礼拝説教要旨(6月26日)聖霊降臨節第4主日礼拝

使徒言行録16:16-24

「イエス・キリストの名によって」早川 真牧師

今朝与えられた聖書の箇所は、パウロの伝道旅行中に、フィリピにて起こった、ある悪霊に憑かれた婦人の奴隷の出来事であります。そもそも、悪霊とは何なのでしょうか。それは、人の関心をこの世の利益へと向かわせ、この世での利益のために人や神をも利用しようとするよう導く存在であると言えます。聖書は、この悪霊が目に見えないけれども存在し、私たちを誘惑し、時には憑りつき、人を滅びに向かわせようとしているのだということをはっきりと示しています。
では、どのようにしたらそのような目に見えない力から守られるのでありましょうか。それは、パウロがしたように、悪霊が最も恐れる、イエス・キリストの名を口にすることでありましょう。この、イエス・キリストという名前の中に、私たちが知るべき最も大切なことが告白されています。それは、神が私たちを救ってくださるということ、そして、それはイエス・キリストによって成し遂げられたということです。ここにしっかりと立つことが、私たちの信仰生活の中心であると言えます。
人は、時に真理よりも、自分の利益を優先させる場合があります。女性の主人たちも、群衆も、ローマの高官も、それぞれ自分の利益のために真理を犠牲にしてしまいました。しかし、私たちの弱さや狡さを十分に知っておられる神は、私たちのため、既に強力な救い主と助け主を与えてくださっています。それは、イエス・キリストと、聖霊であります。初代の使徒たちに力ある業を行わせた聖霊が、ここに集う私たちの上にも豊かに注がれるようイエス・キリストの名によって祈り求めてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(6月19日)聖霊降臨節第3主日礼拝

ローマの信徒への手紙8:12-17

「神の相続人」竹島 敏牧師

 今朝のローマの信徒への手紙において使徒パウロは、「私たちは神の相続人である」と語っています。17節のところです。「しかもキリストと共同の相続人である」と。
 何を相続するのか‥、それは一言で言うなら、神の最終目標である「神の国」だ、と言えましょう。神は、神の御心が成就している天の国をこの地上にももたらすために、御子イエスをこの地上に遣わされました。今朝のローマの信徒への手紙8章の15節においてパウロはこう語っています。
 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と。
 パウロが生きた時代にも、私たちが今生かされている時代にも、物やお金に人の心を縛り付ける霊など、様々な霊が存在しています。しかし、私たちは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けて、本来の自分らしく、生き生きと歩んでいく力をいただいているのです。
あまりにも目に見えるものにとらわれ、ふりまわされている私たち‥、なのかもしれません。しかし、目に見えるものにとらわれ、ふりまわされる日々から解放されるために、そして、うすっぺらではない本当の生きる希望を見いだしていくために‥、そのような神の国の希望を見出していくために、まず、私たち一人一人に与えられている心の目で聖霊をしっかりと見つめ、そしてその霊の導きによって、聖書の言葉に深く聴き、その聴き取った意味をしっかりと生きる‥、そのような歩みを一歩一歩積み重ねてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(6月12日)聖霊降臨節第2主日礼拝

使徒言行録4:32-37

「救われるために」竹島 敏牧師

救いとは、一体なんなのでしょうか。洗礼を受けて、何か変えられたような気分になることでしょうか。新しい人生が開けていくような予感を感じることでしょうか。 
それもそうだと思いますが、より厳密に言えば、洗礼を受けたことによって、生涯、救いの完成に向かって導かれ続けるという保証が与えられた、ということなのではないでしょうか。ですから、洗礼を受けたからといって、それまで抱えていた問題の全てが一気に解決するとは限らないのでしょう。
でもそれまでと確実に違ってくるのは、主イエスが常に共にいてくださる、ということです。これは大きな違いです。それまでは一人で誰にも言えず悩んでいたようなことを主イエスが聴いてくださる‥、そして、聖書を通して語りかけてくださり、問題の解決に向けて一歩一歩導いてくださる‥、これは本当に大きな違いなのではないでしょうか。問題が解決するまでには、なお多くの時間が必要となるのかもしれない‥、しかし、痛み苦しみを共に担い、導いてくださる方が与えられた‥、この方は生涯この私を見捨てることはない‥、そのような祝福された導きの道を「救いの道」と言うのでありましょう。つまり私たちは、実際にはそのようにして救われていくのであって、洗礼を受けた時点で全ての痛み苦しみがなくなるわけではないのです。また、主イエスと共に数多くの痛み苦しみを乗り越えて生きた証こそが、また身近な隣人を救うことになっていくのです。

礼拝説教要旨(6月5日)聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ礼拝

ヨハネによる福音書3:1-8

「聖霊の風にみちびかれて」竹島 敏牧師

今日与えられました聖書箇所はヨハネによる福音書3章1節から8節です。多くの場合、イエスの対話は多くの人々に取り囲まれる中で話しが進められますが、本日の物語はイエスとニコデモの一対一の対話をとおして展開されていきます。テーマは「新しく生まれる」です。そして新しく生まれるのに私たちに必要なものは一体何かということです。
ニコデモは、イエスの奇跡をみて、心動かされ、イエスのもとを訪ねました。イエスに光を見出そうとしました。しかし、この時ニコデモはイエスの言われた、上から、すなわち神の側から「新たに生まれる」ということを受け容れることが出来ませんでした。ニコデモの地位、名誉、財産は自己を象徴するものです。ニコデモはこの神の愛の中に、自己を投げ出して生きるということ、すべてを神の御手に委ねることができなかったのです。自分の力で築き上げてきたと確信しているものを一旦全て主の御手にゆだねてみる、と言うことが出来ませんでした。一瞬たりともそこから手を離すということができなかったのです。
今日は、ペンテコステ、かつて熱心に祈っていた弟子達の間に聖霊が降り、教会が誕生した誕生日です。弟子達が聖霊の息吹を受け、新たに生まれ変わって、力強い団結を示していった記念の日です。私達もまた、今日、聖霊の息吹を新たに受けて新しい教会の出発を始めていきたい、そして、何よりも私達一人一人が自己を絶対化することなく、絶えず御言葉によって自己を相対化し、聖霊の息吹を受けてどこまでも生まれ変わり続けていくことができるように祈りを合わせたいと思います。

礼拝説教要旨(5月29日)復活節第7主日礼拝

ヨハネによる福音書17:6-13

「一つとなる喜び」早川 真牧師

 イエスが捕まる前、天の父なる神様に祈った場面であるこの祈りは、大祭司の祈りと言われています。大祭司は神と神の民とを執り成すのがその役割です。ですので、大祭司の祈りとは執り成しの祈りを意味します。ここでイエスは、弟子たちのための祈りを天の父なる神様に捧げられました。それはご自身が天に上げられる前にできた、弟子たちを愛する最後の祈りでありました。
ここで言われている、イエスの喜びとは何でしょうか。イエスは何を喜んでおられたのでしょうか。それは、これから、おびただしいものが永遠の命を受け、一つとなるということを喜んでおられたのではないでしょうか。
イエスの喜び、それは、これから、御自分のなされた業が全世界に広まり、神の命に与る者が数えきれないほどに起こされる、ということであります。言わばここでイエスは、喜びの先取りをしておられます。そして、その喜びを実現させるのは、他でもない弟子たちであります。しかしその喜びは、世の喜びとは異なり、迫害や困難の中で実現する喜びであります。だからこそイエスは、彼らが困難の中にあっても、多くの人が永遠の命を受け、一つとされるというイエスの喜びに共に与るために、弟子たちのため特に執り成し祈られたのであります。
私たちもまた、その弟子の一人として、イエスの喜びをいただくために今朝ここに招かれています。世界中の人々と共に、ただ一人の神を礼拝し、永遠の命に与かるこの一つの喜びに、共に与ってまいりましょう。

礼拝説教要旨(5月22日)復活節第6主日礼拝

創世記18:23-33
ヨハネによる福音書16:16-24

「主の名によって願う」竹島 敏牧師

かつて神はアブラハムの言葉を受け入れられ、「正しい者が50人いるならば、その者たちのために町全部をゆるそう」、と言われました。そして最後は、「正しい者が10人いれば、その10人の故にその町全部をゆるす」と言われたのです。
 つまり、自分勝手に自らの願いを押し通そうとするのではなく、かといって神の前に萎縮して自分の思いを閉じこめてしまうのでもなく、神の思いを推し量りながら、自分の意見も自由に述べて神と対話し、あとはゆだねる、ということ‥、これが「主の名によって願う」ということなのではないかと思うのです。
 私たちもまた、困難な日々の歩みの中で、心の底からの思い、願いを、素直に神にぶつけ、神が備えていてくださる扉にたどりつくまで、あきらめずに願い続けていきたいと思います。神に祈り求めて、神が示してくださる道を求めて歩もうとする事は決して自分の自由を制限することにはなりません。その逆で私たちは、神にゆだねることによって、信じられない位大きな恵みに満ちた出会いや成果を時に得ることができるのです。そのような偉大な力にお任せすることによって、自分の自由を制限するのではなく、限りなく大きなものに広げていくことができるのです。だから私たちも、自分の思いを素直に神に申し上げ、神にゆだねて神から指し示されたところに従って大胆に行動を開始したいと思います。誠実に神と関わり、神に従って歩んでいこうとするなら、必ず神は導きを与え祝福を与えてくださる、このことを証するためにも、ここからそれぞれの所へと遣わされて参りたいと思います。

礼拝説教要旨(5月15日)復活節第5主日礼拝

マタイによる福音書6:5-15

「導かれて祈る」竹島 敏牧師

 今、聖霊は、聖書の言葉の一つ一つを、主イエス御自身の私たちへの語りかけとしてくださいます。実に聖書の言葉が、主イエスからの語りかけに聞こえてくるのは、聖霊の働きによるのです。
 神は、私たち一人一人を創造し、この世に送り出してくださいました。にもかかわらず誰でも一度は、この世に生まれてきたことを後悔したり、生き続けていくことに疑問を感じたりすることがあるのかもしれません。しかし、その人の主観がどうあれ神は、一人一人に生きる希望を与え、また、期待をかけてこの世に送り出してくださいました。だから、どうでもいい人生などないし、誰もが、自分がこの世に送り出されてきたその意味を知り、喜びをもって生きていくよう求められているわけです。なのに十分に喜びをもって生きていけないのならそれこそが、神に対して、十分に責任を果たせないままでいる、ということになります。まずそれが、神に対して負っている私たちの負い目であり、罪なのだと言わなければならないのではないでしょうか。
その負い目が赦されるためには、まず、人の視線や思惑を意識するよりも神をまっすぐに見つめ、神からの力を求めることが、すなわちまっすぐに祈ることが必要になってくるのです。
 もう一度心を込めて祈ってみなさい、と今、主は、私たち一人一人に言われているのではないでしょうか。その時、再び主イエスの霊・聖霊が私たちの心をしっかりととらえ、過ち・負い目が赦される道へと‥、解決の道へと‥、導いてくださる、と、今日の聖書の箇所は私達一人ひとりに語りかけているのではないかと思うのです。

礼拝説教要旨(5月8日)復活節第4主日礼拝

レビ記19:9-18
ヨハネによる福音書13:31-35

「新しい掟」竹島 敏牧師

 「互いに愛しあいましょう」と聖書は語りかけます。しかしそう口で言うのは簡単ですけれども、実現させるのは本当に難しい‥、実際、「愛」という言葉がこの世界には満ちあふれていますけれども、今、私たちの身のまわりで、どれほどの豊かな愛を‥、人々が愛し合っている姿を見ることができるでしょうか。それは今も昔も、同じだと思います。
 今朝の、このヨハネ福音書において 主イエスは本当に、神を愛し人を愛することにおいて欠けだらけの私たちを‥、そのままで、変わらなくてもよい、とおっしゃっているのでしょうか。そうではないと思います。
 主イエスが、ありのままでいい、と言われたとすれば、その、ありのまま、とは、神が、私たち一人一人に備えてくださった豊かな個性・賜物を、そのありのままに大切にしなさい‥、ということだったのだと思います。
 教会の交わりと祈りのなかで私たちは、神が、私たち一人一人に備えてくださった固有の能力・個性を再認識させられます。すなわち、しばしば私たちは教会の交わりと祈りのなかで、この世の価値観によってすでに切り捨てられ、自分でも、もう忘れ去ろうとしていたような能力や個性を再び呼び覚まされるのです。そのような意味において私たち一人一人は再び変えられ、新たにされていくのです。
 だから今週も、ありのままのお互いを‥、神様によって備えられている互いの賜物を‥、見いだしあって‥、これでいいのだと肯定しあって、この世の歩みへと踏み出していきなさい、と言われているような気がいたします。

