礼拝説教要旨(6月6日)聖霊降臨節第3主日主日礼拝

マタイによる福音書28:16-20

「疑いと迷いのなかで」竹島 敏牧師

 今朝のマタイによる福音書は、イエスの言葉に従って行動したにもかかわらず、その言葉の実現に驚き、疑った弟子たちの姿を浮き彫りにしています。つまり弟子たちは半信半疑であった、ということです。信じ切ることもできず、疑いぬくこともできなかった‥、その中途半端な姿は、そのまま私たちの姿でもあると思います。
 今朝、この聖書の箇所に記されている弟子たちと同じように、私たちもまた、主イエスの言葉の実現をしばしば疑う者たちであることを想います。私たちもまた、疑いつつもひれ伏して過ごしている者たちなのだと思います。
しかし今朝私たちは、疑いと迷いのなかでこそ、主イエスと真実に出会うのだということを、あらためて覚えておきたいと思います。
 復活の主イエスに出会い、ひれ伏しつつも疑う弟子たちの姿は、そのまま、私たち一人一人の姿です。しかし、そのような疑い迷う者たちと、終わりの時まで‥、神の国が完成するその時まで‥、主はいつも、共にいると約束してくださいました。疑い迷う私たち人間の姿を、主は、自然な姿だ、と受けとめてくださるのです。だから私たちは、恥じることなく疑い迷いながら、共に対話し模索し続けることを許されているのです。疑い迷いながら、共に対話し模索し続ける姿こそキリスト者にふさわしい姿なのです。そこにこそ、神に造られた被造物としての限界のなかで、せいいっぱい誠実に、ひたむきに応えていこうとする姿が輝くのです。疑い迷う私たちの弱さを主は祝福し、用いてくださることを信じて、これから、私たちの社会がどのように変わっていこうとも、ありのままの姿で仕えていきたい‥、その姿をもって証し続けていきたいと思うのです。 

礼拝説教要旨(5月30日)聖霊降臨節第2主日礼拝

エフェソの信徒への手紙1:3-14

「恵みの輝き」早川 真伝道師

 この手紙を書いた時、パウロはローマの獄中にいたと考えられています。彼はこの手紙の中で、神をたたえるべくもない時にたたえることができました。それはなぜだったのでしょうか。それは、キリストにあって与えられている霊的な祝福に目が開かれていたからでありました。
 私たちの人生において、恵みが感じられない時、というものがあります。あたかも色鮮やかな景色が、白黒に感じられるように、全ての恵みが色あせて感じるのです。しかし、そのような中にあっても、パウロは、私たちはキリストを通して、恵みの輝きを取り戻すことができると今朝の箇所で語っているのだと思います。
 10節には、霊的な祝福の一つとして、万物が再び統合されるということが示されています。旧約聖書を紐解くと、人間の歴史は分裂の歴史でありました。アダムとエバの記述において、まず神から離れ、そしてその子カインとアベルの兄弟殺し、バベルの塔…。現代においても私たちは分裂を繰り返しているということができます。
 しかし、私たちはキリストにあって再び統合されるのだと、パウロは語ります。ローマの信徒への手紙にはキリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことができるものは何もないと語られています。
 この霊的な恵みは、外的な状況がどうであっても輝いています。むしろパウロが獄中で神をほめたたえたように、現状が暗い時にこそ、いよいよ輝くものであるのではないかと思います。この輝きに目を開かれ、神をほめたたえてて歩むことができるよう祈り求めたいと思います。

礼拝説教要旨(5月23日)聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ礼拝

使徒言行録2:1-11

「いのちの風」竹島 敏牧師

 今、みなさんとご一緒に読んだ使徒言行録の2章にはイエスの弟子たちが、心をあわせてひとつになってお祈りをしていた時、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえてきた、と書かれています。すると、みんな元気になって、いろんな国の言葉で、神様のことを話し始めた、と書かれています。
 私はいつも、この聖書の箇所を読む時、イエスご自身が、全ての人にいのちを与える風になられた、ということを想います。神と等しい方でありながら同時に人でもあったイエスは、死んで、復活した後に、聖霊という風になられました。そして、そのいのちの風を受けて元気を取り戻した弟子たちが、教会をつくり、さらに、そのいのちの風を地上のいたるところにもたらす働きに仕えた、ということを想わされるのです。
 だから聖霊とは、この「わたし」一人のためだけの「いのちの風」なのではなく、神がつくられたすべての人、また、動物や植物たちなど、全てのいのちを支え、導く「いのちの風」です。いろんなことで悩み苦しむ私たちのいのちを支え、今のいのちと、次の時代のいのちをつないでくれる風‥、それが聖霊・いのちの風なのです。 今日はペンテコステ‥、イエスが復活して50日目に、熱心に祈り求めていた弟子たちの間に聖霊・いのちの風が与えられ、教会が誕生したことを記念し感謝する日です。私たちも今日、あの弟子たちのように心をあわせてひとつになってお祈りして、「いのちの風」・イエスの霊をいっぱいいただきたいと思います。そして元気をとりもどし、力強く歩いていきたいと思います。

礼拝説教要旨(5月16日)復活節第7主日礼拝

ルカによる福音書24:44-53

「聖霊の約束」竹島 敏牧師

 私たちは今、再び聖霊降臨の出来事に向かっています。大いなる期待を込めてその日に向かっています。しかしながら聖霊は、私たち一人一人の具体的な努力なしに、私たちを問題解決へと導くことはない、という事は覚えておかなければなりません。何も努力しないで祈って待っていれば、聖霊が解決してくれる‥、ということではないのです。そうではなく、聖霊が約束しているのは、解決へと至る具体的な手だてを、あなたにひとつひとつ与える‥、ということです。
 かつての弟子たち‥、また弟子たちをとりまく一人一人が、様々な問題・課題を抱えながら信仰の生涯を送ったように、私たちもまた、様々な問題・課題を抱えながら日々過ごしています。時には、その重い課題に押しつぶされそうになり、信仰を失いかけ、あせって、自分の力でじたばたし始めることもあるでしょう。あるいは、十分に聖霊の導きを吟味せずに、走り出したくなる‥、しかし、主イエスは言われるのです「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と‥、あせるな、と、言われるのです。
 この私たちにも与えられている聖霊の約束とは、「どんなことがあっても決してあなたを見捨てない」という主イエスの愛に満ちた約束です。私たちが、聖霊による救いの手だてを見逃し、あるいは無視してしまう時も、決してそのような私たちを見捨てず、導きの御手をさしのべ続けてくださる‥、それが、聖霊の約束なのです。私たち一人一人に降ろうとしている聖霊は、そのような救いへの力なのだということを覚えておきたいと思います。

礼拝説教要旨(5月9日)復活節第6主日礼拝

マタイによる福音書6:5-15

「導かれて祈る」竹島 敏牧師

 神は、私たち一人一人を創造し、この世に送り出してくださいました。にもかかわらず誰でも一度は、この世に生まれてきたことを後悔したり、生き続けていくことに疑問を感じたりすることがあるのかもしれません。しかし、その人の主観がどうあれ神は、一人一人に生きる希望を与え、また、期待をかけてこの世に送り出してくださいました。
 だから、どうでもいい人生などないし、誰もが、自分がこの世に送り出されてきたその意味を知り、喜びをもって生きていくよう求められているわけです。なのに十分に喜びをもって生きていけないのならそれこそが、神に対して、十分に責任を果たせないままでいる、ということになります。まずそれが、神に対して負っている私たちの負い目であり、罪なのだと言わなければならないのではないでしょうか。
 その負い目が赦されるためには、まず、人の視線や思惑を意識するよりも神をまっすぐに見つめ、神からの力を求めることが、すなわちまっすぐに祈ることが必要になってくるのです。 もう一度心を込めて祈ってみなさい、と今、主は、私たち一人一人に言われているのではないでしょうか。その時、再び主イエスの霊・聖霊が私たちの心をしっかりととらえ、過ち・負い目が赦される道へと‥、解決の道へと‥、導いてくださる、と、今朝の聖書の箇所は私達一人ひとりに語りかけているのではないかと思うのです。

礼拝説教要旨(5月2日)復活節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書14:1-11

「イエスの道」竹島 敏牧師

 ながらく私は「父なる神」ということがわかりませんでした。しかしある時ふとしたことから、今日の聖書の箇所‥、ヨハネ福音書14章6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」というこの言葉に出会い、「ああ、そうか」とやっとわかったのでした。
 今朝の聖書の箇所の9節後半には、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とあります。つまり、イエスを見た者は神を見たことになる‥、だから大切なのは、神について様々に思いを巡らすことなのではなく、聖書を読むことを通して、また、祈ることを通して、イエスという方をしっかりと見つめることだけなのだ、とわかりました。そのように気づいてみると、実に当たり前のことなのですが、「神」という言葉にとらわれてしまうと、自分が幼い頃からふれてきた、キリスト教の神以外の神のイメージに惑わされたり、混同してしまったり、ということが起こりがちになるのです。けれどもイエスが神なのだ、イエスだけを見つめていればいいのだ、その事がわかった時、やっと私は「神」、という言葉から解き放たれて、イエスを見つめること、そしてイエスと共に歩む道へ踏み出すことができたのです。
 私たちが生かされているこの日本には、実に様々な神がいることを思います。しかし様々な神が私たちの日常をおおっている中で、主イエスが導かれる道を、主イエスと共に歩むことを通して、まことの神を証していきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(4月25日)復活節第4主日礼拝

ヨハネによる福音書11:17-27

「復活と命の主」早川 真伝道師

 本日の箇所は、ラザロの死の出来事に際しての一場面です。ラザロが病気だと聞いてからも、イエス様はなお二日間、同じところに滞在され、イエス様がラザロの姉妹の待つべタニアに到着したのは、ラザロが死んで四日目でありました。
マルタは、イエス様に会うなり率直な思い、恨み言にも似た思いを口にします。しかしその後に、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも、神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言いました。これは彼女にとって精一杯の信仰告白であったと思います。
それに対しイエス様は「わたしは復活であり命である。」と言われました。当時、終末的な意味合いだった死後の復活に対する信仰が、イエス様が来られたことによって、今、ここで受けることのできる現在的なものとなっています。イエス様を信じるなら、今、ここで、あなたは復活と命を得る、と言われているのです。では、現在の私たちにとっての復活と命とは何なのでしょうか。
復活の原意は倒れている所から立ち上がる、という意味です。世の中には私たちを打ち倒す力がありますが、キリストには打ち倒されたものを立ち上がらせる力があります。また、命の反対は死であり、死の本質は断絶です。ここで言われている命とは神の命、永遠の命であり、肉体の死に際しても断絶することの無い交わりが約束されているのです。
マルタは、そのことがまだ分からなくても「はい、主よ、」信じました。イエス様は今日の私たちに対しても、「このことを信じるか。」と語りかけておられます。

礼拝説教要旨(4月18日)復活節第3主日礼拝

マタイによる福音書28:1-10

「心が燃えた日」竹島 敏牧師

かつて、弟子達は、信仰に燃え、彼らなりの信仰理解にもとづいて希望を抱きつつはげんでいました。しかしイエスの十字架の死、という出来事によって、その希望は木っ端みじんに打ち砕かれてしまいました。彼らが信じていた事柄は全て失われてしまいました。しかし、そのような深い喪失感の内に漂っていた時、再び、聖書にもとづいて、その真理を深く説き明かし、信仰を与え、ふるい立たせてくださる方と出会ったのです。
そして、あの復活者イエスが、この二人の弟子にしてくださったことは、今も、復活者イエスの体なる教会において、起こり続けている、と言えるのではないでしょうか。それは、御言葉の説教と聖餐という形で、ずっと引き継がれてきた御業なのであり、私たちは、そこにおいて、深い挫折と失望の中にあっても、再び「心が燃える」ような復活体験をし、共に主の食卓にあずかることによって主のお姿をくっきりと自らの胸の内に、刻みつけることができるのです。
私たち一人一人、依然として、様々な課題、また、悩みを持っています。そしてこれからも時には、その悲しみや憂いの故に胸ふさがれるような圧迫感に捉えられることもあるかもしれないと思います。しかしどんな状態にある時も、私たちが主に心を開き続け、主の霊を求め続けるならば、かつて、エマオ途上において二人の弟子達に起こった復活体験は、今日の教会においても…、今日の私達においても豊かに起こされるのです。その事を今朝私達は、再びご一緒に確認しておきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月11日)復活節第2主日礼拝

