礼拝説教要旨(11月17日)降誕前第6主日・幼児祝福礼拝

「神さまに向かって歩く」竹島敏牧師
マタイによる福音書3章7~12節 


 今日のこの聖書の箇所が私たちに教えようとしていることは、「二度と神様のお考えからはずれた行動をしてはいけない」ということでは実はありません。どんなに気をつけていても、神様のお考えからはずれた行動を私たちはしてしまうものなのだからです。それが人間というものなのです。
 そして、それでも、心配いらないのです。どんな人にも必ず間違いはあるのです。どんな人でも必ず、してはいけないことをしてしまうことがあるのです。言ってはいけないことを言ってしまうこともあるのです。「しかし、問題はそのあとだ」、と聖書は語っているのです。そこが一番大切なところなのです。

 洗礼者ヨハネが、言おうしたのは「失敗をしてもいい、間違いをおかしてしまってもいい、大事なことは、それを認めてなおすこと」、ということだったのではないでしょうか。
私たちもまたこのヨハネのように、いろんな失敗や、まちがいをしやすい私たちと一緒にイエス様が歩んでくださること‥、助けてくださることを信じて、神さまが、両手を広げて招いてくださっている方に向かって歩いていきたいと思います。間違った方向に行っている、と気づいたらすぐに、素直に悔い改めて、神さまに向かって方向転換し、良い実を結んでいきたいと心から願います。それが神さまからの祝福、というものなのだと覚えておきたいと思います。

礼拝説教要旨(11月10日)降誕前第7主日・創立117周年記念礼拝

「実りを求めて」竹島 敏牧師
ルカによる福音書8章4~15節

 私達の小石川白山教会は、創立117周年を迎えました。私達の主イエスは、ここにキリストのからだなる教会をお立てになり、今日まで守り導いてくださいました。さまざまな恵み、実りを主からいただいてまいりました。多くの傷ついた魂が、このキリストのからだに招き入れられ、癒され、救われた。その傷ついた魂が、このキリストのからだにおいて癒され、救われていく過程において、どんなに多くの祈りが献げられ、痛み苦しみを分かち合う小さな交わりが積み重ねられてきたことかと想います。
 今日のこの聖書の箇所に示されております百倍の身を結ぶ、とは何も、いわゆる教勢の拡大とか、信徒数の増加のことだけなのではなく、例えば、一人の人の痛み苦しみを分かち合い祈り合うところに生み出される実りと静かな喜びのことなのでもあるのではないでしょうか。そのような共に喜び共に泣く小さな交わりに、百倍もの、千倍もの、実りが与えられる…、決して肉眼の目では見ることのできないその実りを信仰の目で見つめ、共に喜ぶことができるのかどうか、私達は今あらためて問われているのかもしれません。
 決して肉眼の目では見ることのできない神様からの実りを信仰の目で見つめ、共に喜ぶことができるようになるためにまず必要なものは言うまでもなく、祈り、でありましょう。そのことをあらためてみなさんと共に確認しつつ、主に喜ばれる共同体形成のあり方をさらに模索してまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(11月3日)降誕前第8主日礼拝

「光が世に来た」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書3章13~21節

今朝私達は、このヨハネによる福音書の16節、17節の言葉にしっかりと耳を傾けておきたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」
神の御子・私達の主イエスは、かつて地に降ってこられ、そして十字架と復活の御業の後に、天へと上っていかれました。それは、天と地を結ぶ交わりを始めるためでもありました。今、主イエスは天から、この私達一人一人を見つめておられ、その天には、主が招かれた私達の家族や友が大勢おられることを想います。天に帰り、そこから御子イエスと共にわたしたちを見守ってくださっている大勢の方々がおられることを想います。
今もなお、闇のようなこの地上の歩みを続けている私達です。しかし、そんな私達を、光なる主イエスと共に天からあたたかく見守ってくださっている家族や友が大勢いる‥、あたたかく、また、期待に満ちた眼差しで見守ってくださっている‥、私たちは、その、眼差しを感じながら、祈りつつ、この地上の日々を歩んでまいりたいと思います。そのような歩みを続けていくなら、この、闇のような世界のただ中にも、きっと、光なる主イエスの姿を見出し、「光が世に来た」と告白する時が与えられるのだと思います。落胆にうちしずむより、光の子とされていることに静かな喜びを見出し、小さな希望の灯火を、遣わされているそれぞれの場に、灯していきたいと思います。

礼拝説教要旨(10月27日)降誕前第9主日礼拝説

「和解の主」竹島 敏牧師
コロサイの信徒への手紙1章15~20節

 今朝私達に与えられましたこのコロサイ書においては、常に、神から与えられた和解の恵みを謙遜に受けとめ続けていないと、人間はすぐに傲慢になってしまう‥、神からの和解の提示を反故にしてしまうような行為をしてしまう、という可能性が示されています。人間は、神の側から一方的に和解が与えられたにもかかわらず、その事をすぐに忘れて、また神に背くという逆戻りを、いとも簡単にしてしまう存在なのだということです。しかしそのような私達人間に対して、このコロサイの信徒への手紙が告げているのは、「私達の罪の故に主イエスが十字架にかかってくださったことを想うのは、恵みである」ということなのではないでしょうか。主イエスの十字架の故にゆるされた自分の罪を、具体的に見つめ、知っていくという事は、自分の本当の姿を知っていく、ということです。こんな自分のために、十字架についてくださり、今も、その十字架を示しつつ、この私と世界を支えてくださっている主イエスの深い深い愛に気づいた、その時に、まことの救いが起こるのだと思います。
 罪を自覚することのできないこの世界にあって、しかし私達は自分の罪を、主イエスの御前で具体的に見つめ、自分の本当の姿を知っていきたいと思います。そして今もなお、十字架を指し示しつつ、この私達と世界を支えてくださっている主イエスの深い深い愛にあずかっていきたいと想うのです。そして、この深い深い愛への応答として一日一日を献げ、主の御心にかなった平和な世界の実現のために、仕えてまいりたいと願うのです。

