礼拝説教要旨(10月18日)聖霊降臨節第21主日礼拝

フィリピの信徒への手紙3:12-21

「天の共同体」早川 真伝道師

今朝の箇所で、パウロは、パウロに倣う人たちを見倣うように勧めています。これは、パウロと同じ生き方をしている人に倣うように、との呼びかけです。つまり、地上のことにではなく、天上のことを目標として走っている人に倣うように、ということであります。
私たちは度々、後ろを振り返る者であると思います。あの時こうしていれば良かったと後悔し、なかなか前を向けないことがあります。また反対に過去の業績や栄光に捉われるということもあります。しかし、ここでパウロは、後ろのものをまったく忘れるように努力しているというのです。そして、前のものを得ようと、死力を尽くして手を伸ばしている、というのです。現状に満足するあまり、もうそれ以上を求めない人たちに対して、しかし、イエス・キリストにある道のゴールはまだ先であるとパウロは主張するのであります。
20節の「本国」という言葉は共同体という意味があります。共同体とは共同の利益で結ばれた集団であり、私たちの共同の利益は天にあります。私たちの卑しい体が、キリストの栄光の体に変えられること、それが天の共同体の利益であり、目標であるのではないでしょうか。その時がいつ訪れるかは誰にもわかりません。しかし、確実にその時は近づいています。その時、一切の私たちの苦しみが取り去られるのであります。そして、その時にこそ、私たちは、はばかることなく、すでに得たと言い得るのでありましょう。
後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、共に支え合い、助け合いながらひた走ることのできる恵みを主に感謝したいと思います。

礼拝説教要旨(10月11日)聖霊降臨節第20主日礼拝

コリントの信徒への手紙二5:1-10

「永遠の家」早川 真伝道師

ここで言われている永遠の住みかとは、霊的な体を意味しています。それに対応するものとして語られているのは幕屋で、これは肉体の体を意味していると考えられます。幕屋とは定住するためではなく、移動するために用いる一時的な仮宿のことです。
人間が家を必要とするのは、雨風や直射日光から身を守るためでありましょう。もしそれらに無防備にさらされるなら、体力は消耗し、いのちを守ることは困難になります。キリストを信じ天の住みかが与えられている者は、決してそのような状態にはならないとここで断言されているのであります。必ず命が守られる。たとえ肉の命が果てようとも、霊の命を守る霊的な建物が備えられているからであります。
5節には、天の幕屋が与えられる保証として聖霊が与えられていることが記されています。聖書によれば、聖霊は洗礼を通して与えられます。自らが死ぬはずの者であることを認め水に覆われる時、私たちは神の恵みに覆われるのでありましょう。死ぬべきものが命に飲み込まれる、とは何とダイナミックな言葉でしょうか。
ご承知のように、私たちの地上での歩みは決して楽なものではありません。雨漏りもすれば壊れもする、肉の体を伴っての歩みであるからです。しかし、忘れてはならないと思います。この弱い私たちの体の上には目に見えない神の永遠の家が備えられています。そうであるならば、その永遠の安心に憩う時まで、地上における旅路を神の御心に従って共に歩んで行きたいと思います。やがて与えられる天上の住みかに私たちの希望を置いて、聖霊の導きのままに歩んでまいりましょう。

礼拝説教要旨(10月4日)聖霊降臨節第19主日礼拝

ローマの信徒への手紙11:33-36

「栄光は神に」早川 真伝道師

これまでパウロは、万人の救いについて語ってきました。ここで言われている万人とは、大きく分けてユダヤ人とそれ以外の異邦人の二つしかありません。
神は初めに、御自分の民、イスラエルを選び、御自身の救いにあずからせようとされました。そしてその中からイエス様がお生まれになり、ユダヤ人はもとより、異邦人にまで救いが与えられることとなりました。しかし、当のユダヤ人は、イエス様を救い主と認めず、十字架にかけて殺してしまいました。これをパウロはつまずいたと表現しています。その結果、異邦人の方が先にイエス・キリストによる救いに与ることとなりました。しかし、それはまた、ユダヤ人にねたみを起こさせるためであり、最終的にはユダヤ人もまた神に立ち返り、万人が救われる、というのであります。
この理解に至るまでパウロは苦しみました。自分の同胞であるユダヤ人がキリストを受け入れない、それはパウロにとって「深い悲しみ」であり「絶え間ない痛み」であると語られています。究めがたい、測りがたい知恵が、啓示によってパウロに示されたのであります。
36節には「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」とあります。これは私たちの困難も課題も、悲しみさえも全ては神の御手の内にあるということです。そして、神の救いのご計画は、確かに進んでいる、ということです。私たちもまたパウロと共に「栄光が神に永遠にありますように」、との呼びかけに「アーメン」と応えるものでありますように。

礼拝説教要旨(9月27日)聖霊降臨節第18主日礼拝

エフェソの信徒への手紙3:14-21

「キリストの愛」早川 真伝道師

今朝与えられた箇所は、これまで異邦人の救いについて語られてきたパウロの祈りの部分です。
15節の「家族」とは「部族」をも意味する言葉です。本来、御父である神から名を与えられたのはイスラエルの12部族でありました。しかしここでパウロは異邦人であるエフェソの信徒たちもまた、名を与えられた家族、部族であると言っています。キリストのゆえにすべてのものが親族関係で呼ばれるのであります。
18節に「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」とあります。英国国教会内部でのメソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーは、この個所を次のように解釈しました。
「広さは全人類を包みこみ、長さは人の誕生から死に至るまで及んでいる。高さは人々の間における社会的地位や階級の高い人々、そして深さはもっとも卑しい、道徳的に堕落した人々にさえ、キリストの愛は届いている。」
この高さにもう一つ加えたいと思います。それはおごり高ぶるものです。神は人のおごりを憎まれる方でありますけれども、そのおごりを打ち砕くことによって、神の恵みに与らせてくださる方であります。すべてのものを包み込むキリストの愛。その広さ、長さ、高さ、深さをまだ私たちは完全に知りません。これは私たちにとっての希望であるのではないでしょうか。今、私たちが知っている以上に神の恵みは大きいのであります。私たちの理解や願いをはるかに超えるキリストの愛の中に、どのような時も根ざし歩んで行きたいと思います。

