礼拝説教要旨(3月25日) 受難節第6主日礼拝

『私たちを新しくする生きた水の流れ』
中條康仁神学生
エゼキエル47:1-12、ヨハネ7:37-39

本日の新旧約聖書の御言葉には、それぞれ「水の流れ」について記されています。
ヨハネ福音書では、主イエスは仮庵祭の最終日に大声で叫ばれた(7:37)と記されています。何故そのようにされたのでしょうか。それは主イエスが人々の心の奥底を見られたからではないでしょうか。祭りや儀式を盛大に祝う人々の心は、神を慕い求めるような、飢え渇くような心ではなかった。だからこそ渇きを自覚させるために叫ばれたのです。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(7:37)。これは、わたしを信じなさい、ということです。わたしをあなたの救い主・キリストとして受け入れなさい。そうするならば、あなたの渇いた心は必ず潤される、と約束されたのです。
 また続けて言われました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7:38)。「生きた水」とは聖霊のことです。主イエスを信じるならば、新しくされた心の奥底から、聖霊が川のような水の流れとなって現れる。そして、自分のみならず他者をも神のご支配の元に導かれ、共に神の救いを喜ぶ存在へと変えられていく、という約束です。
 この聖霊の力は、人々の救いに留まりません。渇いた大地をも潤す神の御力です。エゼキエル書では、預言者エゼキエルは回復された新しい神殿の幻を見ますが、そこには命の水が回復をもたらす象徴として語られています。神殿の敷居の下から滴り落ちる水が、やがて大きな川の流れとなり、汚れた海(死海)にまで至る、その過程において生命は甦りの恵みに与る、という幻です。祝福に満ちた幻です。幻は神が見せてくださったものである以上、必ず実現する神の約束です。だからこそ期待して待ち望む必要があります。
 私たちは、神を慕い求める渇きをもって、神の御前に進み出たいと願います。新しく造り変えてくださる神の御力にこれからも信頼して歩めますようお祈りいたします。

礼拝説教要旨(3月18日) 受難節第5主日礼拝

『とわのいのちへ』岩本幸太郎伝道師

ヨハネによる福音書12:12-26

「一粒の麦は地に落ちて、死ななければ」耕やされたであろう一粒の麦は土の中に落ちて、何もなくなってしまったように思われたが、一粒の麦はやがて緑の芽が吹き出し実り、そこに神の不思議な愛のみわざが映し出されているのです。
旧約聖書イザヤ書52章から53章までに語られる『苦難のしもべの歌』があります。ここは読むたびに感動が溢れます。この預言の歌をなぞるように主イエスは来られました。主の歩まれた福音書に戻りましょう。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。ヨハネ12:25の御言葉も一粒の麦について結び合った御言葉として覚えていなければなりません。
「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」(26節)。
大切なことは、キリストは確実にどこにでもいてくださる。その主イエスがおられるところに自分もいるのだと今日は再確認して方向を正してください。

さらに最後26節後半、

「父はその人を大切にしてくださる。」

という御言葉が付け加えられています。

「大切にする」ということばはとても重い意味を持った言葉です。神があなたを重んじてくださる。

“イエス様、あなたこそキリストです!”と告白した時、神はあなたこそ重んじ、宝物にしてくださるのです。イエス様も神の御子、同時に人の子でもあった。悲しい別れもあったことでしょう。しかし人々の救いのために一粒の麦である肉体を捨てる使命を取られたのです。暗闇のなかで一筋の光・栄光へと昇華させるための唯一なる人の子・神の御子でしかできぬ御業を成し遂げるためでした。十字架にかかって人の子であるならば生命半ばにて一見、死、死に敗けたのかもしれない。けれどもイエスは神の最も憎んだ死に打ち克つ。御子によってあなたにいずれ訪れる死を共に倒すためでした。今は卒業、別れの季節です。それらは一見辛いです。でも一粒の麦は土の中に蒔かれ、見えない、でも確実に芽吹き、実るのです。このことを信じるのならば別れ・断絶・消滅・死をも我らは超えます。勝つ!それはイエスをメシア・キリストだと信じる群れは、イエスにあって一つとなり、完成へと昇華する。我らは“アーメン”と言ってさらに信仰を強めましょう。 