礼拝説教要旨(10月20日)聖霊降臨節第20主日神学校日・伝道献身者奨励日礼拝

「イエスを見つめながら」早川 真伝道師
ヘブライ人への手紙9章23~28節


一体私たちの持っているものの中で、命よりも大切なものがあるでしょうか。聖書はただ一つその答えを示しています。それは、永遠の命です。
旧約聖書の信仰者たちは、「更にまさったよみがえりに達するため、釈放を拒み、拷問にかけられ」たと、先ほどお読みした箇所にはありました。この更にまさったよみがえりというものがどういうものなのか、それがどのようにして起こるのか、それを旧約聖書の時代の人は知る術がありませんでした。彼らはただ、神に従い命を捧げた人を神は必ず顧みてくださり、永遠の命によみがえらせてくださると信じて疑わなかったのであります。
今回、2節を原文で読んだ時に興味深い発見がありました。
それは、「喜びを捨て」という言葉が「喜びのゆえに」とも訳せるということです。
イエス様は地上におられる時、喜びを常にご自分の前に持っておられた、ということになります。そして、十字架の苦しみもこの喜びのゆえに耐え忍ばれたのであり、その喜びのゆえに恥をもいとわなかった、という解釈が生まれるのであります。
私たちもまた、イエス様の持っておられたその喜びを見つめながら、その喜びに生かされる人生へと招かれています。かつての信仰の先達たちも、未だ見えないその喜びに希望を抱き、それぞれの走るべき道を走り抜いたのでありましょう。私たちは、神と共にある喜び、また多くの人の命を救うその神の喜びに、たとえこの世における苦難が伴ったとしても与っていきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(10月13日)聖霊降臨節第19主日礼拝

「愛の光」竹島 敏牧師
創世記4章1~10節・マルコによる福音書7章14節~23節

 今日は、永眠者記念礼拝ですが、今は天にあるお一人お一人も、また今なおこの地上を歩む私たち一人一人も、その誰もが自らの命の奥深くに、ひそかに罪を抱えていた、また抱えている、ということを思わされます。しかし、そのようにひそかに罪を抱えながら歩む私たち一人一人の命に差し込んでくるキリストの愛の光がある‥、そしてその光を仰ぎ見ながら歩む‥、それが私たちキリスト者の人生なのではないでしょうか。
今日の創世記の物語、カインとアベルの物語を見ましても、実に人は、他者から深く愛されることによってこそ、まことに悔い改め、正しく生きることができるようになるのかもしれない、と強く思わされるのです。だからこそ人類最初の殺人、という罪をおかしてしまったカインもまた、そのような神の愛・神の深い憐れみにより、少しずつ、時間をかけて悔い改める方向へと自らを律しはじめることができるようになっていったのではないでしょうか。
 そして今、私は、自分の罪からも、他者の罪からも目をそむけず、また何よりも共に重荷を担って歩んでくださる十字架の主イエスを一心に見つめて歩み続けた私たちの信仰の先達の歩みを想います、今朝、私たちはもう一度、その小石川白山教会の先達の歩みをふりかえりながら、ますます闇が深まってくるかのようなこの地上の世界に、今度は、何としても私達一人一人が主の一筋の光をもたらす者にされたいと心から願うものです。

礼拝説教要旨(10月6日)聖霊降臨節第18主日礼拝

「聖霊に満たされて」竹島 敏牧師
使徒言行録13章1~12節

使徒言行録はイエスを主と信じる信仰に入った者たちが、その主の霊に導かれて力強く宣教し続けていったという記録を私たちに残してくれました。今朝の使徒言行録13章1節からにも、バルナバとパウロが聖霊に導かれて新たな宣教を開始した、ということが記されています。
洗礼は、そのような宣教の実りであり、また信仰生活の入り口でもあります。それは、大変喜ばしい出発点です。しかし実際にイエスを信じて歩む生活を送っていくなかで、様々な苦難を味わい、疑問がわいてきたり、新たに葛藤が深まったりすることが起こってきます。そのようにして自らの信仰の中身が問われ、揺さぶられ、時には、もう信仰などなくなってしまった‥、というような経験をすることもあるかもしれません。しかしそのような経験をへて、私たちの信仰は、ほんとうのものに磨きあげられていくのです。
洗礼を受ければ、様々な悩み苦しみが一挙に解決し、バラ色の人生が開かれていくわけではありません。洗礼を受けて主イエスと共に歩む人生が私たちに約束しているのは、現実をしっかりと受け止め受け入れて‥、直視して生きていくことを身につけさせる、ということです。そのような歩みを、主イエスが、生涯、支えてくださる、ということです。私たちはその道をどこまでも同伴してくださる主イエスと固く固く結び合わされ聖霊に満たされて、苦難のなかにも確かな平安と、そして使命を与えられて生きていくのです。そこに私たちの救いがあるということを聖書は告げているのです。

礼拝説教要旨(9月29日)聖霊降臨節第17主日礼拝

「キリストの平和」早川 真伝道師
コロサイの信徒への手紙3章12~17節


新約聖書の書かれたギリシア語において、平和という言葉は外面的な平和を意味すると共に内面的な平和、心の平安をも意味します。
そう考えると、私たちの日常は必ずしも平和であるとは言えない現実があります。表面的には争っていなくても、人との間に、怒りや恐れがあるならばそれは平安な状態であるということはできないでしょう。しかし、今朝与えられた御言葉は、私たちには本当の意味での平和、キリストの平和がすでに与えられていると告げています。

人間の愛は限定的であり、限界があります。しかしパウロは、コロサイの信徒たちが見返りを求めない神の愛を身に着けることができると信じて疑っていません。それは、クリスチャンにとって全ての見返りはキリストがもうすでに与えてくださっているからであります。
キリストは私たちの命を救うため、十字架にかかり私たちの罪の犠牲となってくださいました。そして私たちの過去・現在・未来の全ての罪を赦し、天国に私たちの永遠の住まいを用意してくださり、今なお、聖霊の働きを通して私たちの歩みを死から命へと導いてくださっています。
この平和にあずかるために、私たちは神によって招かれてここに集っているのです。罪の中に沈んでいた弱く小さな私たちをこの上なく愛し、御子イエス・キリストのゆえに罪を赦し、神の子の一員としてくださった天の父を、私たちはこれからも礼拝を通して、いつも感謝をもって、ほめたたえ続けていきたいと思うのであります。