礼拝説教要旨(9月20日)聖霊降臨節第17主日礼拝

ペトロの手紙一2:11-25

「義によって生きる」早川 真伝道師

今朝与えられましたペトロの手紙一の時代、初代教会は誹謗中傷に満ちあふれていたようです。異教徒が故意に中傷していたのですがそれに対する最も効果的な反論は、そのような誹謗中傷が虚偽であるということを生活によって証明することでありました。
19節の「御心に適う」という言葉は「恵み」という意味の言葉です。不当な苦しみを受け、苦痛を耐えることが一体なぜ恵みと言えるのでしょうか。ローマの信徒への手紙5:1-5には、苦難がやがて欺くことのない希望を生むと語られています。ここに、苦難の中にあっても神の恵みを得る道が示されているのではないかと思います。
24節には「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」とあります。これはイエス様のことが言われているのですが、人の傷によっていやされる、ということは実に不思議なことです。自分の苦しみをもっと深い所で味わってくださっている人がいる。しかも自分のために。イエス様が十字架の上で死んでくださったことによって私たちの根本的な病、神の前に義とされ得ない、言い換えるならば私たちの罪が完全に赦されたのであります。
私たちはキリストを信じることによって与えられる義によって何の後ろめたさもなく歩み、キリストの御足の後に従うことによって、義に仕える自由、正しく生きる自由を得ます。キリストにより与えられている義にいつも立ち返り、励まされてキリストの御足の後に従う力を頂きながら、歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(9月13日)聖霊降臨節第16主日礼拝

ヨハネの手紙一手紙5:10-21

「神に属する者」早川 真伝道師

ヨハネの手紙一は、いわゆる反キリストと呼ばれる偽教師に対する注意を促す目的で書かれたと考えられます。16節に、「死に至る罪」という言葉が出てきますが、この手紙の文脈に照らし合わせるなら、それはイエスが神の子であることを否定する罪だと考えられます。
本日の説教題は18節の御言葉から取りましたが、この「属する」という言葉は起源や由来を意味する言葉が使われています。つまり神から生まれた者、また神に起源を持つ者という意味を持ちます。
神に起源を持つ者とは新しい人生の始まりがキリストとの出会いである者でありましょう。キリストを受け入れるということは、キリストと出会い、自らの罪を知らされ、自分が救ってもらわなければ生きていけないということを認めた者であるはずです。キリスト以前の自分はキリストと共に十字架の上で死に、洗礼に表されるように、復活し、新しい起源を持つ者とされたのであります。もはや古い起源は私たちを拘束せず、支配することができません。

もはや自分の起源を生まれながらの死ぬべき命に持たず、永遠なる神の命に持つ者だけが、自分の運命について、確信をもって証しすることができるのであります。キリストの内にあるならば、私たちの起源が真実の神、永遠の命になります。自分が真実なる神の内にあり、永遠なる神の内にあるという証しを、一人一人の心に、確かに神が授けてくださるよう、神に願う者でありたいと思います。

礼拝説教要旨(9月6日)聖霊降臨節第15主日礼拝

エフェソの信徒への手紙5:11-20

「光となる」早川 真伝道師

今朝与えられた御言葉には、私たちが光となるために重要なことは、明らかにされることだと書かれています。私たちが自分自身で光る必要はなく、光に照らしていただけば良いのだと。そのためには、私たちは神の前に出れば良いのであります。
私たちが自らを御言葉に晒していく、イエス・キリストに晒していく。その時に初めて、私たちは自分がどれほど本来人としてのあるべき姿から遠く離れている存在なのか、ということを知ることができます。そして御言葉は、イエス・キリストは私たちの本当の姿を暴露するだけではなく、赦し、慰め、癒してくださいます。なぜなら、光に照らされた私たちの全ての醜い姿は、十字架の上で全て主が解決してくださったからです。

19節には「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」とあります。ここに、賛美には二つの面があることを見ることができます。一つはもちろん神に感謝をささげるという面。もう一つは神が私たちに成してくださったことを思い起こし私たち自身が励まされ、強められる、という面です。
私たちもまた教会も、内に様々な悩みや問題を抱えています。しかしそれを主の御前に持ち出し、主の光に晒す時に問題の本質が明らかになり、根本的な解決へと導かれるのでありましょう。そのようにして主の光を豊かに受け、地の塩、世の光としての働きを担うことができるよう、教会が、また私たちが光となるよう、主の導きを求めて歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(8月30日)聖霊降臨節第14主日礼拝