礼拝説教要旨(3月11日)受難節第4主日礼拝  

ルカによる福音書20章9〜19節
「捨てられた石」竹島敏牧師

 今朝のルカによる福音書は、捨てられた石が、隅の親石になった、と告げています。またペトロの手紙一の2章の4節以下には次のように記されています。「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」。
 人々からは見捨てられたけれども、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石、それがイエスだと、ペトロの手紙は言っているのです。そしてあなたがた自身も生きた石として用いられるようつとめなさい、と言われています。
 私達の主イエスキリストは、今も、隅の親石のように、この世界の片隅から私達の住む世界を見守り、支え続けてくださっています。決して大事にされず、その存在を覚え続けられることもなく、しばしば捨てられた石のように価値がないものとされている…、しかし捨てられたその石が私達を守ってくださっているのです。この世界の隅の親石である私達の主は、今朝も、私達の生きる世界全体を見つめ続けておられるのだということを思います。
 東日本大震災後7年がたちましたが、今もなお主は、涙を流しつつ、憐れみと慈しみのまなざしをもって被災地にある方々を支えようとし続けておられ、そして、大震災前とはちがう新しいあり方、生き方を、私たち全ての者に促し続けておられるのではないかと思います。そのまなざしを深く深く感じながら、受難節、このレントの時を歩み行きたいものだと思います。

礼拝説教要旨(3月4日)受難節第3主日礼拝   

マルコによる福音書8章27〜33節
「神を思う」竹島敏牧師

 今日のこの聖書箇所でペトロが主張していることは、つまるところ「苦難と十字架ぬきの栄光」ということだったと言わざるをえません。しかし聖書は、そのような自分勝手な願望が挫折していくところからまことの信仰が始まる、ということを示そうとしているのではないでしょうか。
 私たちもまた時に、「苦難と十字架ぬきの栄光」を求めてしまうことがあるのかもしれません。次から次へとやってくる苦難のなかで、私たちもまたペトロのように、イエスに対して文句を言いたくなることがあるのかもしれません。
 しかし、そのような時こそ私たちは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になってくださったイエスを見つめ‥、十字架の死に至るまで従順に歩んでくださったその意味を深く思い起こしたいと思うのです。
 私たちの主イエスは、今も、十字架につけられた御姿を示しつつ私たち一人一人の傍らに立ち、私たちそれぞれに背負わされている苦難に連帯してくださっています。そして、私たちそれぞれもまた、互いの苦難に連帯して生きるように、と促しておられるのです。レントのこの時、この主の促しをどれだけ深く感じ取っていけるのか‥、そこに、復活に向けた私たちの希望がかかっているように思います。
 私たち一人一人の救いのために十字架にかかってくださった神・イエスを思い、その促しに従っていくことこそが、まことに人を愛することにつながっていくのだと信じて、このレントの時を歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(2月25日)受難節第2主日礼拝

『御子をほめたたえよ』

マタイによる福音書15:29-39
岩本幸太郎伝道師

さて、今日はマタイによる福音書第15章29節から39節から御言葉に聞きます。ここでは、イエスキリストの成された合計2つの奇蹟が記されています。

まず一番目、小見出しにもありますように主イエスが大勢の病人をいやされた。

二番目、主イエスは四千人に食べ物を与えました。31節によると主イエスの癒しの御業を見た群衆の反応が記され、そうイザヤ書35章にて預言されていた神の約束が、主イエスの御業によってついに実現したのです!いよいよ群衆はこの神の救いの御業を目の当たりにしたのです。そして「イスラエルの神を讃美した」とあります。主イエスこそが預言されていた救いをもたらす御方、旧約聖書・イスラエルの神の御子という確かな救い主であるといったあかしです。異邦人の

「イエス様!主よ、どうかお助けください」の願い、祈りをも顧みてくださるという真理がここで証明されているのです!