マタイによる福音書28:11-15

「十字架の力」竹島 敏牧師

今朝のマタイによる福音書には、イエスの遺体をおさめた墓をずっと見張っていた番兵たちと、祭司長たちのやりとりが短く記されています。このような不思議な出来事の一部始終を見ていた番兵達は、きっとその時の様子を詳しく報告したに違いない、と思います。この主イエスの復活とはいったい何だったのか、具体的に何が起こったのか、福音書はその出来事を様々に報じていますが、それがどのような出来事であったにせよ、そこで一番大きな出来事は弟子達一人一人の復活体験であった、と言えるのではないでしょうか。
弟子達はみな、何らかの形で復活の主イエスと出会い、心燃える‥燃やされる体験をしました。そしてそのような体験をした弟子達は、それまでの弟子達とはちがっていました。勇気をもって主イエスの言葉を宣べ伝える力を取り戻していた‥、というか、それまでにないほどの力強さで新たに宣教の業に仕えていったのでした。イエスの十字架の死と復活という出来事が、そのように弟子達一人一人の再起を力強く生み出していったのでした。危機的な状況におかれた時こそ、主の十字架を見上げ、かつて主が語ってくださったこと、行ってくださったことを思い起こし、その真実に愚直に立ち続けよ、と今朝の聖書は私たちに語りかけているのではないでしょうか。主の十字架に秘められた真実の力のみが、直面している問題を解決へと導き、あなたたちをまことの平和へと導く、と告げているのではないでしょうか。この聖書のメッセージを大切に心の中にとどめつつ、復活節の歩みを進めていきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月4日)復活節第1主日・イースター礼拝

マタイによる福音書28:1-10

「イエスの復活」竹島 敏牧師

私たちは、十字架と復活の出来事を考える時、とかく主イエスと12弟子との関係ばかりを見つめがちなのかもしれませんがいわゆる直弟子ではなかったかもしれないけれどもイエスを慕ってイエスの十字架の死と復活にまつわる出来事を見守り続けた人達のことが聖書には記されていることを忘れてはならないのだと思います。
ここではマグダラのマリアともう一人のマリアのことが記されていますがヨハネによる福音書においてはニコデモという人のことが記されています。このニコデモはイエスとのかかわりによって「新しく生まれる」すなわち「水と霊とから生まれる」という境地を得た人でありました。そして私達もまたそのような境地に到達することができると聖書は語っているわけです。そのような新しく生まれるという世界に私たちも到達することが許されておりそれゆえこのような信仰生活に入ることができたのだということを改めて覚えておきたいと思います。私たちがこの世で味わう全ての痛み、苦しみをすでに主イエスは味わいつくされて今朝、私たちのために復活されました。
今朝、私たちは先に召された私たちの信仰の先達と共にこの喜びにあずかっていることを想います。天においても喜びの礼拝が献げられていることをご一緒に信じたいと思います。そしてその天からのあたたかいまなざしを感じつつ、この復活の出来事を心静かにもう一度見つめてみたいと思うのです。そしてどんな時も主が共にいて導いてくださるという信仰に生き抜く生涯を送ってまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(3月28日)受難節第6・棕櫚の主日礼拝

マタイによる福音書27:32-44

「主を十字架につけたとき」早川 真伝道師

本日は、棕櫚の主日礼拝です。エルサレムにおいて棕櫚の葉を道に敷き、イエス様をホサナ(万歳)と言って迎えたユダヤ人たちは、今朝の箇所で、それとは正反対にイエス様を罵倒しています。その理由は、イエス様の救い主としての働きが、彼らの想像と違ったからでありましょう。
イエス様は、罪からの救い、罪からの解放をもたらすために来られた救い主でした。しかし、ユダヤ人たちはローマの支配からの救いを期待していました。彼らの期待は的はずれでありました。しかし、人の罪の中で、なお主は御業を進められる、ということがここに力強く証されています。
イザヤ書53章には、キリスト預言が記されていると考えられています。その記述によると、彼(イエス様)は、私たちの罪をすべて担って十字架についてくださいました。ユダヤ人や、兵士や、そこにいたすべての人の罪を、神は御子イエス・キリストに負わせられたのであります。
さて、今朝の箇所に登場する、キレネ人シモンという人物は何を意味しているのでしょうか。彼は過ぎ越しの祭りに地方から出てきたユダヤ人であったと考えられます。しかしそこで、死刑囚の十字架を担ぐという思いもかけない災難に見舞われました。
これは、私たちの身に何か思いがけない災難がふりかかる時、それはもしかしたら主の苦しみの一端を担うことなのかもしれない、ということなのではないでしょうか。この受難週の時、そのような期待をもって、主の御心を尋ね求めつつ、歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(3月21日)受難節第5主日礼拝

マタイによる福音書20:20-28

「仕える人」竹島 敏牧師

 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。今朝の25節〜27節の御言葉です。知らず知らずのうちに、この世の価値観は忍びよってくるものなのだ。そしてじわじわと、いつのまにか、その価値観に支配されてしまう‥、そういうことへの警戒の言葉です。
 それは今の時代を生きる私たちにしても同様のことなのかもしれません。しかし、それでもなお私たちは私たちがよって立つべきなのは聖書の価値観、神の国の価値観の方なのだということを覚えていなければならないのでしょう。時にこの世の価値観に飲み込まれそうになる時もあるでしょう。しかしそのたびごとに本来自分が立つべきところはどこなのか確認し直すことが必要なのでありましょう。そのように時に葛藤しながらも神の国の価値観に絶えず立ち戻り続けることが私たちキリスト者の生き方なのではないでしょうか。そのように生きようと常に悔い改めつつその都度新たな一歩を踏み出す時にはじめて私たちは十字架の主イエスのからだのぬくもりを感じるほどに、主に近くいる者達になれるのだと思います。 
 受難節のこの時、そのような覚悟と志が再び強く与えられることを祈り願いつつ歩んでいきたいと思います。そのような主に仕える人生を全うして参りたいと思います。

礼拝説教要旨(3月14日)受難節第4主日礼拝

マタイによる福音書17:1-13

「栄光を求めて歩む」竹島 敏牧師

今朝、私達に与えられたマタイによる福音書にはイエスが祈るために高い山に登られた、と記しています。山は神からの啓示の場でありました。ここで大切なことは一人、祈りに集中される主イエスから決して目をそらさず、その御姿を見つめ続けること、そしてその御姿に従い続けることです。そのような日々の中で私たちはかつて主イエスが味わわれた受難の苦しみを身をもって知りかつて主イエスが体験された復活の喜びを身をもって知ることができるようになるのです。
 私達一人一人がそれぞれに抱えている深い闇のような悩み、苦しみにも、いつかきっと光輝く出口が与えられることを信じて祈りつつ、この受難節の時を過ごしていきたいと思います。今はまだ何も見えなくてもイエスが語ってくださった言葉を繰り返し繰り返し聖書から聞き続けていくということが大切です。人に理解してもらえない、また人を理解できないそういう苦しみの中で全てを理解しておられる方がそばにいて支え導いてくださる、そのような信仰を持ちつつ聖書を読むことによって希望のないところに新しい小さな希望が生み出されていくのです。それでも理解していこうと努力を続けていく力が蓄積されていくのです。必ず新しい局面が開かれてくる、とあきらめないで続けていく力が与えられるのです。聖書を読むということが信仰を持って祈りつつ聖書を読み続けるということが、そのような救いの道を探り当てることにつながっていくのです。そのことを信じて共に励ましあいつつ、聖書に聞いてまいりましょう。

礼拝説教要旨(3月7日)受難節第3主日礼拝

マタイによる福音書16:21-28

「十字架を見出す」竹島 敏牧師

今朝の聖書が私達に求めているのは今私達一人一人が背負っているものの上にさらに何かを背負いなさいということなのではなく、すでに背負っているもののなかに十字架を見出すということなのではないでしょうか。今すでに私達が背負っているものそのなかにはできれば背負いたくなかったものもあるはずです。また否応なく私達の身の上にふりかかってきた苦しみがあるでしょう。
しかしそのなかに十字架を見出すということがもしできたなら私達は自分が背負わされているものに積極的な意味を見出すことができるのです。ここで主が言おうとされたことはそういうことだったのではないでしょうか。今すでに自分に与えられている課題や苦しみのなかに十字架を見出しなさい、ということです。そのために十字架を見出すためにまず私達がなすべきことは主イエスを見つめることです。
受難節のこの時私達一人一人にすでに与えられている様々な課題や痛み苦しみを抱えたまままずもう一度、十字架への道を歩んでいかれた主イエスの姿を見つめましょう。そして見つめ続けましょう。そうしていく時そのイエスの姿を追うように従っていく自らの歩みもまた見えてくるのかもしれません。今朝私達の主イエスは「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と私達一人一人に語りかけておられます。十字架の主を見つめながら受難と復活の道を…、命が救われる道を、失われつつある命を買い戻す道を歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(2月28日)受難節第2主日礼拝

マタイによる福音書12:22-32

「神の霊によって」早川 真伝道師

イエス様の癒しを目の当たりにして、群衆は驚きました。そして、この人はダビデの子ではないだろうか、と言いました。ダビデの子とは、救い主、メシアの意味です。彼らの中にはキリスト信仰が芽生え始めています。しかし、ファリサイ派の人々は誹謗中傷をしました。彼はベルゼブルの力によって追い出しているのだと。平たく言えば悪魔の仲間であると言っているのです。
それに対してイエス様は三つの方法で反論しています。一つ目は、それでは内輪もめだということ。二つ目は、そうだとしたら、あなたがたもまた、ベルゼブルの仲間ということになるということ。三つ目はサタンより強くないと、追い出すことはできない、ということです。そして、イエス様は神の霊によって悪霊を追い出しているのだということがはっきりと語られています。
マタイによる福音書4章1節には、イエス様は霊に導かれて荒れ野に行かれた、とあります。この霊は神の霊であります。神の霊は時に、私たちを私たち自身の望まない方向へと導かれます。
私たちにとって最も望まない場所、その最たるものは悔い改めでありましょう。自分自身の方向が間違っていることを認め、悔い改めることほど、生まれつきの私たちにとって望まないことはありません。
今、私たちはレントの時を過ごしていますが、レントには、自分の思うようにではなく、神の御心を求めて歩む、という意味があるように思います。神の霊によって、悔い改めへと導かれ、一人一人が命を得ることができるよう、そのことを学ぶ期間として、この時を過ごしてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(2月21日)受難節第1主日礼拝

マタイによる福音書4:1-11

「悪魔の誘惑」竹島 敏牧師

今、私たちは受難節の歩みを歩み始めています。かつて主イエスは、この地上の生涯においてどのような苦しみを背負われたのか、そしてそれは何のためであったのか‥、これから約40日間の受難節をとおして、そのことを考えていきたいと思います。受難節は、私たちがこれから担うどんな苦しみも、すでに十字架の上で全て味わい尽くされた主イエスが、私たち一人一人と共にいてくださることを再び心に深く刻みつけていくための期間です。
どんな時も聖書は、私たちに主イエスからの力を与えてくれます。時に悪魔は、聖書の言葉をも用いて迫って来ることがあるかもしれません。しかしそんな時も、教会で語られる正しい聖書解釈の言葉を聞いていれば、誤った道へそれていく事はありません。私たちの人生には本当に様々なことが起こってきます。予期せぬ病気や事故、様々なトラブル…、心配の種は尽きません。けれども、なおも聖書の言葉に救いを求めて歩み続けるなら、必ず、主の時に、主が定めてくださったその時に、解決への導きが示される…、そのことを信じて、御言葉を求めつつ歩んでまいりましょう。私たちが担うどんな苦しみも、すでに十字架の上で全て味わい尽くされたイエスキリストが常に私たちの隣に立って共に歩もうとしてくださいます。差し伸べられたその御手にしっかりとつかまって、聖書を開き、御言葉を求め、与えられた御言葉に従って歩んでいきたいと思います。そこにこそまことの救いがあることを信じて、この受難節をご一緒に歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(2月14日)降誕節第8主日礼拝