ローマの信徒への手紙一7:1-6

「新しい生き方」早川 真伝道師

ここでは、私たちと律法というものが一つの契約関係として描かれています。本来私たちと律法の関係は契約内容であるのですが、ここでは比喩的に、契約相手として語られています。ここで重要な点は、契約関係にある二者のうち、一方が死んでしまえばその契約は無効になる、ということです。
律法、それは神と結んだ契約であります。しかし人間はだれもその契約を完全に守ることができませんでした。キリストの十字架の姿は、私たちが契約を違反することによって神を傷つけた証であります。しかし神は、御自分の独り子であるキリストを傷つけ、死に至らしめることによって、本来傷つけられるべき私たちの契約違反を無効にしてくださったのであります。
6節にある「文字」とは手紙や文書をも意味する言葉が使われています。手紙や文書というものは、それを書いた筆者の意図があります。文字ではなく、霊に従うとは、書かれた文字の背後にある、神の思いに従う、ということであり、神の思いを私たちに示すのは聖霊であります。その事柄が、神の栄光のためになされているのか、それとも自分の私利私欲のためになされているのか、ということを聖霊ははっきりと私たちの心の内に示して下さいます。
古い自分が打ち壊され、新しい自分へと造り変えられるために、神様は聖霊を一人一人の心に遣わしてくださったのであります。その聖霊の御声に聞き従いながら、死に至る実ではなく、永遠の命に至る実を結ぶ私たちへと導かれてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(8月23日)聖霊降臨節第13主日礼拝

コリントの信徒への手紙一2:11-3:9

「キリストの思い」早川 真伝道師

キリストの思いとは何でしょうか。それは、一致と平和でありましょう。
天と地ほど異なる肉の思いと霊の思い、言い換えるならば人の思いと神の思い。それを繋いで一つとして下さるのがキリストであります。
天から降り、神の御心をその言葉と行いによって示し、更に聖霊によってわたしたちのうちに住んでくださっている、その、キリストの思いが私たちに与えられているというのであります。
3節に、「ねたみや争い」とあります。妬みとは熱心とも訳せる言葉が使われています。熱心なのは良いことだと思いがちですが、人の思いによる熱心は争いと同列に扱われるべきものであるということが示されています。それは分派を生み出し、やがて争いへと向かうものであるからです。
教会の中にも様々な人の思い、肉の思いが入り込みます。しかしそこでわたしたちは幻滅するのではなく、わたしたちに与えられているキリストの思いに目を向けて行きたいと思います。
私たちは神の畑であり、一人一人が実りをもたらす存在です。そうであるならば、互いに実をつけることができるように配慮しあう必要があるのでしょう。自分だけが実をつけて、他の人が実をつけることを妨げていないか、私たちは今一度、自らを省みつつ歩んで行きたいと思います。全ての人が豊かに実を結ぶこと、それをこそキリストは望んでおられるのでありましょう。神から与えられた霊に導かれて、豊かに実を結ぶ教会へと、成長させていただきたいと願います。

礼拝説教要旨(8月16日)聖霊降臨節第12主日礼拝

ヨハネの手紙一5:1-5

「十字架への道」竹島 敏牧師

 今朝与えられた箇所において、神から生まれる者は世に打ち勝つであろうと聖書は宣言している。それはどういうことなのか。
 世に打ち勝つもの、それはイエスが神の子であると信じる者だと言われている。あの、この世の罪と悲惨を背負って十字架の上で死を遂げられたイエス。彼こそが神の子であると信じるとはどういうことか。それは自分もまたそのような道を歩むことを受け入れる、ということだ。イエスの歩まれた道、それは決して楽な、痛み苦しみを伴わない道を選ぶということではなかった。
 私たちの身の回りには様々な危険が満ちている。そのような中で危険から身を守ることはとても大切なことなのだと思う。しかし、そのような中で、人とかかわることに決して消極的になってはいけない、と聖書は私たちに告げているのではないか。そのようにして神から遣わされた者は世に打ち勝っていくのだ、と言われている。イエスはどこにおられるのか。悲しむ人、苦しむ人、そして私のそばにおられる。そして私たちの悩みや苦しみを共に担って歩みだしてくださる。
 その時私たちはまことに小さなことであるかもしれないが主の弟子として証しを立てることになる。隣人の悩みに向き合う時、この世界の悪に向き合うことになる。そしてそのような中で主に出会うのである。私たちは正しく身を守りながら、十字架の主イエスの愛をいたるところに証していく、そのような機会を求めて歩んでまいりたいと思う。

礼拝説教要旨(8月9日)聖霊降臨節第11主日礼拝

コリントの信徒への手紙一11:23-29

「いのちを受け継ぐ」竹島 敏牧師

 ここでパウロが言っている「主が来られるとき」とはいったいいつのことなのだろうか。
この「主が来られるとき」は「終末の時に主イエスは天から再び来てくださる」という信仰と深く結びついている。当時の人々は、終末を待望する想いを強く持っていた。そしてそれはまもなくやってくると信じていた。終末、すなわちこの世の終わりは、暗闇のような時代が終わりを告げ、主イエスが天から再び来てくださる救いの完成の時だと…。この世でずっと虐げられてきた者たちが主の完全なる救いに預かり喜びに満ち溢れる時が備えられている。そのような希望を固く固く持ち続けることが彼らの生きる力になっていたのだ。そして、繰り返しになるが、それはまもなくやってくる、と。
 私たちの救い主イエスキリストは、私たち一人一人の「いのち」の交わりの主である。
確かに、この地上での命がおわる別れの時は、耐え難い悲しみの時だ。しかし、誰もがいつかは迎えなければならないその時に備えて、今、互いに生かされているこの一瞬一瞬を大切にし、互いの「いのち」をわかちあっていきたいものだと思う。そして受け継ぎあっていきたいものだと思う。そうすることによって「いのち」は孤立することなく互いに輝きはじめるのだ。
主が再びやってこられ、主の救いが完成するその時がいつなのかはわからない。しかしいつか必ずやってくるその時まで、私たちもまた、このパウロたちのように、「いのち」の交わりを続けながら、希望をつないでいきたいと願うのだ。