礼拝説教要旨(5月1日)復活節第3主日礼拝

ヨハネによる福音書10:7-18

「命を与え、導く主」竹島 敏牧師

 私たちは、聖餐を受けるたびごとに、イエスご自身の命をいただいています。あの、聖餐という場で起こっていることは、パンと杯を通して、主イエスがご自身の命を、信じる者たち一人一人に分かち与える、という奇跡です。
 そこにおいて私たちは、キリストの体なる一つの群れを形成することができるのです。イエスの命を継承し、イエスが歩んだ道を志すようになるのです。
 このように私たち一人一人にご自身の命を与え、導いてくださるのが私たちの主イエスキリストです。この主イエスを信じて洗礼を受け、真実の心をもって聖餐にあずかり続けるなら、イエスの命が豊かに分かち与えられ、イエスが生きたように生きることを志すようになるのです。その命が、この地上の歩みを終えた時、復活の主はその命を抱き取って、天へと連れ帰ってくださいます。そしてそこにおいてその命は、主イエスと共に、遺されたこの地上の人々の歩みを見守り続けるのです。
 だから、主イエスの命に共にあずかった者たちの交わりは、死によってもさえぎられることなく、永遠に続いていくのです。
 「他の人はどうでもいい、自分さえよければ‥」そのような考え方生き方が蔓延しているこの世にあって、時に、私たちもまた、そのような考え方生き方にひきずられそうになることがあるかもしれません。
 しかし、今朝のヨハネ福音書に示された主イエスの約束を覚え、私たちのあるべき姿、立つべき位置をもう一度確認しておきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月24日)復活節第2主日礼拝

ヨハネによる福音書20:24-29

「信じる幸い」早川 真牧師

 本日の聖書個所の少し前において、復活の主は既に弟子たちに現れています。しかし弟子の一人であるトマスは、その時いませんでした。イエス様は十字架にかかる前、弟子たちに三度死と復活を話しておられますが、トマスは弟子たちの証言を信じませんでした。
 しかし主は信じられない者にご自身を触れさせてくださるお方であります。ある人にとっては、それは夢であるかもしれませんし、またある人にとっては、出来事や、人の言葉であるかもしれません。しかしそのような主に触れるという体験を通して、「私たちの」ではなくて「私の」主、「私の」神よ、という信仰告白へと導かれるのであります。それは主との個人的な出会いであります。
 そして、そのようなトマスに主は、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と語られます。ここにおいて私たちは、見て信じることから見ないで信じることへと招かれています。
見ずに信じるということは、神の言葉を信じるということであります。私たちの、自分の現実の惨めさ、悲惨さに絶望する時、神の約束を見よう、と主は促してくださっているのであります。そこには自分の力と関係のないところで希望が語られています。そしてその希望を見つめる時、私たちは主の与えてくださる平安の中で、現実の困難に向き合うことができるのであります。そしてそれこそが、私たちにとっての復活なのです。
 私たちは、復活を信じ、主であり、神であるイエス・キリストを信じることによって、その平和を豊かに受ける者とされたいと思います。

礼拝説教要旨(4月17日)復活節第1・イースター礼拝

ヨハネによる福音書20:11-18

「復活の意味」竹島 敏牧師

 神は全てに時を備えておられる‥、今、イエスは復活され、これから天へ旅だっていこうとされている、今や、そのような時が与えられようとしている、そのことをよくかんがえなさい、とマリアはここで言われています。だから、私にもうすがりつくな、すがりつく必要はもうない‥、ということなのです。
 このようなマリアの物語を受けて、私達は、今日のこのイースター礼拝にて、この地上から旅立っていった方々のことをあらためて想い起こしたいと思います。イースターは、主イエスが復活されたことを喜び感謝する日ですが、それは、天と地という距離を超えて、主イエスと弟子達との霊的な交わりが深められていくその出発点でもありました。主の復活と昇天という出来事は、そのように当時の弟子達と主イエスとの関係を新たなものにしたのです。
 私達もまたやがて、この地上を去っていく者達であります。しかし私達が今、復活の主イエスとの霊的な交わりに深くあずかっていくならば、天と地をつないでくださる復活の主の導きによって、先にこの地上を去っていった人達とのより親密な交わりが与えられるのではないでしょうか。私達の主は、私達一人一人の名を呼んで、慰め、励まし、そして先にこの地上を去っていった人の、声や言葉や姿を、この地上によみがえらせてくださる復活の主でもあるのだということを感謝をもって受けとめたいと思うのです。

礼拝説教要旨(4月10日)受難節第6主日礼拝

マタイによる福音書27:32-44

「自分を救わない神の子」竹島 敏牧師

 主イエスはその生涯において、多くの痛み苦しむ人と出会い、その痛み苦しみを、神から与えられた力によって癒されました。なのに、自分のことは救えなかった‥、神は主イエスに、他人を救う力とその機会は与えたけれども、自分を救う力とその機会は与えなかったのです。
 そもそも主イエスにとって十字架とは、不条理でありまた、御自分に向けられた暴力でもありました。しかし主は、すでに与えられて持っている御自分の力を行使しなかった、十字架という暴力に、暴力で対抗しようなどとは決してなさらず、さらに、御自分の力で抵抗しようともなさらなかったのです。
 だから、自分を救えなかったのではなく、救おうとしなかったのです。
実に主は、あえて御自分の力を行使せず、全てを神にゆだね、神から与えられる力とその力を行使する機会を待ち続けたのです。
 けれども、そのような力とそのような機会は未だ与えられてはいない‥、そのことを悟り、主イエスはあえて自らの力を行使せず、神の御心にまかせ、ゆだね続けられたのです。主は最後の最後まで、むやみに自分の力を行使せず、神にゆだね続けられた‥、最後の最後まで、「なぜお見捨てになったのですか」と叫びつつも神にゆだねきった‥、ということなのでありましょう。このように自分で自分を救おうとはせず、神にゆだね続け、ゆだねきった、ということ、それが、あの十字架の上で主イエスがなさったことだったのです。そこまで神にゆだねきり、従順であったからこそ主イエスは「神の子」であったのです。

礼拝説教要旨(4月3日)受難節第5主日礼拝

ルカによる福音書20:9-19

「捨てられた石」竹島 敏牧師

 今朝の聖書は、捨てられた石が、隅の親石になった、と告げています。まさに私達の主イエスキリストは、今も、隅の親石のように、この世界の片隅から私達の住む世界を見守り、支え続けてくださっている、と告げています。決して大事にされず、その存在を覚え続けられることもなく、しばしば捨てられた石のように価値がないものとされている…、しかし捨てられたその石が私達を守ってくださっているのではないでしょうか。
 思えば私達は、今朝のこのたとえに示されているように、人の心の痛みや悲しさを見つめるよりも、自らの利益、利害を見つめ、守ることでせいいっぱい…、そういう世界に生きてきたのではないでしょうか。
 けれどもそのような世界の片隅からじっと見守り、支えてくれているまなざし、そのような親石の存在を感じ取ることができたなら、私達はこのような空しい世界に完全に埋没することなく、この闇のような世を生きていくことができるのではないでしょうか。
 この世界の隅の親石である私達の主は、今朝も、私達の生きる世界全体を見つめ続けておられるのだということを思います。主は、涙を流しつつ、憐れみと慈しみのまなざしをもって様々な痛み苦しみの中にある方々を支えようとしておられ、そして、前とはちがう新しいあり方、生き方を、私たち全ての者に促し続けておられるのではないかと思います。そのまなざしを深く深く感じながら、受難節、このレントの時を歩み行きたいものだと思います。

礼拝説教要旨(3月27日)受難節第4主日礼拝

マルコによる福音書9:2-10

「主の変身」早川 真牧師

 変身とは、変容・変貌と訳される言葉で、受け身形で書かれているため、神によって変えられることを意味しています。同じ言葉が使われているコリント二3:18には、私たちもまた、主の霊によって「主と同じ姿に造りかえられて」いくとあります。
7節に「これはわたしの愛する子。これに聞け。」とありますが、聞くという言葉は、聞き従うという意味合いであります。私たちの周りには様々な出来事が起こりますが、理解できても理解できなくても、現状の中にある主の御心を信じ、イエス・キリストの声に聞き従っていくことが私たちに求められているのでしょう。
ペトロは、目の前に起こった天的な状況を地上に留め置こうとしました。しかしこれは人間的な願いでありました。その後主は十字架への道を辿り、その先には復活、聖霊降臨の出来事が待っています。人間の思惑や計画は潰えますが、それをはるかに上回る恵みが用意されていることを覚えたいと思います。
主の変身は、不思議な神秘的な出来事であり、神の御心に従う者がやがて与えられる栄光を垣間見る一時でありました。しかし、そこに至るまでに主は苦難の道を通らなければなりませんでした。今、多くの苦難が私たちの周りにあることを覚えます。そして、その解決を私たちは心から祈り願っています。しかし、主の歩まれた道は、ただひたすらに神の御心を選び取って行く道でありました。苦しみのその先に、本当の栄光が、神の与えてくださる天的な栄光があることを覚えて歩まれた主の姿を、このレントの時、しっかりと見つめて歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(3月20日)受難節第3主日礼拝

マルコによる福音書8:27-33

「神を思う」竹島 敏牧師

 今朝のこの聖書箇所において、イエスはペトロに対して非常に厳しい言葉を投げつけられました。33節の後半ですが、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」‥、
 このイエスの叱責の言葉‥、いろんな受け止め方ができるのではと思いますが、私はここを、「サタン、引き下がれ」という箇所と、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」、という箇所の二つに分けて読んでみたいと思います。
 つまり、前半の「サタン、引き下がれ」というのは、ペトロに対する言葉ではなく、ペトロにとりついたサタンに対するものだ‥、という理解です。主イエスはまず、ペトロにとりついたサタンに対してこのように語り、それから、ペトロに対して厳しい戒めの言葉を投げかけられたのではないでしょうか。
 つまりここでは、サタンがその人の中に入り込むと、神を深く思う力をその人から奪ってしまう‥、そして自分自身のことを含めて人間のことのみを深く思うようになってしまう‥、ということが言われているように思います。そのように、人間を創造し今も正しく導こうとされる神を思わなくなるなら、結局、正しく人間のことを思うこともできなくなり、様々な葛藤や争いの中に生きなければならなくなるのです。実は、神を深く思うことこそが、人間のことを正しく思い、人間の社会を正しく形成することになっていくのです。私たちもまた十字架の意味を深く知り安易に揺らがない信仰をつちかっていきたいものだと思います。

礼拝説教要旨(3月13日)受難節第2主日礼拝

マタイによる福音書12:22-32

「呼びかけ続ける主」竹島 敏牧師

 今朝のマタイによる福音書30節において主イエスは、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」と言われました。これは単なる批判の言葉なのではありませんでした。「わたしに味方し、わたしと一緒に集めよう」という呼びかけが、この言葉の裏には隠されていたのです。
 ここには、主イエスの基本姿勢がはっきりと示されています。すなわち、誹謗中傷や迫害に対して、誹謗中傷や迫害で返すのではなく、まず神の意志‥、すなわちここでは聖霊の意志を聴き、毅然とした態度で聖霊の意志を語り、さらに、「共に、この聖霊の意志に従い行動しよう」と呼びかけられた、ということ‥、そしてたとえ、この呼びかけが無視されようとも、生涯、このように呼びかけ続けた‥、ということ‥、これが、生涯貫かれた主イエスの基本姿勢だったのではないでしょうか。
 なぜ、そういうことができたのでしょうか。それは、どんな人にも、正しい道に立ち返る可能性がある、という希望を最後まで持ち続けておられたからなのでありましょう。だから主イエスは決して押しつけずに、どこまでも一人一人の主体性に呼びかけ、訴え、促し続ける、という方法で関わられたのでありました。一人一人の主体性、また、自由を最大限重んじられた、ということです。今も、私たちの主イエスご自身が、私たち一人一人のために、とりなしの祈りを献げていてくださる事を思うのです。だから私たちも決して希望を失うことなく呼びかけと対話をあらゆる場において進めていくべきなのだと思うのです。

