礼拝説教要旨(11月4日)降誕前第8主日礼拝説教要旨

ルカによる福音書11章33〜41節
「心のともし火」竹島 敏 牧師

 私達の世には、私達の内側に与えられているともし火よりも、もっと強く見える光、荘厳に見える光、高価に見える光が確かに存在しています。そしてその光が、私達を強く引きつける時もあるのでしょう。
 けれどもどんなに引きつけられようとも、私達はこのことを知っておかなければなりません。どんなに強く、魅惑的な光も、一時的なものであり永遠に続くものではないのだ、と。
 私達がイエスをキリストと信じる告白をした時に、私達一人一人の内側にともされたともし火…、一見、弱く、はかなく、小さいこのともし火こそ、決して消えることなく永遠にともり続ける命の光なのです。
 だから今朝、私達は、どんな時も、この自分の内側に、イエスキリストというともし火が、ともっているということを…、そして、この心のともし火は、時に消え入りそうになっても、決して消えず、永遠にこの私を照らし続けてくださるのだ、ということを、覚えておきたいと思います。
 様々な困難が、次々と迫ってくる私たちの日々において、何よりも私たちは、まず、私たち一人一人の一番深いところにすでに与えられている、この、ともし火に、目をとめ、見つめ、そこから、永遠の命に至る力と導きをいただきたいものだと思います。そしていつか、この世の生涯を走り終え、天に召されるその時まで、このともし火に照らされて、このともし火のようなあたたかさを私達自身が放ち、この闇の世に、主イエスのぬくもりをせいいっぱい証していきたいと思います。

礼拝説教要旨(10月28日)聖霊降臨節第24主日礼拝

ルカによる福音書15:11―32
「親子」
岩本 伝道師

弟息子は、父親の元から離れようと決意し貰うべき財産を早々と手中に収め、さっさと家を出て、独り立ちしようと出てゆく、その小見出しのように放蕩三昧をした次男はすぐに失敗しました。さらにその地方一帯に大きい飢饉が起きた。彼は何とか、その地方に住むある人に身を寄せたところ、その人は次男に豚の世話をさせ、餌のいなご豆を食べて、飢えを何とか凌ぐ・・・そこまで落ちたということです。
17節、「そこで、彼は我に返って言った。」
自分の父親のことを思い出したのでした。これはこの次男が心入れ替えた瞬間でした。父親、神に対して自分はなんて悪いことをしていたのだと。父の元へと帰ろう。
18節「『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』」
「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」
父親は無条件で赦す、天の父である神の大いなる赦しの愛です。ここには、一人の罪人が悔い改めて帰還してくるとき、どれほどの大きな喜びが天の父親、すなわち神様が持たれるのかということを示しているわけです。
しかし、この様子を見て憤慨する兄がいた。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。』と兄・長男が父親に不満を露わにする。
「すると父親は言った『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」この御言葉こそが天の神様の愛の心のなのです。
次男・弟息子のように放蕩三昧に身を持ち崩した人たちも、また優等生かつ模範的であった長男兄のように律法主義的な生き方をしている人たちも共に愛しているということ。神様にとって二人とも、我が子であり、親子なんだよと。
私たちもその名のとおり兄弟姉妹であって、私たちは天のお父様と自然にお祈りできます。これは驚くべきことです。なぜでしょうか神様と私たちは親子の関係性であるからなのです。

礼拝説教要旨(10月21日)聖霊降臨節第23主日・神学校日・伝道献身者奨励日礼拝

「神の守りのしるし」

ヨハネの黙示録7章1〜12節
 竹島 敏 牧師

 今日のこのヨハネの黙示録には神の刻印、すなわち洗礼にあずかるべく招かれている者全てに洗礼がさずけられるその時までこの世界の決定的な破滅から天使達が守ってくれるという福音がしめされています。今日の7章以下の箇所において神の僕たち全てに神の刻印が押されてしまうまでは世界の決定的破滅は延期され、またどんな時も神の刻印が神の僕たちを守るということが明らかにされています。
 ひるがえって私達が今、生かされているこの時代も、ヨハネの黙示録の時代のような終末的な状況であるとよく言われます。まるでこの世の終わりを予感させるような出来事や事件が日々起こり、希望を見出すことがむずかしい時代だと。
 今、私達の身近にこの黙示録が書かれた頃のような迫害はないかもしれません。しかし息がつまるような閉塞したこの時代のなかでキリスト者として生きようとする時、いろんな壁にぶつかったりいろんな抵抗にあったりすることがあるのではないでしょうか。自らの無力さに打ちひしがれたり絶望しそうになったりすることも多くあるかもしれません。
 しかしそんな時こそ、今日の黙示録の箇所に示されていたように、私達の思い煩いをはるかに超えて、神の刻印が私達にも押されており、それが、救いの保証となっていることを再び想い起こしたいと思うのです。神の刻印を身に押された者として、主の霊・聖霊を豊かにいただき、主の見守りと導きのうちに生涯を歩んでいく幸いを、証しあう私達でありたいと思います。

