礼拝説教要旨(4月15 日)復活節第3主日礼拝           

ヨハネによる福音書10章7〜18節
「命を与え、導く主」竹島 敏牧師

 マザーテレサは、どんな時も教会のミサをとても大切にし、いつもミサにあずかってから奉仕に出かけた、と言われています。真実の奉仕を続けるためには、復活の主イエスの命にあずかり続けることが必要不可欠であることを身をもって知っていたからでありましょう。 
 このように私たち一人一人にご自身の命を与え、導いてくださるのが私たちの主イエスキリストです。この主イエスを信じて洗礼を受け、真実の心をもって聖餐にあずかり続けるなら、イエスの命が豊かに分かち与えられ、イエスが生きたように生きることを志すようになるのです。イエスが望んでおられた神の国を目指して生きることを志すようになるのです。そしてその命は、この地上の歩みを終えても、終わることはありません。
 「自分さえよければいい」、という考え方、生き方が広がりつつあるこの時代のなかで、このような、主イエスにならう生き方は、新しい生き方です。自分以外の誰かのために、自らすすんで日々、命を削って生きていく‥、それが決して単なる自己犠牲には終わらない‥、むしろそのことによって豊かにされ、心が満たされる生き方‥、そのような新しい生き方へと私たちは招かれ、導かれるのです。そしてその命が、この地上の歩みを終えた時、復活の主はその命を抱き取って、天へと連れ帰ってくださいます。そしてそこにおいてその命は、主イエスと共に、遺されたこの地上の人々の歩みを見守り続けるのです。そのような命を与え、導いてくださる主に心からの感謝の祈りをささげましょう。

礼拝説教要旨(4月8日)復活節第2主日礼拝           

ヨハネによる福音書20章19~31節
「復活の命をうけて」竹島敏牧師

今日のこの聖書の箇所の最後においてトマスは、十字架につけられて、その体に穴をあけられて、苦しみぬいて死んでいかれた方が、今、現実に復活して自分の目の前に立っているという事実を、もはや認めざるをえなくなりました。その事実からもはや逃げることはできなくなりました。そして、「決して信じない」と言いながら激しく問いつめていた立場から、今度は問われる立場へと、ここで一瞬にして大きく立場が変わったのです。
「この釘のあと、槍のあと、それは誰がつけたのか」と静かに問われる立場へと、大きく立場が変わったのです。
この時トマスは、自分が実際に手でふれて確認した、この主の体の釘のあと、また槍のあとは、自分がつけたものなのだ、ということを、はっきりと理解したのでありましょう。
確かに自分だけではない、しかし、他の弟子達も含めて、自分もまた、そこに荷担したのだ、ということをはっきりと理解したのでありましょう。しかし実際には主は、そのような厳しい問いをトマスに投げかけられることはなく、ただ、「見ないのに信じる人は、幸いである」と静かに告げられただけでした。
私たちもまた、トマスのように、「もう決して信じない」という疑い迷いの中に入ってしまうことがあるかもしれません。
しかし、そのような私たちにも、主は御自身の十字架の傷跡を見せて、さわらせてくださる…、それほどの深い出会いを備えていてくださり、復活の主イエスと共に永遠に生きる道をひらいてくださるのだということを、今朝のヨハネ福音書は私たちに伝えているのです。

礼拝説教要旨(4月1日)復活節第1主日・イースター礼拝            

ヨハネによる福音書20章11~18節
「復活の意味」竹島敏牧師

 今朝のこの聖書箇所においてマリアは、主イエスと霊的な新しい関係に入り、信仰的に自立していくことを求められています。神は全てに時を備えておられる‥、今、イエスは復活され、これから天へ旅だっていこうとされている、今や、そのような時が与えられようとしている、そのことをよくかんがえなさい、とマリアは言われているのです。だから、私にもうすがりつくな、すがりつく必要はもうない‥、ということなのです。
 このようなマリアの物語を受けて、私達は、今日のこのイースター礼拝にて、この地上を去っていった方々のことをあらためて想い起こしたいと思います。イースターは、主イエスが復活されたことを喜び感謝する日ですが、それは、天と地という距離を超えて、主イエスと弟子達との霊的な交わりが深められていくその出発点でもありました。主の復活と昇天という出来事は、そのように当時の弟子達と主イエスとの関係を新たなものにしたのです。
 私達もまたやがて、この地上を去っていく者達であります。しかし私達が今、復活の主イエスとの霊的な交わりに深くあずかっていくならば、天と地をつないでくださる復活の主の導きによって、先にこの地上を去っていった人達とのより親密な交わりが与えられるのではないでしょうか。私達の主は、私達一人一人の名を呼んで、慰め、励まし、そして先にこの地上を去っていった人の、声や言葉や姿を、この地上によみがえらせてくださる復活の主でもあるのだということを感謝をもって受けとめたいと思うのです。