礼拝説教要旨(3月6日)受難節第1主日礼拝

マルコによる福音書1:12-15

「途方に暮れて」竹島 敏牧師

 今朝のこの聖書箇所によると、キリスト教の信仰とは、神を熱心に拝めば拝むほど、願っていることがかなっていき、望むものが手に入っていく、というようなものではないことがわかります。そのような、いわゆる御利益宗教ではない、自分の欲望や欲求を土台とした目標追求がキリスト教信仰の目的なのではないということが示されています。
 そうではなく、「共に神の国をめざすこと‥」、これが一番の目的なのです。個人の願いや希望はどうでもいい、ということではありませんし、それを犠牲にしなければならない、ということでもありません。「共に神の国をめざす」ことを第一番の目的として生きる時に、私たち一人一人の願いや希望が、主イエスによって導かれ、最もよい形で実りを得る、ということなのです。実りを得るまでには、様々な苦難があるかもしれません。しかし同時にそこには、共に神の国を目指して生きる、という、かけがえのない豊かさがあるのです。自分の願いや希望のみを考えて、我先に、という生き方をするのではなく、時間はかかっても、自分の願いや希望が主に守られ導かれて、時には、修正され、練られて、よりよいものに変えられつつ達成されていく、ということが大切なのです。
 人生の荒れ野において、私たちはいろんな試練を受け途方に暮れ、また、多くの誘惑に出会います。しかし、そのような時こそ、かつて主イエスが出会ってくださり、語りかけてくださったことを‥、そのぬくもりを、思い起こしてみたいものだと思うのです。

礼拝説教要旨(2月27日)降誕節第10主日礼拝

マタイによる福音書4:35-41

「風と波の中で」早川 真牧師

 群衆に押しつぶされないよう舟で教えておられたイエス様は、弟子と共に向こう岸に渡る途中、激しい突風と波に見舞われました。ガリラヤ湖は周囲を山で囲まれていたため、しばしば突風が起こったのです。しかしそのような中、イエス様は枕をして眠っておられました。
弟子たちは「私たちがおぼれても構わないのですか」と助けを求めますが、イエス様は起き上がり、波と風に「黙れ、静まれ」と言われ、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と弟子たちを諭されたのでありました。信じないのか、という言葉は、信仰を持たないのか、という意味です。しかしイエス様に助けを求めることが信仰ではないのでしょうか。信仰とは何なのでしょうか。
信仰という言葉には、信頼、真実という意味もあります。そのうち最も根源的なものは真実であり、それは神の真実です。神の真実があって初めて、私たちはその真実に信頼を置くことができるからです。弟子たちは、まだ主が自然をも支配できる力ある方であるという真実を持っていなかったのです。
湖や海は、古代においては支配できないもの、得体の知れないものというイメージがあったようです。しかし神にあっては得体の知れず、支配できないものは一切ないと今朝の箇所は示しているのであります。
 人生における風と波の中で動かないものはあるのでしょうか。それは主の真実であると言えます。風や湖さえも従わせる力のある方が、私たちと共に人生を歩んでくださる。主と共に歩む中で、そのことを日毎に深く悟らせて頂きたいと思います。

礼拝説教要旨(2月20日)降誕節第9主日礼拝

マタイによる福音書10:26-33

「信仰の告白」竹島 敏牧師

 今日のこの聖書箇所においては、信仰を言い表す、とはどういうことなのかが、明確に告げられています。信仰を言い表す、とは、人々の前で、「自分はあのイエスの仲間だと言い表すこと」だと告げられています。
 かつて弟子のペトロは、イエスが十字架にかけられようとした時、イエスを三度否定しました。「そんな人は知りません」と否定しました。それは「私はあの人の仲間ではありません」と三度宣言したのと同じことでした。この時「そうです、私はあの人の仲間です」とペトロが言い表していたなら、間違いなくペトロも捕らえられ、肉体的にも精神的にもひどい仕打ちを受けることになっていたのではないでしょうか。
 そして私たちもまた、今朝のこれらのイエスの言葉を通して問われている、ということを思わされます。「あなたは、人々の前で、真実、信仰の言い表しをしていますか」と。「あなたは、どのようなかたちで、『私はイエスの仲間である』、『イエスの神の国の仲間である』と、告白していますか」と。
 イエスが、そこをめざして歩み続けた神の国に向かって、私たちもまた歩んでまいりたいと思います。それが、具体的にイエスの仲間であると言い表すことになっていくと信じて。また時に、様々な形で迫害を受けることがあろうとも、それぞれが遣わされている場において小さな積み重ねを続けていきたいと思います。

礼拝説教要旨(2月13日)降誕節第8主日礼拝

ヨハネによる福音書12:1-8

「御業に仕える」竹島 敏牧師

 今朝の聖書の箇所はイエスに何を期待すべきかを私たちに教えています。ユダがイエスに期待していた事は、おそらくこの世の王になってほしいということでありました。不正義に満ちたこの世に正しい裁きを確立してほしい。そのためにこの世に君臨してほしいと願っていたのでありましょう。そのような力をユダは求めていたのです。
 しかし、イエスが目指しておられたのは、そのような方向ではありませんでした。イエスは力で正義を確立するのではなく一人一人の悔い改め・回心によって主体的に正義が確立されていくことを望んでおられたのです。ユダは非常にまじめなまっすぐな人ではありましたが非常に功利的な人であったのです。自分の目標や理想に照らして功利的にイエスを信じていたのです。このような、功利的に人を見る、という見方は、役に立たなくなればその人を切る、という行動を必然的に生み出していきます。そしてユダは深まる闇の中にとらえられていったのです。
 そのようななか、マリアは自分に与えられた役割を見出し、せいいっぱいのことをいたしました。そして主はマリアの奉仕を喜びをもって受け入れ用いられたのです。私達もまた、それぞれ遣わされている場において、また教会において、それぞれせいいっぱいの奉仕を、業をなしていきたいと思います。決して人と比較することなく、どんなに小さく見える業であっても、また一見無駄に見えるような業であってもそれが主から託された業であるならば必ず用いられることを信じてなしていきたいと思います。

礼拝説教要旨(2月6日)降誕節第7主日礼拝

コリントの信徒への手紙一13:8-13

「静かな絶望をこえて」竹島 敏牧師

 聖書に見られる聖性、また完全性とはいったい何でしょうか。それは、一言で言うならば、神の霊に捕らえられている状態を指していたのではないか…、と思います。自分自身は、決して完全でもなく、聖さに満ち満ちているのでもないけれども、そのような自分が愛そのものである、神の霊に包み込まれているような状態、そしてその霊の強い促しによって、つき動かされて生きているような状態、それは、いわば完全無欠な人の完成された状態ではなく、欠点の多い、不完全な人がキリストの愛に捕らえられたがゆえの動き、歩み、であります。
 私たち一人一人は不完全な者であり、どんな自分の努力をもってしても「信仰・希望・愛」を生み出すことなど、できません。しかし、イエスは完全なる愛の方であり、すべての人のためにすでに取りなし、そしてとりなし続けていてくださるのですから、私たちもまたその取りなしに包まれて守られて、その応答として祈り、仕えていくならば、私たちのなす業そのものはどんなに不完全であったとしても、私たちは、その自らの業を、やがて完成される完全なる方の大きなご計画の一部として見つめることが赦されるのです。そしてそこにこそ、「静かな絶望」から購い出されて「信仰・希望・愛」のうちに生き生きと生きる道が備えられているのではないかと思うのです。

礼拝説教要旨(1月30日)降誕節第6主日礼拝

マルコによる福音書1:40-45

「神の意思」早川 真牧師

 ある重い皮膚病を患った人がイエス様のところに癒しを願い求めて来ました。当時ユダヤにおいて重い皮膚病を患った人は、二つの死を味わいました。それは、肉体的な死と社会的な死です。彼らに触れた者はその人もまた汚れるとされていた中で、体が弱められていくことに加えて人との交わりから断たれることは、大きな苦しみでありました。そしてイエス様は深く憐れんで彼に触れ、病を癒されました。
 神は私たちを憐れみのまなざしで見ておられます。私たちから見て、汚れているように見える人、軽蔑するような人をも、神は深い憐れみの中で何とか救い出したいと願っておられるのであります。この重い皮膚病に触れたことで、イエス様は汚れた者という扱いを受けたことでしょう。しかしそれでも手を伸ばしてくださる、これが低みに降ってくださる私たちの神の意思であります。神は自然法則や運命のようなものでは決してなく、意思を持つお方なのであります。
 イエス様はこの出来事を誰にも話さないように厳しくお命じになりましたが、その意図は人々にとって、御自身が病を癒す奇跡行為者としてしか認識されない誤解を生じさせることを防ごうとされたのでありましょう。癒されたい、奇跡を見たいという群衆に囲まれると、神の国について教え、福音を宣べ伝えるという本来の目的が妨げられてしまいます。イエス様は、地上の病からの解放だけではなく、自ら十字架にかかり、死ぬことによって人々を罪と死という病から解放する救い主でありました。神の子でありながら、人の中に人としてお生まれになったこの憐れみの神に感謝と賛美を献げてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(1月23日)降誕節第5主日礼拝

マルコによる福音書1:21-28

「主の権威にゆだねる」竹島 敏牧師

今朝のこの奇跡物語は、教会の宣教とは何か、ということを考える上においてきわめて重要です。なぜなら、ガリラヤにおいて主イエスの宣教が始まり、四人の弟子が選ばれて最初に行われた教えと業が、これであったからです。
 そして今も、私たちの主イエスは、キリストの体なる教会をとおして、このような宣教をなさろうとしておられるのではないでしょうか。
 そのために、教会の礼拝と交わりにおいて私たちは、一人一人が、主イエスと出会えるように、配慮しあう、ということを何よりも大切なこととしなければなりません。そして今も聖霊を通して生きて働かれる主イエスの働きをじゃましない、ということ‥、なのだと思います。
 また、私たち人間にははかりがたい主イエスの業を、人間のあさはかな知恵の中に閉じこめないことです。
 主イエスの業は、私たちにははかりがたい‥。主は時に、私たちの思いや考えをはるかに超えて宣教の業を起こされます。しかし、「そんなこと起きるはずがない‥、」と私たち人間が決めつけてしまうと、その業は起こされないままになってしまうのです。なぜなら主は、私たち一人一人を用いて、宣教の業をすすめるお方だからです。その私たちが身を引いてしまったら、多くの場合、主イエスの宣教の業は起こりようがなくなってしまいます。
 ですから私たちは常に、主イエスが今、この地上の世界をどのような眼差しで見つめておられるのか‥、そしてどのような新たな導きを私たち一人一人に用意してくださっているのだろうか‥、と、思いめぐらしていることが大切です。そして、心を開いていることが大切なのです。

礼拝説教要旨(1月16日)降誕節第4主日礼拝説

コリントの信徒への手紙一1:1-9

「主の交わりに生きる」竹島 敏牧師

 かつてある先輩牧師がこういう事を言っていました。「公同の祈りは、会衆一人一人の祈りをそこに添えて献げられるようなものなのではない。公同の祈りは、会衆一人一人の祈りにあわせて献げられるのではなく、会衆一人一人が、公同の祈りに集中し、その祈りを自分の祈りとしなければならないのだ」と。また、こういう事も言っていました。「公同の祈りであれ、個人の祈りであれ、アーメンと共に唱えるのは、その祈りによりそう行為なのであって、自分の同意できる祈りにだけアーメンと唱えるのではない」。「根本的には、個人の祈りであれ公同の祈りであれ、人は、他の人の祈りがいいか悪いかなど評価できないのであって、それができるのは神様だけだ。だから、神様がその祈りを聞き、最善をなしてくださる、そのことを期待し、願って、アーメンと唱え、その祈りによりそうのだ」。この先輩牧師の話を聞いて私は、まさにこれが、主の交わりに生きる、ということなのではないだろうか…、と考えさせられました。
 私達は自分の弱さによりそい、他の人の弱さにもよりそい、そして、教会において祈られる祈りに集中し、よりそっていく者達でありたいと思います。そのように弱さをわかちあいつつ、真剣に祈りを一つにする共同体にキリストの現臨が起こることを堅く信じていきたいと思います。
 かつてのコリントの教会の人達のように、私達も主キリストが現れてくださることを切に待ち望んでいます。小石川白山教会のこの交わりの中に、主が豊かに現臨してくださり、私達の痛み、苦しみ、また課題を解決へと導いてくださるように…。そして、そのような主の現臨が起こる教会としてさらに整えられていくように、御一緒につとめていきたいと切に願うのであります。

