礼拝説教要旨(5月13日)復活節第7主日礼拝

ヨハネ福音書17:1―13
「天に属する者」竹島敏牧師

 今朝のこの聖書箇所においてイエスがまず主張したかったのは、真の神を信じる者たちは
皆「天に属する者」である、ということです。
 日頃から主が一番に願っておられたことは、天において成就している神の御心が、地においても実現していくことでした。つまり主は弟子たちに常に、天を仰いで生きよ、と教えておられたわけです。たとえこの地がどんなに汚れ、闇の世であっても、絶望しきってはならない、と。はるか天を見上げて、そこではすでに神の御心が成就していることを想え、と。そして、その天の国が、神の導きによって確実にこの地に近づきつつあることを信じて、うまずたゆまず神に仕え続けよ、と、主は教えておられたわけです。だから、この地上の事柄に執着してはならない‥、と主は教えられました。
 確かに私たちには、この地上の事柄に様々な執着があると思います。けれども、天に目を向けること‥、この地上の事柄に対する執着はとりあえずそのままにしておいて‥、天にも目を注ぐこと‥、これならできるのではないでしょうか。そして天においてはすでに神の御心が成就していることを信じ、そのような天が、神の御導きによってこの地上に近づきつつあることを信じる‥、思い描いてみる‥、ということが大切なのではないでしょうか。
 天を見上げ、見つめることによって私たちは、どんなにこの地上の生が悲惨であったとしても、私たちにとって世界は、この地上だけではないのだ‥、と。私たちにはもう一つの世界、天があるのだ、と、再び、希望を持ち始めることが可能となるのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(5月6日)復活節第6主日礼拝

          
創世記18章23〜33節
ヨハネによる福音書16章16〜24節
「主の名によって願う」竹島敏牧師
 
 私たちは日々、様々な願いを抱いて歩んでいます。たとえ次々と願いがかなえられずに消え去っても、また、新たな願いを抱き、それを心の支えにして私たちは生きているのではないでしょうか。もし何も願わなくなってしまうことがあるとすれば、それは、自らの人生に対して絶望してしまった‥、ということです。いろんな願いが、かなえられずに次々と消え去ってしまっても、私たちは何とか希望をもって生きていくために、また、別の願いを抱くのです。
 今日のこの、ヨハネ福音書16章24節には「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」、とあります。これは、願ったことや、願ったものがそのまま、与えられるとは限らないけれども、必ず良いものが与えられ、あなたがたは喜びで満たされるにちがいない‥、ということです。だから私たちは、まずは自分の願いをそのままに、神に申し上げてよいのではないでしょうか。願いどおりにはならないかもしれない。しかし、その私の願いが、神の心を動かし、変える場合だってあるのだという思いをもって、素直に神にぶつかっていくことがゆるされているのではないかと思います。つまり、神の思いを推し量りながら、自分の意見も自由に述べて神と対話し、あとはゆだねる、ということ‥、これが「主の名によって願う」ということなのではないかと思うのです。「そのように願う人に主はもっともふさわしいものをさずけてくださる」そこに希望をおいて今週もそれぞれの一週の旅路にむかっていきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月29)復活節第5主日礼拝

「福音開始」
マルコによる福音書1:1-8

岩本幸太郎伝道師

1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め。」

かつてこのような権威ある書き出しがあるでしょうか。これこそがマルコによる福音書の特徴、象徴。簡潔な書き出しです。この書き出しはマルコ書全体を言い現す。今でもイエス・キリストの御働きは続いてきています。

マルコによる福音書という書物は、初の福音書といった試みです。それはこの福音を自分自身のこととして知っている、それは頭の中でただキリストを知っている、知識として知っているというのではなくて、彼もイエスキリストを体験的に知っているからこそ、今度こそ課せられた使命、自分こそがイエスは神の子であると宣言しなくては、その使命を果たそうと強い聖霊の援護もあって筆をとったのでした。

2節以下に洗礼者ヨハネ登場。一言でいうと旧約と新約聖書をつないだ人です。2節は旧約聖書のイザヤ40:3からの引用、ついに旧約聖書の預言されていた出来事がついに実現するということなのです。ただまっすぐに正す方が、「イエス様あなたこそ私の救い主、信じます。」と心から信じ言うことで、まっすぐな道があなたに用意されるのです。みなさん、今日神へ至るストレートな道が用意されたのです。

神はそんな彼に最初の福音書記者に用いたのです。そこで福音が記され、マタイ、ルカ、ヨハネたちの聖霊をも刺激したのです。さあ、まっすぐな道が用意されました。福音開始です。現在進行中です。これにまさる喜びはありません。罪が赦される、そして神の子とされている恵みの中でまっすぐに導かれ歩んで行く、生きてゆく。神様は準備されてくださりました。初まり今日ありき、希望こそ確かにありです。まっすぐにしてくださるお方をお手本にともにこれからも歩んでいきましょう。