マタイによる福音書14:22-36

「導かれて歩む」竹島 敏牧師

聖書にはイエスが起こされた様々な奇跡が記録されています。様々な苦しみを味わわされながら生きざるを得なかった当時の人々にとってイエスがなさった奇跡は大きな励ましとなりまた何よりも具体的に彼らの生活を守るものでもあったことでしょう。「次には、いったいどんな偉大な業を起こしてくれるのだろうか、」と人々は大きな期待を持ってイエスを見つめていたことでしょう。
しかしそのような群衆の期待をよそに主イエスは祈るために一人、山へお登りになった、と今朝のマタイによる福音書の23節は語っています。主は山に登り一人で深く祈られたのです。23節の最後に「夕方になっても、ただひとりそこにおられた」とあるから一日のかなり長い時間を祈るためにそこで過ごしたということになります。
私達の主イエスはさまざまな困難苦難を抱えてうめく私達一人一人をこよなく愛しその間に立ってくださいます。そして必ずしも奇跡によってその関係を改善してくださるのではなく一人一人が互いに理解しあおうと相手の下に立つことができるように導いてくださるのです。そのようにすべてを主がやってくださるわけではなくできるように導いてくださるのです。その導きの御手につかまる時、きっと主は握り返してくださり私たちは、あたたかなぬくもりのうちに平安を得ることができるのでしょう。どんな時も特に苦況に陥った時に私たちの手をあたたかく握りしめてくださりやがて、引き上げ導いてくださるイエスの手を見出しその手に導かれていきたいと願います。

礼拝説教要旨(2月7日)降誕節第7主日礼拝

マタイによる福音書15:21-31

「主イエスと出会う」竹島 敏牧師

今朝のマタイによる福音書において主イエスは、カナンの女性の叫びに応えて、癒しの業をなさいました。それは、この女性とその娘がこれまで歩まされてきたであろう苦しみの道を痛切に感じ取り、何とかしたい、と深く心動かされたからでありました。このカナンの女性の苦しみの底からの叫びに促されてイエスは行動されたのです。
今、ここに集められている私たち一人一人にも、様々な痛み苦しみがあります。しかし、決してあきらめずに、自らの内側に閉じこめられた声をイエスに向かって発していくなら、必ず主はその声を聴いてくださり、一人一人との対話の中で、きっと道を指し示してくださるのではないでしょうか。その道を模索しながら歩いていくことによって、私たちは、自らの内側深くに声を閉じこめなくてもすむようになるのです。私たち一人一人の言葉にならない声、うめきをも、じっくりと聴き、これまでのお考えをも時には変更して、共に歩んでくださる、うずくまってもう一歩も前に進めなくなってしまった時には、先立って歩き、そこから手をさしのべてしっかりと手をとり、立ち上がらせ、導いてくださる‥、そのような主が、いつも、この礼拝堂にはおられるのです。
今日も、その主はここにおられて、様々な痛み、悩み苦しみを抱えつつここにたたずむ私達一人一人と向き合ってくださっています。主日は、その主とじっくり向き合うために備えられている日です。今日、そのことを再び皆さんとご一緒に確認しあいたいと思うのです。

礼拝説教要旨(1月31日)降誕節第6主日礼拝

マタイによる福音書5:17-20

「天の国に入る者」早川 真伝道師

今日の箇所で、「律法や預言者」と言われているのは、旧約聖書全体を意味しています。イエス様はそれらを完成するために来られた、とあります。この完成という言葉は、いっぱいになるまで満たす、という意味の言葉です。
律法学者やファリサイ派の人々の義とは、律法の形を守ることでした。これをイエス様は軽んじておられません。しかし、更にまさった義とは、形だけでなく、中身をも満たされることでありましょう。その中身とは、神の愛であります。
イエス様は満たすために来られたわけですけれども、私たちからすればそれは、満たされる、ということであります。つまり受け身です。神様は今日も私たち一人一人を満たそうとしておられます。一人一人にふさわしいその日の予定を、愛をもって準備してくださっているに違いありません。そして、その主の愛に満たされることこそが、天の国に入ることなのでありましょう。
天の国とは、天の支配とも言い換えることが出来ます。天の国に入るということ、それは将来のことであると同時に、今現在、与ることのできる恵みであります。全てをご存じの神の愛に満たされて生きる、そのために自らの思いを手放して神の導きを待ち望む時、主は私たちの内に働き、御心を示し、律法と預言者によってすでに示された義の道を歩ませてくださるに違いありません。
そして、神は今日も、私たちが自らを満たす歩みではなく、主によって満たされる歩みへと立ち帰るよう導いておられます。その主の導きに、耳を澄ませて、今週一週間も共に歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(1月24日)降誕節第5主日礼拝

マタイによる福音書4:12-17

「闇を見つめて」竹島 敏牧師

今朝の聖書箇所の内容を一言で言い表すならそれは、暗闇の中に来られる光を見つめて歩め、ということです。人工的なきらびやかな光ではなく、真っ暗闇にしか見えない中をビクビクしながらも勇気を出して突き進んでいく時に差し込まれてくる細く小さな光、その光を見出そうとしていくときに、本当の救いが心の中に芽生えてくる、ということです。
主イエスは言われます。今朝のマタイによる福音書4章16節以下ですが、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差しこんだ。その時からイエスは、悔い改めよ天の国は近づいた、と言って宣べ伝え始められた」と。
暗闇の中にこそ、光なる主はおられる‥、今はまだ、ただの深い暗闇にしか見えなくても、祈りつつ、見つめ続け、一歩一歩進み続けるなら、必ずそこに一筋の光が差し込んでくる、そして、これからどう進んでいけば良いのか、どこに救いの道があるのか必ず示してくださる、道しるべとなって共に歩んでくださる、だから決してあきらめてはならない、投げやりになってもいけない、と主は、今朝の聖書の箇所を通して、私たち一人ひとりに語りかけておられるのではないでしょうか。
私たちの人生の日々において起こってくる様々な出来事の中で、ときに私たちは、見捨てられ暗闇の中に放り込まれたと感じてしまうこともあるかもしれませんけれども、そのような時こそ、今朝の御言葉をしっかりと思い起こし、私たちにも必ず、細いしかし決して途切れることのない光が、道しるべとして与えられるのだということを覚えておきたいと思います。

礼拝説教要旨(1月17日)降誕節第4主日礼拝

マタイによる福音書4:18-25

「御国の福音」竹島 敏牧師

神の国の福音宣教を進めていくにあたって主は、共に歩んでいく弟子を選ばれました。まず、ペトロとアンデレという兄弟、それから別の二人の兄弟ヤコブとヨハネ、この四人の漁師を主は弟子にされました。この四人とも、主の招きを受けるとすぐに従った、と今朝のマタイによる福音書は伝えています。これは、神の国という救いの完成の場が、招きを受けた者にはもれなく備えられており、今、その神の国の方から近づいてきている、ということです。だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めて」歩んでいきましょう、どんなことがあっても主は、神の国と神の義を求めて歩んで行こうとしている者たちをお見捨てになる事はないでしょう、危機的な状況がやってきても、細い逃れの道を一本、備えてくださり、その細い道をたどって逃れていくことができるよう導いてくださるはずです、ということが言われているのです。様々な過ちや失敗にもかかわらず、主は決して弟子たちをお見捨てになることなく、最後まで神の国へとお導きになった、その主との最初の出会いが今日の聖書箇所を通して私たちに示されているのです。
なぜ、自分の人生にこのようなことが起こらねばならないのか、時に大きな声で問いたくなる日々の中で、しかしそれでも、神の国は近づいている、あなたにも近づいている、その御業になお、あなたも用いられようとしているのだ、という福音に感謝しつつ、日々の歩みを謙遜にすすめてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(1月10日)降誕節第3主日礼拝

マタイによる福音書3:13-17

「主と共に生きる」竹島 敏牧師

今朝のマタイ福音書の最後、17節には「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえた、とあります。この時の神の声が、イエスの全生涯を決定した‥、と言っても過言ではないでしょう。イエスは、バプテスマを受けたと同時に、この神の声を聞き、自らのこの地上の生涯の方向性をはっきりと悟ったのです。神の国を目指して、悩み苦しむ人々と共に歩む‥、その方向性をはっきりと悟られたのです。「神の国を目指して、あくまでも悩み苦しむ人々と共に歩む‥、」それは主御自身にとっては、苦難と十字架への道を行くことでもありました。しかしその道を通らなければ、復活もない‥、苦難と十字架ぬきの復活などない‥、バプテスマを受け、水の中から上がられて神の声を聞いた主は、そういう覚悟で、悩み苦しむ人々と共に神の国を目指して歩み始めたのでありましょう。
ですから、実に、このイエスの受洗という出来事は、神の子でありながら、人としてこの地上に生まれてきてくださった方が、十字架への道のりにおいて様々な救いの業を行っていくにあたってまず最初に、どうしてもなさねばならなかった一つのしるしだったのです。
だから、この主イエスの決断を無にしてはならない‥、そこまで主が徹底して私たち人間と共に歩もうとされたのだから‥、また今もそうされているのだから、全面的に、この主にたよりなさいというメッセージが、ここにはあるのではないでしょうか。2021年、この年を‥、この私たちと共に歩んでくださる主イエスを感じて生きていくために、整えてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(1月3日)降誕節第2主日·新年礼拝

使徒言行録7:54-60

「天の向こうに」竹島 敏牧師

ステファノのように、いつも心の中にイエスを想い、何よりもこのイエスに従っていく志をもつならば、困難の時、万策尽きて天を見上げるしかない時も、見上げた天が開かれて、きっとそこに慈しみの眼差しをもってたたずんでおられる主イエスと対面することができる、それが、今朝の使徒言行録に示された神からのメッセージです。そして、そこで、私たちは「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」という主の赦しの言葉を新たに聞き、そこからまことの平和を作り出す者として、何度でもやり直していくことができるのです。だからあきらめない。
もちろん、この主の赦しとは、何をされてもただ黙って容認する‥、容認し続ける‥、というようなものなのではありません。そうではなく、破れてしまったお互いの関係性を神の正義にもとづいて回復させる‥、ということです。まことに対等で平等な関係に回復させる、ということです。そのためにどこまでも忍耐しつつ訴えかけあらゆる努力をし続ける、ということです。それが、この暗闇の世に、力のかぎり、小さな光を証しする、ということにもなるのだと思います。
この暗闇の世を照らし続け、いつか、天になるごとくこの地にも、まことの平和を成就させてくださる救い主イエスのお働きに仕える者として、どんなことがあっても決して主にある希望を失うことなくこの年も歩み続けていきたいと思います。