礼拝説教要旨(1月9日)降誕節第3主日礼拝

マルコによる福音書1:9-11

「真実の救いをもとめて」竹島 敏牧師

 私達が生かされているこの時代は、神でないものを神としてあがめ、おがみ、また、自ら神であるかのような振る舞いをする者が増えている、そんな時代でありますがそのような時代に、まことの神が私達と同じ人になられた、というメッセージは非常に意外なものであると同時に、ほっと慰められるものでもあるのではないでしょうか。
 人を押しのけて神にまでなろうとするような人達がいる一方で、本当の神は、苦しくつらい想いをしている人達、そのような想いを強いられている人達と共にあって、同じ苦しみ、同じ痛みを共有し、担うところから救いの業を始めようとしておられる、と聖書は語っているのです。
 神の子であったにもかかわらず、あえて人から洗礼を受けられたイエス。人間のどんなに深い苦しみでさえ、一緒に背負う覚悟をした神の子。このイエスは今朝も、どこまでも一緒に歩いていこうという決意と共に、私達一人一人の傍らにいてくださいます。だから、今、どんなに苦しいことが起こっていても、また、これから起ころうとも、私たちは一人ではありません。私達の苦しみのどん底に、イエスは両手を広げて立っておられ、そこから希望をもって歩いていく新しい道筋を指し示しつつ、どこまでも同伴してくださるのです。
 今、私たちの主イエスは、手をさしのべて「共に下っていこう」と私たち一人一人に呼びかけておられるのではないでしょうか。この呼びかけに応え、さしのべられた御手をしっかりと握るならばその時、私たち一人一人の心に、かけがえのない平安と、私に与えられたこの現実を直視しよう、という勇気がわいてくるのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(1月2日)降誕節第2主日・新年礼拝

ルカによる福音書2:41-52

「ただひとつの光を見上げて」竹島 敏牧師

今朝、新年最初の主日礼拝において与えられましたルカによる福音書の最初の41節以下には、「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った」とあります。
イエスの両親‥、ヨセフもマリアも、「自分たちの子どもイエスは、民を救う救い主として与えられた子どもだ」と知らされていたわけですが、だからと言ってすぐにイエスは救い主としての働きを始めたわけではありませんでした。救い主イエスにも、他の少年たちと同じような時代があった‥、神といろんな人に愛されて、人として、少年らしくすくすくと成長した時代があった、ということを、この箇所は私たちに示しています。
かつて御子イエスは、この地上に来られ、あえて私たち人間と同じ痛み苦しみを味わいながら‥、また、様々な労苦を味わいながら過ごされました。特に困窮の中にある人々と共に生きられ、その人々の苦しみを担い、その苦しみの大きな原因の一つである社会の不正義と命をかけて闘われました。その結果、世の権力者たちにねらわれ、十字架につけられて処刑されることになってしまいました。それはまさに、希望の光が消されたかと思わざるをえないような出来事でしたが、三日後に、復活という出来事が与えられそのことによって、「今後この光はたとえ、弱々しく消えかかることはあっても、消えてしまうことは絶対にない」ということが明らかにされたのでした。
私たち全ての人間と同様に、あえて労苦を味わう道を選び取ってくださったイエスが、この年も、私たち一人一人のかたわらにいてくださることを何よりも支えにして、どんな時も一歩一歩、小さな歩みを積み重ね続けてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(12月26日)降誕節第1主日礼拝

イザヤ書49:7-13

「憐れみ深い方」早川 真牧師

今朝の箇所にある、恵みの時・救いの日とは、イスラエルの民のバビロン捕囚解放の日のことであると考えられます。バビロンを征服したペルシャの王キュロスがユダヤ人を故郷に帰らせるよう布告を出したことにより、荒廃に帰したエルサレムが回復することが語られています。しかし、それだけでないところが聖書の奥深いところであります。
9節の、「飼う」という言葉は「養う」という意味でもあり、互いに養い養われる私たちの現実をも示していると考えられます。しかし、私たちは、しばしば荷の重さにもう嫌だ、何で私がこんなことしなければならないのか、と思うことがあります。何で自分が…これは自分の範囲ではないとつぶやく者ではないでしょうか。しかし、そのような時に思い出したいことは、そのような私たちを主が担ってくださっているということです。
ヨハネ10章では、イエス様が御自身のことを羊飼いにたとえておられます。羊飼いは最も貧しい人々でありました。それは、主が全ての貧しさと労苦を引き受けてくださっているということを意味しています。
この一年を振り返って思うことは、主は本当に憐れみ深い方であるということです。愚かな私たちを、教育しつつも、絶望しないように、忍耐をもって湧き出る水のほとりまで導いて下さいます。だから、欠け多き、過ち多き、愛少なき私たちであっても大丈夫なのです。このお方がいる限り、このお方の声に従う限り、必ず泉のもとへと連れて行ってくださいます。新しい一年も、このお方に従い、恵みを豊かに受けつつ、歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(12月19日)降誕前第第1·アドベント第4主日礼拝

ルカによる福音書1:26-38

「低みに生まれた愛」竹島 敏牧師

今日のこの聖書箇所はマリアの信仰告白とも言われている箇所です。神は、誰も見向きもしない、社会的に身分の低い私をあえて選んで特別な使命を与えてくださった…、実に神はそのようなお方だった…、「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返される」、神はそのような正義の方だった、と彼女は自分自身の経験を通して、ここで証するのです。
しかし、すぐにそのような信仰告白へと至ったわけではありません。マリアが心からの信仰告白をするまでには、とまどいや、怒りや、疑いなどを経験しなければなりませんでした。様々な葛藤があり、苦しみながら求め続けた時間がありました。そのような経過を経て、やっと真実の信仰告白へと至ることができました。
私たち一人一人の信仰生活にも、いろんな出来事が起こります。なぜ神は、こんな事を言われるのか…、されるのか…、と、とまどうことや、できればこのことには関わりたくない、ということや、場合によっては怒りたくなるようなこともあるかもしれません。しかしひとつ言えることは、そのような様々な葛藤なしに、私達は神との深い出会いやイエスとの深い交わりを味わうことは決してできない、ということです。
私達の主イエスは、悲しみが満ちているところに小さな希望の光を灯すために来てくださいました。そこから全ての人を救う歩みを始められたのです。この御子の光に照らされ導かれて、この御子と共に一歩、また、一歩とすすんでいく者になりたいと思います。

礼拝説教要旨(12月12日)降誕前第第2·アドベント第3主日礼拝

ルカによる福音書1:5-20

「不信をこえて」竹島 敏牧師

 今日、アドベント第三主日を迎え、来週、私たちは、いよいよクリスマス礼拝をお献げしようとしています。
 救い主、御子イエスキリストは、暗闇のような世の状況に来てくださる、ということを私たちは聖書を通して知っています。ヨハネによる福音書は、その1章5節において「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と語っています。口語訳聖書では「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」となっています。
 つまり、私たちの主イエスは、暗闇のような私たちの世に、光としてきてくださった…、そして暗闇のような私たちの世は、主イエスを理解せず、戦いをいどむが、主に勝つことは決してできなかった、というのです。
 私たちの主イエスキリストは、飼い葉桶に生まれ、十字架上で死なれました。主が十字架の上で最後に叫ばれた言葉は「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な言葉でした。
 しかし様々な「なぜ」を抱えながら、全ての「闇」にうち勝たれたお方が、再び共に歩んでくださる…、だからいつかきっと、この私の「なぜ」、にも答えが与えられる、その希望のしるしがアドベントクランツの、この4本のろうそくの光なのではないでしょうか。
 祭司ザカリアの不信をこえて、御業を成就させた神…、十字架上でのイエスキリストの最後の叫びをこえて、復活の御業をなされた神… その神が、私たちの不信の叫びをも超えて、必ず御業を成就させてくださる…、再び希望を与えてくださる…、その想いを深めつつ、アドベントクランツの4本目のろうそくに明かりが灯される日を静かに待ちたいと思うのです。

礼拝説教要旨(12月5日)降誕前第第3·アドベント第2主日礼拝

ルカによる福音書4:14-21

「言葉を担う」竹島 敏牧師

私たちが聖書を読み始めた時、そこにはいろんな理由が…、またいろんな求めが…あったかもしれません。聖書の中に自らの願望を果たしてくれる言葉を見出そうと探してみたり、自分を正当化するための根拠を探し求めたりしたことも、あるいはあったかもしれません。しかし、どんな理由どんな動機で読み始めたにせよ、私たちが聖書の言葉と向き合い始めたその時から、聖書の言葉は私たち一人一人の心の扉をたたいていたのです。私たちが聖書を読む、その動機や理由にかかわらず、私たちが聖書の言葉と向き合うときには、必ず聖書の言葉の方から私たちに働きかける、ということが起こっていたはずなのです。
もし最初はそのことに気づかなくても、この世にあって様々な苦難困難に出会った時に、私たちはそのことに気づかされるのではないでしょうか。そして改めて真剣に聖書の言葉と向き合い、新しい生き方、考え方、感じ方へと促されていくのです。それは、聖書の言葉と真剣に向き合い、その言葉を担って生きる、ということです。
そのような生き方は時として、この世の価値観・この世の言葉との対立を生み出すこともあるかもしれません。しかしその時私たちは、きっと、聖書の言葉を担って生きていると思っていた私たち自身が実は、その、聖書の言葉に担われて歩んでいるのを発見するのでありましょう。
聖書の言葉・イエスの言葉を担うということは、同時に、その言葉に担われる、ということでもあります。言葉を担うことによって、その言葉に自分が担われるのです。支えられるのです。救われて、導かれるのです。「言葉を担う」とは、そういうことです。だからそれは重荷ではなく、恵みなのです。

礼拝説教要旨(11月28日)降誕前第第4·アドベント第1主日礼拝

テサロニケの信徒への手紙一5:1-11

「主と共に生きる」早川 真牧師

この手紙はパウロがテサロニケの教会の信徒たちに書き送った手紙で、キリストの再臨の時(主の日)に関して比喩に富んだ説明がなされています。その日は、妊婦に産みの苦しみがやってくるように来るというのであります。なぜなら、その日は突然やって来て、逃れることができないからです。だから、しっかりと主の日に備えているべきことが勧められています。
7節に、「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。」とありますが、ここで言われているのは実際に寝ることや酒に酔うことではなく、霊的無感覚に陥ることであります。霊的とは神的と言い換えることができます。つまり日常の中で、神を感じない状態でいないように、神を忘れることのないように、ということです。
当時パウロを含め、テサロニケの信徒たちは主の日が間近であると考えていました。彼らは主の再臨を心待ちにしていたことでありましょう。しかし、そうこうしている間に、一人また一人と主のもとに召されていく現実があったと思われます。再臨を迎えることなく死んでしまった信仰者のことを思うと、自分たちの歩みもまた無駄になってしまうように感じる人もいたのであろうと思います。
しかしパウロは、そのような人々は主と共に生きていると語っています。主と共に生きるならば、生きているか死んでいるかは問題ではなく、決して私たちの日々が空しくなることはないと、励ましているのであります。このアドベントの時、私たちは信仰と愛、救いの希望によってしっかりと備えつつ、互いに励まし合って歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(11月21日)降誕前第5主日・子ども祝福礼拝

マタイによる福音書3:7-12

「神様に向かって歩く」竹島 敏牧師

今日、みなさんとごいっしょに読んだマタイによる福音書の箇所には、ヨハネ、という名前の人が出てきます。この人は何かとっても怒っているようでした。何にそんなに怒っていたのでしょうか。
 もう一度、聖書を見てみると、その7節のところからで、こんなことを言っています‥、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れるとだれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と。
 「神様ごめんなさい、と、口では謝っているけれども、どうもこの人達は、許してもらうことだけを考えていて、神様からの教えをちゃんと守っていく気持ちはなさそうだ」そう感じたのでヨハネは、ここで、怒っているのです。
 さて、今日は子ども祝福の礼拝です。では、神様からの祝福っていったいなんでしょう。それは、何度も何度もまちがったことをしてしまう、時には、平気でうそもつく、そういう私達を、そのままで、それでもあなたのことが大好きだ、と言って、抱きしめて、「なぜ、そんなことをしてしまったのか」と泣いて、では、これからいったいどうしていけばよいのかを、一歩一歩導いてくださる、ということ‥、それが、神様からの祝福なのです。何度も何度もまちがったことをしてしまう、時には、平気でうそもつく、そういう私達を、そのままで、それでもあなたのことが大好きだ、と言って、抱きしめて、ではこれからいったいどうすればいいのか、一歩一歩、導いてくださる。それこそが、幼い子どもから歳すすんだ方々まで全ての者にあたえられる、神様からの祝福なのです。