礼拝説教要旨(10月14日)聖霊降臨節第22日礼拝

礼拝説教要旨(10月7日)聖霊降臨節第21主日礼拝

「求めるべきもの」               
ルカによる福音書12章22〜31節
竹島敏牧師

 今朝の御言葉は、「命のことで何を食べようか」、「体のことで何を着ようか」と思い悩む私たちに対する勧告の言葉です。ですが、そのことがいけないと言われているわけではなく問題は、誰の命のことで、何を食べようかと悩むのか‥、また、誰の体のことで、何を着ようかと悩むのか‥、ということなのではないでしょうか。つまり、自分のためだけに生きようとするのか、それとも、自分以外のあらゆる人とも連帯して生きようとするのか‥、という問いかけがなされているわけです。「自分以外のあらゆる人とも連帯して生きようという志をもとう」。それこそイエスが最もおっしゃりたかったことなのではないでしょうか。
 自分のことだけでせいいっぱい‥、と感じることの多い私たちの日々であるかもしれませんが、本来私たち、人は、自分以外の誰かとのつながりの中でしか、自分の存在意義を感じることができないように神によって造られているのです。だから、一人は、自分以外の他の一人のために何かをする使命を常に神から託されている、と言えるのだと思います。その使命を見出し、果たすところにこそ、生きていく充実が与えられるのではないでしょうか。
 どんなに財をなしても、死の時を自由に自分で延期させたりすることはできません。いつか、必ずやってくる死…、それまで、託された命を、ゆだねられた命を、あなたはどう生きるのか、どう使うのか、と、今朝、私達一人一人が、主から改めて問われているのだと思います。

礼拝説教要旨(9月30日)聖霊降臨節第20主日礼拝

ヘブライ人への手紙6章4〜12節
「最後まで希望を持つ」竹島 敏 牧師

 今朝、私達に与えられましたこのヘブライ人への手紙の4節から12節までは、その前半の8節までにおいては非常に厳しい勧告の言葉が連ねられているのですが、後半の9節以降は、救いについて、人々に望みを与えるような内容になっています。注目すべきは後半の9節以降ですが11節において著者は「あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」と語っています。
 「最後まで希望を持ち続ける」、希望をもって生きることが本当に困難な今の時代ですがしかし、主イエスから与えられる希望は決して尽きることはない、と覚えておきたいと思います。それは、自分は主から約束されたものを完全に受け継ぐことはできなくても、自分の後に続く人達が受け継ぐにちがいない、という希望です。そのようにして主が約束されたものは受け継がれていき、やがて成就した時初めて、その主が約束されたものを少しずつ受け継いだ全ての人々の上に喜びが満ちるのです。天において、また、地において、そのような喜びが満ちるのです。
 私達キリスト者が受け継ぐ約束されたものとは、そのようなものであるということを今朝、再び、覚えておきたいと思います。そして主イエスが私達の共同体に、また私達一人一人に、どのような約束を新たにお与えになろうとしているのか、敏感に信仰的感性をもって感じ取っていきたいと思うのです。そしてはるかに望み見ながら、その約束に仕えていきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(9月23日)聖霊降臨節第19主日礼拝説教

コロサイの信徒への手紙1:21—29
「キリストの苦しみにつながって」竹島敏牧師

 今朝私たちに与えられましたコロサイの信徒への手紙の24節以下においてパウロは「今やコロサイの信徒たちのために苦しむことが喜びとなった」と告げています。そして「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしている」と述べています。
 しかしながらこの、「キリストの苦しみにあずかる」ということは、ただたんに耐えてがまんして苦しむ、ということを指しているのではないはずです。今朝のコロサイの信徒への手紙の最後の29節においてパウロは「このためにわたしは労苦しており、わたしの内に力強く働くキリストの力によって闘っています」とありますから大きな苦しみを共に背負い連帯しつつ、主イエスは闘われるのです。まことの正義と平和実現のために神の国めざして、わたしたちの内にあって闘ってくださるのです。そのように闘いつつ苦しみ、苦しみつつ闘ってくださるというのです。
 主イエスが望まれた神の国、まことの正義が打ち立てられ、まことの平和が実現する神の国を地にもたらすためにはイエスをキリストとして崇める礼拝がきちんと行われ、そして礼拝において示されたキリストの教えが日々実践されていかねばなりません。そのための苦しみであるならば私は喜んで苦しもう、とパウロが言い切ったその姿勢を見つめて私たちもまた私たちが日々味わう様々な苦しみの背後に、より大きな苦しみを背負って立っておられる主イエスの姿を認め、この御方の苦しみにつながって歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(9月16日)聖霊降臨節第18主日礼拝説教

礼拝説教要旨(9月9日)聖霊降臨節第17主日礼拝説教

エレミヤ書36:27―32
マタイによる福音書24:15−35
「不滅の御言葉」
岩本 幸太郎伝道師

まず新約マタイ書の箇所では主イエスが、やがてくる大きな苦難の預言です。でもあなたたちは信じてはならないと説かれる。マタイ書24章35節にて、
「わたしの言葉は決して滅びない」
と主は約束してくださる。主イエスの発せられた御言葉は永遠に不滅であるのです。はじめに言(ことば)があった。神は最初、創世記の発っせられた御言葉は「光あれ」。その光がイエス・キリスト。
地上は深淵の上、闇であって、混沌を極めていて、そこにまことなる光が来られる。その光は私たちの中にもありがたいことに生きていて下さっています。その光を内にしまいこむのではなく、これからの私たちは現してゆくのです。これこそ、私たちの生きがいとなるでしょう。
ところで今日は旧約聖書の預言者エレミヤの御言葉に耳を寄せました。
この箇所にもやがてくる、大きな苦難の
預言の書かれた巻物を当時の南ユダの王は気に入らずに燃やしてしまう。
この巻物の大まかな意味は、当時、神様が新大国バビロンを用いて罪深いユダ王国を罰するといった預言・警告が書かれていたのです。預言者エレミヤはこのバビロン軍の侵略から聖書の民・南ユダ王国を守るために、王ヨヤキムにバビロン帝国に捧げもの、贈り物をし手を結び合いなさいと勧めますが、ヨヤキム王は御言葉を聞き入れません。
神は、かつて創世記1:1−3において天地を創造されるが、そのままでは混沌と闇だけの状態です。だから何かこう、“良し!”と呼びたいことだったでしょう。それは何?私たちにも必要な賜物です。それは神の栄光・「光あれ」です。そう、イエス・キリストです。
聖書は、私たちのために与えられた、なおも生きておられる真実なる御言葉なのです。神様は世をお創り、光をくださった方です。その愛を貫くためにも、たとえ世の中に大きな苦難が及ぼうとも我らにも乗り越える道を与えて下さります。
「わたしの言葉は決して滅びない。」そのとおり永遠不滅の御言葉なのです。