次に、大勢の病人を再びイエスキリストは癒されました。次に弟子たちを呼び寄せ、「群衆がかわいそうだ。」とナザレのイエスという人は他の人たちのことに感心をもって嘆かれました。その人の悩み、苦しみ、このイエス様の“かわいそうだ”という嘆きを私たちもわが思いにもしたいと皆さんは感じませんか。さらに今日の主イエスは弟子たちを呼び寄せて「空腹のままで解散させたくない。」と問われるのです。主イエスが弱っている人々をその憐みの眼差しよって養われ、慰められ、力づけて下さるのです。そして今、主イエスは私たち一人一人に、同じ恵みを与えられます。主イエスがご自身の命を犠牲にするほどの深い憐れみと同情とを持たれた、そのことを覚えながら受難節を過ごすことが重要です。

イエスキリストの愛によって私たちの心が満腹し、養われ、力づけられていくためです。この四千人の人々と共に主イエスの恵みに連なり、救い主の愛に満たされ、御子をほめたたえたいと思います。

礼拝説教要旨(2月18日)

礼拝説教要旨(2月11日)降誕節第7主日礼拝・信教の自由を守る日

マルコによる福音書2:1-12
「ひとりのために」竹島敏牧師

 今朝私たちに与えられましたマルコ福音書には、「信仰」とは何か、また「教会の交わりとは何か」ということが示されているように思います。
 この四人の男性たちは、あえて常軌を逸した行動にでました。そして主イエスは、この常軌を逸した行動を、「信仰」だ、と評価されました。そしてこの四人の男性たちの「信仰」の故に、重い病を負うこの人を癒されたのでありました。ここで、癒されたこの人の信仰は何も問われていない‥、この人を連れてきた四人の人の「信仰」の故に、癒しの業が行われた‥、ということに、私たちは注目しておかねばならないと思います。
 この四人は、隣人の痛みをわがことのように捉え、何としてもなおしたい‥、少しでも楽にしてあげたい‥、その一心で行動しています。
 今日、こうして新たに信教の自由を守る日を迎えて私たちは、新しい気持ちで信仰の歩みを踏み出していきたいと思うのですけれども、しかし最も大切なことは、大きな事業を行うとか、大きな集会を行って何人人が集まった‥、ということだけなのではなくて、ずっと苦しみ続けてきた一人の人の痛みが、いやされる、ということなのだと覚えておきたいと思います。
 様々な争いや分裂に満ちたこの社会のなかで、また、この教団のなかで、私たちは、あくまでも出会う一人一人を大切にし、違いを認め、学びあい、痛みを共有する、という、この小石川白山教会の信仰をこれからも大事に証し続けていきたいと心から願うものです。

礼拝説教要旨(2月4日)降誕節第6主日礼拝

『良い地に落ちた種』
箴言2:1-9
マルコによる福音書4:1-9
竹島 敏牧師

今朝、私たちに与えられましたマルコ福音書は、種を蒔く人のたとえ、です。大変有名なイエスのたとえ話ですけれども、読むたびに、新たな気づきを与えてくれる深みのある話です。その下の段には、このたとえ話の説明、が出ていますけれども、それによれば、種とは、神の言葉である、となっています。
神の言葉・種をいただいたなら、心の中にそれをしっかりとおさめて育み、芽を出させ、実りを得させるよう努めなければならない‥、そんな良い土地になるよう励みなさい‥、というのが、このたとえ話で言われていることなのだろうと思います。
いっぽう、そのような種を盛って生きる私達人間存在を「悲しみの器」という言葉で表現された方がおられます。「人は皆、悲しみの器だ」と。
有国智光さんという僧侶ですが、本当に真実を突いた言葉だと思います。
確かに、私たちの日々は、様々な不条理と悲しみに満ちています。
誰もが、宇宙的な孤独を抱え、様々なやるせなさを抱えて、何とか生きています。しかし、そのような日々の中で、なお、自らの心の中に蒔かれた種を‥、御言葉を、大切に育んでいく良い土地であろうとつとめていくならば、きっと誰にも、光り輝く思いがけない一瞬が与えられるのではないでしょうか。そしてその一瞬が、光り輝く思い出のひとこまになり、私たちの重たい日々を支えて、やがて私たち一人一人を神の国へと導いていくのだろうと思います。
私たち一人一人に、「光り輝く思いがけない一瞬」という実りを得させてくれる御言葉の種を、心の中で大事に育み続けていきたいと思います。