礼拝説教要旨(11月14日)降誕前第6主日・教会創立119周年記念礼拝

マタイによる福音書23:25-36

「実りを求めて」竹島 敏牧師

今日は教会創立記念礼拝‥、教会の創立と共に、私たちの主イエスにならってその生涯を歩み、今は天に召された方々を思い起こしつつ礼拝をお献げする日でもあります。
私たちの主イエスにならって生涯を歩む、とはいったいどういうことなのでしょうか。それは、闇のような世の中に光を灯し続けた主イエスにならう、ということでありましょう。私たちの主イエスが、当時の闇のような状況のなかに光をともして歩んだように、私たちも歩んでいく、ということでありましょう。
そして、その光は代々のキリスト者に受け継がれて、私たちの信仰の先達もまた、このイエスに招かれ導かれて教会に集い、教会につながり、悩み葛藤しつつも、この主イエスにならって生きる生き方を決断してそれぞれの生涯を全うされた。そして悩み葛藤しながら生きたその姿が、主イエスを証する光となって、後に続く私たち一人一人の心を照らし始めているのです。私たちもまた、いつ、この地上の生涯を終えることになるのか、それはわかりません。しかし、先に召された方々が、私たちにのこしてくださった数々の証‥、イエスにならって生きた、イエスの愛に包まれて生きた、という数々の証‥、それは今なお、この闇のような世に輝く光のように、私たちの心を照らし、支え、そしてあらたに導こうとしているのではないでしょうか。神の国へと向かって共に歩もう‥、と、この地上にのこされた私たちを導こうとしているのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(11月7日)降誕前第7主日礼拝

ルカによる福音書8:4-15

「実りを求めて」竹島 敏牧師

私達の人生には、様々な出来事が起こってまいります。喜ばしいこと、悲しいこと…、自分にとってよかったと思えること、悪かったとしか思えないこと…、
時には、なぜ、こんなことが私の身に起こるのか、また私の身近なあの人に起こるのか、と問わざるをえないような出来事も起こってまいります。
そのような悲しみ、つらさで心がいっぱいの時は、私達の心は御言葉を求めて飢え乾きます。しかし、しばしば御言葉の実りは、そのような悲しみいっぱいの心に蒔かれた種から芽生え、与えられるのだと思います。
そこで私たちはこの私達のためにも十字架にかかってくださったイエスを再び見つめたいと思うのです。そして今はわからなくても、聖書を通して語られるイエスの言葉を心にとめ続け、祈り求め続けていくならば、必ず時が来て、時宜にかなった助けをいただけることを信じたいと思うのです。確かに主の言葉は、時に謎でありますけれども、しかし、その言葉から、やがて芽がふき出し、成長していく様が感じられるようになるまで、私たちはその言葉を大事に心に覚え続け、祈り続けたいと思うのです。そしてその言葉が生き生きと力を発揮しはじめるその時こそ、私たちは本当に心から主イエスに対して、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と告白することができるのではないでしょうか。教会は、そのような告白へと向けて、集っている一人ひとりを抱きしめ、温め続ける神の御手が働かれる場だと言えるのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(10月31日)降誕前第8主日礼拝

創世記4:1-10

「最上の献げ物」早川 真伝道師

神はカインの献げ物ではなく、アベルの献げ物にだけ目を留められました。一体どうしてなのか、その理由ははっきりとは書かれていません。しかし、アベルは肥えた初子を献げました。これは、彼の飼う羊のうち最上のものでありました。
カインは怒って顔を伏せたとあります。きっとカインは、弟の献げ物のほうが神の前に心を尽くしていることが分かっていたと思います。その根底には悔しさや悲しさがあったのではないでしょうか。そしてその結果は人類史上初の殺人となってしまいました。
自分が正しくないことを指摘されると人は頑なになります。本来なら、自分の非を認めて悔い改めなければならない時でも、素直にそうすることができず、かえってそれを指摘した相手に腹を立ててしまいます。これこそが罪の姿ではないでしょうか。
私たちはどうしたらこのような罪を支配できるのでしょうか。それは、私たちが献げるべき最上の献げ物が、私たちのためにすでに献げられている、ということを見ることによってではないでしょうか。その時、私たちの内にある罪と、神の深い愛とを同時に見ることができます。そしてその時こそ、私たちの新しい歩みが始まります。
ローマの信徒への手紙12章1節には「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」とあります。怒って伏せた顔を上げ、十字架上の主を見上げる時、その目は、悔い改めと神への感謝の涙によって洗われるのであります。そのようにしていつも顔を上げながら、神の義と愛に生かされてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(10月24日)降誕前第9主日礼拝

創世記2:4b-9
マルコによる福音書10:2-12

「命の息」竹島 敏牧師

「結婚の祝福と課題」という著書の最後で、ポールテウルニエは次のように語っています。「自分たちの幸福が神からの贈り物であることを認め、理解している夫婦、そして神が自分たちの心に注がれた愛に対して、また、神が自分たちに与えた子ども達や人生の全ての歓びに対して、さらに、お互いの理解のそのむずかしい修練を通して神が与えたもうた結婚生活の進歩に対して、感謝の気持ちを神に表すために、神の前にひざまずく夫婦は幸福です」と。
また、創世記2章24節には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とありましたが、この「一体となる」という言葉は、膠でつながれる、ということを意味しているそうです。従って一度結び合わされたものを、はがし、離そうとすると、激しい痛みや大きな破れが生じる、というのです。そしてこれは結婚ということに限らず‥、夫婦ということに限らず、言えることなのではないかと思います。親子や兄弟、恋人同士など、膠でしっかりとつながれるほどに一体である関係も、必ずいつか、引きはがされる時がくる。私たちはその時に初めて、激しい痛みや苦しみを感じ、相手の大切さを思い知るのかもしれません。それが死別なのか生別なのかはわかりませんが、どのような関係の背後にも必ず神の導きの御手があることを信じて、私たちは今、与えられているそれぞれの関係を、成熟したものにしていきたいものだと思います。

礼拝説教要旨(10月17日)聖霊降臨節第22主日礼拝

ヨハネの黙示録7:9-17

「涙ぬぐわれる日」竹島 敏牧師

これまでの人生において私たちは、様々な涙を流して歩んできたことと思います。私たち一人一人それぞれに、様々な危機が起こってきます。それは大きな事故とか、病気とか、そういうものに限りません。誰でもいつか、一度は、自分の人生の願いや希望を砕かれ、人生は自分の力だけではどうすることもできないことがある、と涙を流し、思い知る経験をするのです。
しかしそのような時こそが、自分自身を見つめ直すチャンスの時であり、主イエスと深く出会うチャンスの時であると聖書は語っているのではないでしょうか。
この世の終わりの時がいつなのか、それは誰にもわかりません。しかし、その救いの完成の時は必ずやってくる‥、主イエスは、今、ここから、その救いの完成の時に向けて私たち一人一人と共に歩んでくださる。私たちの流す涙に共感してくださり、私たち一人一人に寄り添って、この世の終わりの時まで、導き続けてくださるのです。
「主よ信じます、助けてください」と祈り、求めるなら、なかなか思い通りにはいかない私たちの人生のなかに、一筋の光が‥、そのような主の道が、あらたに見えてくるのです。必ずいつか、私たちの流した涙が全てぬぐわれ、労苦がむくわれる時がやってくる‥、そのことを信じて、その時をはるかに望み見ながら、今、主が備えてくださる新たな道を見出し、その道を歩みはじめていきたいと思います。

礼拝説教要旨(10月10日)聖霊降臨節第21主日礼拝

ローマの信徒への手紙13:8-10

「神様の約束」竹島 敏牧師

私たちはキリストと出会い、キリストが心の内に住んで働いてくださったことによって、自分だけの力で頑張り抜くのではない生き方があることを知りました。キリストの力を信じ、待ち望み、ゆだねる、という世界を知った、ということ、それは、人生にとって決して小さな発見ではないと思います。そしてそれは多くの場合、すでにそのような恵みを授かっている者との出会いによってもたらされるのだと思います。
教会は、いろんな人たちが、イエス様のやさしい愛に満ちたことばによって集められる場所です。月曜日から土曜日までの間に、傷つけられることばをたくさん聞かされてきた人も、神様のことばを聞くことによって、ほっとして、少し元気になって、立ち直るきっかけをつかめる‥、それが、日曜日に教会で起こることなのです。真剣に神様のことばに耳を傾け続ければ、必ず、そういうことが起こってきます。
私たちは神様のことばによって慰められ強くされるのですが、さらに、その私たち自身が神様のことばとなって、さみしい想いをしている人や、苦しい想いをしている人を支えられるようになる、と聖書は語っています。私達の想いや意識をはるかにこえたキリストの力によって、私たち一人ひとりの小さな働きひとつひとつが導かれ、そして、いつかどこかで実を結ぶことを信じたいと思います。今日は永眠者記念礼拝ですが、みなさんそのようにして主に出会い、導かれて生涯を送られたことを思いつつ、私たちもまたそこに続く者達として日々、キリストの力を信じ待ち望みゆだねるという人生を送ってまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(10月3日)聖霊降臨節第20主日礼拝

マタイによる福音書10:26-33

「信仰を言い表す」竹島 敏牧師

かつて、弟子のペトロは、イエスが十字架にかけられようとした時、イエスを三度否定しました。「そんな人は知りません」と否定しました。それは「私はあの人の仲間ではありません」と三度宣言したのと同じことでした。この時「そうです、私はあの人の仲間です」とペトロが言い表していたなら、間違いなくペトロも捕らえられ、肉体的にも精神的にもひどい仕打ちを受けることになっていたのではないでしょうか。
つまり、ここで聖書が私たちに告げようとしているのは、いつの時代でも、「私はあのイエスの仲間です」と本気で言い表すことは常に、肉体的な、また、精神的な迫害の危険と隣り合わせになる、ということなのではないでしょうか。
私たちもまた、今朝のこれらのイエスの言葉を通して問われているのではないでしょうか。「あなたは、人々の前で、真実、信仰の言い表しをしていますか」と。「あなたは、どのようなかたちで、『私はイエスの仲間である』、『イエスの神の国の仲間である』と、告白していますか」と。イエスが、そこをめざして歩み続けた神の国に向かって、私たちもまた歩んでまいりたいと思います。それが、具体的にイエスの仲間であると言い表すことになっていくと信じて、たとえ、様々な形で迫害を受けることになろうとも、それぞれが遣わされている場において小さな積み重ねを続けていきたいと思います。

礼拝説教要旨(9月26日)聖霊降臨節第19主日礼拝

テサロニケの信徒への手紙二3:6-13

「落ち着いて働く」早川 真伝道師

パウロは巡回伝道にて建てた教会に、その教会を去った後必要に応じて手紙を書き送っていますが、テサロニケの教会は当時、イエス・キリストが再び来られる「再臨」について誤った認識があったようです。彼らの内のある者は、働くことをやめ日常の仕事を放棄していました。
そのような者にパウロは、「働きたくない者は、食べてはならない」と語ります。ここで注意すべきは働かない者、ではなく、働きたくない者であるということです。働けるのに働きたくない者、つまり意志の問題が問われているのです。
創世記2:15を見ますと、人間の本来の務めは労働であることが示唆されています。しかし罪によって地は呪われ、労働が苦しみの種になってしまったのです。私たちもまた、日々の務めに疲れ果ててしまうことがあります。徒労感を感じ、自暴自棄になりやすい者でありましょう。
しかし、パウロはそのような私たちに「落ち着いて仕事をしなさい」と語ります。地に足をつけて、静けさの中で働くようにと勧めるのです。ここで言われている静けさとは、内側の静けさのことであります。私たちの置かれている場所はそれぞれに違い、その困難もそれぞれに違います。目に見える救いを求めて、バタバタと解決を急いでしまう、そのような時にこそ、神の救いを静かに待つことができたなら、状況は大きく変わってくるのでありましょう。実りをもたらしてくださる神に希望を持ちつつ、落ち着いて、それぞれに与えられている日々の務めに向かってまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(9月19日)聖霊降臨節第18主日礼拝