礼拝説教要旨(9月22日)聖霊降臨節第16主日礼拝

「新しく創造される」竹島 敏牧師
ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節

私達の主イエスは、人との関係に傷つき、もう誰とも深く関わることなく生きていきたいと悲観的になってしまう時こそ私達一人一人の最も近くに来て嘆き悲しむ私達を抱きしめ、私達に主イエス御自身の体の傷を見せてくださいます。その時きっと私たちは、私達一人一人が心に負った傷をすでに主イエスも負ってくださっていた、ということを知るのでしょう。互いに愛し合うことにおいて、いろんな失敗をして、そのため私たちは互いに傷つくのですが私達が傷を負う時、常に主イエスも共に同じ傷を負われるのです。そしてそのように傷を負いつつなお主は私達一人一人のそばに来てくださり、私達一人一人を抱きしめてくださるのです。
 そのような主の愛に包まれてこそ私たちは癒され、本来の自分自身を取り戻していくことができるのです。
 生きていくということは、いろんなことで傷を負い続けていくということ‥、その覚悟を決めて歩み続けるということなのでもありましょう。それはつらいことですが、しかし、その道に常に主イエスが同伴してくださるのです。私達が傷を負ったときには、ご自身のからだを見せて「私も同じ傷を負っている」と語りかけ、私たちの痛みに共感してくださるのです。そしてこれから歩むべき方向を指し示してくださり、新しい一歩を一緒に踏み出してくださるのです。そのような主、十字架の主イエスが私達に与えられている‥、そのことを思う時、私達にとってもはや傷つくことはたんなる痛みではなくなっていくのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(9月15日)聖霊降臨節第15主日礼拝

「義に仕える者」早川 真伝道師
コリントの信徒への手紙二11章7~15節

今朝の箇所でパウロは、私たちの感覚からすると、少し不思議なことで非難されています。それは、パウロが、コリントの信徒たちに福音を告げ知らせる際、無報酬でそれをしたということです。
パウロにとって、福音を宣べ伝えることは、決して自分自身の生活の資を得るための手段や、人々に尊敬されるための手段ではあり得ませんでした。
そうではなく、パウロにとって福音を宣べ伝えることは、パウロの内にある、キリストの真実に対する応答でした。
パウロがここで問題にしているのは、報酬を受け取るかどうかということではなく、福音を告げ知らせる者の動機の源が何に基づいているか、ということなのです。
今日の御言葉の後半には、サタンの存在が語られています。聖書の中でサタンは「この世を支配する者」、また「空中に勢力を持つ者」であるとも言われています。サタンは実に巧みに、義に仕えようとする者をこの世に仕えるよう導くのでしょう。
しかし、決して悲観する必要はありません。私たちの主であるイエス・キリストは、サタンの誘惑を悉く退けられたお方であります。
義に仕える者とは、キリストのことであり、キリストを信じた者の内に働く聖霊のことです。このお方だけが、サタンの誘惑を退け、私たちを朽ちることのない命へと導いてくださるのです。そして、このお方の導きに従っていく時、私たちもまた、義に仕える者とされていくのです。
「主の真理とそのめぐみを、のぞみてわれらは安らぎを得ん」(讃美歌227番)

礼拝説教要旨(9月8日)聖霊降臨節第14主日礼拝

「霊の体」竹島 敏牧師
コリントの信徒への手紙一15章35~52節


今朝の聖書箇所が私たちに伝えようとしている一番の事は、教会の主、交わりの主であるイエスが、イエスを信じる者達一人一人をその死後、ご自身の命であたたかく包み込みながら天へと連れ帰って、そして終末の時まで、互いの交わりを持たせてくださる‥、ということなのではないでしょうか。そのような希望をもって歩むことが私たちにはゆるされているのだと思います。
また、聖書の一番最後の書、ヨハネの黙示録の21章を見ると、人間には二つの死があることがわかります。第一の死は肉体の死です。そして第二の死は、第一の死の後に、主イエスと出会ったにもかかわらず、慈愛に満ちたその招きを拒否し続けた者にやってくる死です。そういうことがヨハネの黙示録21章に記されています。ということは、信仰の告白に至らずに第一の死を経験しても、まだ、希望がある、ということなのです。
だから私たちは、とりなしの祈りを熱心に献げ続けることが大切なのだと思います。私たちは月一回、聖餐の恵みにあずかっています。私たちの主イエスの命にあずかっています。朽ちるべきこの体に、朽ちることのない命をいただいているのです。そのことを心に深く覚えつつ、いつか、この体は朽ち果てても、主イエスの命に包まれて天へと導かれ、また、いつかやってくるこの世の終わりの時には、枯れた骨に肉が付き、主イエスの霊を吹き込まれて、霊の体として、復活することを望み見ながら、今週も、ここからそれぞれのこの世の旅路に旅立っていきたいと思います。

礼拝説教要旨(9月1日)聖霊降臨節第13主日礼拝

「キリストの霊に満たされて」竹島 敏牧師
ローマの信徒への手紙8章18~30節


私たち一人一人の教会生活にはいろんな時期があったことと思います。喜びのときもあれば悲しみのときもありました。しかし、その私達一人一人それぞれの教会生活に、いつも主イエスはいてくださいました。しかし教会でも、忙しさのゆえに‥、さまざまな慌ただしさの中で私達の方からその主イエスを見ていなかったことがあったのかもしれません。言うまでもなく教会生活において最も大切なことは、主イエスと出会う、ということです。私たちは主イエスとあらたに出会い、主イエスの霊をいただくために、教会へ行くのです。何よりも、聖霊なる主イエスとの交わりをするために、教会へ行くのです。
忙しい毎日の生活のなかで、そしてもしかしたら、あわただしい教会生活の中で失ってしまったものがあるのかもしれません。だとしたら、その失ってしまったものはいったい何なのでしょうか。そのようなことを想いながら、自らをふりかえる静寂の時を持ちたいものだと思います。たとえば教会生活が「惰性」になり、いつのまにか喜びよりも、つかれることの方が多くなってきた、ということがもし起こっているとすれば、主イエスと出会って教会に通い始めた頃のことからひとつひとつ思い起してみることで、なぜ、そのようになってしまったのか‥、その理由のいくつかを発見することができるのかもしれません。そのためにも、自らをふりかえる静寂の時を持ち、そのような静寂の時をへてあらたに、主キリストの霊に満たされることをご一緒に求めてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(8月25日)聖霊降臨節第12主日礼拝