礼拝説教要旨(8月2日)聖霊降臨節第10主日礼拝

ローマの信徒への手紙14:10-23

「神の国と神の義」竹島 敏牧師

 今朝のこの聖書の箇所は「主イエスのお姿を見つめるなら、同じ考え方や感じ方の人を多く集めて数を得ていくことによって自らの正しさを証しようとする試みが、いかに空虚なものであるかがわかってくる」ということを示している。大切なのは数ではなく、十字架の主イエスの姿を見つめ、この主が求めてやまなかった義と平和と喜びの国を見つめること、そして、この地上の世界が少しずつでも、そのような神の国に近づいていくよう仕えていくことだ。
 日常の様々な場面で、私達は自分とは違う習慣や考え方と出会う。その時、もし、私達が多数の側に立っているのなら、私達は主から、少数の、自分とは違う習慣や考え方から学びなさい、と言われるのであろう。またその時もし、私達が少数の側に立たされるのなら、たとえ一方的に裁かれることがあってもめげることなく、主の支えと導きを求めつつ、裁く人達との対話を求めていくべきなのだろう。それぞれの違いを互いに理解しあえないことも、時にはあるかもしれない。理解しようとしても、理解できない‥、そのような苦しみが続くこともあるのかもしれない。しかしそんな時にこそ私たちは、主イエスが互いに理解しあうことがなかなかできないでいる私たちを、すでに、ご自身の十字架のもとに招き、抱きしめ、一つとしてくださっている、という情景を心に思い浮かべたいものだと思う。そして、主のもとですでに実現しつつある、神の国と神の義に向かって、導かれつつ一歩一歩、歩んでいきたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(7月26日)聖霊降臨節第9主日礼拝

使徒言行録27:33-44

「救いのために」早川 真伝道師

今日の箇所は、パウロがユダヤ人に訴えられてローマへ護送されるその途中の出来事です。多くの囚人と共に船でローマへ向かったのですが、暴風に巻き込まれてしまいました。人々は不安で食べ物が喉を通りませんでした。しかしパウロは、大胆に人々に勧めることができました。それは、御使いを通して語られた御言葉がパウロを支えていたからです。
しかし実は以前にも、パウロは同船した人々に勧めていました。しかしその時はパウロの勧めも虚しく、人々は食事をとることができませんでした。なぜ今回は元気づいて食事をすることができたのでしょうか。それはパウロがこんな状況であるにもかかわらず、まず率先して、感謝してパンを食べ始めたからではないかと思います。まずは一人からでも、神の約束を信じ、感謝して食べる時、それは何よりも説得力を持つのだと思います。
38節に、「十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」とあります。私たちの信仰生活というのは、この嵐の中の船のようなものではないだろうか、と思います。教会も、危機の中でこそ、本当に必要なもの、救いに至るものを発見できるのでありましょう。神様は真の救いのために危機を起こされると言えるのではないでしょうか。今はコロナウィルスのため、世界中が苦境に喘いでいます。私たちは生き延びるために、御言葉を食べ、不必要なものを捨てて、救いの港に辿り着きたいと思います。
「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんの内だれ一人として命を失うものはないのです。」(22節) 

礼拝説教要旨(7月19日)聖霊降臨節第8主日礼拝

使徒言行録24:10-21

「ただ主を見つめて」竹島 敏牧師

 今日のこの聖書の箇所には「ゆるせない」、そういう相手をもなお、ゆるそうとするパウロの姿勢がえがかれている。ただ主イエスを見つめることによって、そのような道が与えられるとパウロはここで述べているのだ。
 さて、私達の日常においても小さな事から大きな事まで、ゆるせない、と感じることがたくさんあることを想う。しかし今朝、再び私達は、どんな時もまず共にいてくださる主イエスの御姿を、ただじっと見つめることから始めたパウロの姿勢を確認しておきたいと思う。
そして私達もまたそうすることによって、過剰な憎しみや恐れから解放され、まことの平和へとつながる道を一歩一歩歩んでいけるのだということを覚えておきたいと思うのだ。主イエスが共にいてくださり導いてくださる道を信じて行く時、すぐにではないかもしれないが人の想いをはるかにこえた新しい道が見えてくる。
 確かに、当面は何も喜ばしい兆しが見えず、何も変わらないどころか、ますます悪い方向へ向かっているのではないか‥、と感じることもあるかもしれない。しかしそんな時は、「共に苦しみつつ支え導いてくださる主イエスを、もう一度、ただじっと見つめてみる‥」そのようなパウロの姿勢を思い出してみたいものだ。
 そのようにして主イエスを見つめつつ一歩一歩歩んでいくなら、きっと神が備えてくださっている時に、本当の解決が与えられる‥、と今朝の聖書の箇所は私達に語りかけているのではないかと思うのだ。

礼拝説教要旨(7月12日)聖霊降臨節第7主日礼拝

使徒言行録9:36-43

「受け継がれるべき業」竹島 敏牧師

今日のこの聖書箇所に記されているのは、いわゆる奇跡物語であるが、その中心は「大切な人の死をいたみ、主に心からの祈りを献げるなら主が新たに、召されたその人を中心とする交わりを与えてくださる」ということなのではないだろうか。私たちもまた、すでに召された信仰の友のために、主に心からの祈りを献げるなら、主はきっと、その都度その友を私たちの間に生き生きとよみがえらせてくださり、交わりを持たせてくださるに違いないのだ。 
「私たちの主イエスは、ペトロを通してタビタを人々の間に返された‥、今後もタビタが人々の間に生き続け、慰めと支えをやもめたちに与え続けるように主はタビタのことを忘れさせないようにした」と今日のタビタのよみがえりの物語を受け止めることができるのではないだろうか。主はペトロを用いてタビタを人々の間によみがえらせた。そのタビタがこつこつとなしてきた業は、もとをたどれば、主イエスが専念してこられた業でもあった。それは決して「数」や目に見える「実績」にのみ心奪われることなく、不遇のなかで寂しさやつらさに耐えている人たちを慰め、励まし、新たな希望へと導いていくための業‥、しかし決してすぐに目に見えるような形で成果があらわれることのない業であった。 
ペトロもタビタもそうであったように現代に生きる私たちも主イエスからそのような業を受け継ぐよう促されているのだということを覚えておきたいと思う。そのような、よみがえりの出来事を目指して、今、何をなすべきかを見出していきなさいと、私たちは促されているのではないかと思うのだ。