礼拝説教要旨(1月28日)降誕節第5主日礼拝

申命記30章11〜15節
マルコ福音書1章21〜28節
「主イエスの教えと業」竹島敏牧師

 今朝のマルコ福音書の箇所は、安息日に会堂で、神の教えを人々に伝えるイエスの姿を記しています。しかし主イエスの教えと業は、私たちにははかりがたい‥。主は時に、私たちの思いや考えをはるかに超えて宣教の業を起こされます。しかし、「そんなこと起きるはずがない‥、」と私たち人間が決めつけてしまうと、その業は起こされないままになってしまうのです。なぜなら主は、私たち一人一人を用いて、宣教の業をすすめるお方だからです。その私たちが身を引いてしまったら、多くの場合、主イエスの宣教の業は起こりようがなくなってしまいます。ですから私たちは常に、主イエスが今、この地上の世界をどのような眼差しで見つめておられるのか‥、そしてどのような新たな導きを私たち一人一人に用意してくださっているのだろうか‥、と、思いめぐらしていることが大切です。そして、心を開いていることが大切なのです。
 私たちが生かされているこの時代にも、「汚れた霊」、すなわち、神に創られた私が、ありのままの私として生きていくことをゆるさない、さまざまな力が存在しています。
様々な抑圧を生み出す「汚れた霊」の力は強く、時に、教会の中にまで、その霊の力は及んできます。しかし私たちは、何よりも教会にとって大切なことは、人の権威ではなく主イエスの権威が‥、神の国をこの地上にもたらす主イエスの権威が教会の中に充ち満ちていくことなのだということをしっかりと心に刻みつけて、命と幸いを得る道を、一歩一歩、歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(1月21日)降誕節第4主日礼拝

『招かれた罪ある人』
マタイによる福音書9:9-13
岩本幸太郎伝道師

マタイは収税人といった職業で、実はこの仕事はユダヤの民衆から嫌悪されていた、当時ユダヤはローマ帝国の植民地でした。収税人マタイはローマ帝国に収める税金を民衆から取り立てる人だったのです。

イエスキリストは収税所の場にて腰掛けているそのマタイを見かけられ、収税所の中に立ち寄るのです。そのマタイのこれまでのこと、一切を主がとらえた瞬間でした。イエスはこう声をかけられました。

「わたしに従いなさい。」

マタイは特に収税人となって以来、誰も彼に向けて声をかけてくれないような人だったかもしれない。主の『わたしに従いなさい』とは、友よ、これから共に歩んでいこうといった、決定的な出会いがこの短い文章に含まれています。

生きながらもうつむきながら、金銀まみれの収税人生活を送ってきたマタイですが、今日のイエスキリストの招き、差した光に向かい、彼は顔をあげました。するとすべてが変わったのです。主イエスは私たちに対しても「あなたはうつむいている顔をあげなさい、闇ではなく、光を受け入れなさい。立ち上がりなさい。」と今日、あらたに2018年を歩んでゆく我ら一人一人に対しても語られるのです。