礼拝説教要旨(9月2日)聖霊降臨節第16主日礼拝

ガラテヤの信徒への手紙1章1〜10節
「僕として立つ」竹島敏牧師

 このガラテヤ書においてパウロは再三、大切なのは律法ではなく福音だということを強調しています。このようなパウロの主張に耳を傾ける時、現代の私たちの教会・教団もまた問われているような気がいたします。あなたたちの教会・教団はイエス・キリストの福音をどのように宣べ伝えてきたのか、またこれから宣べ伝えていくのか‥と。
 言うまでもなく私たちも教会も、この世に立っている限りこの世の影響を受けざるをえません。しかしそのようななかで私たちもまたパウロのように主イエスとの深い出会いを経験するなら、この世の様々な影響を自らが得た福音によってはねのけ乗り越えることができるのではないかと思います。
 まことに僕として立つとは、そのような経過をへて起こってくることなのだと思います。パウロを始めとして主の僕として立たされた多くの人達が最初から主の言葉に従順であったわけではありません。パウロもそうだったと思いますがわからないことはわからないと言い、時には祈りのなかで激しく主に疑問をぶつけたりもしたことでしょう。しかしそれは不従順ということではないと思います。むしろ主に対していつも誠実に向きあっていたということなのだと思います。私たちはそのように主に対して誠実に向き合い続けるよりもどこかであきらめ、形式的には従順に見せながらも静かに絶望しているところがありはしないでしょうか。しかしそれは決して主が望んでおられることではなくまた、まことの福音からも遠い姿なのだということを確認しておきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月19日)聖霊降臨節第14主日礼拝

エフェソの信徒への手紙4章17〜24節
「新しい人」竹島敏牧師


 戦後73年がたちました。先週の8月15日、私たちの国は73回目の終戦記念日を迎えたわけですが今年も私たちはまことの平和がこの地上にくることを心から祈り願いつつ、この時期をすごしたいと思います。戦争が終わって私たちの国は本当に平和になったのか‥また私たちキリスト者はイエス・キリストの神にのみ仕え神が望んでおられるまことの平和への道を正しく歩んでいるのか‥たえず私たちは自らの歩みを聖書に照らして反省しなければならないのだと思います。素直に自分自身を反省すれば今でも誰もがイエスキリストの神以外のなにかを、また誰かを神としたことがある‥と告白せざるをえないのではないでしょうか。また時にはその誰か、が自分自身であったりするわけです。つまり知らず知らずのうちに自分が神になったかのような言動をし隣人を支配しようとしてしまう‥決してイエスキリストの神を否定しているわけではなく信じている‥しかし信じながらも時折、別の何かを‥また誰かを神とするということが両立してしまう‥巧みに複数の神を使い分けて生きるということが今なお私たちの日常において起こっているのではないでしょうか。
 つまり私たちは知らず知らずのうちにこのような偶像礼拝の罪をおかしてしまっているのです。まずそのことを私たちひとりひとりが素直に認めなければならないのだろうと思います。そのことを認めた上でゆるされた罪人の一人として平和に仕える道を求めてすすんでいきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(8月12日)聖霊降臨節第13主日礼拝説教

マタイによる福音書5章9節
「平和へむけて」岩本幸太郎伝道師


「平和を実現する人々は、幸いである、」平和を実現する者の役目とは、二つポイントを絞って考えてみました。
第一は神様と本来の平和なる関係への回復、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」という状態の実現へ私たちが持ってゆくことです。罪なき主イエスが十字架にかかられたことで私たちの罪は帳消しにされました。その真実があっても世の人々は唯一なる神様を知らない、関心をもたないで生きている人が現実には大勢おります。その人たちのためにも御子のなされた御業を伝えたいものです。
二番目は、人と人の間に平和を創造するということ、隣人を愛することです。
一見、難しくみえる、けれども一歩進めばここに秘めたものがあるのでは、と私は考える。この隣人を愛することをこれから念頭に置き、神とともに歩んでゆけば、大きな喜びが私たちに待っているのではと私は信じます。
八月に入り全世界、特に日本人にとって、平和と同時にあの世界大戦のことを考えます。
今まで、世界中でも戦争は起こってきました。今でも起こっています。
人は自分たちこそが正しい、自分こそが正義と主張すると相手側も我こそも正義だ、聖戦だという主張は、結局はぶつかり合うだけなのです。
平和の福音を伝え、人、隣人をも愛し、神様と人間、人と人との間に平和を創り出すことが神の子としての私たちの使命なのです。平和を実現するため、努めましょう。私たちは、イエス・キリストの福音の教えを極めることに心を砕き、平和をもう一回創る者となりましょう。
もうすでに私たちは神の国に属しています。そう神の国に属する子として、これからは強く自覚し、振る舞いたいものです。皆さん、それぞれ一人一人がまことの平和を実現した暁には、
「よくやった、それでこそ我が子だ!」
と天の神はあなたに対していつの日か迎え喜んでくださるでしょう。