出エジプト記20:1-17
エフェソの信徒への手紙5:1-5

「神に倣う」竹島 敏牧師

 今朝のエフェソの信徒への手紙は、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と語りかけています。神に従うことと、この世の基準や自分の基準に従うこととを巧みに使い分け、心地よく生きようとする私たちに対して、キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、「神に倣って」あなたがたも愛によって歩みなさい、と語るのです。
 「神に倣う」とは、自分を神に近づけていく努力なのではありません。倣う、とは、まねをしながら‥、模倣しながら、従っていく、ということです。つまり私たちは、神ではないし、神のような存在になっていくことさえできないのです。神と私たち人間との距離は、はるかに隔たっていて、その距離が埋まることはないのです。私たち人間にできることは、神と私たち人間とのはるかな距離を認め、神のみを神とし、あやまち多き私たち人間の姿を素直に見つめることなのです。そして、その上で、神のまねをしながら‥、神がなさったことを模倣しながら、従っていくのです。
 すなわち、聖書に記された主イエスの言葉と行動を仰ぎ見つつ、その言葉と行動を模倣し従っていくのです。それが、「神に倣う」ということです。私たちは、神と私たち人間とのはるかな距離を認めつつ、その上で神様の一本の指としてでも用いられることを願いながら、主イエスに倣って歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(9月12日)聖霊降臨節第17主日礼拝

ヤコブの手紙2:8-13

「主の憐れみ」竹島 敏牧師

 私たちは、聖書を繰り返し読むことによって、かつて、主イエスがどのような行動をされ、どのような事をお語りになったのかを知ることができます。そして私たちは、聖書の記述を心にとめつつ繰り返し黙想することによって、その主イエスが、今、この私に、どのように関わろうとされているのかをたずね求めることができるのです。そしてさらに、私たちは繰り返し祈ることによって‥、その主イエスと出会うことができるのです。
 聖書を読むこと‥、黙想すること‥、祈ること‥、この三つの、キリスト者としての基本的な営みを深めていくことによって私たちは、主イエスとの深い出会いを経験し、「主の憐れみ」を感じるようになっていきます。そして、その憐れみを、隣人に分かち合う方向へと導かれていくのです。そのようにして「主の憐れみ」は、人から人へと伝えられていきます。この、「主の憐れみ」が広がっていくことによって、不毛な裁きあいがへっていき、まことの平和が実現していくのです。まさに、「憐れみが裁きに打ち勝つ」という状況が実現していくのです。
 互いに裁きあい、裁くことによって自らを正当化して生きるということが横行している私たちの時代ですが、そのような時代のなかにあって、どうか私たちは、主の憐れみをもっともっと積極的に受けて、そしてその憐れみに押し出されて、愛をもって人と関わり、互いの命を生かしあう生き方を模索していきたいものだと思います。

礼拝説教要旨(9月5日)聖霊降臨節第16主日礼拝

エフェソの信徒への手紙一3:14-21

「主の愛に立つ」竹島 敏牧師

 今朝の20節にあるように私たちの神は、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」です。しかしながら、神が、私たちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超える、というのは、必ずしも、常に私たちが願っている以上のことをしてくださる、ということではあありません。
時には私たちの願いや期待に反することが、神の御心であるかもしれないのです。私たちの祈り願うことが次々と裏切られるような形で物事がすすんでいく場合もあるのです。
 けれどもそれが神の御心であるならば、やはりそれも、私たちが求めたり思ったりすることすべてをはるかに超えて神がなされたこと、と受け止めねばならないのでありましょう。そのような葛藤をへて私たちは、イエスキリストと深く交わり、神と深く出会っていくのです。そしてそのような神との交わりを通して、私たちの心は神の宮へと成長していくのです。
 さまざまな複雑な、また、むずかしい人間関係を抱え込みながらも、それ故に神との交わりをより深め、キリストの愛にしっかりと立って生きていくことができる、と語りかけられているような気がいたします。だから諦めずに絶えず祈り、神の導きを求め続け、やがて示された道が見えてきたなら勇気を出して歩み出したいと思います。なによりもまず第一になすべき事はイエスキリストと深く交わり神と深く出会っていくことなのだと忘れずにいたいと思います。

礼拝説教要旨(8月29日)聖霊降臨節第15主日礼拝

コリントの信徒への手紙一15:35-52

「天に属する者」早川 真伝道師

当時、コリントの信徒の中に死人の復活を否定する人々がいました。そのような人々に対し、パウロは愚かだと語ります。そしてその理由がまずは自然から語られています。植物の種が蒔かれ、やがて新しい体ができるように、天上の体と地上の体も異なっている。そして朽ちるもの、卑しいもの、弱いものが、朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものに変えられると言うのであります。パウロは肉体にトゲを持っていたということが聖書に記されていますが、私たちも肉体に様々なトゲを持っています。それは、多くの場合、全ての人には理解されないものであるかもしれません。しかし、それらのトゲが、やがて神の栄光と力に取って代わるということは、全ての人と共有できる希望であります。
次に聖書から、アダムは、創造の象徴であり、神がアダムによって地に属する人間を創造されたように、キリストにあって天に属する人間を創造されるのだということが語られています。49節の「似姿となっている」は「着物を習慣的に着ている」という意味の言葉です。現在においては私たちは、あたかもキリストの天的な衣を着せて頂いているような状態であります。衣を着せて頂いても、中身は相変わらずの弱い、卑しい、朽ちるべきものであります。しかし、やがて主が来たりたもう時には、その中身をも変えられる。輝かしく、力強く、朽ちることのない新しい霊的な体に、瞬時に造りかえられるというのであります。やがて新しくされるその時まで、この希望をしっかりと保ちつつ、弱く、卑しく、朽ちるべきこの地上の体を用いて、主の栄光を証してまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(8月22日)聖霊降臨節第14主日礼拝

ローマの信徒への手紙8:18-25

「見えないものを待つ」竹島 敏牧師

マタイによる福音書6章27節以下において主イエスは、こう言われています。
「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」私たちの主イエスは、何よりも、目には見えない神の言葉に価値を置き、その言葉を生ききられました。その御生涯が私たちに示しているのは、「あなたたちも、目に見えるもののみにふりまわされるな」ということなのではないでしょうか。目に見えるものにとらわれ、ふりまわされる日々から解放されるために、そして、うすっぺらではない本当の生きる希望を見いだしていくために、忍耐して聖書の言葉に深くとどまる歩みを、一歩一歩積み重ねていきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月15日)聖霊降臨節第13主日礼拝

コロサイの信徒への手紙3:18-4:1

「主に対してするように」竹島 敏牧師

今朝の聖書箇所はいろいろ問題のある箇所だと言われてもいますが「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです」、というこの締めくくりの言葉は、本当に大切なことを私たちに伝えようとしていると思います。それは、全ての人間の主人であるイエス・キリストにのみしっかりと目を向け、従う、ということ‥、どんな立場の人の傍らにも、全ての人の主人が立っておられることを信じ、その主人に仕えるように行動する、ということです。
その一事に集中する時、まさにこの世界に、まことの平和をもたらすための第一歩が始まっていく‥、主イエスが、かけがえのない一人一人を愛される仕方で、一人一人が尊重される道が開かれていくのです。
どんな立場の人の傍らにも、全ての人の主人が立っておられることを信じ、その主人に仕えるように行動する、という神の国への道を提示し、自らも、大きな矛盾を抱えつつも、その道を歩み続けた‥、というこのパウロの態度に私たちは注目すべきなのだろうと思います。私たちもまた、その道を歩んでいくなかで、知らず知らずのうちに、大きな矛盾や誤りを抱え込むことがあるのでしょう。しかし、パウロやパウロの弟子達もそうだったということを覚え、またそのような現実の姿を、聖書は包み隠さず私たちに伝えていることを覚えて、私たちもまた、私たち自身のその現実を包み隠さず告白しながら、主の憐れみと導きをどこまでも求め続けていきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(8月8日)聖霊降臨節第12主日礼拝

使徒言行録20:25—35

「与える幸い」竹島 敏牧師

 パウロは、自分の生活のためのみならず、隣人を助けるためにも天幕づくりの仕事をしながら、キリストの福音を宣教しました。そして今日のこの箇所によれば、それは、「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた主イエスの言葉の実践としてそのようにした、ということなのです。
 この、「与える幸い」を説いた主イエスの言葉の背景には、古くから伝えられてきたギリシャの格言がある‥、と申し上げましたが、さらにさかのぼれば、旧約聖書の時代から、そのような考え方はありました。申命記15章の7節以降において、これから約束の地に入っていこうとしている神の民に、モーセが次のように語っています。申命記15章7節、8節、「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」。与えることよりも、受けること、の方に関心が向き、自分の「欲」にとらわれて、身動きできなくなってしまうことも多い私たちなのかもしれません。しかし、全ての人が神から同じように愛されて、この世に送り出されていることを想う時、私たちもまた「受けるよりは与える方が幸いである」、というこの主の言葉を、繰り返し思い出しながら、それぞれの仕方でこの主の言葉に従い、まことの平和を求めていきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月1日)聖霊降臨節第11主日礼拝

使徒言行録9:26-31

「共に泣く交わり」竹島 敏牧師

 サウロ、後の使徒パウロは、主イエスとの真実の出会いを経験することによって、弟子達の交わりに飛び込み、自分の弱さを含め全てをさらけ出すことができました。
サウロは、かつての敵であったにも関わらず、仲間に加わることができた‥、そして、教会の基礎が固まっていき、信者の数も増えていった‥、と聖書は伝えています。つまり、サウロが共同体のメンバーに加えられたことによって、この共同体は、さらに魅力を増し、多くの人が、新たにこの交わりに入ってきた‥、ということです。
 私はその交わりとは、共に泣く交わりだったのではないだろうかと思います。すなわち、自分自身の弱さを含め、あるがままの自分を心おきなくさらけ出すことができる交わり‥、とくに苦しみや悲しみを分かち合える交わりが生み出されていたのではないかと想像するのです。
 サウロ、後の使徒パウロは、主イエスとの真実の出会いを経験することによって、弟子達の交わりに飛び込み、自分の弱さを含め全てをさらけ出すことができました。そのようなサウロの姿勢は、さらにまわりの人たちにも影響を与えることになり、そこに痛みや苦しみ、弱さをわかちあう、共に泣く交わりが形成されていったのだと思います。今、私たちが生かされている決して平和とは言えないこの時代に‥、この悩み多き時代に、教会はどのように聖書を読み、どのような交わりを持つべきなのか‥、そのことが問われているような気がいたします。

礼拝説教要旨(7月25日)聖霊降臨節第10主日礼拝

コリントの信徒への手紙二5:14-6:2

「和解の任務」早川 真伝道師

コリントの教会は、パウロが一年半滞在して確立した教会ですが、パウロの去った後、信徒たちのある者の中に、パウロに対する批判が起こったようです。彼らはパウロの使徒としての正当性を批判しました。そのためパウロは批判者たちに対してこの手紙を通して自己弁護しなければならなかったのですが、それは自分自身のためではなくキリストのためであり、和解の務めを果たすためでありました。
和解とは、敵対しているという現実がなければ成り立ちません。聖書は、創造者であり支配者である神の御心に従わず、自己追及の生き方をすることは、神に敵対していることになる、と語ります。そのような神の戒めに背き、神から離れてしまった人間に対して、神はキリストに和解の務めを委ね、天から遣わしてくださったのであります。
私たちは、和解の務めを果たせているでしょうか。思いにおいて行いにおいて、神の愛の使者となれているでしょうか。残念ながら、そのような時ばかりでないと言わざるを得ません。しかし、私たちは自分にはその資格がないと思わなくて良いのです。なぜなら、私たちの資格は、私たち自身にあるのではなく、キリストにあるからです。私たちは、和解の務めに対する情熱を失うこともあると思います。また、愛を失うこともあると思います。しかし、心配はいりません。キリストの愛が、私たちを駆り立てるのであるからです。そのキリストの愛がある限り、私たちの和解の務めは現在進行形で継続していくのであります。私たちにではなく、神に全ての望みをおいて、この最も価値ある、尊い務めを共に果たしてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(7月18日)聖霊降臨節第9主日礼拝