「まことの神」早川 真伝道師
テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節


テサロニケの信徒への手紙一は喜びの書簡ということができるでしょう。
一体どうしてテサロニケの信徒たちはこれほどまでに用いられ、全ての信徒たちの模範となるに至ったのでしょうか。
9節に偶像という言葉が出てきます。偶像というと、いかにも異教的な姿形のものを想像することが多いかと思いますが、必ずしもそうではなく、自分の願いや思い込みによって形作られた神、そのイメージもまた偶像であると、ユダヤ人やかつてのパウロの姿から思わされるのであります。
10節の後半には次のようにあります。「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」。この怒りとは神の怒りであり、来るべき怒りとは最後の審判を指すと考えられます。私たちは神の言葉の中で愛や恵みという言葉は好むけれど、怒りや裁きという言葉は好まないという場合があると思います。
しかし神は、御子イエス・キリストを死者の中から復活させ、来るべき神の怒りから私たちを救ってくださると今日の御言葉は告げています。全ての人が誰一人として逃れることのできないこの死から、神は、私たちを愛するがゆえに救ってくださるのであります。
私たちは今朝、2000年近い時を経て、テサロニケの信徒たちの生活を伝え聞きました。私たちもまた彼らを模範とし、偶像から離れて生けるまことの神に立ち返ることを求めたいと思います。そのまことの喜びによってのみ、主のことばは私たちの周囲に響き渡るからです。

礼拝説教要旨(8月18日)聖霊降臨節第11主日礼拝

「言葉と業によって」竹島 敏牧師
使徒言行録20章7~12節


パウロは伝道者である以前に、何よりも誠実な求道者であり続けました。パウロの生涯は、いくつかの病をその身に負い続け様々な痛みと弱さの中から、主イエスに救いを求め続けて歩んだ生涯であったと思います。実にパウロにとって伝道とはキリスト教のいわゆる教理や教義の伝達、といったようなことよりも、パウロ自身が様々な葛藤をへて身をもって味わい知った福音の豊かさを、あらゆる人々と共に分かち合うという営みであったのです。だからパウロは自分にとってキリストの福音とは何かということを常に具体的につきつめて考えていたに違いありません。
では私達にとって私達一人一人にとってキリストの福音とはいったい何でしょうか。私にとってキリストの福音とはこういうことですと具体的にはっきりと隣人に伝えるべきものを私たちはつかんでいるでしょうか。キリスト教のいわゆる一般的な教理や教義ではなく自らが身をもって味わい知った福音に立ち、言葉と業によってその福音に生き続けるということが大切なのではないでしょうか。
 その時私達にもまたきっとパウロとエウティコとの出会いの中で起こったような出来事が起こされるのだと思います。主イエスご自身の臨在と救いが与えられるのだと思います。そのようにして私達もまた「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」という告白に一歩一歩近づいていきたいと思います。そして隣人をなぐさめ癒す主イエスの器として共に用いられていきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月11日)聖霊降臨節第10主日礼拝

「苦しみのなかで」竹島 敏牧師
ペトロの手紙一 3章13〜22節

今朝の聖書の箇所は私たち一人一人の善を行って‥、正しいことを行って苦しむ姿が隣人をキリストへと導く証として用いられる、と語っています。これは、私たちにとって一つの大きな慰めとなる言葉なのではないでしょうか。悪を行ってひそやかな喜びにひたってもやがて苦しまねばならない時はくる‥、そして、善を行っても理解されずに苦しんだり悪の力の攻撃によって苦しめられたりするだろう‥、けれどもその苦しみは私たちの主イエスキリストの十字架上での苦しみにあずかる尊い苦しみにかえられるというのです。私たちが善を行って苦しむ時、その苦しみはそのような尊い苦しみに変えられ主イエスご自身の宣教の業として用いられるというのです。だから同じ苦しむなら、悪を行って苦しむのではなく善を行って苦しもうではないかと言われているのです。
私たちの主イエスが、十字架を担って苦しい道のりを歩み抜いたその道の向こうに復活の希望を見続けていたように、私たちも、この主と共に十字架を背負って一歩一歩歩むなら、苦しみのなかにも静かな喜びが与えられ新たな希望が見えてくるのでありましょう。今よりももっとすばらしいことが、少しずつではあっても具体的に見えてくるのでありましょう。私たちが正しいことのために苦しむ時、そこに必ず主イエスがきてくださり、共に十字架を背負ってくださるということを忘れずにいたいと思います。だから苦しむことをおそれつつも、そこから逃げずに、まっすぐに歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月4日)聖霊降臨節第9主日・平和聖日礼拝

『いのちの主』竹島 敏牧師
使徒言行録11章4~18節


私たちが生かされているこの世界にはさまざまな不正が満ち、神の正義がないがしろにされている現実が至るところにあります。政治を司る人達のなかにも企業を統率していく立場にある人達のなかにも私利私欲におぼれ信じがたいふるまいをする人がいます。しかしそのような日々においてこそ私たちは、私たちの想いや考えをはるかに超えて私たちに先立って働いておられる主の業を見出していきたいと思うのです。
今朝の使徒言行録の箇所をとおして私たちは、一番大切なのはまず自分の力を信じて一生懸命努力することなのでは必ずしもないということを教えられているのではないでしょうか。そうです私たちにとって一番大切なのは、まず自分の力を信じることなのではなく私たちに先立って働かれる主の業の存在を信じること、そしてその力を信じることです。そして次にその業を自らの日常の中に具体的に見出しその業に参与していくことです。そのようなプロセスのなかで私たちは、たとえ私たちを取り囲む状況がすぐには変わらないままであったとしても希望を持ち続けることができるのです。希望を持って歩み続けることができるのです。多くの人が希望を失い目標を見失って生きているこの時代のなかで、あなたたちは何よりもまず信じそして探し出しさらに参与するという道を進み続けよと、そこにこそ与えられた命を生き生きと輝かせて生きる道があると、そのように私たちは今朝、「いのちの主」であるイエスご自身から語りかけられているのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(7月28日)聖霊降臨節第8主日礼拝