礼拝説教要旨(12月27日)降誕節第1主日礼拝

イザヤ書60:1-6

「恐れつつ喜ぶ」早川 真伝道師

ここで言われている「起きる」とは、「立ち上がる」という意味の言葉です。そこには、打ちひしがれた状態があります。しかしそのような者に、神はイザヤを通して「立ち上がれ、光を放て」と語られます。なぜなら光が来たからです。
当時もまた、闇が地を覆っている現実がありました。その中にあっても、主は“あなた”の上に昇り、主の栄光は“あなたの上に”現れると語られます。ここで言われているあなたとは、文脈上、エルサレムという町のことです。エルサレムはイスラエルにとって特別な町であります。南ユダ国の首都であり、神殿がありました。しかし敵国バビロンに滅ぼされ、灰燼に帰してしまいます。そのエルサレムに、やがて、主の光が昇るというのであります。
5節の「畏れ」は「恐れ」、「おびえる」の意味の言葉です。暗きを照らされると人はまず恐れるものであると思います。それは、これまで闇の中でよく見えなかったものが急にはっきりと見えるからでありましょう。しかし、その光を見て、周囲の富や宝が集まる、というのであります。それは、闇の中でどうしたらよいのか分からない周囲の人々にとって、その光が一つの目印となり、歩むべき道を示してくれるからでありましょう。
今年は、コロナウイルスの影響を受け、多くの不安、困難、悲しみがありました。しかし、そのような私たちに対しても、主は、起きよ、光を放てと語りかけておられます。新しい一年も主の輝きに照らされながら、恐れつつ、なお喜んで、主の栄誉を宣べ伝えていきたい、そのように思います。

礼拝説教要旨(12月20日)降誕前第1主日·アドベント第4主日·クリスマス礼拝

マタイによる福音書1:18-23

「共におられる神」竹島 敏牧師

教会は、クリスマスから新しい1年の歩みが始まります。過ぎ去ったこの1年にも、私達一人一人、いろいろなことがあったと思います。
楽しかったこと、うれしかったことと同時に、苦しかったこと、人との関係において傷つき、また知らず知らずのうちに傷つけていたことも多くあったのではないか、と想います。
もしかしたら私達誰もが、長く生きれば生きるほどいくつもの傷を負い、また傷を負わせてしまうことになるのかもしれません。しかし、そのすべての傷を担い、十字架の上で贖い、さらに復活の出来事へと導いてくださる主イエスの業を信じるなら、必ず救いの道が備えられていくのです。
私達全ての人間の痛み苦しみを共に担いつつ歩むために、この地上に来てくださった主イエスを心に迎え入れるなら、信じて洗礼を受けるなら‥、そのような人知を超えた救いの道が開かれていくのです。クリスマスは、そのことをあらためて確認し、主イエスと共に、新しい1年の歩みを踏み出す時として、私達に与えられているのではないでしょうか。
私たち一人一人の、この一年の歩みは、決して手放しで喜べるような、平坦なものではありませんでした。しかし、であるからこそ、私たちの、この共同体の中に、その交わりの中に、永遠のインマヌエルなるイエス・キリストがしっかりと共にいて下さる。そして一人ひとりに新たな導きを与えてくださる…、私たちは、このクリスマスに、再びこのことをしっかりと確認して「新しい出発」をしたいと思うのです。

礼拝説教要旨(12月13日)降誕前第2主日·アドベント第3主日礼拝

士師記13:2-14

「救いの先駆者」早川 真伝道師

当時イスラエルに対するペリシテ人の圧迫がありました。サムソンは、敵に対しては超人のような力を発揮するが、女性に対しては幼児のように弱く、生涯の中で度々困難を被りました。そのようなものであっても神様は聖別し御自分の御用のために用いられます。
サムソンは、デリラにそそのかされ、髪を剃られてしまい、ナジル人としての神の力を失います。その結果、ペリシテ人に捕らえられ、両目を潰されました。しかし、その生涯の終わりに、自分の命と引き換えに建物を壊し、生きている時よりも多くのペリシテ人を倒しました。
イエス様はその死によってペリシテ人のような目に見える敵ではなく、目に見えない敵、サタンを打ち破られました。そして、再び来られる時、サタンは完全に滅ぼされ、人は完全に罪から救われる、ということを聖書は告げています。更に、私たちの生活を脅かす一切のもの、死までもが、やがての時には滅ぼされる、ということが聖書には書かれています。死してなお豊かな実を結ぶ、神様の不思議な御業が示されています。
今日の箇所で、御使いはマノアの妻に、ぶどう酒と強い酒、汚れた物を食べるな、と語ります。その胎に宿った子はもうすでに、死ぬまで、ナジル人、つまり神に聖別された者としてその務めを果たす。あなたは、あなた自身のことに気をつけていなさいと言われているのではないでしょうか。
クリスマスを目前に控えた今、御子を待ち望むために私たちが為すべきことは何でしょうか。そのことを一人一人が主に問いながら、主の降誕までの時を過ごしてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(12月6日)降誕前第3主日·アドベント第2主日礼拝

イザヤ書59:12-20

「主の来られる所」早川 真伝道師

今朝与えられた箇所で、イザヤは民の代表として神の前に罪の告白をします。彼は民の中に咎や罪が多いことを認め、共同体の罪を自らの罪の深さとして告白しています。正しいものが略奪に遭う、それほどに国が腐敗している。それにもかかわらず、誰もこの状況に対して立ち上がる者がいませんでした。そのような破れた状況に対して向かっていく人がいない、だから神が立ち上がられたのであります。
私たちの周りには様々な問題があります。そして、その原因も、様々に考えることができます。しかし、根本的な原因、それは、神に背いている、という現実であると今日の聖書の箇所は語っています。
20節にある「悔いる」とは「立ち帰る」という意味の言葉です。そこには悔いるという後悔の念よりもむしろ、向きを変えるという積極的な意味合いが含まれています。これまで神に背いてきたそのことを認め向きを変えようとする時、神は贖う者として来られます。そこには報復ではなく、恵みの業があります。あたかも放蕩息子のように、どれほど神から遠く離れ、暗い場所にいたとしても、一度神の方に立ち返るなら、神の方から両手を広げ、迎えに来て下さるのであります。
そして神は、既に立ち帰る道を備えて下さっています。私たちの救い主、イエス・キリストです。本日はアドベントの第二主日です。救い主として地上においでくださった御子を覚えて、神に立ち返る道が備えられた恵みを、二本のロウソクの灯と共に思い起こしたいと思います。

礼拝説教要旨(11月29日)降誕前第4主日・アドベント第1主日礼拝

イザヤ書2:1-5

「見つめた言葉」早川 真伝道師

 私たちの周りには、あらゆる言葉が満ち溢れています。私たちは、何の言葉を見つめるのか。誰の言葉を見つめるのか。その源泉はどこにあるのか。ということを問う必要があるように思います。
1節にある「見たこと」の「こと」は「言葉」という意味があります。これは、神の言葉は必ず出来事となる、ということを意味しています。アッシリアに攻撃され、その支配下に置かれるという状況の中、やがて訪れる主の平和について語られています。
主の言葉は出来事であり、やがて必ず実現すると信じ歩むなら、現状がいかに暗くとも、そこに確かな希望が生まれます。平和ではない現状にあってなお平和の中を歩む方法がある、そのことを今朝の箇所は示しているのであります。それは、主の言葉を見つめ歩む道であります。
5節には「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」とあります。ヤコブの家、それは教会のことでありましょう。世界中がコロナウイルスの影響を受け、暗い思いに沈んでいるこの時にこそ、ヤコブの家なる教会に、「さあ、主の光の中を歩もう」とイザヤは呼び掛けているのであります。
本日は、アドベント第1主日礼拝です。暗闇のような現実の中に、出来事となる神の言葉を信じるなら、そこに希望、平和、喜び、愛の光が灯ります。そして御子がお生まれになったことこそ、私たちの光の源であります。その光を見つめ、暗い現実の中にお生まれになった御子を待ち望みつつ、喜びの内にこのアドベントの時を過ごしてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(11月22日)降誕前第5主日礼拝

ミカ書2:12-13

「先頭に立たれる主」早川 真伝道師

ミカは紀元前8世紀に活躍した、イザヤと同時代の預言者であり、敵国アッシリアの度重なる攻撃、そして北イスラエルが陥落させられ、南ユダもまた、攻略されていく中で、そのことを神の刑罰であると預言していました。
しかし、神の裁きの特徴は、残りの者を残される、ということです。私たちは裁きというと全て滅ぼし尽くすことかと思いますが、神の裁きは全て滅ぼすことはせず、その中の一部を残される、と言うのであります。
私たちの苦しみの中で最も辛いのは、現状の苦しみに理由が見いだせない時ではないでしょうか。一体なぜ神はこのようにされるのか。理不尽に思える境遇の中で、私たちは時に、神を責め、嘆きと、恨みにも似た言葉を発するものであります。しかし、驚くべきことに、私たちは、私たちの救い主、イエス・キリストの中に、このどうしようもない悲惨な私たち自身の姿を見るのであります。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」この唯一の正しい方の切なる叫びに、神はお答えにならなかったのであります。それは、私たちのこの苦しみの最前線に、主が立ってくださっている、ということであります。そして、死から復活することによって、その苦しみを打ち破ってくださったことを意味しています。
現状がいかに苦しく、惨めであったとしても、最後まで神に訴え、なお神に望みを置く時、神は必ず、その苦しみを打ち破り、私たちを門の外へと連れ出してくださる、そして私たちを死から命へと導こうと羊飼いのように気を配っていてくださるのであります。

礼拝説教要旨(11月15日)降誕前第6主日·幼児祝福礼拝

申命記18:15-22

「預言者の言葉」早川 真伝道師

預言者とは、神様の言葉を預かる人のことです。そしてそれを神様の民であるイスラエルの民に告げました。しかし何故、神様は直接語らなかったのでしょうか。それは、イスラエルの民が、モーセが十戒を与えられた際に、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、主が火の中を山の上に降られたことに怖れ、神様に「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」と頼んだからです。
神様はそのことに対して、「彼らの言うことはもっともである。」と言われました。これは、彼らは良いことを語った、という意味です。主を正しく畏れるのは良いことだと言われているのです。
モーセという人はとても忠実に神様の言葉を語りました。そして、神様はやがて、モーセのような預言者を立てると約束されました。そしてその後に様々な預言者が現れました。その中の一人、イザヤは次のように予言しています。「一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」
神様がモーセに約束された預言者とは、イエス様のことでした。イエス様は、神様のお心を完全に人間にお伝えすることができました。神様のお心、それは、神様が私たちを愛してくださっているということです。神を畏れることのない、生意気な私たちがそのことに気づくために神様は赤ちゃんの姿を取って地上に来てくださったのでした。クリスマスをお祝いするたびに私たちの心がへりくだらされて、謙遜な者へと導かれますようお祈りいたします。

礼拝説教要旨(11月8日)降誕前第7主日·創立118周年記念礼拝

創世記13:1-8

「選択の礎」早川 真伝道師

小石川白山教会の創立者であるスーザン・バーンファインド先生は、1900年に日本に来られ、41年間、日本で働かれました。彼女はその間、婦人会、若い女性のための集会、日曜学校、英語のバイブルクラスやドイツ語の個人授業、また聖書学校の校長、孤児院、小石川教会、等々あらゆる働きをされました。そして1945年8月の原子爆弾投下を機に日本が降伏したことにより戦争が終結し、小石川教会、孤児院、聖書学校はすべて、先の五月の焼夷弾爆撃で破壊され、彼女の多くの友人が亡くなったことを知らされたのでありました。その後、先生が亡くなられた際、花を手向ける代わりに親族の呼びかけによって集められた献金によって再建されたのがこの会堂です。
本日の聖書個所はアブラムと甥のロトが、財産が多すぎたために一緒の場所に住めなくなり、二手に分かれるという場面です。アブラムの選択はいつも主の約束に基づいていました。ロトは、自分の目に良いと映る地に移りましたが、そこは神への背きが大きく、後に滅ぼされてしまう土地でした。一方アブラムは、神の言葉を聞いて選択しました。そして、主のために祭壇を築いた、とあります。
祭壇とは何でしょうか。元来それは、神との出会いを経験した際に、神を礼拝するために築くものでありました。そのように考えますと、この小石川白山教会の会堂もまた、神を礼拝するために築かれた祭壇であるということができます。
この小石川白山教会が、そのような神の言葉を礎としてここに存在していること、その恩恵に与っている私たちもまた、未だ目に見えぬ、神の約束を望みつつ、主の来たりたもう時を待ち望みたいと思います。