使徒言行録9:19-29

「憐れみの器」竹島 敏牧師

私たちは神の憐れみの器として用いられようとしています。その導きに応えることによってのみ、主の平和が実現していくのです。人間のこの応答なしに、神が歴史に直接介入し平和をもたらす、ということはありません。だから問われているのは神ではなく、私たち一人一人なのです。このことから決して目をそらすことなく歩み出そうとする時、再び主の憐れみは惜しみなく私たちの上に降り注がれ、それでようやく私たち一人ひとりに新たに歩み出す勇気と力が湧いてくるのでありましょう。
この問題の多い世の中で、私たちはしばしば絶望します。時に、信頼していた人に裏切られ、絶望し、また時に、人からの信頼に応えることができない自分の非力さに絶望し、生きていく価値を見失います。しかし、私が自分を見捨てたような時になっても私を見捨てない方がいる‥、私が自分を愛する以上に私を愛していてくださる方がいる‥、その方が、この私を、なおも憐れみの器として用いようとされている‥、そのことを心に深くとどめておきたいと思います。
それが、何度失敗しようともやり直そうとする私たちの根拠である限り、絶望という事は私たちには無いのです。私たちの主は絶望しない、失望する事はあっても決して絶望する事は無い、そのことを心に深くとどめておきたいと思います。私たちが主の十字架を見上げて歩むならば、誰もが、主の憐れみの器として用いられるのです。絶望しつつある友を主の憐れみの御手につなぐことができるのです。今朝の聖書の箇所はそのことを力強く私達に語っているのです。

礼拝説教要旨(7月11日)聖霊降臨節第8主日礼拝

使徒言行録19:13-20

「生きて働く主の言葉」竹島 敏牧師

今朝の使徒言行録は、七人の祈祷師たちにまつわる話です。このユダヤ人の祈祷師ですが、新改訳聖書などでは、魔除け祈祷師、と訳されていて、いわゆる魔術の範疇に入るようなことをしていた人たちだと推測できます。スケワという祭司長の七人の息子たち‥、彼らが「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と告げたところ、悪霊は彼らに言い返した、と、15節に記されています。何と言い返してきたのか‥、「イエスのことは知っている、パウロのこともよく知っている、だが、いったいお前達は何者だ」‥、悪霊はそのように言い返し、この祈祷師たちに向かってきた、というのです。16節によると具体的には、悪霊にとりつかれていた男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目にあわせた、というのです。その結果、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した、と16節は伝えています。
今朝の使徒言行録は、とにかくこの痛み‥、この苦しみ‥、この問題‥、ただひとつこのことを解決してくれるのなら、何でもする、と言わんばかりの願望に理解を示しつつも、もっと大きな視点から、そのひとつの問題を見つめ直すことの大切さを私たちに知らせようとしているのではないでしょうか。
何よりも再び、聖書が語りかける言葉に立ち返って、その言葉に包まれて、問題となっている事柄を見つめ直してみよ、と言われているのではないでしょうか。その時、聖書の言葉は、生きて働く主の言葉となるのだということが言われているのではないかと思うのです。

礼拝説教要旨(7月4日)聖霊降臨節第7主日礼拝

テモテへの手紙一2:1-7

「とりなしの祈り」竹島 敏牧師

今日、この聖書箇所において特にすすめられているのは、自分以外の人のために祈ること‥、すなわち、執り成しの祈りを献げることです。この聖書箇所全体が、自分以外のすべての人々のために祈ることをすすめている‥、と理解することができるのでしょう。
カトリックの司祭、ミシェルクオストは「神に聴くすべを知っているなら」という著書のなかで次のように語っています。「神がごらんになるように生活に目をとめることを知ってさえいれば、この世の中には何も俗っぽいものはないことがわかる。むしろ、なにもかもみ国をたてるために役だっていることがわかる。信仰をもつということは、なにも目を上げて神に思いをはせるだけではなく、キリストの目をもって、この世に目を注ぐことでもある。キリストをしてわれわれの全存在にしみこませ、われわれの瞳をきよめるなら、この世はもはや、さまたげにはならない。むしろキリストによってみ国が天になるごとく地にもなるために、神のために働くことへのたえざる招きとなる」。そう語っています。
私は、ミシェルクオストが言っている「キリストの目をもって、この世界に目を注ぐ」ということ、すなわち「キリストの目をもって、世界中の隣人に目を注ぐ」ということは、執り成しの祈りにおいてこそ、可能になることなのではないか、と思います。共に執り成しの祈りを献げあい、キリストの目をもって互いに見つめ合う、そのような祈りの共同体として、歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(6月27日)聖霊降臨節第6主日礼拝

使徒言行録4:32-37

「大いなる御業」早川 真伝道師

今朝与えられました使徒言行録の御言葉の中で、弟子たちは互いに持ち物を共有したということが書かれています。この、持ち物を共有にするということは古くから共同体の理想として掲げられてきたことでありました。しかし、これは人の力では実現不可能なことではないでしょうか。人の中には、人よりも多く持っていたい、恵みを独占したいという思いがあるからです。
彼らは、今日の箇所の少し前で主の復活を証しするために祈りました。その結果、聖霊に満たされたとあります。彼らは、枠組み、制度を設定したのではなく、一人一人が聖霊の力によって内側から押し出されて持ち物を捧げたことが、このような状況を生んだのでありました。
彼らが証した、主の復活とは何でしょうか。復活とは死からよみがえることです。死を通らなければ復活はありません。日常生活において、死のような思いが、私たちの内に起こることがあります。激しい後悔、現実の苦しさ、将来の不安。これらに打ちひしがれる時、それはあたかも死を味わうような惨めな思いになります。
しかし、主の復活は、私たちがそのような惨めな思いから解放される道であります。聖霊の力によってそのような死の惨めさは、主にある希望へと変えられます。大いなる御業とは、聖霊が注がれる時に私たちの利己的な思い、死に瀕している状態から、命を分かち合う状態へ変えられることです。この聖霊降臨節の時、そのような主の大いなる御業が、私たちの日常に起こるように切に祈り求めたいと思います。

礼拝説教要旨(6月20日)聖霊降臨節第5主日礼拝

コリントの信徒への手紙二8:8-15

「恵みを分かち合う」竹島 敏牧師

 キリストは、私たち人間の、欠乏による苦しみを御自身の体で感じ取り、共に苦しみ、支え、さらにそこから引き上げるために、人間と同じ者になってくださった‥、そして御自分の全てを献げて十字架の業を成し遂げてくださった‥、そこに恵みがあります。私たちの想いをはるかに越えて働かれるこの主イエスの恵みに信頼する時、思いがけないことが起こります。詮方つきた時にも、この主の恵みに最後の希望をおくが故に、なお、そこにとどまって立ち続ける力が与えられます。信仰とは、この思いがけないことを起こしてくださる主イエスの恵みに希望をおくことなのではないでしょうか。
 私たちは、自らの日常の歩みについて、また教会での歩みについてさえも、様々な見通しを立て、一喜一憂することがあるかもしれません。確かに、先の見通しをたてるのはとても大切なことです。しかしそれはあくまでも見通しなのであって、私たちが本気で御言葉に聴き従うならば、時に、そのような先の見通しをはるかに超えた、思いがけない導きが与えられるということを覚えておきたいものだと思います。そして、自らに思いがけない導きの体験が与えられたように、他の人にも様々な形で与えられるものだということがわかれば、私たちは今よりももっと広く、深く、主イエスの多様な業、多様な恵みを知ることになっていくのではないでしょうか。
 主イエスの恵みを分かち合う、とは、自分に対して、また隣人に対して行われる主イエスの導きの思いがけなさ、から豊かに学び、わかちあうことなのだということをよく覚えておきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月13日)聖霊降臨節第4主日主日礼拝

フィリピの信徒への手紙2:12-18

「神への従順」竹島 敏牧師

 今日のフィリピ書の言葉ですがこれは、パウロが殉教を意識して語った言葉だと言われています。フィリピの信徒たちが礼拝を献げ続け、信仰の養いを受けて世に出ていく時、彼らを指導してきたパウロが、世から憎まれ、殉教へと追いこまれていく可能性を示唆している言葉です。
 それでもパウロはただひとつの生き方に自らの全生涯を献げたのです。そのことをフィリピの信徒への手紙の3章13節において、「なすべきことはただ一つだ」という言い方で述べています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と。キリストイエスという信仰生活の目標を目指してひたすら走る‥、それが、自分にとってなすべきただ一つのことだと、パウロは言い切っているのです。
 私たちもまた、この混迷を極める時代において、あくまでもキリストの言葉にしっかりと立ち続け、時には世と対立することがあったとしても、キリストの祝福と導きに全てをかける生き方を選び取っていかねばならないのだと思います。それが、殉教者たちの生き方を継承していくことであり、神への従順を貫くことなのだと思います。
 私たちもまたパウロのように、たとえ目に見える成果がすぐにはこの手に与えられなくとも、私たちに先立って働かれる主が、いつか私たちの小さな業をも用いて必ず事をなしてくださることを信じて、静かな喜びのうちに、日々の歩みをすすめていきたいものだと思います。

礼拝説教要旨(6月6日)聖霊降臨節第3主日主日礼拝

マタイによる福音書28:16-20

「疑いと迷いのなかで」竹島 敏牧師

 今朝のマタイによる福音書は、イエスの言葉に従って行動したにもかかわらず、その言葉の実現に驚き、疑った弟子たちの姿を浮き彫りにしています。つまり弟子たちは半信半疑であった、ということです。信じ切ることもできず、疑いぬくこともできなかった‥、その中途半端な姿は、そのまま私たちの姿でもあると思います。
 今朝、この聖書の箇所に記されている弟子たちと同じように、私たちもまた、主イエスの言葉の実現をしばしば疑う者たちであることを想います。私たちもまた、疑いつつもひれ伏して過ごしている者たちなのだと思います。
しかし今朝私たちは、疑いと迷いのなかでこそ、主イエスと真実に出会うのだということを、あらためて覚えておきたいと思います。
 復活の主イエスに出会い、ひれ伏しつつも疑う弟子たちの姿は、そのまま、私たち一人一人の姿です。しかし、そのような疑い迷う者たちと、終わりの時まで‥、神の国が完成するその時まで‥、主はいつも、共にいると約束してくださいました。疑い迷う私たち人間の姿を、主は、自然な姿だ、と受けとめてくださるのです。だから私たちは、恥じることなく疑い迷いながら、共に対話し模索し続けることを許されているのです。疑い迷いながら、共に対話し模索し続ける姿こそキリスト者にふさわしい姿なのです。そこにこそ、神に造られた被造物としての限界のなかで、せいいっぱい誠実に、ひたむきに応えていこうとする姿が輝くのです。疑い迷う私たちの弱さを主は祝福し、用いてくださることを信じて、これから、私たちの社会がどのように変わっていこうとも、ありのままの姿で仕えていきたい‥、その姿をもって証し続けていきたいと思うのです。 

礼拝説教要旨(5月30日)聖霊降臨節第2主日礼拝

エフェソの信徒への手紙1:3-14

「恵みの輝き」早川 真伝道師

 この手紙を書いた時、パウロはローマの獄中にいたと考えられています。彼はこの手紙の中で、神をたたえるべくもない時にたたえることができました。それはなぜだったのでしょうか。それは、キリストにあって与えられている霊的な祝福に目が開かれていたからでありました。
 私たちの人生において、恵みが感じられない時、というものがあります。あたかも色鮮やかな景色が、白黒に感じられるように、全ての恵みが色あせて感じるのです。しかし、そのような中にあっても、パウロは、私たちはキリストを通して、恵みの輝きを取り戻すことができると今朝の箇所で語っているのだと思います。
 10節には、霊的な祝福の一つとして、万物が再び統合されるということが示されています。旧約聖書を紐解くと、人間の歴史は分裂の歴史でありました。アダムとエバの記述において、まず神から離れ、そしてその子カインとアベルの兄弟殺し、バベルの塔…。現代においても私たちは分裂を繰り返しているということができます。
 しかし、私たちはキリストにあって再び統合されるのだと、パウロは語ります。ローマの信徒への手紙にはキリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことができるものは何もないと語られています。
 この霊的な恵みは、外的な状況がどうであっても輝いています。むしろパウロが獄中で神をほめたたえたように、現状が暗い時にこそ、いよいよ輝くものであるのではないかと思います。この輝きに目を開かれ、神をほめたたえてて歩むことができるよう祈り求めたいと思います。

