の回りから、平和を作り出すようにと促しているのではないかと思うのです。


礼拝説教要旨(8月10日)

『門の外へ』 竹島敏牧師
ヘブライ人の信徒への手紙13:7-16

今朝のヘブライ書をとおして主イエスが私たち一人一人に促しておられるのは、
まことに真剣に主に従っていこうとするならば、
必然的に、これまで自分にとって安全であったところから外に出ざるをえなくなる、
ということなのではないでしょうか。
安心して暮らしていた自分の場所、
それほど不自由なく、ある意味、惰性で暮らしていた自分の居場所、
そこから外に出て行かざるをえなくなる、ということです。
それは確かに不安や恐れを伴うことです。
しかし十字架のキリストへの信仰の故に、勇気をもって自分自身の「門の外へ」と足を踏み出す時、
そこには新しい世界がひらけていく…、
より強く、より深くキリストの臨在を感じることができるようになり、
キリストと共に生きる喜びが静かにわきおこってくる…、
だから、あなた自身の「門の外へ」と足を踏み出しなさい、と言われているのではないでしょうか。
8月15日、私達の国は敗戦69年を迎えます。
再び、戦争の出来る国へと大きくかじをきろうとしているかのようにも見える世にあって、
自分の「門の内側」にひたすらこもり、
自らを守ろうとする風潮が高まっているようにも思えるのが、この国の現状ではないでしょうか。
しかしイエス・キリストを一心に見つめるならば、
私たちは「門の中の」生活に安住し続けることができなくなるのです。
しかしそれは恵みの出来事だと聖書は告げているのです。
一心に、主を見上げつつ、自分自身の「門の外に」出ていく生き方をするようにと、
今朝、私達一人一人、招かれているように思います。


礼拝説教要旨(8月3日)

『福音の逆説』 竹島敏牧師
コリントの信徒への手紙二6:1-10

詩人の柴崎聡さんが書かれた「伏流の発見」、という文章があります。
その文章には、人に気づかれずに流れている「伏流」をとおして、私たちの目が、
目に見えない大切な部分があることをしっかりと自覚するように…、という強烈な促しがあります。
さらに、イエスの弟子たちにおける「伏流」とも言うべき期間が、
彼らの信仰にとってきわめて重要なものであったという話は、非常に示唆的です。
つまり、こういうことです。あの、主の十字架の時、女性たちの何人かを除けば、
ユダやペトロだけではなく、すべての弟子たちがまさしくイエスを裏切ります。
しかし、イエスの行為と言葉を見聞きしながら理解できなかった弟子たちに、
イエスの死後、決定的な復活という出来事があって、すべてが弟子たちに気づかれたのでした。
そして柴崎さんは、弟子たちの、イエスに出会ってからその気づきの時までの期間を、「伏流」と呼ばれるのです。
あの弟子達が、イエスに出会っていながらなお、長い長い間、その真実に気づくことができなかったように…、
私達もまた、そうなのかもしれません。
しかしそれでも、その真実・「伏流」は私達の内側を生き生きと流れており、いつかきっとほとばしり出て、
「ああ、そうだったのか」という気づきを私達に与えてくれるのでありましょう。
今はまだ決して感じ取ることはなくとも、確かに「伏流」は、この自分の内側にも、生き生きと、実際に流れていてくれるのだ…、
と、いつかほとばしり出る時が来ることを待ちつつ、歩んでまいりたいと思います。


礼拝説教