礼拝説教要旨(8月5日)聖霊降臨節第12主日・平和聖日礼拝

コリントの信徒への手紙一 13章1〜13節
「大いなる愛」 竹島敏牧師
 
 今朝のこのコリントの信徒への手紙において使徒パウロは、最も大いなるものが「愛」であることを高らかに宣言しています。私たちの人生にとって最も大切なものは愛である‥、と。たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも愛がなければ無に等しい、とパウロは言い切っています。
 もちろん私たちの愛は不完全で、常に独りよがりなものになりがちなのですけれども、しかし、少なくとも愛し合おうと努力していくところには必ず、神様の助けの手が与えられるというメッセージが、このパウロの言葉の背後にはあるのだろうと思います。
 しかしなお私たちが生きるこの世界には、様々なトラブルや争いごとがいつも満ちていて、いったい平和はいつ来るのか‥、と、思わずため息をつきたくもなります。
 けれども、今朝のコリント書においてパウロが指し示したキリストの大いなる愛を見つめる時、私たちもまた、多く傷つくことがあっても、きっとまた、その傷から、主イエスの導きによって、新しい他者と出会う道が開かれていくことを、信じられるようになるのではないでしょうか。そしてその時私たちは、主イエスが望んでおられるまことの平和に仕える者とされていくのです。
 私達誰もが、長く生きれば生きるほど、きっといくつもの傷を負っていきます。それはさけることのできないものです。でも、その傷は、他の誰かの傷をいやす道具ともなり、そのようにして私達は、新しく他者と出会い、自分と出会い、成長し、平和をつくりだす者とされていくのです。

礼拝説教要旨(7月29日)聖霊降臨節第11主日礼拝

コリントの信徒への手紙一 12章14〜26節
「ひとつの霊に結ばれて」竹島敏牧師
 
 使徒パウロは今朝与えられたテキストにおいて多くの痛みと病を負った我らの主イエスがそのかたわらに立たれるところの最も弱く見える部分・人が共同体の中で一番大切なのだという教会論を宣言しています。そこからイエス・キリストの体と言われる共同体形成が始まっていくのだと宣言しています。それはパウロが自分自身の経験を通して得た教会論でありました。ずっと強がって生きてきたパウロが本当は弱い自分自身を素直に受け入れまた、隣人の弱さをも受け入れて共に生きるという新しい道を見出していく過程の中で得た教会論であったのです。
 私たちもまた時として強がることがあってもまた強く見せることをしいられることがあったとしても本当は弱く傷つきやすくはかない存在なのではないでしょうか。しかしもっとも弱く見える部分から大切にされていく共同体・交わりが生みだされていくのならそこに本当にそのままの自分で安心していられる居場所、それぞれにとっての癒しの場がつくられていくのだろうと思います。
 今朝は特に様々な状況にあって教会から離れている人、教会に来ることができない人、今そのかたわらにあってそこから私たち全てをひとつの共同体として抱きしめようとしておられる主の御手のぬくもりを感じながら共に祈りをあわせたいと思います。そして私たち一人ひとりがイエス・キリストの体の部分として、かけがえのない一部分として互いに敬い、協力しあいながら主イエス・キリストの体をこの世界に証していきたいと思います。

礼拝説教要旨(7月22日)聖霊降臨節第10主日礼拝

『わたしたちと主の祈り』
マタイによる福音書6:9-13
岩本幸太郎伝道師

主の祈りとは、まず前半「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」さらに「御心が行われますように」これらはいずれも天の神への賛美、感謝の祈りです。後半の祈りは、三つの柱によって成り立つ、11節、「必要な糧を今日与えてください」、12節「負い目を赦してください」最後13節、「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」のわたしたち自身への三つの祈り。後半最初の柱11節、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください、」これは神様への信頼することの重要さを表し、今日、神様お支え下さいと祈ります。第二番目に当たる12節の、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」
私たちは“あれは許せない”ということがふと時々、思ってしまう。でも主は訓練して下さるのです。だからこそ主の祈りを何度も生涯かけて毎日唱える必要性があるのです。よって私たちは許せない!といった罪、窮屈な囚われからの解放を体感することになるでしょう。最後、イエス様は「誘惑に合わせず、悪いものから救ってください。」と言われ、あなたは誘惑を避け、悪から救って下さいと祈りなさい。と言われる。今日の箇所を読み返してみれば、前半は神への賛美、後半は前半と共に「わたしの主の祈り」ではなく「わたしたちと主の祈り」なのです。ここに信仰の目が開かれるのです。
主の祈りについて、今一度意味を知り、主の祈りから、私たちは主の祈りを教会にて祈ることにより、天の国、神の国とは、私たちが地上の生涯を終了してやっとでたどり着く場所ではなくて、私たちが主の祈りを唱えることによって既に私たちの間に神の国はもうある。主イエスを受け入れた、みなさん、天へ昇ってから始まるのではなく、今生きているこの瞬間からすでに始まっているのです。(ルカ17:20―21)これからも主の祈りを祈りながら、あらゆる誘惑に陥らぬように、イエス様と共に父なる神様に従い、さらなる祈り歩んでいきたいものです。
できるはずです。私たちが礼拝にて集い、「主の祈り」を唱えることによって、神の国を今度こそ世に証してゆけるでしょう。もう一度、一日一日、主の祈りに挑み信じていきましょう。