礼拝説教要旨(4月22日)復活節第4主日礼拝             

レビ記19章9〜18節
ヨハネによる福音書13章31〜35節
「新しい掟」竹島敏

 「互いに愛しあいなさい」それが、あなたがたに与える新しい掟だ、と主イエスは弟子たちに語られました。そして、互いに愛しあうならば、それがまわりの人達へのよき証になる‥、というふうにも語られました。今朝のヨハネ福音書の13章34節以下のところです。主イエスの具体的なお支えとお導きによって、神の国へと向かう教会を形成する、また社会を形成する‥、そのために互いに祈りあい配慮しあっていく、それが互いに愛し合うということです。
 教会の交わりと祈りのなかで私たちは、神が私たち一人一人に備えてくださった固有の能力・個性を再認識させられます。すなわち、しばしば私たちは教会の交わりと祈りのなかで、この世の価値観によってすでに切り捨てられ、自分でも忘れ去ろうとしていたような能力や個性を再び呼び覚まされるのです。そして自らに本来備えられていた様々な能力や個性をすべて肯定しそれらを生かすために、それぞれのところへと遣わされていくのです。
 私たちの世が、また国家が私たち一人一人をどのような基準ではかり、どのような評価を与えようとも主イエスは、神が私たち一人一人に備えてくださった能力や個性をすべて肯定し豊かに用いてくださる‥、神の国のご用のために生かし切ってくださる、だから今週も、ありのままのお互いを、神様によって備えられている互いの賜物を見いだしあって、これでいいのだと肯定しあって、この世の歩みへと踏み出していきなさいと言われているような気がいたします。

礼拝説教要旨(4月15 日)復活節第3主日礼拝           

ヨハネによる福音書10章7〜18節
「命を与え、導く主」竹島 敏牧師

 マザーテレサは、どんな時も教会のミサをとても大切にし、いつもミサにあずかってから奉仕に出かけた、と言われています。真実の奉仕を続けるためには、復活の主イエスの命にあずかり続けることが必要不可欠であることを身をもって知っていたからでありましょう。 
 このように私たち一人一人にご自身の命を与え、導いてくださるのが私たちの主イエスキリストです。この主イエスを信じて洗礼を受け、真実の心をもって聖餐にあずかり続けるなら、イエスの命が豊かに分かち与えられ、イエスが生きたように生きることを志すようになるのです。イエスが望んでおられた神の国を目指して生きることを志すようになるのです。そしてその命は、この地上の歩みを終えても、終わることはありません。
 「自分さえよければいい」、という考え方、生き方が広がりつつあるこの時代のなかで、このような、主イエスにならう生き方は、新しい生き方です。自分以外の誰かのために、自らすすんで日々、命を削って生きていく‥、それが決して単なる自己犠牲には終わらない‥、むしろそのことによって豊かにされ、心が満たされる生き方‥、そのような新しい生き方へと私たちは招かれ、導かれるのです。そしてその命が、この地上の歩みを終えた時、復活の主はその命を抱き取って、天へと連れ帰ってくださいます。そしてそこにおいてその命は、主イエスと共に、遺されたこの地上の人々の歩みを見守り続けるのです。そのような命を与え、導いてくださる主に心からの感謝の祈りをささげましょう。

礼拝説教要旨(4月8日)復活節第2主日礼拝           

ヨハネによる福音書20章19~31節
「復活の命をうけて」竹島敏牧師

今日のこの聖書の箇所の最後においてトマスは、十字架につけられて、その体に穴をあけられて、苦しみぬいて死んでいかれた方が、今、現実に復活して自分の目の前に立っているという事実を、もはや認めざるをえなくなりました。その事実からもはや逃げることはできなくなりました。そして、「決して信じない」と言いながら激しく問いつめていた立場から、今度は問われる立場へと、ここで一瞬にして大きく立場が変わったのです。
「この釘のあと、槍のあと、それは誰がつけたのか」と静かに問われる立場へと、大きく立場が変わったのです。
この時トマスは、自分が実際に手でふれて確認した、この主の体の釘のあと、また槍のあとは、自分がつけたものなのだ、ということを、はっきりと理解したのでありましょう。
確かに自分だけではない、しかし、他の弟子達も含めて、自分もまた、そこに荷担したのだ、ということをはっきりと理解したのでありましょう。しかし実際には主は、そのような厳しい問いをトマスに投げかけられることはなく、ただ、「見ないのに信じる人は、幸いである」と静かに告げられただけでした。
私たちもまた、トマスのように、「もう決して信じない」という疑い迷いの中に入ってしまうことがあるかもしれません。
しかし、そのような私たちにも、主は御自身の十字架の傷跡を見せて、さわらせてくださる…、それほどの深い出会いを備えていてくださり、復活の主イエスと共に永遠に生きる道をひらいてくださるのだということを、今朝のヨハネ福音書は私たちに伝えているのです。

礼拝説教要旨(4月1日)復活節第1主日・イースター礼拝            

ヨハネによる福音書20章11~18節
「復活の意味」竹島敏牧師

 今朝のこの聖書箇所においてマリアは、主イエスと霊的な新しい関係に入り、信仰的に自立していくことを求められています。神は全てに時を備えておられる‥、今、イエスは復活され、これから天へ旅だっていこうとされている、今や、そのような時が与えられようとしている、そのことをよくかんがえなさい、とマリアは言われているのです。だから、私にもうすがりつくな、すがりつく必要はもうない‥、ということなのです。
 このようなマリアの物語を受けて、私達は、今日のこのイースター礼拝にて、この地上を去っていった方々のことをあらためて想い起こしたいと思います。イースターは、主イエスが復活されたことを喜び感謝する日ですが、それは、天と地という距離を超えて、主イエスと弟子達との霊的な交わりが深められていくその出発点でもありました。主の復活と昇天という出来事は、そのように当時の弟子達と主イエスとの関係を新たなものにしたのです。
 私達もまたやがて、この地上を去っていく者達であります。しかし私達が今、復活の主イエスとの霊的な交わりに深くあずかっていくならば、天と地をつないでくださる復活の主の導きによって、先にこの地上を去っていった人達とのより親密な交わりが与えられるのではないでしょうか。私達の主は、私達一人一人の名を呼んで、慰め、励まし、そして先にこの地上を去っていった人の、声や言葉や姿を、この地上によみがえらせてくださる復活の主でもあるのだということを感謝をもって受けとめたいと思うのです。