礼拝説教要旨(11月1日)降誕前節第8主日礼拝

イザヤ書44:6-17

「本当の神」早川 真伝道師

今日の箇所に出てくる「贖う」は買い戻すという意味で「万軍」は戦いを意味する言葉です。ここには強い主、その気になれば背くものを滅ぼしつくすことさえできる方である主、その方が贖われるということが示されています。
何故神は偶像礼拝にふけるご自分の民イスラエルを滅ぼし尽くされなかったのでしょうか。それはご自分の民を愛しておられたからです。言わば、戦いを挑むべき者が御自分の愛する者だったのです。そこで神はどうされたのか。神は、御自分の独り子を十字架にかけられました。そのことによって本来神に立ち返るべき者の背きを買い戻されたのであります。そして、本来背いたご自分の民に向けられるべき神の万軍は、イエス・キリストに向けられたのであります。
贖うということは、同じ価値のものでなければできません。全人類の罪を赦すためには、神は全く罪のない、独り子イエス・キリストを差し出す必要がありました。しかし、御子キリストを犠牲にすることは神にとって戦いであったのではないでしょうか。イエス様が、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、主はどれほど心を痛められたかと思います。
本当の神は、ただ強いだけではなく、贖われる方であります。ご自分の独り子を犠牲にしてまでも私たちを愛してくださる神こそ、本当の神であります。神がとこしえの民と定めてくださった、その中に加えられる恵みを覚えつつ、イスラエルの王であり、私たちを贖う万軍の主を岩と頼み、歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(10月25日)降誕前節第9主日礼拝

箴言8:1,22-31

「楽しませる者」早川 真伝道師

箴言は、旧約聖書の中で知恵文学と呼ばれる書物の一つです。今日の箇所はその中でもまさに知恵について語られています。ここでは、知恵は人格化されています。そうすることによって私たちに教訓を生き生きと伝えています。
22節には、神様はいにしえの御業より先に知恵を造ったということが記されています。創造の御業に知恵が用いられた、それほどに知恵は根源的かつ重要なものであるということが言われているのでありましょう。
今日の箇所で二回、「楽しむ」という言葉が出てきます。そしてこの言葉は「楽しませる者」という意味の言葉であり、「反復」を意味する形で書かれています。知恵は私たちを、そして神様を繰り返し楽しませる者である、ということが示されています。
コヘレトの言葉12:1には次のようにあります。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。」ここには、青春の楽しみが失われていく前に、失われることのない神の知恵を得るようにとの勧めがあります。今日の箇所で、知恵が神の創造の御業を、その初めから知っていることがずっと書かれているのは、神が大地を創造された創造主であることを知ることが私たちにとっての得るべき知恵であることを意味しているのだと思います。
今日から降誕前節です。イエス様のご降誕を待ち望む時として、これからの時が備えられています。この時、神様を知る恵みが豊かに与えられますように。そしてそのことによって繰り返し、神様と私たちが楽しませて頂くことができますよう願っています。

礼拝説教要旨(10月18日)聖霊降臨節第21主日礼拝

フィリピの信徒への手紙3:12-21

「天の共同体」早川 真伝道師

今朝の箇所で、パウロは、パウロに倣う人たちを見倣うように勧めています。これは、パウロと同じ生き方をしている人に倣うように、との呼びかけです。つまり、地上のことにではなく、天上のことを目標として走っている人に倣うように、ということであります。
私たちは度々、後ろを振り返る者であると思います。あの時こうしていれば良かったと後悔し、なかなか前を向けないことがあります。また反対に過去の業績や栄光に捉われるということもあります。しかし、ここでパウロは、後ろのものをまったく忘れるように努力しているというのです。そして、前のものを得ようと、死力を尽くして手を伸ばしている、というのです。現状に満足するあまり、もうそれ以上を求めない人たちに対して、しかし、イエス・キリストにある道のゴールはまだ先であるとパウロは主張するのであります。
20節の「本国」という言葉は共同体という意味があります。共同体とは共同の利益で結ばれた集団であり、私たちの共同の利益は天にあります。私たちの卑しい体が、キリストの栄光の体に変えられること、それが天の共同体の利益であり、目標であるのではないでしょうか。その時がいつ訪れるかは誰にもわかりません。しかし、確実にその時は近づいています。その時、一切の私たちの苦しみが取り去られるのであります。そして、その時にこそ、私たちは、はばかることなく、すでに得たと言い得るのでありましょう。
後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、共に支え合い、助け合いながらひた走ることのできる恵みを主に感謝したいと思います。

礼拝説教要旨(10月11日)聖霊降臨節第20主日・永眠者記念礼拝

コリントの信徒への手紙二5:1-10

「永遠の家」早川 真伝道師

ここで言われている永遠の住みかとは、霊的な体を意味しています。それに対応するものとして語られているのは幕屋で、これは肉体の体を意味していると考えられます。幕屋とは定住するためではなく、移動するために用いる一時的な仮宿のことです。
人間が家を必要とするのは、雨風や直射日光から身を守るためでありましょう。もしそれらに無防備にさらされるなら、体力は消耗し、いのちを守ることは困難になります。キリストを信じ天の住みかが与えられている者は、決してそのような状態にはならないとここで断言されているのであります。必ず命が守られる。たとえ肉の命が果てようとも、霊の命を守る霊的な建物が備えられているからであります。
5節には、天の幕屋が与えられる保証として聖霊が与えられていることが記されています。聖書によれば、聖霊は洗礼を通して与えられます。自らが死ぬはずの者であることを認め水に覆われる時、私たちは神の恵みに覆われるのでありましょう。死ぬべきものが命に飲み込まれる、とは何とダイナミックな言葉でしょうか。
ご承知のように、私たちの地上での歩みは決して楽なものではありません。雨漏りもすれば壊れもする、肉の体を伴っての歩みであるからです。しかし、忘れてはならないと思います。この弱い私たちの体の上には目に見えない神の永遠の家が備えられています。そうであるならば、その永遠の安心に憩う時まで、地上における旅路を神の御心に従って共に歩んで行きたいと思います。やがて与えられる天上の住みかに私たちの希望を置いて、聖霊の導きのままに歩んでまいりましょう。

礼拝説教要旨(10月4日)聖霊降臨節第19主日礼拝

ローマの信徒への手紙11:33-36

「栄光は神に」早川 真伝道師

これまでパウロは、万人の救いについて語ってきました。ここで言われている万人とは、大きく分けてユダヤ人とそれ以外の異邦人の二つしかありません。
神は初めに、御自分の民、イスラエルを選び、御自身の救いにあずからせようとされました。そしてその中からイエス様がお生まれになり、ユダヤ人はもとより、異邦人にまで救いが与えられることとなりました。しかし、当のユダヤ人は、イエス様を救い主と認めず、十字架にかけて殺してしまいました。これをパウロはつまずいたと表現しています。その結果、異邦人の方が先にイエス・キリストによる救いに与ることとなりました。しかし、それはまた、ユダヤ人にねたみを起こさせるためであり、最終的にはユダヤ人もまた神に立ち返り、万人が救われる、というのであります。
この理解に至るまでパウロは苦しみました。自分の同胞であるユダヤ人がキリストを受け入れない、それはパウロにとって「深い悲しみ」であり「絶え間ない痛み」であると語られています。究めがたい、測りがたい知恵が、啓示によってパウロに示されたのであります。
36節には「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」とあります。これは私たちの困難も課題も、悲しみさえも全ては神の御手の内にあるということです。そして、神の救いのご計画は、確かに進んでいる、ということです。私たちもまたパウロと共に「栄光が神に永遠にありますように」、との呼びかけに「アーメン」と応えるものでありますように。

礼拝説教要旨(9月27日)聖霊降臨節第18主日礼拝

エフェソの信徒への手紙3:14-21

「キリストの愛」早川 真伝道師

今朝与えられた箇所は、これまで異邦人の救いについて語られてきたパウロの祈りの部分です。
15節の「家族」とは「部族」をも意味する言葉です。本来、御父である神から名を与えられたのはイスラエルの12部族でありました。しかしここでパウロは異邦人であるエフェソの信徒たちもまた、名を与えられた家族、部族であると言っています。キリストのゆえにすべてのものが親族関係で呼ばれるのであります。
18節に「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」とあります。英国国教会内部でのメソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーは、この個所を次のように解釈しました。
「広さは全人類を包みこみ、長さは人の誕生から死に至るまで及んでいる。高さは人々の間における社会的地位や階級の高い人々、そして深さはもっとも卑しい、道徳的に堕落した人々にさえ、キリストの愛は届いている。」
この高さにもう一つ加えたいと思います。それはおごり高ぶるものです。神は人のおごりを憎まれる方でありますけれども、そのおごりを打ち砕くことによって、神の恵みに与らせてくださる方であります。すべてのものを包み込むキリストの愛。その広さ、長さ、高さ、深さをまだ私たちは完全に知りません。これは私たちにとっての希望であるのではないでしょうか。今、私たちが知っている以上に神の恵みは大きいのであります。私たちの理解や願いをはるかに超えるキリストの愛の中に、どのような時も根ざし歩んで行きたいと思います。

礼拝説教要旨(9月20日)聖霊降臨節第17主日礼拝

ペトロの手紙一2:11-25

「義によって生きる」早川 真伝道師

今朝与えられましたペトロの手紙一の時代、初代教会は誹謗中傷に満ちあふれていたようです。異教徒が故意に中傷していたのですがそれに対する最も効果的な反論は、そのような誹謗中傷が虚偽であるということを生活によって証明することでありました。
19節の「御心に適う」という言葉は「恵み」という意味の言葉です。不当な苦しみを受け、苦痛を耐えることが一体なぜ恵みと言えるのでしょうか。ローマの信徒への手紙5:1-5には、苦難がやがて欺くことのない希望を生むと語られています。ここに、苦難の中にあっても神の恵みを得る道が示されているのではないかと思います。
24節には「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」とあります。これはイエス様のことが言われているのですが、人の傷によっていやされる、ということは実に不思議なことです。自分の苦しみをもっと深い所で味わってくださっている人がいる。しかも自分のために。イエス様が十字架の上で死んでくださったことによって私たちの根本的な病、神の前に義とされ得ない、言い換えるならば私たちの罪が完全に赦されたのであります。
私たちはキリストを信じることによって与えられる義によって何の後ろめたさもなく歩み、キリストの御足の後に従うことによって、義に仕える自由、正しく生きる自由を得ます。キリストにより与えられている義にいつも立ち返り、励まされてキリストの御足の後に従う力を頂きながら、歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(9月13日)聖霊降臨節第16主日礼拝

ヨハネの手紙一手紙5:10-21

「神に属する者」早川 真伝道師

ヨハネの手紙一は、いわゆる反キリストと呼ばれる偽教師に対する注意を促す目的で書かれたと考えられます。16節に、「死に至る罪」という言葉が出てきますが、この手紙の文脈に照らし合わせるなら、それはイエスが神の子であることを否定する罪だと考えられます。
本日の説教題は18節の御言葉から取りましたが、この「属する」という言葉は起源や由来を意味する言葉が使われています。つまり神から生まれた者、また神に起源を持つ者という意味を持ちます。
神に起源を持つ者とは新しい人生の始まりがキリストとの出会いである者でありましょう。キリストを受け入れるということは、キリストと出会い、自らの罪を知らされ、自分が救ってもらわなければ生きていけないということを認めた者であるはずです。キリスト以前の自分はキリストと共に十字架の上で死に、洗礼に表されるように、復活し、新しい起源を持つ者とされたのであります。もはや古い起源は私たちを拘束せず、支配することができません。

もはや自分の起源を生まれながらの死ぬべき命に持たず、永遠なる神の命に持つ者だけが、自分の運命について、確信をもって証しすることができるのであります。キリストの内にあるならば、私たちの起源が真実の神、永遠の命になります。自分が真実なる神の内にあり、永遠なる神の内にあるという証しを、一人一人の心に、確かに神が授けてくださるよう、神に願う者でありたいと思います。