「キリストの律法」早川 真伝道師
ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節

今日の箇所はパウロの教会論ともいうべき、教会生活のあるべき姿について記されています。この個所の中心は、キリストの律法、つまり互いに重荷を担い合い、愛し合う生活への招きです。本来律法は人間が神を愛し、隣人を愛するためのものでした。しかし人間はキリストによる義を得ていなかったため、律法を神と人との間に義を得る手段として利用しようとしたのです。しかし、神の教えである律法を完全に守ることは不可能です。律法主義者たちは見せかけの行いによって自分を正しいものと見せるしかなかったのです。
キリストの義に与ったものは、自分を誇ることはできません。誇るなら、義を与えてくださった主を誇るのです。そして、その場合にだけ、私たちにとって律法は喜びとなるのでしょう。なぜなら、それは命に至る道、愛し合う道を私たちに教えるものだからであり、たとえそれを守れなかったとしても、キリストのゆえに与えられた義が失われることはないからです。
キリストの律法とは愛の律法であり、キリストご自身が成し遂げてくださった律法です。聖霊の導きによって私たちが歩む時、聖霊はキリストの律法を成し遂げ私たちを互いに愛し合う関係へと導きます。この聖霊の導きの中で、私たちは神の御心を知り、また、そのために働く力をも時に応じて与えられるのです。私たちは目に見えるものを誇るのではなく、ただ主を誇り、神の賜物によって歩み、霊の実を豊かに刈り取ることができる共同体へと導かれていきたいと思います。

礼拝説教要旨(7月21日)聖霊降臨節第7主日・愛星幼稚園創立100周年記念礼拝

「星のようにかがやいて」竹島 敏牧師
フィリピの信徒への手紙2章12〜18節

 今朝、ここに集められている私たち一人ひとりは、皆、イエスさまによって呼び集められている仲間です。スーザンバンファインド宣教師をとおしてイエスさまが立てられたこの幼稚園に集められ、イエスさまの愛を星のように輝かせて、自分を愛するように隣人を愛しなさいと、そのように神の国をめざして歩む人になり幸せに生きていきなさいと、呼びかけられているのです。
 今日は、その愛星の仲間たちが、たくさん集まってくださいました。このことを、それぞれのところに散らされそこで星のような輝きを放っていた人たちが皆、こうして自分たちの故郷であるところにもどってきて自分自身のこれまでの歩みを振り返り、またこれからの歩みを展望する時が与えられた出来事として、受けとめることができるのではないでしょうか。 
 これから、また、100年がたってその時、愛星幼稚園はこの地にあってその業を続けていられるかどうかそれはわかりません。もちろん続けていくという志を持ち続けなければいけませんけれどもしかし、それが一番の使命なのではないと思っています。一番の使命は、この地にあって神さまから託された愛星幼稚園の特色、すなわちこの幼稚園のいのちを手放さず最後まで持ち続ける、ということです。どんなことがあっても手放さず最後まで持ち続けるということです。それが私達の一番の使命であり、そこに全力を注ぐことがこの幼稚園の未来を切り開くことになるのではないかとも思っています。

礼拝説教要旨(7月14日)聖霊降臨節第6主日礼拝

「主は捜し出し、救う」
ルカ19:1-10、23:39-43
中野 実牧師

 主イエスの神の国宣教は、神を無視して歩んできた私たちを神の大切な子供として取り戻す働きである。そのために主イエスはエルサレムへ向かって旅を始められた。その旅の終盤において起こった興味深い出来事がザアカイの回心である。主イエスがエリコに来られた時、ザアカイは好奇心から評判の人イエスを見たいと思った。しかしザアカイと主イエスとの出会いは、単なる偶然ではなかった。主イエスはザアカイに言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まらなければならない」。「ねばならない」。ザアカイとの出会いは、神のご計画の中で準備されていた出来事なのである。この日、主イエスは、神のご計画に従ってザアカイと出会い、彼の家に泊まり、大切な神の子として彼を取り戻した。
 しかし物語はさらに続く。人々は皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿を取った」。神の御心を喜べない人々がいる。神の御業は常に新しい。その新しさについていけない人間の罪がある。それ故、主イエスの旅は終わらない。主イエスは十字架という場所へ赴く。そしてそこで主イエスは神に立ち帰る道を私たちのために切り開く。ルカ23:39-43によれば、二人の犯罪人が主イエスと共に十字架につけられる。主イエスは犯罪人の一人にこう約束する。「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」。この犯罪人にとって十字架という最悪の場所はパラダイスに変貌し始めた。最悪の場所においても主イエスは神へと立ち帰る道を切り開いてくださる。そのような恵みに気づかされる場所が私たちの教会であり、日曜日ごとの礼拝である。

礼拝説教要旨(7月7日)聖霊降臨節第5主日礼拝

『霊の導きによって』
使徒言行録8章26-38節
竹島 敏牧師

今朝、私達に与えられましたこの使徒言行録の箇所にはフィリポとエチオピアの高官との出会いの物語が記されています。このエチオピア人の高官の物語は私達にいろんなことを教えてくれます。まず聖書の言葉の中に答えを見出そうと熱心に求めること、そのように求め続けるところに主イエスの霊は導きの御手をたずさえて来てくださるのだと思います。そして新たな出会いを与えてくださりさらに主イエスの神の国へと御導きくださるのです。私達が抱えている様々な問題・課題はその御導きに従っていくなかで解決の方向へと向かっていくのだということがこの物語によって示されています。
私達の主イエスは「まず神の国と神の義を求めよ」とおっしゃいました。そこで言われていることは私達自身のまた私達の家族の様々な問題・課題など小さなことでどうでもいいということなのではなくそのような問題・課題と、「神の国と神の義」がないがしろにされていることには密接なつながりがあるということでした。だからまず神の国と神の義を求めていくことが必要なのだと主イエスは言われたにちがいないのです。
私達自身のまた私達の家族の様々な問題・課題に悩みつつ日々を送っている私達でありますが「まず神の国と神の義を求めよ」と言われたこの主の言葉を心に抱きつつそれぞれのところに遣わされていきたいと思います。そして私達にもまたきっと新たな善き出会いが主の霊の導きによって与えられることを信じてこのエチオピア人の高官のように再び熱心に求め始めてみたいと思うのです。