礼拝説教要旨(7月5日)聖霊降臨節第6主日礼拝

エフェソの信徒への手紙2:11-22

「キリストの平和に仕える」竹島 敏牧師

今朝のエフェソ書の19節以下においては、「主における聖なる神殿」へと共同体が成長していくことについて述べられている。そしてキリストは、その隅の親石、また、かなめ石である、と語られている。21節には「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」とあるが、そのように様々な違いを持つ一人一人を、教会という一つの体に「組み合わせていく」のがキリストの愛の働きであると告げられている。このキリストの愛の働きなくしては、建物はばらばらになり、分裂分派してしまうのだ。 
 そして最後の22節では、「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」と告げられ、共に、このキリストの愛の働きに参加し仕えていくようにという促しが与えられている。
 確かに、全てのことにおいて余裕が失われつつあるのが、今の私達の時代の一つの特徴なのかもしれない。しかし、もしそうであるならば、そしてそのままであるならば、そこには、いつまでたってもキリストイエスの愛がない‥、殺伐とした風景しか見えてこない‥、ということになってしまう。どうか私たちは、このような時代のなかにあっても、「敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄」してくださった十字架の主イエスを見失うことなく歩んでいきたいと思う。そして、どのような場にあっても‥、教会の内でも、外でも、その主を見つめ証し続ける道を歩み続けていきたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(6月28日)聖霊降臨節第5主日礼拝

ヘブライ人への手紙12:18-29

「苦難の共同体」竹島 敏牧師

私たちは日々、様々な言葉を聞きまた語って生きている。しかしその多くはあまり意味のない言葉であったりまた、傷つき傷つける言葉であったりするのではないだろうか。そのような言葉の渦の中で私たちは怒り、悲しみ、むなしく疲労して生きているのだ。職場や学校や時には家庭においてさえそのような状況があるのではないだろうか。
しかしそのような悲惨をつらぬいて主イエスの言葉は私達一人一人に新たな命と力を与え、生きる希望を与え導くのだ。この愛と真実に満ちた言葉を受けて具体的にはまだ何も解決していないにもかかわらず静かな平安のうちに事にあたっていくことができるのだ。主に従って歩むなら必ず解決するとの約束が与えられているがゆえに全ての恐れから解放されていくのだ。 今、政治の場を始めとしてあらゆる場において真実の言葉が失われてしまっている。無意味な言葉や悪意に満ちた言葉が飛びかいそのような言葉の渦に私達もまた時にまきこまれてしまいそうだ。しかしであるからこそ私たちは日曜日ごとに教会に集い聖書を通して語られる主イエスの真実の言葉を受けて立ち直っていきたいと思う。教会は誠実な生き方を志すが故に様々な苦難を背おわざるをえなかった人達が共に集い、御言葉にあずかる苦難の共同体なのだ。この共同体においてこそ私たちは真実の安らぎを得て希望を与えられて新たな一週間の旅路へと旅立つことができるのだ。今日も私たちは主イエスのみを見つめ愛ある真実の言葉を身につけこの世の流れにあらがって、神の国の流れに従って、それぞれの場へと遣わされてまいりたいと思う。

礼拝説教要旨(6月21日)聖霊降臨節第4主日礼拝

ヨハネの手紙一2:22-29

「注がれた油」早川 真伝道師

私たちは知識を得たから救われたわけではありません。確かに、私たちはキリストのことを知ったから、ある意味では知識を得たから救われたということはできます。しかし、その前提としてキリストが十字架にかかって死んでくださった現実によって救われたのであります。その現実を信じ受け入れたからこそ、聖霊が注がれ、永遠の滅びから救われたのであります。
今日の御言葉の中で「油」と言われていますのは、聖霊のことを意味しています。当時、油は中東の民族にとって貴重なものでした。乾燥しており、暑苦しく、体力を消耗させる気候の中で、油(香油)は生気をよみがえらせ新鮮な気分を回復させました。そのように聖霊も私たちの乾燥した心、苦しく消耗した心を回復させ蘇らせてくださいます。
クリスチャンは高度な理論や証明は必要がないのでしょう。初めから聞いたこと、イエスはメシア、キリストであるということを信じるだけで十分なのだと言っているのであると思います。そのほかのことは、全てのクリスチャンに与えられる聖霊が、時にふさわしく教え導かれるというのであります。
私たちに与えられたこの聖霊は取り上げられることがありません。私たちは、度々この聖霊を悲しませるものでありましょう。しかし、私たちがそのような者であることを百も承知で神は私たちに聖霊をくださったのであります。その恵みに心から感謝し、どんな時も自分自身に絶望することなく、共にいてくださる義なる御方、注がれた油である聖霊と共に、悔い改めつつ、歩んで行きたいと思います。