そこで彼は自分を招き声をかけてくれたイエス様にぜひ、ということで今度は彼自らが招く側になりました。彼は仲間を集めて救われ、新しく生まれ変わった自分の誕生会を催すのです。 そうイエスというお方は罪人を招き、みなさん、人の肉体を御子は地上にて移り人の生活を体感されました。だからこそ私たち人間の気分や気持ちも苦しさもよくわかってくださるイエス•キリストなのです。さらに罪人を招くために天の国からやってきたのだ、と語られるのです。

礼拝説教要旨(1月14日)降誕節第3主日礼拝

『主イエスの決意』

マルコによる福音書1:9-11
竹島敏牧師

主の年2018年、この地上に下り、あえて洗礼を受けられた私たちの主イエスキリストは、私たちそれぞれの下り坂の人生を、十字架と復活に向けて共に担う決意のもと、今、私たちの傍らに立っておられるのです。そして手をさしのべて「共に下っていこう」と呼びかけておられるのです。この呼びかけに応え、さしのべられた御手をしっかりと握るならばその時、私たち一人一人の心に、かけがえのない平安と、私に与えられたこの現実を直視しよう、という勇気がわいてくるのではないでしょうか。

主イエスがヨハネから洗礼を受けられた時、天から霊が鳩のように降ってきたと聖書は告げています。それは、どんな時も神が聖霊となって御子イエスを守ってくださる、というしるしでありました。下へ下へと下っていくその道筋において、どんな困難がやってこようとも神の霊が共にあり、支え守っていてくれる…、この約束は主イエスにとっても非常に大きな力であったに違いありません。そしてその、大きな力は、この私達一人一人にもおよんでいる…、私達が、やはり下へ下へと下っていくその道筋にも…、その不安で、時にわびしくも感じるその道筋にも…、主イエスの霊はいつも共にあり、この私達の心を平安へと導いてくださる…、不安や悲しみやわびしさで、私達の心と体が壊れてしまうことのないように主の霊で包み込んでくださり、温めつつ、導いて下さるのです。その約束のあたたかさが、今日のこの福音書には満ちあふれているのです。この約束を信じて、新しい年のそれぞれの歩みを大きく踏み出してまいりましょう。

礼拝説教要旨(1月7日)降誕節第2主日・新年礼拝

ルカによる福音書2章41〜52節
「新たな歩みに備える」竹島敏牧師
 
 私たちは光なる主イエスと共に、2018年という新しい1年の歩みを始めました。
過ぎ去った1年を思い起こす時、確かに私達の人生において光は強くなったり、弱くなったり、様々でありました。それはおそらく、この1年も同様でありましょう。しかし、どのような状態であろうとも、光は決して消え去ることなく、私たちと共にあったのです。そして今や、再び強く迫ってきているのです。ですから私たちは、その光をしっかりと見つめ、新たに歩み出せばそれでよいのです。この光が次第に弱くなってくるかもしれない‥、などということに気をとられず、素直に前へ足を踏み出せばよいのです。光が強かろうが弱かろうが、その光と共に歩んでさえいれば、必ず、神の国へ到達できる‥、そう信じて歩み続ければよいのです。
 神の子・救い主でさえ、ある時突然、神から特別な力をいただいたのではなかった‥、毎日こつこつ努力し、徐々に知恵をつけ、体力をつけて成長していかれた‥、私たち全ての人間がそうであるように、イエスにも、そのような準備の時があった‥。
 神の子であったにもかかわらず、それほどまでにイエスは、私たち全ての人間と同じように、労苦を味わう道を選び取ってくださった、という、このことに私たちは注目しておきたいと思います。
 私たち全ての人間と同様に、あえて労苦を味わう道を選び取ってくださったイエスが、この年も、私たち一人一人のかたわらにいてくださることを何よりも支えにして、どんな時も一歩一歩、小さな歩みを積み重ね続けてまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(12月31日) 降誕節第1主日礼拝