礼拝説教要旨(6月30日)聖霊降臨節第4主日礼拝

『救われるべき名』使徒言行録4章5-12節
早川 真伝道師

救い、という言葉はキリスト教に限らず世の中に溢れています。多くの宗教が救いを求め、救いに至る道を提唱しています。また世間にも救いという言葉は頻繁に用いられ、私にとっての救いは…などとしばしば語られます。
しかし、今朝の御言葉はそのような思いと真っ向から対立し、私たちを救い得るのはただ一つ、イエス・キリストの名の他にはないと語ります。ペトロははっきりと、イエスを十字架にかけて殺したのは他でもない、あなたがただと語ります。このような大胆なことをペトロが語り得たのは、8節にあるように、聖霊に満たされていたゆえでありましょう。聖霊はペトロに真理を示し、またそれを語る力をも与えたに違いありません。
ペトロは、私たちが救われるのはイエス・キリストの名によるということを繰り返し語っています。イエスとはヘブライ語のヨシュアからきた名前であり、その意味は「神は救う」という意味です。飢えている人にとってパンが与えられたなら、それは救いです。しかし、忘れてはならないのはそのパンを与え救ってくださったのは神であるということです。
神は、罪のゆえに神に背を向け神との関係を自ら破壊した人間に対して、イエス・キリストを通して再び交わりを持とうとしてくださっています。イエス・キリストを通して私たちは、聖霊を与えられ、聖霊の導きによって、互いに愛し合う神の家へと造り上げられていくのです。私たちもまた、聖霊に満たされて、イエス・キリストの名による他に救いはないと、大胆に告白するものとされていきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月23日)聖霊降臨節第3主日礼拝

「悔い改めの恵み」竹島 敏牧師
 使徒言行録2章37〜47節

 今朝の聖書の御言葉は、悔い改めが恵みである、ということを私たちに確信を持って伝えようとしています。それが、まことに主の業である限り、たとえ破れても、また意味のない徒労に見えるようなことがあっても、それは神の目から見れば、たんなる破れではなく、また意味のない徒労ではないのです。たとえ見た目にはどんなに悲惨な状況であったとしてもそこには、光り輝く希望の断片を形成するという神の業がある‥、だから私たちは光り輝く希望の断片を形成するという小さな種まきのような行いをこつこつと続けていくのです。それぞれに与えられた場で、私達がまく小さな種を何十倍、何百倍にも大きく育ててくださる神の力と導きを信じてこの邪悪な時代の風になおあらがいながら、私たちは歩んでいくのです。 
 だから私達にとって悔い改めは恵みです。悔い改めることによってこそ私たちは胸の奥にしまいこんでしまっていた自らの志をもう一度取り出し、生き生きと生きる道を再び歩み始めることができるのです。「やってもむだだ」「どうせ何も変わるはずがない」という私達の消極的な思いを主は打ち消してくださり「あなたは一人ではない」「私が共にいる」と声をかけてくださいます。うまくいかなくても、失敗してもやったことは確実に主が見ていてくださり、私達の想いをはるかにこえて用いてくださるに違いありません。この悔い改めの恵みを信じてもう一度それぞれの場で自分にできる小さな業の積み重ねをこつこつと始めていきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月16日)聖霊降臨節第2主日礼拝

「命に至る道」竹島 敏牧師
 使徒言行録2章22〜36節

 今日の36節の「人々が十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさった」というこの言葉は信仰告白の言葉であり、この36節の信仰告白をくりかえすことは初代教会の人達にとって自らの感じ方や考え方を点検し、場合によっては逆転させて神の御心に立ち帰るよい機会となっていたのではないでしょうか。
 本来、信仰告白とはそのような営みなのだと思います。ただ決められた告白の言葉を口にすることで自らの信仰を告白したつもりになるのではなく、その言葉通りには生きていない自らの姿をじっくりと見つめ修正しようとすることを含んでいるはずなのです。ペンテコステに、この私たちの間にも豊かにくだった聖霊はこの告白を実際に生きるようにと私たちを導いてくださるのです。
 やがては死ぬべきこのからだを墓からよみがえらせてくださる方の霊の導きは私たちが実現不可能と思っていたことを可能にする、その方向に向かって私達一人一人の背中を押してくださるのです。私達の主はこの世界の最も悲惨な場所に立てられた十字架の上からなお愛のまなざしで私達を見つめ私達それぞれの持ち場において本当は何をなすべきかを促してくださるのです。だから私達はこの世の価値観になお振り回されストレスをためこみつつも聖書の言葉を通して働かれる聖霊の導きを待ち望み本当の希望を取り戻しつつ命に至る道をすすんでいくことができるのです。今朝、私達はこのことをご一緒に確認しつつさらに命に至る道へと、また新たな一歩をふみだしていきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月9日)聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ・こどもの日・花の日礼拝

「いのちの風」竹島 敏牧師
 使徒言行録2章1ー11節

 今日は聖霊降臨日、ペンテコステです。心をひとつにして弟子達が祈っていたところに聖霊が降り、教会が生まれ、新しい宣教の第一歩が始められたことを想い起こす日、また、その同じ聖霊を豊かに頂く日です。まずは、かつて弟子達がそうしたように主の約束を思い起こしたいと思います。主は、この小石川白山教会にまた私達一人一人それぞれに、どのような約束をお与えになっておられるのでしょうか。かつて主が語ってくださった様々な御言葉を思いめぐらしながら祈り、そして、その約束の成就を信じて待つ者でありたいと思います。 
 使徒言行録の2章の43節以下を見ると、信じる仲間が次々と与えられて信者たちは、いっさいの物を共有し資産や持ち物を売っては必要に応じてみんなの者に分け与えていた、ということが記されています。聖霊を注がれた信者たちはイエスがされていたことを明確に思い起こし、自分たちもまた貧しい人たちや様々な虐げの中にあって苦しむ人々と共に生きよう、という志を与えられてこのような実践をしたのでしょう。ですから現代のわたしたちにも聖霊が豊かに注がれる時、そのような神の国への希望に満ちた歩みが約束されるのでありましょう。その時には私達一人一人にとっての「いのちの風」である聖霊御自身が、その約束の成就のために、私達に先だって働かれることを信じたいと思います。そして素直に、その働きに身をゆだね、また、仕える者として新しい一歩を踏み出していきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(6月2日)復活節第7主日礼拝