礼拝説教要旨(6月14日)聖霊降臨節第3主日礼拝

ローマの信徒への手紙10章5〜17節

「福音を抱きしめる」竹島 敏牧師

 今朝のローマの信徒への手紙の17節には「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあるが、私たちは、物事が順調にいっている時よりもむしろ、苦しみに出会い、せっぱ詰まるところまでいって初めて真剣に、切実に救い主を求め、キリストの言葉を求めるのではないかと思う。
 確かにキリストの言葉に出会ったからと言って、負わされている重荷からすぐに解放されるのではないかもしれない‥、与えられている課題の全てが即座に解決するのではないかもしれない‥、もしかしたら、見た目には何も変わったところはないかもしれない‥、しかし、目には見えない形で一人一人の心に聖書の言葉を通して働きかけてくださる主イエスと出会ったなら、人は、必ず変えられていく。そして変えられていった人は当然、今までとは違う新しい行動、生き方をし始めるようになり、そこに新たな道がひらけていくのだ。だからあせる気持ちをおさえて聖書を開き、主イエスと出会っていくために、聖書の言葉を繰り返し繰り返し、抱きしめるようにして読み、心に想う、ということが大切なのではないだろうか。
 様々な不条理な苦しみに出会い、せっぱ詰まって助けを求める私たちにイエスキリストは聖書を通して救いの言葉を与え、導いてくださる‥、必ず、福音をくださる‥、そのことを信じて、真剣に聖書に向き合っていきたいと思う。

礼拝説教要旨(6月7日)聖霊降臨節第2主日礼拝

テモテへの手紙一6章11〜16節

「輝いて生きる」竹島 敏牧師

 今朝、私たちに与えられたテモテへの手紙はイエスをキリストと信じて生きる者たちには戦い抜かなければならない戦いがあることを伝えている。その戦いを戦い抜くことで永遠の命を十分に手に入れることができるというのだ。永遠の命とは私たち誰もがいつかは必ず迎えなければならない肉体の死をこえて神の御前に生き生きと輝き続ける命のことだ。
 また、マタイによる福音書の18章3節には「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とあるが考えてみると永遠の命を手に入れるとは、幼かった頃に与えられていた神からの純粋な命を少しずつでも取り戻していくということなのかもしれない。「正義なんて‥、愛なんて‥」としらけてしまうのではなくもう一度まっすぐに「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めて」生きていこうとすること、それはまさに幼かった頃に与えられていた神からの純粋な命を取り戻していく旅なのであり傷つくことによって失ってしまった自分自身を取り戻していく旅なのでもあると聖書は告げているのではないだろうか。そのような生き方を再び取り戻していく時に私たちはもう一度、命を輝かせて生きることができるのではないだろうか。もう一度、今朝の12節後半の言葉を聞きたいと思う。「命を得るためにあなたは神から召され多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」。
 神からの純粋な命を取り戻し再び命を輝かせて生きていくために聖霊のお導きをご一緒に祈り求めたいと思う。

礼拝説教要旨(5月31日)聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ礼拝

ルカによる福音書11章1〜13節

「いのちの風」竹島 敏牧師

 今日はペンテコステ‥、イエス様が復活して50日目に、熱心に祈り求めていた弟子たちの間に聖霊・いのちの風が与えられたことを記念し感謝する日である。弟子たちの間に与えられたいのちの風は、確かにあの日、弟子たち一人一人の心と体を慰め、支えたことだろうと思う。その頃の弟子たち一人一人にもいろんな悩みや苦しみがあったはずだと思うが、十字架のイエス様が全て、その悩み苦しみをすでに味わってくださって、その上で今、聖霊となってこの自分たちのすぐそばにいて支え、導こうとしてくださっている‥、それは本当に大きな力だったと思う。
 そしてその同じ風を今朝、私たちは共に受けようとしているのだ。教会の礼拝堂に集まることはできず、それぞれのところに散らされて礼拝をささげているとは言え、私達は小さな子どものみなさんから歳すすんだ方々まで、共に、あのいのちの風を御一緒にいただこうとしているのだ。祈り求める者に天の神は聖霊を与えてくださる、とイエス様は言っておられる。
 弟子たちが慰められ励まされ、その力によって立ち上がって教会をつくっていった「いのちの風」を私たちも受けて、再び歩み始めたいと思う。私たち一人一人、皆、さまざまな悩みや痛みや苦しみを背負っている。しかしすでにその全ての痛み苦しみを味わわれた上で寄り添い、支えてくださる方の風‥、聖霊に導かれて歩み出すならば、きっと新たな希望の道を見出すことができる‥、この聖書の約束を信じて、聖霊に身をゆだねて歩みだしたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(5月24日)復活節第7主日礼拝

ヨハネによる福音書7章32〜39節

「生ける水の川」早川 真伝道師

誰も、必要を覚えなければ水のもとには来ません。自分が渇いている、ということを自覚するものだけが水のもとに来ます。私たちは自分が渇いているという自覚を持つでしょうか。
マザーテレサは「愛に渇く」と言ったといいます。私たちは、身体的に渇くことはなくても、この愛に渇く者であるのではないでしょうか。私たち自身が愛されることに渇き、また、他者を愛する愛に渇いているのではないでしょうか。この渇きを癒すには、私たちは神の愛のもとに行かざるを得ません。御自分の大切な独り子を、十字架の上に付けてまで私たちを救おうとなさった神の愛、十字架についてくださったイエス・キリストの愛、そして、目に見えずとも絶えず主と共におられ、力を与え導かれた聖霊の愛。その神の愛のもとに行くとき、私たちの内なる渇きは初めて癒されていくのであります。
来週はペンテコステです。全てのものを生かす生ける水の川は、この聖霊のことであると今日の箇所では語られています。キリストを信じる者全てに与えられる聖霊が、私たちの汚れを清め、また世の汚れを清めるということを信じたいと思います。私たちにそのような力があるのではなく、神である聖霊御自身がそのようにしてくださいます。たとえ今はそのように思えなくても、きっと神はそのようにしてくださる、ということに期待をもって歩んで行きましょう。どれほど死んだような私たちの現実も、この生ける水の川が流れる所では、全てのものを豊かに生き返らせるということを信じ、主の愛に浴しつつ、主の愛を指し示しつつ、歩んで行きたいと思います。