礼拝説教要旨(5月23日)聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ礼拝

使徒言行録2:1-11

「いのちの風」竹島 敏牧師

 今、みなさんとご一緒に読んだ使徒言行録の2章にはイエスの弟子たちが、心をあわせてひとつになってお祈りをしていた時、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえてきた、と書かれています。すると、みんな元気になって、いろんな国の言葉で、神様のことを話し始めた、と書かれています。
 私はいつも、この聖書の箇所を読む時、イエスご自身が、全ての人にいのちを与える風になられた、ということを想います。神と等しい方でありながら同時に人でもあったイエスは、死んで、復活した後に、聖霊という風になられました。そして、そのいのちの風を受けて元気を取り戻した弟子たちが、教会をつくり、さらに、そのいのちの風を地上のいたるところにもたらす働きに仕えた、ということを想わされるのです。
 だから聖霊とは、この「わたし」一人のためだけの「いのちの風」なのではなく、神がつくられたすべての人、また、動物や植物たちなど、全てのいのちを支え、導く「いのちの風」です。いろんなことで悩み苦しむ私たちのいのちを支え、今のいのちと、次の時代のいのちをつないでくれる風‥、それが聖霊・いのちの風なのです。 今日はペンテコステ‥、イエスが復活して50日目に、熱心に祈り求めていた弟子たちの間に聖霊・いのちの風が与えられ、教会が誕生したことを記念し感謝する日です。私たちも今日、あの弟子たちのように心をあわせてひとつになってお祈りして、「いのちの風」・イエスの霊をいっぱいいただきたいと思います。そして元気をとりもどし、力強く歩いていきたいと思います。

礼拝説教要旨(5月16日)復活節第7主日礼拝

ルカによる福音書24:44-53

「聖霊の約束」竹島 敏牧師

 私たちは今、再び聖霊降臨の出来事に向かっています。大いなる期待を込めてその日に向かっています。しかしながら聖霊は、私たち一人一人の具体的な努力なしに、私たちを問題解決へと導くことはない、という事は覚えておかなければなりません。何も努力しないで祈って待っていれば、聖霊が解決してくれる‥、ということではないのです。そうではなく、聖霊が約束しているのは、解決へと至る具体的な手だてを、あなたにひとつひとつ与える‥、ということです。
 かつての弟子たち‥、また弟子たちをとりまく一人一人が、様々な問題・課題を抱えながら信仰の生涯を送ったように、私たちもまた、様々な問題・課題を抱えながら日々過ごしています。時には、その重い課題に押しつぶされそうになり、信仰を失いかけ、あせって、自分の力でじたばたし始めることもあるでしょう。あるいは、十分に聖霊の導きを吟味せずに、走り出したくなる‥、しかし、主イエスは言われるのです「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と‥、あせるな、と、言われるのです。
 この私たちにも与えられている聖霊の約束とは、「どんなことがあっても決してあなたを見捨てない」という主イエスの愛に満ちた約束です。私たちが、聖霊による救いの手だてを見逃し、あるいは無視してしまう時も、決してそのような私たちを見捨てず、導きの御手をさしのべ続けてくださる‥、それが、聖霊の約束なのです。私たち一人一人に降ろうとしている聖霊は、そのような救いへの力なのだということを覚えておきたいと思います。

礼拝説教要旨(5月9日)復活節第6主日礼拝

マタイによる福音書6:5-15

「導かれて祈る」竹島 敏牧師

 神は、私たち一人一人を創造し、この世に送り出してくださいました。にもかかわらず誰でも一度は、この世に生まれてきたことを後悔したり、生き続けていくことに疑問を感じたりすることがあるのかもしれません。しかし、その人の主観がどうあれ神は、一人一人に生きる希望を与え、また、期待をかけてこの世に送り出してくださいました。
 だから、どうでもいい人生などないし、誰もが、自分がこの世に送り出されてきたその意味を知り、喜びをもって生きていくよう求められているわけです。なのに十分に喜びをもって生きていけないのならそれこそが、神に対して、十分に責任を果たせないままでいる、ということになります。まずそれが、神に対して負っている私たちの負い目であり、罪なのだと言わなければならないのではないでしょうか。
 その負い目が赦されるためには、まず、人の視線や思惑を意識するよりも神をまっすぐに見つめ、神からの力を求めることが、すなわちまっすぐに祈ることが必要になってくるのです。 もう一度心を込めて祈ってみなさい、と今、主は、私たち一人一人に言われているのではないでしょうか。その時、再び主イエスの霊・聖霊が私たちの心をしっかりととらえ、過ち・負い目が赦される道へと‥、解決の道へと‥、導いてくださる、と、今朝の聖書の箇所は私達一人ひとりに語りかけているのではないかと思うのです。

礼拝説教要旨(5月2日)復活節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書14:1-11

「イエスの道」竹島 敏牧師

 ながらく私は「父なる神」ということがわかりませんでした。しかしある時ふとしたことから、今日の聖書の箇所‥、ヨハネ福音書14章6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」というこの言葉に出会い、「ああ、そうか」とやっとわかったのでした。
 今朝の聖書の箇所の9節後半には、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とあります。つまり、イエスを見た者は神を見たことになる‥、だから大切なのは、神について様々に思いを巡らすことなのではなく、聖書を読むことを通して、また、祈ることを通して、イエスという方をしっかりと見つめることだけなのだ、とわかりました。そのように気づいてみると、実に当たり前のことなのですが、「神」という言葉にとらわれてしまうと、自分が幼い頃からふれてきた、キリスト教の神以外の神のイメージに惑わされたり、混同してしまったり、ということが起こりがちになるのです。けれどもイエスが神なのだ、イエスだけを見つめていればいいのだ、その事がわかった時、やっと私は「神」、という言葉から解き放たれて、イエスを見つめること、そしてイエスと共に歩む道へ踏み出すことができたのです。
 私たちが生かされているこの日本には、実に様々な神がいることを思います。しかし様々な神が私たちの日常をおおっている中で、主イエスが導かれる道を、主イエスと共に歩むことを通して、まことの神を証していきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(4月25日)復活節第4主日礼拝

ヨハネによる福音書11:17-27

「復活と命の主」早川 真伝道師

 本日の箇所は、ラザロの死の出来事に際しての一場面です。ラザロが病気だと聞いてからも、イエス様はなお二日間、同じところに滞在され、イエス様がラザロの姉妹の待つべタニアに到着したのは、ラザロが死んで四日目でありました。
マルタは、イエス様に会うなり率直な思い、恨み言にも似た思いを口にします。しかしその後に、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも、神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言いました。これは彼女にとって精一杯の信仰告白であったと思います。
それに対しイエス様は「わたしは復活であり命である。」と言われました。当時、終末的な意味合いだった死後の復活に対する信仰が、イエス様が来られたことによって、今、ここで受けることのできる現在的なものとなっています。イエス様を信じるなら、今、ここで、あなたは復活と命を得る、と言われているのです。では、現在の私たちにとっての復活と命とは何なのでしょうか。
復活の原意は倒れている所から立ち上がる、という意味です。世の中には私たちを打ち倒す力がありますが、キリストには打ち倒されたものを立ち上がらせる力があります。また、命の反対は死であり、死の本質は断絶です。ここで言われている命とは神の命、永遠の命であり、肉体の死に際しても断絶することの無い交わりが約束されているのです。
マルタは、そのことがまだ分からなくても「はい、主よ、」信じました。イエス様は今日の私たちに対しても、「このことを信じるか。」と語りかけておられます。

礼拝説教要旨(4月18日)復活節第3主日礼拝

マタイによる福音書28:1-10

「心が燃えた日」竹島 敏牧師

かつて、弟子達は、信仰に燃え、彼らなりの信仰理解にもとづいて希望を抱きつつはげんでいました。しかしイエスの十字架の死、という出来事によって、その希望は木っ端みじんに打ち砕かれてしまいました。彼らが信じていた事柄は全て失われてしまいました。しかし、そのような深い喪失感の内に漂っていた時、再び、聖書にもとづいて、その真理を深く説き明かし、信仰を与え、ふるい立たせてくださる方と出会ったのです。
そして、あの復活者イエスが、この二人の弟子にしてくださったことは、今も、復活者イエスの体なる教会において、起こり続けている、と言えるのではないでしょうか。それは、御言葉の説教と聖餐という形で、ずっと引き継がれてきた御業なのであり、私たちは、そこにおいて、深い挫折と失望の中にあっても、再び「心が燃える」ような復活体験をし、共に主の食卓にあずかることによって主のお姿をくっきりと自らの胸の内に、刻みつけることができるのです。
私たち一人一人、依然として、様々な課題、また、悩みを持っています。そしてこれからも時には、その悲しみや憂いの故に胸ふさがれるような圧迫感に捉えられることもあるかもしれないと思います。しかしどんな状態にある時も、私たちが主に心を開き続け、主の霊を求め続けるならば、かつて、エマオ途上において二人の弟子達に起こった復活体験は、今日の教会においても…、今日の私達においても豊かに起こされるのです。その事を今朝私達は、再びご一緒に確認しておきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月11日)復活節第2主日礼拝

マタイによる福音書28:11-15

「十字架の力」竹島 敏牧師

今朝のマタイによる福音書には、イエスの遺体をおさめた墓をずっと見張っていた番兵たちと、祭司長たちのやりとりが短く記されています。このような不思議な出来事の一部始終を見ていた番兵達は、きっとその時の様子を詳しく報告したに違いない、と思います。この主イエスの復活とはいったい何だったのか、具体的に何が起こったのか、福音書はその出来事を様々に報じていますが、それがどのような出来事であったにせよ、そこで一番大きな出来事は弟子達一人一人の復活体験であった、と言えるのではないでしょうか。
弟子達はみな、何らかの形で復活の主イエスと出会い、心燃える‥燃やされる体験をしました。そしてそのような体験をした弟子達は、それまでの弟子達とはちがっていました。勇気をもって主イエスの言葉を宣べ伝える力を取り戻していた‥、というか、それまでにないほどの力強さで新たに宣教の業に仕えていったのでした。イエスの十字架の死と復活という出来事が、そのように弟子達一人一人の再起を力強く生み出していったのでした。危機的な状況におかれた時こそ、主の十字架を見上げ、かつて主が語ってくださったこと、行ってくださったことを思い起こし、その真実に愚直に立ち続けよ、と今朝の聖書は私たちに語りかけているのではないでしょうか。主の十字架に秘められた真実の力のみが、直面している問題を解決へと導き、あなたたちをまことの平和へと導く、と告げているのではないでしょうか。この聖書のメッセージを大切に心の中にとどめつつ、復活節の歩みを進めていきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月4日)復活節第1主日・イースター礼拝

マタイによる福音書28:1-10

「イエスの復活」竹島 敏牧師

私たちは、十字架と復活の出来事を考える時、とかく主イエスと12弟子との関係ばかりを見つめがちなのかもしれませんがいわゆる直弟子ではなかったかもしれないけれどもイエスを慕ってイエスの十字架の死と復活にまつわる出来事を見守り続けた人達のことが聖書には記されていることを忘れてはならないのだと思います。
ここではマグダラのマリアともう一人のマリアのことが記されていますがヨハネによる福音書においてはニコデモという人のことが記されています。このニコデモはイエスとのかかわりによって「新しく生まれる」すなわち「水と霊とから生まれる」という境地を得た人でありました。そして私達もまたそのような境地に到達することができると聖書は語っているわけです。そのような新しく生まれるという世界に私たちも到達することが許されておりそれゆえこのような信仰生活に入ることができたのだということを改めて覚えておきたいと思います。私たちがこの世で味わう全ての痛み、苦しみをすでに主イエスは味わいつくされて今朝、私たちのために復活されました。
今朝、私たちは先に召された私たちの信仰の先達と共にこの喜びにあずかっていることを想います。天においても喜びの礼拝が献げられていることをご一緒に信じたいと思います。そしてその天からのあたたかいまなざしを感じつつ、この復活の出来事を心静かにもう一度見つめてみたいと思うのです。そしてどんな時も主が共にいて導いてくださるという信仰に生き抜く生涯を送ってまいりたいと思います。