礼拝説教要旨(9月6日)聖霊降臨節第15主日礼拝

エフェソの信徒への手紙5:11-20

「光となる」早川 真伝道師

今朝与えられた御言葉には、私たちが光となるために重要なことは、明らかにされることだと書かれています。私たちが自分自身で光る必要はなく、光に照らしていただけば良いのだと。そのためには、私たちは神の前に出れば良いのであります。
私たちが自らを御言葉に晒していく、イエス・キリストに晒していく。その時に初めて、私たちは自分がどれほど本来人としてのあるべき姿から遠く離れている存在なのか、ということを知ることができます。そして御言葉は、イエス・キリストは私たちの本当の姿を暴露するだけではなく、赦し、慰め、癒してくださいます。なぜなら、光に照らされた私たちの全ての醜い姿は、十字架の上で全て主が解決してくださったからです。

19節には「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」とあります。ここに、賛美には二つの面があることを見ることができます。一つはもちろん神に感謝をささげるという面。もう一つは神が私たちに成してくださったことを思い起こし私たち自身が励まされ、強められる、という面です。
私たちもまた教会も、内に様々な悩みや問題を抱えています。しかしそれを主の御前に持ち出し、主の光に晒す時に問題の本質が明らかになり、根本的な解決へと導かれるのでありましょう。そのようにして主の光を豊かに受け、地の塩、世の光としての働きを担うことができるよう、教会が、また私たちが光となるよう、主の導きを求めて歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(8月30日)聖霊降臨節第14主日礼拝

ローマの信徒への手紙一7:1-6

「新しい生き方」早川 真伝道師

ここでは、私たちと律法というものが一つの契約関係として描かれています。本来私たちと律法の関係は契約内容であるのですが、ここでは比喩的に、契約相手として語られています。ここで重要な点は、契約関係にある二者のうち、一方が死んでしまえばその契約は無効になる、ということです。
律法、それは神と結んだ契約であります。しかし人間はだれもその契約を完全に守ることができませんでした。キリストの十字架の姿は、私たちが契約を違反することによって神を傷つけた証であります。しかし神は、御自分の独り子であるキリストを傷つけ、死に至らしめることによって、本来傷つけられるべき私たちの契約違反を無効にしてくださったのであります。
6節にある「文字」とは手紙や文書をも意味する言葉が使われています。手紙や文書というものは、それを書いた筆者の意図があります。文字ではなく、霊に従うとは、書かれた文字の背後にある、神の思いに従う、ということであり、神の思いを私たちに示すのは聖霊であります。その事柄が、神の栄光のためになされているのか、それとも自分の私利私欲のためになされているのか、ということを聖霊ははっきりと私たちの心の内に示して下さいます。
古い自分が打ち壊され、新しい自分へと造り変えられるために、神様は聖霊を一人一人の心に遣わしてくださったのであります。その聖霊の御声に聞き従いながら、死に至る実ではなく、永遠の命に至る実を結ぶ私たちへと導かれてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(8月23日)聖霊降臨節第13主日礼拝

コリントの信徒への手紙一2:11-3:9

「キリストの思い」早川 真伝道師

キリストの思いとは何でしょうか。それは、一致と平和でありましょう。
天と地ほど異なる肉の思いと霊の思い、言い換えるならば人の思いと神の思い。それを繋いで一つとして下さるのがキリストであります。
天から降り、神の御心をその言葉と行いによって示し、更に聖霊によってわたしたちのうちに住んでくださっている、その、キリストの思いが私たちに与えられているというのであります。
3節に、「ねたみや争い」とあります。妬みとは熱心とも訳せる言葉が使われています。熱心なのは良いことだと思いがちですが、人の思いによる熱心は争いと同列に扱われるべきものであるということが示されています。それは分派を生み出し、やがて争いへと向かうものであるからです。
教会の中にも様々な人の思い、肉の思いが入り込みます。しかしそこでわたしたちは幻滅するのではなく、わたしたちに与えられているキリストの思いに目を向けて行きたいと思います。
私たちは神の畑であり、一人一人が実りをもたらす存在です。そうであるならば、互いに実をつけることができるように配慮しあう必要があるのでしょう。自分だけが実をつけて、他の人が実をつけることを妨げていないか、私たちは今一度、自らを省みつつ歩んで行きたいと思います。全ての人が豊かに実を結ぶこと、それをこそキリストは望んでおられるのでありましょう。神から与えられた霊に導かれて、豊かに実を結ぶ教会へと、成長させていただきたいと願います。

礼拝説教要旨(8月16日)聖霊降臨節第12主日礼拝

ヨハネの手紙一5:1-5

「十字架への道」竹島 敏牧師

 今朝与えられた箇所において、神から生まれる者は世に打ち勝つであろうと聖書は宣言している。それはどういうことなのか。
 世に打ち勝つもの、それはイエスが神の子であると信じる者だと言われている。あの、この世の罪と悲惨を背負って十字架の上で死を遂げられたイエス。彼こそが神の子であると信じるとはどういうことか。それは自分もまたそのような道を歩むことを受け入れる、ということだ。イエスの歩まれた道、それは決して楽な、痛み苦しみを伴わない道を選ぶということではなかった。
 私たちの身の回りには様々な危険が満ちている。そのような中で危険から身を守ることはとても大切なことなのだと思う。しかし、そのような中で、人とかかわることに決して消極的になってはいけない、と聖書は私たちに告げているのではないか。そのようにして神から遣わされた者は世に打ち勝っていくのだ、と言われている。イエスはどこにおられるのか。悲しむ人、苦しむ人、そして私のそばにおられる。そして私たちの悩みや苦しみを共に担って歩みだしてくださる。
 その時私たちはまことに小さなことであるかもしれないが主の弟子として証しを立てることになる。隣人の悩みに向き合う時、この世界の悪に向き合うことになる。そしてそのような中で主に出会うのである。私たちは正しく身を守りながら、十字架の主イエスの愛をいたるところに証していく、そのような機会を求めて歩んでまいりたいと思う。

礼拝説教要旨(8月9日)聖霊降臨節第11主日礼拝

コリントの信徒への手紙一11:23-29

「いのちを受け継ぐ」竹島 敏牧師

 ここでパウロが言っている「主が来られるとき」とはいったいいつのことなのだろうか。
この「主が来られるとき」は「終末の時に主イエスは天から再び来てくださる」という信仰と深く結びついている。当時の人々は、終末を待望する想いを強く持っていた。そしてそれはまもなくやってくると信じていた。終末、すなわちこの世の終わりは、暗闇のような時代が終わりを告げ、主イエスが天から再び来てくださる救いの完成の時だと…。この世でずっと虐げられてきた者たちが主の完全なる救いに預かり喜びに満ち溢れる時が備えられている。そのような希望を固く固く持ち続けることが彼らの生きる力になっていたのだ。そして、繰り返しになるが、それはまもなくやってくる、と。
 私たちの救い主イエスキリストは、私たち一人一人の「いのち」の交わりの主である。
確かに、この地上での命がおわる別れの時は、耐え難い悲しみの時だ。しかし、誰もがいつかは迎えなければならないその時に備えて、今、互いに生かされているこの一瞬一瞬を大切にし、互いの「いのち」をわかちあっていきたいものだと思う。そして受け継ぎあっていきたいものだと思う。そうすることによって「いのち」は孤立することなく互いに輝きはじめるのだ。
主が再びやってこられ、主の救いが完成するその時がいつなのかはわからない。しかしいつか必ずやってくるその時まで、私たちもまた、このパウロたちのように、「いのち」の交わりを続けながら、希望をつないでいきたいと願うのだ。

礼拝説教要旨(8月2日)聖霊降臨節第10主日礼拝

ローマの信徒への手紙14:10-23

「神の国と神の義」竹島 敏牧師

 今朝のこの聖書の箇所は「主イエスのお姿を見つめるなら、同じ考え方や感じ方の人を多く集めて数を得ていくことによって自らの正しさを証しようとする試みが、いかに空虚なものであるかがわかってくる」ということを示している。大切なのは数ではなく、十字架の主イエスの姿を見つめ、この主が求めてやまなかった義と平和と喜びの国を見つめること、そして、この地上の世界が少しずつでも、そのような神の国に近づいていくよう仕えていくことだ。
 日常の様々な場面で、私達は自分とは違う習慣や考え方と出会う。その時、もし、私達が多数の側に立っているのなら、私達は主から、少数の、自分とは違う習慣や考え方から学びなさい、と言われるのであろう。またその時もし、私達が少数の側に立たされるのなら、たとえ一方的に裁かれることがあってもめげることなく、主の支えと導きを求めつつ、裁く人達との対話を求めていくべきなのだろう。それぞれの違いを互いに理解しあえないことも、時にはあるかもしれない。理解しようとしても、理解できない‥、そのような苦しみが続くこともあるのかもしれない。しかしそんな時にこそ私たちは、主イエスが互いに理解しあうことがなかなかできないでいる私たちを、すでに、ご自身の十字架のもとに招き、抱きしめ、一つとしてくださっている、という情景を心に思い浮かべたいものだと思う。そして、主のもとですでに実現しつつある、神の国と神の義に向かって、導かれつつ一歩一歩、歩んでいきたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(7月26日)聖霊降臨節第9主日礼拝

使徒言行録27:33-44

「救いのために」早川 真伝道師

今日の箇所は、パウロがユダヤ人に訴えられてローマへ護送されるその途中の出来事です。多くの囚人と共に船でローマへ向かったのですが、暴風に巻き込まれてしまいました。人々は不安で食べ物が喉を通りませんでした。しかしパウロは、大胆に人々に勧めることができました。それは、御使いを通して語られた御言葉がパウロを支えていたからです。
しかし実は以前にも、パウロは同船した人々に勧めていました。しかしその時はパウロの勧めも虚しく、人々は食事をとることができませんでした。なぜ今回は元気づいて食事をすることができたのでしょうか。それはパウロがこんな状況であるにもかかわらず、まず率先して、感謝してパンを食べ始めたからではないかと思います。まずは一人からでも、神の約束を信じ、感謝して食べる時、それは何よりも説得力を持つのだと思います。
38節に、「十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」とあります。私たちの信仰生活というのは、この嵐の中の船のようなものではないだろうか、と思います。教会も、危機の中でこそ、本当に必要なもの、救いに至るものを発見できるのでありましょう。神様は真の救いのために危機を起こされると言えるのではないでしょうか。今はコロナウィルスのため、世界中が苦境に喘いでいます。私たちは生き延びるために、御言葉を食べ、不必要なものを捨てて、救いの港に辿り着きたいと思います。
「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんの内だれ一人として命を失うものはないのです。」(22節) 

礼拝説教要旨(7月19日)聖霊降臨節第8主日礼拝

使徒言行録24:10-21

「ただ主を見つめて」竹島 敏牧師

 今日のこの聖書の箇所には「ゆるせない」、そういう相手をもなお、ゆるそうとするパウロの姿勢がえがかれている。ただ主イエスを見つめることによって、そのような道が与えられるとパウロはここで述べているのだ。
 さて、私達の日常においても小さな事から大きな事まで、ゆるせない、と感じることがたくさんあることを想う。しかし今朝、再び私達は、どんな時もまず共にいてくださる主イエスの御姿を、ただじっと見つめることから始めたパウロの姿勢を確認しておきたいと思う。
そして私達もまたそうすることによって、過剰な憎しみや恐れから解放され、まことの平和へとつながる道を一歩一歩歩んでいけるのだということを覚えておきたいと思うのだ。主イエスが共にいてくださり導いてくださる道を信じて行く時、すぐにではないかもしれないが人の想いをはるかにこえた新しい道が見えてくる。
 確かに、当面は何も喜ばしい兆しが見えず、何も変わらないどころか、ますます悪い方向へ向かっているのではないか‥、と感じることもあるかもしれない。しかしそんな時は、「共に苦しみつつ支え導いてくださる主イエスを、もう一度、ただじっと見つめてみる‥」そのようなパウロの姿勢を思い出してみたいものだ。
 そのようにして主イエスを見つめつつ一歩一歩歩んでいくなら、きっと神が備えてくださっている時に、本当の解決が与えられる‥、と今朝の聖書の箇所は私達に語りかけているのではないかと思うのだ。