礼拝説教要旨(5月17日)復活節第6主日礼拝

ヨハネによる福音書16章22〜33節

「天からのまなざし」竹島 敏牧師

 私達の主イエスは、どんな困難な状況になっても、ご自身の使命を全うするために、この地上の生涯をまっすぐに歩んでいかれた。それは、ご自身が神のひとり子であったから、ということと共に、いつも、御心が成就している天を見上げて祈り、そこから逆に、この地上の世界を見つめておられたからなのではないかと思うのだ。つまり、「どんなにこの世界が悲惨な状況であったとしても、天において、御心は成就している‥、神の御心にかなった世界が天には成就している。そして、この地においても必ず、その同じ御心が成就していく」、そのような約束に生きていたからこそ、主は、どんな困難な状況になっても、ぶれることなく、神のアガペーの愛の道を行くことができたのではないだろうか。
 そしてこのような主イエスの姿勢から私たちは、天において成就しているその救いから逆に、現在の自分を見つめて生きる、という、ものの見方を学ぶことができるのではないだろうか。そしてその時私達は、今の自分の人生がどんなに悲惨な、また、行き詰まったものに見えていても、なお将来に向かって開かれており希望がある、と告白できるのではないだろうか。
 私たちの主イエスがいつも、天を仰いで祈りを献げ、天からのまなざしに支えられて歩んで行かれたように、私達もまた、天からのまなざしに支えられて‥、今は、天から聖霊を送り、私達を見守り導いてくださる主イエスのまなざしに支えられて、日々の歩みをすすめていきたいと思う。

礼拝説教要旨(5月10日)復活節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書15章18〜27節

「選び出された者たち」竹島 敏牧師

私たちは皆、キリスト者になるように、とここに選び出された者たちだ。キリスト者とは、一言で言えばキリストにならって生きる者達のことだ。キリストにならって生きる、とは、キリストの正しさや優しさを見て、それを身につけて生きる、ということだ。しかしそのような生き方にはまた苦しみも伴う。
でも、多くの苦しみに満ちた終末的な状況のなかで、私達が気づかなければならないことは、今、主イエスは、私達がどのようにこの状況を切り抜けていこうとするのかを見ておられる、ということなのではないだろうか。
私達には、日々様々な葛藤があり、闘いがある。主の弟子でなければ、こんなに葛藤することはなかったかもしれない‥、もっとこの世とうまく折り合いをつけて楽に生きることができたかもしれない、という想いがわいてくることもあるかもしれない。しかし、そのような時こそ、主もまた深く葛藤され苦しまれた、ということを思い起こしたいと思う。そして今も、私達がキリスト者として深く葛藤し苦しむ時、主イエスご自身が共に葛藤し苦しんでくださっているということを忘れずにいたいと思う。
激しい迫害の中で、様々な苦しみを負いつつ主イエスが求め続け、またヨハネの共同体が求め続けたもの‥、すなわち神の国を、私達もまた葛藤し苦しみながらも、真理の霊に導かれつつ求め続けていきたいと思う。そのために、私たちは選び出された者たちなのだという自覚を今朝私たちはあらたにしたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(5月3日)復活節第4主日礼拝

ヨハネによる福音書21章15〜25節

「イエスの愛」竹島 敏牧師

今朝の聖書の箇所が私たちに教えようとしているのは「神と出会うために苦しみを背負いなさい」ということなのではない。そうではなく「どうすることもできない苦しみの深い淵に、私たちの主イエスは両手をひろげて立っておられる」ということだ。そして「その淵にたたずむ私達をしっかりと支えてくださり決して一人ではないということを感じさせてくださる」ということなのだ。
家族や自分をとつぜん襲ってくる病、また人間関係の葛藤など私たちの人生にはどんなに回避しようとしても回避することのできない多くの苦しみがある。なかには生涯向き合い続けなければならない心や体の痛みもある。解決しそうもない人間関係のもつれや葛藤をしばしば経験する。しかしそのようなどうすることもできない苦しみに満ちた私達の人生がどのような終わりを迎えようとも主はしっかりと私達一人一人を受け止め抱きしめてくださる、たとえ未解決の問題や苦しみを抱えたままで終わっていかねばならないとしても、そのような私達一人一人をもしっかりと受け止め抱きしめ、慰めのうちに天へと連れ帰ってくださるのだ。私たちの生涯の終わりにはそのような救いの道が備えられている‥、そしてその時きっと主から全ての答えが与えられる‥、だから、その時まで、主の御心をたずね求めつつ、なおせいいっぱい生き抜いていきなさい‥、と天から呼びかけられているような気がするのだ。そのような呼びかけに応えて今日という一日を生きようとする時、私たちの内に、新たな希望が生み出されるのではないだろうか。