『種を蒔きながら』

マタイによる福音書13:1-15

岩本幸太郎伝道師

信仰の世界では、ときをかけないとどうしてもわからない、自らの掌にて、掴んだ種を蒔こうとしないとどうしてもわからないということがあります。

今日の「『種を蒔く人』のたとえ」小見出しにある「種」とは神の御言葉です。そう福音そのものです。

まず第一、4節「道端に落ち、」

は種が道端で蒔かれた、落ちたというのは、その人の中心で聞いていない。文字通り「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」二番目は、5節では「石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ目を出した。」とは、土が少なく、しっかりと根っこの元がはらないのです。つまり表面だけといった根がない。三番目は、7節「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。」とあり、これは御言葉を聞くのだけれど、世俗的で、あっちのほうがいいんじゃないのかとか目移りする人です。最後四番目、8節「ところが、他の種は良い土地に落ち、」

ようやく、ここが御言葉を聞いて受け入れる人で何倍もの実り、祝福があるという約束です。

イエス・キリストの御言葉を受け入れる人には神が成長を促してくださる。そこには豊かな祝福がある。だからみなさん、御言葉へ耳を向けるのです。考えてみると植物にしろ、野菜にしろ、どうしても神秘的で、一粒の種が良い土地へと落下して、芽を出して、茎、葉、穂、さらに実りを結ぶ。教会の歩みも、足取りもそうなのです。一人でも一歩でも一粒でも、福音の種に祈りこそこめ、人々に蒔くということで、我らもさらに福音の確かさの喜びに全身が包まれるのですね。だから絶望せず希望を持ち、いつか神様は実を結ばせてくださる!その日の実りを信じ希望をもって種まきをしてゆくのです。これが教会であって我らの群れの証ではないのでしょうか。

礼拝説教要旨(12月24日) 降誕前第1・クリスマス礼拝

サムエル記上2章1〜10節
ルカによる福音書1章39〜56節
「主の慈しみに生きる」竹島敏牧師
 
 私たちは、さまざまな人生の局面において、どの道を行くか選択を迫られます。真剣に祈って選択しようと努める時、神が、この私に備えておられる一本の道が見えてきます。多くの場合それは、この世的に見て損することの多い道なのかもしれませんが、その道を一歩一歩進んでいくなかで私たちは、主イエスと共に生きているという実感を得ることができるのです。それが主の慈しみに生きる、ということです。自分にとって損か得か‥、ではなく、その道に主イエスが共にいてくださるかどうか‥、その道を主イエスが共に歩んでくださるのかどうかだけが、問題なのです。
 ハンナもマリアも、神の御心のうちに生きる道を選び取ろうとしました。どこまでも神の導きを追い求め、その導きに従う生き方を選び取ろうとしました。それは、そのような生き方こそが、最も確かなものであり、最終的には自分と隣人とを神の国へと導く最も幸いな手だてだと知っていたからです。
 今朝、主イエスの御降誕を記念し感謝するこのクリスマス礼拝において、私たちは、私たち全ての者を神の国へ導こうとされる主の御心をご一緒に確認したいと思います。自分にとって損か得か‥、ではなく、その道に主イエスが共にいてくださるかどうか‥、その道を主イエスが共に歩んでくださるのかどうか、そのことだけを問題にして歩む人生の先にこそ、神の国がある‥、この約束をかみしめつつ、ご一緒にクリスマスの恵みにあずかり、ご一緒に主の慈しみに生きる民としての再出発をしたいと願うのです。