礼拝説教要旨(7月15日)聖霊降臨節第9主日礼拝

フィリピの信徒への手紙4章1〜7節
「主において喜ぶ」竹島敏牧師

 今朝の聖書の箇所には、「主において常に喜びなさい」というすすめがなされています。これはどんなことでも喜ばなければならない、ということを言っているのではありません。そうではなくこれは、主が共にいてくださるから‥、そして導いてくださるから、たとえ今はどんなに「喜び」からほど遠い現状であっても必ずよい方向に導かれる時を信じて‥、その時のことを祈りのなかで望み見て、前もって喜びなさい、ということなのです。
 「主において喜ぶ生活」、それは、思い煩いのない生活なのではありません。それはむしろ、様々な思い煩いが起こってくるなか、その都度、全てを主にゆだねて、祈りつくしていく生活のことなのです。そして今はまだ何も解決していないも関わらず、必ず主が共に働いてくださり、よき方向に導いてくださることを信じて祈りつつ、前もって喜ぶ生活のことなのです。
 私たち一人一人の限界はあまりにも小さく、私たちは様々なことにすぐにつまづき、思い煩いの世界に入っていきます。しかし、そのような時こそ、「主がすぐ近くにおられる」という今朝の5節の言葉を思い出したいと思います。あまりにも小さな限界を抱えてたたずむ私たち一人一人の傍らに、主が立ってくださり、限りない慰めと励ましをいただくことができる‥。そのような幸いが与えられていることに感謝しつつ、この週も、怒り悲しみ、思い煩いの多い日常のすべてを神にうち明けつつ、主において喜びながら歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(7月8日)聖霊降臨節第8主日礼拝 

テモテへの手紙一3章14〜16節
「教会の希望」竹島敏牧師

 今朝のテモテへの手紙で語られているように確かに教会は神の宮であり聖霊の宿るところです。しかしそこに集う人間は決して聖いわけではない‥、どんなにあがいてみても決して聖くなどなれない者たちなのです。そしてもはや自ら聖くなろうなどと誤った努力をする必要などなくなった者たちなのです。
 私たちの教会の希望は私たち全ての者が主イエスの御前では愚かな罪人の一人にすぎないのだということを心底認めるところから生み出されます。傲慢な想いが徹底的に打ち砕かれ、一度自分自身に絶望し隣人にも絶望する‥そこから本気で神に向かい‥主イエスに向かって‥すがりついて歩んでいきたいという心の態度が形成されるのです。
 16節の最後のところで使徒パウロはキリストのことを「世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」と述べています。これは終末時の救いの完成をこのような表現で述べているのだと言われていますがそのようなこの世界の救いに、教会が用いられるのだということ‥私たち一人一人がそのような主イエスの業に仕えるべく毎週、教会に呼ばれているのだということを覚えておきたいと思います。
 もしかしたら教会は私たち一人一人の願望が一度は徹底的に打ち砕かれる場所であるのかもしれません。しかしそこに主イエスに服従して生きる新たな人生と決して消滅することのない主にある希望が永遠に与えられるのです。この約束を信じて毎週の主日ごとに、打ち砕かれつつ歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(7月1日)聖霊降臨節第7主日礼拝        

ガラテヤの信徒への手紙5章2〜11節
「主イエスを仰ぐ」竹島敏牧師

 神の創造の業の途上におかれている私達は皆、神によって造られていた本当の自分らしさを取り戻す旅を続けていると言えましょう。すでに神の御心にそわない世界に生まれ落ちた私たちです。その世界の影響や束縛を受けて生きてきた私たちの親などによって、どうしても、神の御心からそれた歩みにならざるをえなかった私たちです。神によって造られていた本当の自分‥、その自分を純粋に、素直に伸ばしていくことなど不可能であった私たちなのです。しかし洗礼を受けてイエスキリストにしっかりと結ばれた今は再びそのことが可能となっていくのだ‥とここでパウロは言っているのではないでしょうか。だからもう、この世の規範や慣習やまわりの人の目などにとらわれるな‥と。主イエスのみを仰いで十字架の言葉にのみ賭けて生きていきなさい‥と語っているのではないでしょうか。
 確かに本当の自分らしさを取り戻していくその旅は、いつもおだやかな心安らかなものではなく時には激しい葛藤や怒りをも伴うものであるのでしょう。しかし苦しみつつ旅を続ける私達の歩みに主イエスは同伴してくださり、生きていて本当によかったと、しみじみ感じられるようになるところまで必ず同伴し続けてくださるのです。それが洗礼によってキリストとしっかり結び付けられた私たちに与えられる恵みなのです。共に新しく創造されていくという主の導きを妨げることなく配慮しあい、神によって造られていた本当の自分らしさを取り戻す旅を続けていきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月17日)聖霊降臨節第5主日礼拝説教

マタイによる福音書5:1―12

「山の上から」岩本幸太郎伝道師

マタイによる福音書5章に入ると小見出しに「山上の説教」とあります。5章1−12節までです。まず、今朝の箇所ですが、“今から言うこと、この御言葉に従えば成功できる”といったものではありません。今日は主が与えられる幸いとは?山上の説教・最前半部分のテーマです。見上げると主イエスが山に登られ、腰を降ろされて、群衆、今の我らにも語りかけるのです。さて3節から説教が始まります。3~5節をもう一度読んでみましょう。

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」

「幸いである」という言葉が3~11節の中で9回も繰り返されます。ここには、主イエスによって神のみ前に招かれた人、神を信じる人とされた信仰者の幸い、幸福、喜び、平安が語られています。

原文の聖書では、「アシュレイ:幸いである」という言葉が文章の頭に置かれています。9つとも同じです。文章の頭に置かれているのは、強調ということです。

わたしたちが毎週詩編を読むとき、詩編1篇の入り口で「幸いなるかな」という祝福のみ言葉がわたしたちを迎え入れてくれるのです。それと同じように、今日の山上の説教で、「幸いなるかな」と本物の祝福のみ言葉がわたしたちを迎え入れるということです。なぜ、この山上の説教はいまでも語り継がれているのでしょうか。そこに主の栄光をかい間見るからで、おびただしい群衆を見て、イエス様は山に登られたのです。今の私たちにも今日のみ言葉を確かに残すためです。今日の山上の説教には、何度も何度も、皆様がこれからも主にあってたぐい寄せられる箇所であります。なぜなら、本日の箇所を開くたびにてキリストはあなたの呻きや苦しみの祈りがたとえあろうとも必ずや栄光に登る道へと、導くのだ!強きイエス・キリストの約束があるのだから、信じましょう。