「世の終わりまで」竹島 敏牧師
マタイによる福音書28:16〜20

 今朝のマタイによる福音書には「しかし、疑う者もいた‥、」と記されています。「疑う者もいた‥、」11人の弟子たちのうち、いったい何人くらいが主の復活を疑ったのでしょうか。一人や二人ではなかったような気がします。もしかしたら、半数以上の者が疑ったのかもしれないし、また、この時は疑わなくてもこの後で、あれは本当に主イエスだったのか‥、と疑った者もいたかもしれません。そのように考えるならば、何らかの形で、ほとんどすべての者が疑ったと言ってよいのではないでしょうか。
そしておそらく私たちもまた、この地上で生きている限り数限りない疑いと迷いに取り囲まれて過ごすのでしょう。実に復活の主イエスに出会い、ひれ伏しつつも疑う弟子たちの姿は、そのまま、私たち一人一人の姿なのです。しかし、そのような疑い迷う者たちと、終わりの時まで‥、神の国が完成するその時まで‥、主はいつも、共にいると約束してくださいました。疑い迷う私たち人間の姿を、主は、自然な姿だ、と受けとめてくださるのです。だから私たちは、恥じることなく疑い迷いながら、歩んでいくことを‥、時には、ただただ、たたずんでいることを許されているのです。そこにこそ、神に造られた被造物としての限界のなかで、せいいっぱい誠実に、ひたむきに応えていこうとする美しさが輝くのです。 
 疑い迷う私たちの弱さを主は祝福し、用いてくださることを信じて、ありのままの姿で仕えていきたい‥、その姿をもって証し続けていきたいと思います。

礼拝説教要旨(5月26日)復活節第6主日礼拝

「お言葉をください」早川 真伝道師
ルカによる福音書7章1〜10節

 ここに出てくる百人隊長は、イエス様に驚かれるほどの信仰を持っていました。この記事には、確かにこれこそ信仰であると思わずにいられない説得力があります。それは百人隊長が、自分のしもべがいやされるためにはイエス様のひと言で十分であるという神への絶対的な信頼を表しているからでありましょう。
例えば何かを人に頼む時、「ああは言っているけど、どうせやらないだろう。」そのように思うことがあります。やるといったことをやらなかった、そのような経験が積み重なって人間関係は破綻していきます。また、電話における詐欺、オレオレ詐欺なども言葉を使った詐欺であって、自分の利益のために相手を利用する手段として言葉が用いられています。そのような中で私たちは言葉というものに対する信頼を失っていくのではないでしょうか。
百人隊長の信仰にイエス様が驚かれた理由は、彼の言葉に対する信頼、自分の部下がいやされるためには権威ある者のたったひと言で良いとの絶対的な信頼にあったのではないかと思わされます。そのような信頼があったからこそ彼は最も速やかに自分の部下をいやしていただくことができたのでしょう。
礼拝において、また聖書を通して私たちは大胆に神に近づき神の言葉を聞くことができる幸いが与えられています。願わくは、私たちはこの百人隊長のように神のひと言によって死から命へと移される、その神の権威を信じる者とされたいと思います。そして、そのような期待と信仰とをもって御言葉に与る一人一人でありたいと思います。

礼拝説教要旨(5月19日)復活節第5主日礼拝

「主の任命」竹島 敏牧師
ヨハネによる福音書15章12〜17節

 今日のこのヨハネ福音書の箇所を読む時、イエスはここで、まるで母親のような愛で、ひたすら待つ覚悟を決めているのではないだろうかと私は感じます。「互いに愛し合いなさい」つまり「互いに大切にしあいなさい」、それが「わたしの命令である」と命じつつも、なかなか命じたとおりにはできないだろうことをお見通しの上で主は、「友よ」と呼び続け、慰め、励ましつつ、できるようになるまでひたすら待ち続ける覚悟を決めておられるように感じるのです。実に私たちは、そのような方に見守られているのだと思うのです。すれ違いの愛や一方通行の愛に満ちているこの世界の中で私たちは今朝、あらためて、アガペーの愛‥、すなわち互いにその人をその人として大切にしあう道へと招かれ、導かれようとしているのです。互いにその人をその人として大切にする‥、このアガペーがまことに実現しない限り、この世界から憎しみや争いはなくならないのだということを覚えておきたいと思います。
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と、今日ここに集められた私達一人一人にも語りかけてくださっている主イエスに信頼して、まことに人を愛せる者へとさらに一歩一歩、成長していきたいと思います。

礼拝説教要旨(5月12日)復活節第4主日礼拝

「終わりの日の復活」竹島 敏牧師
 ヨハネによる福音書6章34〜40節

 私たちは皆、ある意味、パンを得るためにあくせく働いて生きています。けれども今朝の聖書の箇所の最後に記されている「終わりの日の復活」はそのように生きざるをえない私たちにとって本当に大きな福音なのではないでしょうか。それはパンを得るために生き、自分らしく生きることを阻害されて、ボロボロになった私たちもまた終わりの日には完全なかたちで自分らしさを取り戻し、生き生きと復活するという約束なのではないでしょうか。だからその時に向けて今、ここからもう一度立ち上がっていきなさいという促しが与えられているのではないでしょうか。
 「終わりの日の復活」、それは実に失われた自分自身が完全に回復される時です。まず腹を満たすパンを得るためにではなく、まことの命のパンである主イエスの言葉を何よりも大切にしその言葉を生きはじめるなら失われた自分自身が完全に回復される時に向けて私達は歩み出したのです。そして絶望に向かってではなく希望に向かって一歩一歩歩み始めた自らの姿を再び見出せるようになるのではないでしょうか。
 不可能であるとしか思えないような状況においてこそ主イエスは私達一人一人の「命のパン」として、勇気を出して立ち上がる原動力になってくださいます。腹を満たすパンの問題に悩み苦しみ続ける私達でありますがあえてそこからいったん目を離してまことの「命のパン」である主イエスの言葉に目を注ぐ時、根源的な解決に向けて事態は動き出すのだということをいつも覚えていたいと思うのです。

礼拝説教要旨(5月5日)復活節第3主日礼拝 

ルカによる福音書24章36〜49節
「聖霊に満たされて」竹島 敏牧師

 今日の聖書の箇所には、復活された主ご自身と再び出会って力強い言葉をかけられ、喜びに満たされた弟子たちの姿がえがかれています。この主との再会によって弟子たちはこれから自分たちによって始まろうとしている世界宣教は、他者を力強く生かす復活者イエスの命によってなされるのだということをはっきりと悟ったことでありましょう。そしてそのためにまず自分たち自身が、復活者イエスの命に生かされ、動かされていなければならないということをはっきりと悟ったのでありましょう。
そのような悟りを得た弟子達に復活者イエスは49節以下において、次のように語られました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。この父が約束されたもの、高い所からの力とは復活者イエスの霊・聖霊のことです。その聖霊の力に覆われるまでは都にとどまっていなさいというのです。約束された聖霊の力を豊かにいただくまでは決して勝手に動いてはならない、活動を開始してはならないというのです。それまでは準備の期間として都にとどまっていなさいと弟子達は命じられたのです。
 復活の証人・復活者イエスの証人となるためにはまず何よりも、主イエスの復活の命をこの身におびる必要がある、その霊に覆われる必要があるということなのだと思います。そのように復活者の霊に包まれその霊を身におびた時、初めて復活者イエスの宣教の業に十分に正しく仕える者とされていくのだということを覚えておきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月28日)復活節第2主日礼拝