礼拝説教要旨(7月12日)聖霊降臨節第7主日礼拝

使徒言行録9:36-43

「受け継がれるべき業」竹島 敏牧師

今日のこの聖書箇所に記されているのは、いわゆる奇跡物語であるが、その中心は「大切な人の死をいたみ、主に心からの祈りを献げるなら主が新たに、召されたその人を中心とする交わりを与えてくださる」ということなのではないだろうか。私たちもまた、すでに召された信仰の友のために、主に心からの祈りを献げるなら、主はきっと、その都度その友を私たちの間に生き生きとよみがえらせてくださり、交わりを持たせてくださるに違いないのだ。 
「私たちの主イエスは、ペトロを通してタビタを人々の間に返された‥、今後もタビタが人々の間に生き続け、慰めと支えをやもめたちに与え続けるように主はタビタのことを忘れさせないようにした」と今日のタビタのよみがえりの物語を受け止めることができるのではないだろうか。主はペトロを用いてタビタを人々の間によみがえらせた。そのタビタがこつこつとなしてきた業は、もとをたどれば、主イエスが専念してこられた業でもあった。それは決して「数」や目に見える「実績」にのみ心奪われることなく、不遇のなかで寂しさやつらさに耐えている人たちを慰め、励まし、新たな希望へと導いていくための業‥、しかし決してすぐに目に見えるような形で成果があらわれることのない業であった。 
ペトロもタビタもそうであったように現代に生きる私たちも主イエスからそのような業を受け継ぐよう促されているのだということを覚えておきたいと思う。そのような、よみがえりの出来事を目指して、今、何をなすべきかを見出していきなさいと、私たちは促されているのではないかと思うのだ。

礼拝説教要旨(7月5日)聖霊降臨節第6主日礼拝

エフェソの信徒への手紙2:11-22

「キリストの平和に仕える」竹島 敏牧師

今朝のエフェソ書の19節以下においては、「主における聖なる神殿」へと共同体が成長していくことについて述べられている。そしてキリストは、その隅の親石、また、かなめ石である、と語られている。21節には「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」とあるが、そのように様々な違いを持つ一人一人を、教会という一つの体に「組み合わせていく」のがキリストの愛の働きであると告げられている。このキリストの愛の働きなくしては、建物はばらばらになり、分裂分派してしまうのだ。 
 そして最後の22節では、「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」と告げられ、共に、このキリストの愛の働きに参加し仕えていくようにという促しが与えられている。
 確かに、全てのことにおいて余裕が失われつつあるのが、今の私達の時代の一つの特徴なのかもしれない。しかし、もしそうであるならば、そしてそのままであるならば、そこには、いつまでたってもキリストイエスの愛がない‥、殺伐とした風景しか見えてこない‥、ということになってしまう。どうか私たちは、このような時代のなかにあっても、「敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄」してくださった十字架の主イエスを見失うことなく歩んでいきたいと思う。そして、どのような場にあっても‥、教会の内でも、外でも、その主を見つめ証し続ける道を歩み続けていきたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(6月28日)聖霊降臨節第5主日礼拝

ヘブライ人への手紙12:18-29

「苦難の共同体」竹島 敏牧師

私たちは日々、様々な言葉を聞きまた語って生きている。しかしその多くはあまり意味のない言葉であったりまた、傷つき傷つける言葉であったりするのではないだろうか。そのような言葉の渦の中で私たちは怒り、悲しみ、むなしく疲労して生きているのだ。職場や学校や時には家庭においてさえそのような状況があるのではないだろうか。
しかしそのような悲惨をつらぬいて主イエスの言葉は私達一人一人に新たな命と力を与え、生きる希望を与え導くのだ。この愛と真実に満ちた言葉を受けて具体的にはまだ何も解決していないにもかかわらず静かな平安のうちに事にあたっていくことができるのだ。主に従って歩むなら必ず解決するとの約束が与えられているがゆえに全ての恐れから解放されていくのだ。 今、政治の場を始めとしてあらゆる場において真実の言葉が失われてしまっている。無意味な言葉や悪意に満ちた言葉が飛びかいそのような言葉の渦に私達もまた時にまきこまれてしまいそうだ。しかしであるからこそ私たちは日曜日ごとに教会に集い聖書を通して語られる主イエスの真実の言葉を受けて立ち直っていきたいと思う。教会は誠実な生き方を志すが故に様々な苦難を背おわざるをえなかった人達が共に集い、御言葉にあずかる苦難の共同体なのだ。この共同体においてこそ私たちは真実の安らぎを得て希望を与えられて新たな一週間の旅路へと旅立つことができるのだ。今日も私たちは主イエスのみを見つめ愛ある真実の言葉を身につけこの世の流れにあらがって、神の国の流れに従って、それぞれの場へと遣わされてまいりたいと思う。

礼拝説教要旨(6月21日)聖霊降臨節第4主日礼拝

ヨハネの手紙一2:22-29

「注がれた油」早川 真伝道師

私たちは知識を得たから救われたわけではありません。確かに、私たちはキリストのことを知ったから、ある意味では知識を得たから救われたということはできます。しかし、その前提としてキリストが十字架にかかって死んでくださった現実によって救われたのであります。その現実を信じ受け入れたからこそ、聖霊が注がれ、永遠の滅びから救われたのであります。
今日の御言葉の中で「油」と言われていますのは、聖霊のことを意味しています。当時、油は中東の民族にとって貴重なものでした。乾燥しており、暑苦しく、体力を消耗させる気候の中で、油(香油)は生気をよみがえらせ新鮮な気分を回復させました。そのように聖霊も私たちの乾燥した心、苦しく消耗した心を回復させ蘇らせてくださいます。
クリスチャンは高度な理論や証明は必要がないのでしょう。初めから聞いたこと、イエスはメシア、キリストであるということを信じるだけで十分なのだと言っているのであると思います。そのほかのことは、全てのクリスチャンに与えられる聖霊が、時にふさわしく教え導かれるというのであります。
私たちに与えられたこの聖霊は取り上げられることがありません。私たちは、度々この聖霊を悲しませるものでありましょう。しかし、私たちがそのような者であることを百も承知で神は私たちに聖霊をくださったのであります。その恵みに心から感謝し、どんな時も自分自身に絶望することなく、共にいてくださる義なる御方、注がれた油である聖霊と共に、悔い改めつつ、歩んで行きたいと思います。

礼拝説教要旨(6月14日)聖霊降臨節第3主日礼拝

ローマの信徒への手紙10章5〜17節

「福音を抱きしめる」竹島 敏牧師

 今朝のローマの信徒への手紙の17節には「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあるが、私たちは、物事が順調にいっている時よりもむしろ、苦しみに出会い、せっぱ詰まるところまでいって初めて真剣に、切実に救い主を求め、キリストの言葉を求めるのではないかと思う。
 確かにキリストの言葉に出会ったからと言って、負わされている重荷からすぐに解放されるのではないかもしれない‥、与えられている課題の全てが即座に解決するのではないかもしれない‥、もしかしたら、見た目には何も変わったところはないかもしれない‥、しかし、目には見えない形で一人一人の心に聖書の言葉を通して働きかけてくださる主イエスと出会ったなら、人は、必ず変えられていく。そして変えられていった人は当然、今までとは違う新しい行動、生き方をし始めるようになり、そこに新たな道がひらけていくのだ。だからあせる気持ちをおさえて聖書を開き、主イエスと出会っていくために、聖書の言葉を繰り返し繰り返し、抱きしめるようにして読み、心に想う、ということが大切なのではないだろうか。
 様々な不条理な苦しみに出会い、せっぱ詰まって助けを求める私たちにイエスキリストは聖書を通して救いの言葉を与え、導いてくださる‥、必ず、福音をくださる‥、そのことを信じて、真剣に聖書に向き合っていきたいと思う。

礼拝説教要旨(6月7日)聖霊降臨節第2主日礼拝

テモテへの手紙一6章11〜16節

「輝いて生きる」竹島 敏牧師

 今朝、私たちに与えられたテモテへの手紙はイエスをキリストと信じて生きる者たちには戦い抜かなければならない戦いがあることを伝えている。その戦いを戦い抜くことで永遠の命を十分に手に入れることができるというのだ。永遠の命とは私たち誰もがいつかは必ず迎えなければならない肉体の死をこえて神の御前に生き生きと輝き続ける命のことだ。
 また、マタイによる福音書の18章3節には「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とあるが考えてみると永遠の命を手に入れるとは、幼かった頃に与えられていた神からの純粋な命を少しずつでも取り戻していくということなのかもしれない。「正義なんて‥、愛なんて‥」としらけてしまうのではなくもう一度まっすぐに「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めて」生きていこうとすること、それはまさに幼かった頃に与えられていた神からの純粋な命を取り戻していく旅なのであり傷つくことによって失ってしまった自分自身を取り戻していく旅なのでもあると聖書は告げているのではないだろうか。そのような生き方を再び取り戻していく時に私たちはもう一度、命を輝かせて生きることができるのではないだろうか。もう一度、今朝の12節後半の言葉を聞きたいと思う。「命を得るためにあなたは神から召され多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」。
 神からの純粋な命を取り戻し再び命を輝かせて生きていくために聖霊のお導きをご一緒に祈り求めたいと思う。

礼拝説教要旨(5月31日)聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ礼拝

ルカによる福音書11章1〜13節

「いのちの風」竹島 敏牧師

 今日はペンテコステ‥、イエス様が復活して50日目に、熱心に祈り求めていた弟子たちの間に聖霊・いのちの風が与えられたことを記念し感謝する日である。弟子たちの間に与えられたいのちの風は、確かにあの日、弟子たち一人一人の心と体を慰め、支えたことだろうと思う。その頃の弟子たち一人一人にもいろんな悩みや苦しみがあったはずだと思うが、十字架のイエス様が全て、その悩み苦しみをすでに味わってくださって、その上で今、聖霊となってこの自分たちのすぐそばにいて支え、導こうとしてくださっている‥、それは本当に大きな力だったと思う。
 そしてその同じ風を今朝、私たちは共に受けようとしているのだ。教会の礼拝堂に集まることはできず、それぞれのところに散らされて礼拝をささげているとは言え、私達は小さな子どものみなさんから歳すすんだ方々まで、共に、あのいのちの風を御一緒にいただこうとしているのだ。祈り求める者に天の神は聖霊を与えてくださる、とイエス様は言っておられる。
 弟子たちが慰められ励まされ、その力によって立ち上がって教会をつくっていった「いのちの風」を私たちも受けて、再び歩み始めたいと思う。私たち一人一人、皆、さまざまな悩みや痛みや苦しみを背負っている。しかしすでにその全ての痛み苦しみを味わわれた上で寄り添い、支えてくださる方の風‥、聖霊に導かれて歩み出すならば、きっと新たな希望の道を見出すことができる‥、この聖書の約束を信じて、聖霊に身をゆだねて歩みだしたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(5月24日)復活節第7主日礼拝