今日の主の御言葉は短いですが同時に偉大であってイエス・キリストが私を見上げよと教えられています。今日は山の上から私たちに語られる主のメッセージ、まことの幸いを教わりました。一見なにか深い、いや巨大さを感じますが、直接的なイエス・キリストの御声を聞いたような気がします。山の上におられるイエス・キリストを見上げる。12節には喜びなさいと言われております。私たちは俯いたままではいけません。山の上におられる主イエスの顔をみあげましょう。唯一なる光に向かいましょう。なぜなら、そこは大いに喜びあり、天には大きな報いがあるのだとイエス・キリストは断言されておりますから。

礼拝説教要旨(6月10日)聖霊降臨節第4主日 花の日・こどもの日 礼拝

       
ローマの信徒への手紙13章8〜10節
「イエスさまの愛」竹島敏牧師

私たちはイエスさまの愛のことばによって慰められ強くされるのですが、さらに、その私たち自身がイエスさまのことばとなって、さみしい想いをしている人や、苦しい想いをしている人を支えられるようになると今朝の聖書は私達に語っています。それがイエスさまの愛を伝えるという伝道の業になっていくのだと…。
 たとえば、何も話さずただじっと傷ついた人のそばにいることが、その人を支える大きなことばになることがあります。慰めよう支えようと何か無理に言葉をかけるよりも、そのほうがその人をはげます大きなことばになることもあるのです。そのように私たち一人一人が、教会において、また、地域や家庭において、心をこめてはたす小さな働きのひとつひとつを、イエスさまはあたたかく見守ってくださいます。そして、その働きの全てを、ご自分のことばとしてくださいます。そのように知らず知らずのうちに私たちの働きが用いられていくのです。
私達一人一人もまた、なお様々な悩みや課題を抱えつつもイエスさまの愛の力を信じ、待ち望み、ゆだねつつ、生きているという、そのままの私達を示していくならば、主はきっとそこに新しい出会いの出来事を起こしてくださるのでありましょう。イエスさまのことばとして遣わされた私たちに、そこで、互いに慰めあい励まし合って生きていく新たな友が与えられるのです。私達の想いや意識をはるかにこえたイエスさまの愛の力によって、そのような出来事が起こされる…、そのことを私たちは信じていきたいと思います。

礼拝説教要旨(6月3日)聖霊降臨節第3主日礼拝  

ローマの信徒への手紙8章12〜17節
「神の相続人」竹島敏牧師

 今朝のローマの信徒への手紙において使徒パウロは、「私たちは神の相続人である」と語っています。17節のところです。「しかもキリストと共同の相続人である」と。何を相続するのか‥、それは一言で言うなら、神の最終目標である「神の国」だ、と言えましょう。
 そして今朝のローマの信徒への手紙8章の15節においてパウロはこう語っています。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と。
 パウロが生きた時代にも、私たちが今生かされている時代にも、物やお金に人の心を縛り付ける霊など様々な霊が存在しています。しかし、私たちはそのような、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けて、本来の自分らしく、生き生きと歩んでいく力をいただいているのです。
 あまりにも目に見えるものにとらわれ、ふりまわされている私たち‥、なのかもしれません。しかし、目に見えるものにとらわれ、ふりまわされる日々から解放されるために、そして、うすっぺらではない本当の生きる希望を見いだしていくために‥、そのような神の国の希望を見出していくために、まず、私たち一人一人に与えられている心の目で聖霊をしっかりと見つめ、そしてその霊の導きによって、聖書の言葉に深く聴き、その聴き取った意味をしっかりと生きる‥、そのような歩みを一歩一歩積み重ねてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(5月27日)聖霊降臨節第2主日礼拝『ことばのよみがえり』

創世記11:1-9 使徒言行録2:1-9

岩本幸太郎伝道師

先週は聖霊降臨主日礼拝でこれは数えきれない種類のことばが飛び交い、鳴り響いたという日でした。想像をも超越した現象です。ところで、遠い昔、こういった現象とは対称的な事件がありました。旧約聖書の創世記11章に伝えられているバベルの塔の事件です。この建設計画途中まで、当時、人間の話す言語は一つで、

「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう』と言った」(創世記11:4)一言でいえば天の神に挑戦状を叩きつけたのです。

しかしバベルの塔の建設計画は途中頓挫する。これはこんにちの我々にも問いかけ、またこれらは人を本当の幸福にするのでしょうか。

“さあ天まで届け、有名になろう!”

と意気込んでも、人間とは結果混乱になるだけです。イエス・キリストの生涯を振り返りましょう。

 むしろ、天から降ってきてくださり低さや小ささや弱さや少なさに意を注いだ人生だったのではないのでしょうか。

使徒言行録2:4―8に戻りますが、、

「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」それぞれ違う話しことばが聖霊の降りによって発せられた。聖霊を通した言葉とはヘブライ・アラム語、ギリシア語だけではなかったということです。注目したいのは、天の神と人との交わり、神のことばのよみがえりにはどこの国の言葉でも可能だということが証しされています。断言すれば教会とは様々な多様な言葉を使っても構わない、それでよし。と神は認められたのです。イエス・キリストの福音はすべての次世代を超え、すべての原語・ことばをも超える。新約聖書が云わんとするのが、