ルカによる福音書24章28~35節
「心は燃えていた」竹島 敏牧師

 今日の聖書箇所が私たちに伝えようとしているのは私たちが肉体を伴った復活者イエスと出会い認識することができたとしても、それはほんの一瞬でしかないのだということです。つまり主の復活において何よりも一番大切なことは聖霊・イエスの霊によって「心が燃える」ような内面的な深いところでの復活体験をしたかどうか、しているのかどうかなのだということです。そのことを今日の聖書箇所における弟子達の体験は私たちに指し示し、また促しているのではないかと思うのです。
 かつて弟子達は信仰に燃え、彼らなりの信仰理解にもとづいて希望を抱きつつはげんでいました。しかしイエスの十字架の死という出来事によってその希望は木っ端みじんに打ち砕かれてしまいました。彼らが信じていた事柄は全て失われてしまいました。しかし、そのような深い喪失感の内に漂っていた時、再び聖書にもとづいてその真理を深く説き明かし信仰を与え、ふるい立たせてくださる方と出会ったのです。
 どんな状態にある時も、私たちが主に心を開き続け主の霊を求め続けるならば、かつてエマオ途上において二人の弟子達に起こった復活体験は今日の教会においても、今日の私達においても豊かに起こされるのです。主イエスの霊によって起こされる復活体験はそのような奇跡なのであり、そこからあらたな希望がうみだされていくのだという事を今朝私達は、再びご一緒に確認しておきたいと思います。そしてその静かな喜びに満たされて与えられているそれぞれの課題になお向き合っていきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月21日)復活節第1主日・イースター礼拝

ルカによる福音書24章1~12節
「主の復活」竹島敏牧師

今朝与えられましたルカによる福音書に登場してきた人たちは、みんな空の墓に気が動転し、主イエスの復活の約束などすっかり忘れてしまっていました。また、その約束を思い出してもなお、それを信じることができませんでした。婦人達は、イエスの直弟子たちにその事を伝えることによって、もしかしたら正しい判断を仰ぎたかったのかもしれません。しかし11節にありますように、弟子達はその話を「たわ言のように」聞くことしかできませんでした。このように、今日のこの箇所に記されているのは本当に情けない、弟子達の様子でしかないのです。
 この時、復活された主は、どのような想いでおられたのでしょうか。しかしその後の箇所を読んでいくと、そのような弟子達のために、復活の主ご自身の方から出会ってくださり、なおも気づかないでいる鈍感な弟子達に様々な言葉とふるまいを通して気づかせてくださる、ということが記されています。
 私達もまた、この現代社会のなかで主イエスを感じる信仰的感性が鈍らされていることを想います。当時の弟子達のように主イエスを見失い、自分自身をも見失いがちであることを想います。しかしどんな時も、洗礼によって私達の中に与えられた恵みに心の目を向けさえすれば、私達は永遠に導かれていくのです。イエスキリストに近い者、似た者とされていくのです。この真理を今一度、ご一緒に深くかみしめたいと思います。この大いなる恵みに静かに目を向ける者に、今日、復活された主イエスは出会ってくださるのです。

礼拝説教要旨(4月14日) 受難節第6・棕櫚の主日礼拝

『十字架の希望』
ルカによる福音書22章39-53節
     竹島敏牧師

 今日から受難週に入りました。実に主イエスはすべての望みが断たれ思わず「なぜ見捨てたのか」と神に向かって叫びながらも最後には、神に自分の全てをおゆだねになったということなのだと思います。つまり具体的には何の望みもない中でなお、神にゆだねきることで希望を見ていたということなのだと思います。
 受難週のこの時、私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何でしょうか。それは、すべてを失ってもなお向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。絶望の中で枯れるほど涙を流しながらなお向こうから一方的にさしてくる光、これが十字架の希望です。イエスはおそらく、ユダやその他の弟子達にも捨てられ神にさえ捨てられたと感じてもなお、十字架の上でこの光を見続けていたにちがいありません。この光に照らされていたからこそ「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつも最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と告白したにちがいないのです。そして十字架の向こうから射してくるこの光を主はユダの裏切りによって逮捕されていくこの時すでにしっかりと見つめていたからこそ憐れみのまなざしをもってなおユダを見つめ、またこれから次々と自分を裏切っていく弟子達をなお守り抜くことがおできになったのではないでしょうか。
 私達の救い主・受難と復活の主イエスがすでにこの時から見続けていた光を私達も見つめつつこの受難週を歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(4月7日)受難節第四主日礼拝

ルカによる福音書9章18~27節
「隅の親石」竹島敏牧師

 今朝、私たちに与えられましたのは「ぶどう園と農夫」のたとえですが、ここに出てきた農夫たちのなかには、跡取りを殺すことについては本当は反対だった、という人が何人かはいたのではないか、と思います。そんな事やめようと本当は言いたかったけれども、こわくて言い出せなかったという人がいたのではないかと思うのです。実に私達の多くは、積極的にまた意識的に罪をおかすというよりも、しらずしらずのうちに罪を黙認することになっていたり罪に荷担することになっていたりするのではないでしょうか。
 けれども全ての事を片隅から見つめ見守り続けておられる…、その方のまなざしを感じ取ることができたなら私達はそのまなざしに促されて、この世の価値観やそれぞれの場の雰囲気に流され続けるところから解き放たれていくのではないでしょうか。それは確かに本当にささいな小さなことなのかもしれません。しかしそこから何かが変わってくる、ということがあるのではないでしょうか。
 この世界の隅の親石である私達の主は、今朝もこの世界の片隅から私達の生きる世界全体を見つめ続けておられるのだということを思います。理不尽な苦しみに満ちたこの世界を、主は涙を流しつつ憐れみと慈しみのまなざしをもって見つめておられ、そして今までとはちがう新しいあり方、生き方を、私たち全ての者に促し続けておられるのではないかと思います。そのまなざしを深く深く感じながら、受難節、このレントの時を歩み行きたいものだと思います。