礼拝説教要旨(4月26日)復活節第3主日礼拝

ヨハネによる福音書21章1〜14節

「夜明けの食事」早川 真伝道師

弟子たちは今までイエス様という指導者に従って網を捨て、舟を捨ててきました。しかしその指導者であるイエス様がいなくなった今、弟子たちは急に目標がなくなってしまい、心にぽっかりと穴が開いたような空虚感に襲われていたのではないかと想像します。そのような彼らにとって、漁は空っぽになってしまった心を埋めるための労働であったのではないでしょうか。
ペテロを始めとする漁師出身の弟子たちは、きっと魚を取ることならできると考え、漁に出たのだと思います。しかし、時にこの「できる」は神様の手によって完全に妨げられます。いつもできていたことができない。それも、徹底的にできない、という状態になった時、私たちは自分の力の限界を知り、自分よりも大きな存在である神の御心の前に、膝をかがめて、初めてへりくだることができるのではないでしょうか。
この後ペトロたちはペンテコステの出来事によって聖霊を受けて福音宣教の働きへと出て行くことになります。その前に主はもう一度、この福音宣教の働きが主御自身の業であり、私たちの力で「できる」ものではないということをはっきりと示されたのではないでしょうか。
私たちが主の言葉に聞き、主の言葉に従う時、福音は豊かな実りをもたらし、多くの人を満たすことができるとここで主は告げておられるのであります。それが夜明けであればあるほど、私たちは、主の備えてくださった食事を、いっそうの感謝をもって、受け取るに違いありません。私たちを霊肉共に活かすこの主の食卓に、悔い改めと感謝とをもって集う私たち一人一人でありたいと思います。

礼拝説教要旨(4月19日)復活節第2主日・イースター礼拝

ヨハネによる福音書20章1〜18節

「復活の朝」竹島敏牧師

今朝のこの聖書の箇所を通して私たちは、弟子たちと復活の主との喜ばしい再会の出来事を知る。しかしそれは、いわば一瞬の出来事にすぎず、やがてイエスは天にのぼっていかれる。イエスと弟子たちとは天と地における新たな関係に入っていく。しかし弟子達は、まさにそのことを通して、やがて、弟子たち同士のこの地上での別れをもまた、天と地における新たな関係に入っていくこと、と捉えることができるようになり、そのような弟子たちの永遠の交わりのなかで彼らは、死別した弟子たちの姿や言葉が、よみがえってくる体験を何度も何度も味わい、その体験によって慰められ励まされて、困難な宣教の業をなし続けていったのだろうと思う。
イースターは、主イエスが復活されたことを喜び感謝する日だが、それは、天と地という物理的な距離を超えて、主イエスと弟子達との霊的な交わりが深められていくその出発点でもあったということを覚えておきたいと思う。主の復活と昇天という出来事は、そのように当時の弟子達と主イエスとの関係を新たなものにしたのだ。私達もまたやがて、この地上を去っていく者達である。しかし私達が今、復活の主イエスとの霊的な交わりに深くあずかっていくならば、天と地をつないでくださる復活の主の導きによって、先に召された人達とのより親密な交わりが与えられるのだ。私達の主は、私達一人一人の名を呼んで、慰め、励まし、そして先に召された愛する人の、声や言葉や姿を、よみがえらせてくださる復活の主なのだということを感謝をもって受けとめたいと思うのだ。

礼拝説教要旨(4月12日) 復活節第1主日礼拝

ヨハネによる福音書27章32~44節

「自分を救わない神の子」竹島 敏牧師

私たちの主・受難の主は、最後の最後まで主の御心に従い、十字架の上で死んでいかれました。まさにそれは、自分を救わない神の子の姿でありました。そしてその姿は、私たち一人一人にとても大切なことを指し示しています。それは、私達にとって最も大切なことは、自らに課せられた問題が即座に解決することなのではない、そうではなく、主の御心にかなった道を歩んでいるかどうかなのだ、ということです。
主の御心にかなった道を歩んでいるのであれば、私たちが抱える様々な問題も、やがて必ず解決していくのでありましょう。しかし、主の御心にかなわない道を歩んでいるのであれば、たとえ、問題が解決していくように見えていても、それは決して真の解決にはなっていかないのです。だから大切なのは、たとえ遠回りのように見えていても、主の御心にかなうと思われる道の方を選び取っていくことなのです。その方を選び取り続けていくことなのです。
不条理な出来事や、困難の只中にこそ、私達の主は共にいてくださいます。そしてご自身がかつてかかられた十字架への道を、もう一度、私達一人一人に見せてくださり、その道をともに歩むことを促されるのです。その道を通ることでしか得られない真の解決と真の平安を私達一人一人に与えるために主は、その道を共に歩むことを私達一人一人に促されるのです。今、私達一人一人に課せられているそれぞれの問題に思いを馳せつつ、主が歩んでいかれた十字架への道を今一度しっかりと直視したいと思います。

礼拝説教要旨(4月5日) 受難節第6主日礼拝

ヨハネによる福音書18章1~14節

「十字架への道」竹島 敏牧師

 今朝のこの聖書の箇所は、つまるところ「具体的には何の望みもない中で、なお、神にゆだねることに希望を見るということ、それこそが十字架の希望だ」と暗い想いに打ちひしがれそうになっている私たち一人一人に訴えているのだろうと思います。ではその私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何なのでしょうか。それは、すべてを失ってもなお、向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。絶望の中で、枯れるほど涙を流しながらなお、向こうから一方的にさしてくる光、これが十字架の希望です。全てを失ったと感じ、また、具体的には何の見通しもないにもかかわらず、なぜか、心の一番深いところに平安が与えられている、「きっと大丈夫」という確信にさえ似た思いが与えられているということ、それが十字架の希望なのです。
 イエスは、おそらく、ユダや、その他の弟子達にも捨てられ、神にさえ捨てられたと感じてもなお十字架の上で、この光を見続けていたにちがいありません。この光に照らされていたからこそ最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と告白したにちがいないのです。そして、十字架の向こうから射してくるこの光を主は、ユダの裏切りによって、逮捕されていくこの時すでにしっかりと見つめていたからこそ、憐れみのまなざしをもって、なおユダを見つめ、また、これから次々と自分を裏切っていく弟子達を、なお守り抜くことがおできになったのではないでしょうか。私達の救い主・受難と復活の主イエスが、すでにこの時から見続けていた光を、私達も見つめつつ、この受難週を歩んでまいりたいと思います。