福音の救いはすべての人が含まれているという真実です。みなさんの祈りの言葉、賛美の歌はすべて主の御名によって届かれています。安心しましょう。

礼拝説教要旨(5月13日)復活節第7主日礼拝

ヨハネ福音書17:1―13
「天に属する者」竹島敏牧師

 今朝のこの聖書箇所においてイエスがまず主張したかったのは、真の神を信じる者たちは
皆「天に属する者」である、ということです。
 日頃から主が一番に願っておられたことは、天において成就している神の御心が、地においても実現していくことでした。つまり主は弟子たちに常に、天を仰いで生きよ、と教えておられたわけです。たとえこの地がどんなに汚れ、闇の世であっても、絶望しきってはならない、と。はるか天を見上げて、そこではすでに神の御心が成就していることを想え、と。そして、その天の国が、神の導きによって確実にこの地に近づきつつあることを信じて、うまずたゆまず神に仕え続けよ、と、主は教えておられたわけです。だから、この地上の事柄に執着してはならない‥、と主は教えられました。
 確かに私たちには、この地上の事柄に様々な執着があると思います。けれども、天に目を向けること‥、この地上の事柄に対する執着はとりあえずそのままにしておいて‥、天にも目を注ぐこと‥、これならできるのではないでしょうか。そして天においてはすでに神の御心が成就していることを信じ、そのような天が、神の御導きによってこの地上に近づきつつあることを信じる‥、思い描いてみる‥、ということが大切なのではないでしょうか。
 天を見上げ、見つめることによって私たちは、どんなにこの地上の生が悲惨であったとしても、私たちにとって世界は、この地上だけではないのだ‥、と。私たちにはもう一つの世界、天があるのだ、と、再び、希望を持ち始めることが可能となるのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(5月6日)復活節第6主日礼拝

          
創世記18章23〜33節
ヨハネによる福音書16章16〜24節
「主の名によって願う」竹島敏牧師
 
 私たちは日々、様々な願いを抱いて歩んでいます。たとえ次々と願いがかなえられずに消え去っても、また、新たな願いを抱き、それを心の支えにして私たちは生きているのではないでしょうか。もし何も願わなくなってしまうことがあるとすれば、それは、自らの人生に対して絶望してしまった‥、ということです。いろんな願いが、かなえられずに次々と消え去ってしまっても、私たちは何とか希望をもって生きていくために、また、別の願いを抱くのです。
 今日のこの、ヨハネ福音書16章24節には「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」、とあります。これは、願ったことや、願ったものがそのまま、与えられるとは限らないけれども、必ず良いものが与えられ、あなたがたは喜びで満たされるにちがいない‥、ということです。だから私たちは、まずは自分の願いをそのままに、神に申し上げてよいのではないでしょうか。願いどおりにはならないかもしれない。しかし、その私の願いが、神の心を動かし、変える場合だってあるのだという思いをもって、素直に神にぶつかっていくことがゆるされているのではないかと思います。つまり、神の思いを推し量りながら、自分の意見も自由に述べて神と対話し、あとはゆだねる、ということ‥、これが「主の名によって願う」ということなのではないかと思うのです。「そのように願う人に主はもっともふさわしいものをさずけてくださる」そこに希望をおいて今週もそれぞれの一週の旅路にむかっていきたいと思います。

礼拝説教要旨(4月29)復活節第5主日礼拝

「福音開始」
マルコによる福音書1:1-8

岩本幸太郎伝道師

1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め。」

かつてこのような権威ある書き出しがあるでしょうか。これこそがマルコによる福音書の特徴、象徴。簡潔な書き出しです。この書き出しはマルコ書全体を言い現す。今でもイエス・キリストの御働きは続いてきています。

マルコによる福音書という書物は、初の福音書といった試みです。それはこの福音を自分自身のこととして知っている、それは頭の中でただキリストを知っている、知識として知っているというのではなくて、彼もイエスキリストを体験的に知っているからこそ、今度こそ課せられた使命、自分こそがイエスは神の子であると宣言しなくては、その使命を果たそうと強い聖霊の援護もあって筆をとったのでした。

2節以下に洗礼者ヨハネ登場。一言でいうと旧約と新約聖書をつないだ人です。2節は旧約聖書のイザヤ40:3からの引用、ついに旧約聖書の預言されていた出来事がついに実現するということなのです。ただまっすぐに正す方が、「イエス様あなたこそ私の救い主、信じます。」と心から信じ言うことで、まっすぐな道があなたに用意されるのです。みなさん、今日神へ至るストレートな道が用意されたのです。

神はそんな彼に最初の福音書記者に用いたのです。そこで福音が記され、マタイ、ルカ、ヨハネたちの聖霊をも刺激したのです。さあ、まっすぐな道が用意されました。福音開始です。現在進行中です。これにまさる喜びはありません。罪が赦される、そして神の子とされている恵みの中でまっすぐに導かれ歩んで行く、生きてゆく。神様は準備されてくださりました。初まり今日ありき、希望こそ確かにありです。まっすぐにしてくださるお方をお手本にともにこれからも歩んでいきましょう。