ヨハネによる福音書7章32〜39節

「生ける水の川」早川 真伝道師

誰も、必要を覚えなければ水のもとには来ません。自分が渇いている、ということを自覚するものだけが水のもとに来ます。私たちは自分が渇いているという自覚を持つでしょうか。
マザーテレサは「愛に渇く」と言ったといいます。私たちは、身体的に渇くことはなくても、この愛に渇く者であるのではないでしょうか。私たち自身が愛されることに渇き、また、他者を愛する愛に渇いているのではないでしょうか。この渇きを癒すには、私たちは神の愛のもとに行かざるを得ません。御自分の大切な独り子を、十字架の上に付けてまで私たちを救おうとなさった神の愛、十字架についてくださったイエス・キリストの愛、そして、目に見えずとも絶えず主と共におられ、力を与え導かれた聖霊の愛。その神の愛のもとに行くとき、私たちの内なる渇きは初めて癒されていくのであります。
来週はペンテコステです。全てのものを生かす生ける水の川は、この聖霊のことであると今日の箇所では語られています。キリストを信じる者全てに与えられる聖霊が、私たちの汚れを清め、また世の汚れを清めるということを信じたいと思います。私たちにそのような力があるのではなく、神である聖霊御自身がそのようにしてくださいます。たとえ今はそのように思えなくても、きっと神はそのようにしてくださる、ということに期待をもって歩んで行きましょう。どれほど死んだような私たちの現実も、この生ける水の川が流れる所では、全てのものを豊かに生き返らせるということを信じ、主の愛に浴しつつ、主の愛を指し示しつつ、歩んで行きたいと思います。

礼拝説教要旨(5月17日)復活節第6主日礼拝

ヨハネによる福音書16章22〜33節

「天からのまなざし」竹島 敏牧師

 私達の主イエスは、どんな困難な状況になっても、ご自身の使命を全うするために、この地上の生涯をまっすぐに歩んでいかれた。それは、ご自身が神のひとり子であったから、ということと共に、いつも、御心が成就している天を見上げて祈り、そこから逆に、この地上の世界を見つめておられたからなのではないかと思うのだ。つまり、「どんなにこの世界が悲惨な状況であったとしても、天において、御心は成就している‥、神の御心にかなった世界が天には成就している。そして、この地においても必ず、その同じ御心が成就していく」、そのような約束に生きていたからこそ、主は、どんな困難な状況になっても、ぶれることなく、神のアガペーの愛の道を行くことができたのではないだろうか。
 そしてこのような主イエスの姿勢から私たちは、天において成就しているその救いから逆に、現在の自分を見つめて生きる、という、ものの見方を学ぶことができるのではないだろうか。そしてその時私達は、今の自分の人生がどんなに悲惨な、また、行き詰まったものに見えていても、なお将来に向かって開かれており希望がある、と告白できるのではないだろうか。
 私たちの主イエスがいつも、天を仰いで祈りを献げ、天からのまなざしに支えられて歩んで行かれたように、私達もまた、天からのまなざしに支えられて‥、今は、天から聖霊を送り、私達を見守り導いてくださる主イエスのまなざしに支えられて、日々の歩みをすすめていきたいと思う。

礼拝説教要旨(5月10日)復活節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書15章18〜27節

「選び出された者たち」竹島 敏牧師

私たちは皆、キリスト者になるように、とここに選び出された者たちだ。キリスト者とは、一言で言えばキリストにならって生きる者達のことだ。キリストにならって生きる、とは、キリストの正しさや優しさを見て、それを身につけて生きる、ということだ。しかしそのような生き方にはまた苦しみも伴う。
でも、多くの苦しみに満ちた終末的な状況のなかで、私達が気づかなければならないことは、今、主イエスは、私達がどのようにこの状況を切り抜けていこうとするのかを見ておられる、ということなのではないだろうか。
私達には、日々様々な葛藤があり、闘いがある。主の弟子でなければ、こんなに葛藤することはなかったかもしれない‥、もっとこの世とうまく折り合いをつけて楽に生きることができたかもしれない、という想いがわいてくることもあるかもしれない。しかし、そのような時こそ、主もまた深く葛藤され苦しまれた、ということを思い起こしたいと思う。そして今も、私達がキリスト者として深く葛藤し苦しむ時、主イエスご自身が共に葛藤し苦しんでくださっているということを忘れずにいたいと思う。
激しい迫害の中で、様々な苦しみを負いつつ主イエスが求め続け、またヨハネの共同体が求め続けたもの‥、すなわち神の国を、私達もまた葛藤し苦しみながらも、真理の霊に導かれつつ求め続けていきたいと思う。そのために、私たちは選び出された者たちなのだという自覚を今朝私たちはあらたにしたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(5月3日)復活節第4主日礼拝

ヨハネによる福音書21章15〜25節

「イエスの愛」竹島 敏牧師

今朝の聖書の箇所が私たちに教えようとしているのは「神と出会うために苦しみを背負いなさい」ということなのではない。そうではなく「どうすることもできない苦しみの深い淵に、私たちの主イエスは両手をひろげて立っておられる」ということだ。そして「その淵にたたずむ私達をしっかりと支えてくださり決して一人ではないということを感じさせてくださる」ということなのだ。
家族や自分をとつぜん襲ってくる病、また人間関係の葛藤など私たちの人生にはどんなに回避しようとしても回避することのできない多くの苦しみがある。なかには生涯向き合い続けなければならない心や体の痛みもある。解決しそうもない人間関係のもつれや葛藤をしばしば経験する。しかしそのようなどうすることもできない苦しみに満ちた私達の人生がどのような終わりを迎えようとも主はしっかりと私達一人一人を受け止め抱きしめてくださる、たとえ未解決の問題や苦しみを抱えたままで終わっていかねばならないとしても、そのような私達一人一人をもしっかりと受け止め抱きしめ、慰めのうちに天へと連れ帰ってくださるのだ。私たちの生涯の終わりにはそのような救いの道が備えられている‥、そしてその時きっと主から全ての答えが与えられる‥、だから、その時まで、主の御心をたずね求めつつ、なおせいいっぱい生き抜いていきなさい‥、と天から呼びかけられているような気がするのだ。そのような呼びかけに応えて今日という一日を生きようとする時、私たちの内に、新たな希望が生み出されるのではないだろうか。

礼拝説教要旨(4月26日)復活節第3主日礼拝

ヨハネによる福音書21章1〜14節

「夜明けの食事」早川 真伝道師

弟子たちは今までイエス様という指導者に従って網を捨て、舟を捨ててきました。しかしその指導者であるイエス様がいなくなった今、弟子たちは急に目標がなくなってしまい、心にぽっかりと穴が開いたような空虚感に襲われていたのではないかと想像します。そのような彼らにとって、漁は空っぽになってしまった心を埋めるための労働であったのではないでしょうか。
ペテロを始めとする漁師出身の弟子たちは、きっと魚を取ることならできると考え、漁に出たのだと思います。しかし、時にこの「できる」は神様の手によって完全に妨げられます。いつもできていたことができない。それも、徹底的にできない、という状態になった時、私たちは自分の力の限界を知り、自分よりも大きな存在である神の御心の前に、膝をかがめて、初めてへりくだることができるのではないでしょうか。
この後ペトロたちはペンテコステの出来事によって聖霊を受けて福音宣教の働きへと出て行くことになります。その前に主はもう一度、この福音宣教の働きが主御自身の業であり、私たちの力で「できる」ものではないということをはっきりと示されたのではないでしょうか。
私たちが主の言葉に聞き、主の言葉に従う時、福音は豊かな実りをもたらし、多くの人を満たすことができるとここで主は告げておられるのであります。それが夜明けであればあるほど、私たちは、主の備えてくださった食事を、いっそうの感謝をもって、受け取るに違いありません。私たちを霊肉共に活かすこの主の食卓に、悔い改めと感謝とをもって集う私たち一人一人でありたいと思います。

礼拝説教要旨(4月19日)復活節第2主日・イースター礼拝

ヨハネによる福音書20章1〜18節

「復活の朝」竹島敏牧師

今朝のこの聖書の箇所を通して私たちは、弟子たちと復活の主との喜ばしい再会の出来事を知る。しかしそれは、いわば一瞬の出来事にすぎず、やがてイエスは天にのぼっていかれる。イエスと弟子たちとは天と地における新たな関係に入っていく。しかし弟子達は、まさにそのことを通して、やがて、弟子たち同士のこの地上での別れをもまた、天と地における新たな関係に入っていくこと、と捉えることができるようになり、そのような弟子たちの永遠の交わりのなかで彼らは、死別した弟子たちの姿や言葉が、よみがえってくる体験を何度も何度も味わい、その体験によって慰められ励まされて、困難な宣教の業をなし続けていったのだろうと思う。
イースターは、主イエスが復活されたことを喜び感謝する日だが、それは、天と地という物理的な距離を超えて、主イエスと弟子達との霊的な交わりが深められていくその出発点でもあったということを覚えておきたいと思う。主の復活と昇天という出来事は、そのように当時の弟子達と主イエスとの関係を新たなものにしたのだ。私達もまたやがて、この地上を去っていく者達である。しかし私達が今、復活の主イエスとの霊的な交わりに深くあずかっていくならば、天と地をつないでくださる復活の主の導きによって、先に召された人達とのより親密な交わりが与えられるのだ。私達の主は、私達一人一人の名を呼んで、慰め、励まし、そして先に召された愛する人の、声や言葉や姿を、よみがえらせてくださる復活の主なのだということを感謝をもって受けとめたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(4月12日) 復活節第1主日礼拝

ヨハネによる福音書27章32~44節

「自分を救わない神の子」竹島 敏牧師

私たちの主・受難の主は、最後の最後まで主の御心に従い、十字架の上で死んでいかれました。まさにそれは、自分を救わない神の子の姿でありました。そしてその姿は、私たち一人一人にとても大切なことを指し示しています。それは、私達にとって最も大切なことは、自らに課せられた問題が即座に解決することなのではない、そうではなく、主の御心にかなった道を歩んでいるかどうかなのだ、ということです。
主の御心にかなった道を歩んでいるのであれば、私たちが抱える様々な問題も、やがて必ず解決していくのでありましょう。しかし、主の御心にかなわない道を歩んでいるのであれば、たとえ、問題が解決していくように見えていても、それは決して真の解決にはなっていかないのです。だから大切なのは、たとえ遠回りのように見えていても、主の御心にかなうと思われる道の方を選び取っていくことなのです。その方を選び取り続けていくことなのです。
不条理な出来事や、困難の只中にこそ、私達の主は共にいてくださいます。そしてご自身がかつてかかられた十字架への道を、もう一度、私達一人一人に見せてくださり、その道をともに歩むことを促されるのです。その道を通ることでしか得られない真の解決と真の平安を私達一人一人に与えるために主は、その道を共に歩むことを私達一人一人に促されるのです。今、私達一人一人に課せられているそれぞれの問題に思いを馳せつつ、主が歩んでいかれた十字架への道を今一度しっかりと直視したいと思います。

礼拝説教要旨(4月5日) 受難節第6主日礼拝

ヨハネによる福音書18章1~14節

「十字架への道」竹島 敏牧師

 今朝のこの聖書の箇所は、つまるところ「具体的には何の望みもない中で、なお、神にゆだねることに希望を見るということ、それこそが十字架の希望だ」と暗い想いに打ちひしがれそうになっている私たち一人一人に訴えているのだろうと思います。ではその私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何なのでしょうか。それは、すべてを失ってもなお、向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。絶望の中で、枯れるほど涙を流しながらなお、向こうから一方的にさしてくる光、これが十字架の希望です。全てを失ったと感じ、また、具体的には何の見通しもないにもかかわらず、なぜか、心の一番深いところに平安が与えられている、「きっと大丈夫」という確信にさえ似た思いが与えられているということ、それが十字架の希望なのです。
 イエスは、おそらく、ユダや、その他の弟子達にも捨てられ、神にさえ捨てられたと感じてもなお十字架の上で、この光を見続けていたにちがいありません。この光に照らされていたからこそ最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と告白したにちがいないのです。そして、十字架の向こうから射してくるこの光を主は、ユダの裏切りによって、逮捕されていくこの時すでにしっかりと見つめていたからこそ、憐れみのまなざしをもって、なおユダを見つめ、また、これから次々と自分を裏切っていく弟子達を、なお守り抜くことがおできになったのではないでしょうか。私達の救い主・受難と復活の主イエスが、すでにこの時から見続けていた光を、私達も見つめつつ、この受難週を歩んでまいりたいと思います。