礼拝説教要旨(4月22日)復活節第4主日礼拝             

レビ記19章9〜18節
ヨハネによる福音書13章31〜35節
「新しい掟」竹島敏

 「互いに愛しあいなさい」それが、あなたがたに与える新しい掟だ、と主イエスは弟子たちに語られました。そして、互いに愛しあうならば、それがまわりの人達へのよき証になる‥、というふうにも語られました。今朝のヨハネ福音書の13章34節以下のところです。主イエスの具体的なお支えとお導きによって、神の国へと向かう教会を形成する、また社会を形成する‥、そのために互いに祈りあい配慮しあっていく、それが互いに愛し合うということです。
 教会の交わりと祈りのなかで私たちは、神が私たち一人一人に備えてくださった固有の能力・個性を再認識させられます。すなわち、しばしば私たちは教会の交わりと祈りのなかで、この世の価値観によってすでに切り捨てられ、自分でも忘れ去ろうとしていたような能力や個性を再び呼び覚まされるのです。そして自らに本来備えられていた様々な能力や個性をすべて肯定しそれらを生かすために、それぞれのところへと遣わされていくのです。
 私たちの世が、また国家が私たち一人一人をどのような基準ではかり、どのような評価を与えようとも主イエスは、神が私たち一人一人に備えてくださった能力や個性をすべて肯定し豊かに用いてくださる‥、神の国のご用のために生かし切ってくださる、だから今週も、ありのままのお互いを、神様によって備えられている互いの賜物を見いだしあって、これでいいのだと肯定しあって、この世の歩みへと踏み出していきなさいと言われているような気がいたします。

礼拝説教要旨(4月15 日)復活節第3主日礼拝           

ヨハネによる福音書10章7〜18節
「命を与え、導く主」竹島 敏牧師

 マザーテレサは、どんな時も教会のミサをとても大切にし、いつもミサにあずかってから奉仕に出かけた、と言われています。真実の奉仕を続けるためには、復活の主イエスの命にあずかり続けることが必要不可欠であることを身をもって知っていたからでありましょう。 
 このように私たち一人一人にご自身の命を与え、導いてくださるのが私たちの主イエスキリストです。この主イエスを信じて洗礼を受け、真実の心をもって聖餐にあずかり続けるなら、イエスの命が豊かに分かち与えられ、イエスが生きたように生きることを志すようになるのです。イエスが望んでおられた神の国を目指して生きることを志すようになるのです。そしてその命は、この地上の歩みを終えても、終わることはありません。
 「自分さえよければいい」、という考え方、生き方が広がりつつあるこの時代のなかで、このような、主イエスにならう生き方は、新しい生き方です。自分以外の誰かのために、自らすすんで日々、命を削って生きていく‥、それが決して単なる自己犠牲には終わらない‥、むしろそのことによって豊かにされ、心が満たされる生き方‥、そのような新しい生き方へと私たちは招かれ、導かれるのです。そしてその命が、この地上の歩みを終えた時、復活の主はその命を抱き取って、天へと連れ帰ってくださいます。そしてそこにおいてその命は、主イエスと共に、遺されたこの地上の人々の歩みを見守り続けるのです。そのような命を与え、導いてくださる主に心からの感謝の祈りをささげましょう。

礼拝説教要旨(4月8日)復活節第2主日礼拝           

ヨハネによる福音書20章19~31節
「復活の命をうけて」竹島敏牧師

今日のこの聖書の箇所の最後においてトマスは、十字架につけられて、その体に穴をあけられて、苦しみぬいて死んでいかれた方が、今、現実に復活して自分の目の前に立っているという事実を、もはや認めざるをえなくなりました。その事実からもはや逃げることはできなくなりました。そして、「決して信じない」と言いながら激しく問いつめていた立場から、今度は問われる立場へと、ここで一瞬にして大きく立場が変わったのです。
「この釘のあと、槍のあと、それは誰がつけたのか」と静かに問われる立場へと、大きく立場が変わったのです。
この時トマスは、自分が実際に手でふれて確認した、この主の体の釘のあと、また槍のあとは、自分がつけたものなのだ、ということを、はっきりと理解したのでありましょう。
確かに自分だけではない、しかし、他の弟子達も含めて、自分もまた、そこに荷担したのだ、ということをはっきりと理解したのでありましょう。しかし実際には主は、そのような厳しい問いをトマスに投げかけられることはなく、ただ、「見ないのに信じる人は、幸いである」と静かに告げられただけでした。
私たちもまた、トマスのように、「もう決して信じない」という疑い迷いの中に入ってしまうことがあるかもしれません。
しかし、そのような私たちにも、主は御自身の十字架の傷跡を見せて、さわらせてくださる…、それほどの深い出会いを備えていてくださり、復活の主イエスと共に永遠に生きる道をひらいてくださるのだということを、今朝のヨハネ福音書は私たちに伝えているのです。

礼拝説教要旨(4月1日)復活節第1主日・イースター礼拝            

ヨハネによる福音書20章11~18節
「復活の意味」竹島敏牧師

 今朝のこの聖書箇所においてマリアは、主イエスと霊的な新しい関係に入り、信仰的に自立していくことを求められています。神は全てに時を備えておられる‥、今、イエスは復活され、これから天へ旅だっていこうとされている、今や、そのような時が与えられようとしている、そのことをよくかんがえなさい、とマリアは言われているのです。だから、私にもうすがりつくな、すがりつく必要はもうない‥、ということなのです。
 このようなマリアの物語を受けて、私達は、今日のこのイースター礼拝にて、この地上を去っていった方々のことをあらためて想い起こしたいと思います。イースターは、主イエスが復活されたことを喜び感謝する日ですが、それは、天と地という距離を超えて、主イエスと弟子達との霊的な交わりが深められていくその出発点でもありました。主の復活と昇天という出来事は、そのように当時の弟子達と主イエスとの関係を新たなものにしたのです。
 私達もまたやがて、この地上を去っていく者達であります。しかし私達が今、復活の主イエスとの霊的な交わりに深くあずかっていくならば、天と地をつないでくださる復活の主の導きによって、先にこの地上を去っていった人達とのより親密な交わりが与えられるのではないでしょうか。私達の主は、私達一人一人の名を呼んで、慰め、励まし、そして先にこの地上を去っていった人の、声や言葉や姿を、この地上によみがえらせてくださる復活の主でもあるのだということを感謝をもって受けとめたいと思うのです。