礼拝説教要旨(12月17日)降誕前第2・アドベント第3主日礼拝

イザヤ書40章1〜11節
マルコによる福音書1章1〜8節
「慰めの主」                

 イエス・キリストとはどのような方であるのか。彼は何のためにこの世に来られたのか。イエスは、しばしば自分の弱さを認めず強がる私たち一人一人に仕えてくださる神です。今朝のマルコによる福音書には、洗礼者ヨハネのことが記されていますが、彼は、イエスについて「わたしはかがんでその方の履き物のひもをとく値打ちもない」と告白しています。しかしイエスは、あえてそのようなヨハネの前にひざまづき、洗礼を受けられました。それは、ご自身神でありながら僕のように、私たち人間に仕えてくださり、そのことを通して、「あなたたちもこのように生きよ」と促すためであったのではないかと思います。
 私たちはみな、キリストの前では小さな者であり、人生の導き手であるキリストの奉仕を必要としているのです。弱い、病める、無力な私たちを、慰め、生かし、用いて下さるキリストの恵みの力こそ、神から私たちに贈られる最高のクリスマスプレゼントである、と言うことができるのではないでしょうか。
 ですから私達は、来週、クリスマスを迎えるにあたって、今一度、自らの弱さや小ささをありのままに、見つめたいと思います。しかし、落胆をもってではなく、 そこに、僕のように仕えてくださるキリストイエスが来てくださるのだ、という、期待と喜びをもって今一度、自らの弱さや小ささをありのままに、見つめたいと思うのです。私達のそれぞれの困窮の中に、僕として来てくださる主を、ご一緒に心を静めて待ち望みたいと思います。

礼拝説教要旨(12月10日)降誕前第3・アドベント第2主日礼拝

岩本幸太郎伝道師

マタイによる福音書1:1-17
「初めに系図があった」

新約聖書の1頁を開くと、まずこの箇所、そう系図があります。
1節「アブラハムの」、信仰の父と呼ばれ、創世記ではこのアブラハム、イサク、ヤコブのちのイスラエル、そしてエジプトに渡り、総理大臣にまでなったヨセフ。彼らユダヤ民族一家の物語の中心となっているのです。
もう一人の人物1節後半「ダビデ」。出エジプトを果たしたイスラエル民族を引き継ぎ彼は、王として紀元前1000年、エルサレムを首都として統一。このダビデは親愛を抱かれました。ダビデから14人の王がここで書かれて、やがて16節の「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。」
福音書記者マタイはこの書簡を書く決断をしたとき、最初に救世主は民族の父アブラハム、王ダビデの血統から誕生する。これが正真正銘のメシア・キリストの系図だと訴えたかったのでした。
特に古代のユダヤ・イスラエル人が自分史・伝記を記録するには、系図からはじめるというのが基本で、彼らは血の純潔を守った民族だった。けれど問うべきことが3、5、6節。そのなかに4人の女性の名前が登場してくるのです。まず3節タマル(創世記38:6—30)は不義を犯す。次のラハブは(ヨシュア記6:25)遊女。
続いて6節の「ダビデはウリヤの妻によって」とあり、有名なバト・シェバ事件(サムエル記下11)。そしてルツ(ルツ記)彼女は外国人だから除外です。けれど、その連帯する、たとえ罪と恥とに満ちた者や外国人が先祖にいたとしても、なおも愛する神の愛であることを堂々と指し示す。最後に異邦人でもイエスを救い主と信じるならばみんな救われるとこの系図は証する。これこそ福音なのです。
真っ暗闇の中にあって、ただ滅び向かう者でしたけど、イエスキリストによって救われるのです。イエスを自分の救い主だと受け入れた人たち全員は神の計画されている連帯の、救いの系図の帳簿に記入されるのです。

礼拝説教要旨(12月3日)降誕前第4・アドベント第1主日礼拝

イザヤ書51章9〜11節
マルコによる福音書13章28〜37節

「主にあがなわれた人々」

 今朝のマルコ福音書13章28節以下には、
「救い主はどこにいるのか」というテーマが語られていますが、
昔も今も、キリストは、上から、天から、聖霊をつかわして、
下から、しかも一番苦しい想いをさせられている人達のさらに下から、
全ての人を支え、仕えようとしてくださっているのだと思います。
そこに私たちは希望を見いだしていきたいと思うのです。
 また、私たちにも時に、かつてのイスラエルの民のように、
ひとりの神に飽き足らず、イエスの神と共に‥、同時に‥、
他の何かを神とする、ということが起こりがちであることを思います。
しかし、そのような罪を私たち一人一人に思い起こさせ、
イエスの神のみをしっかりと見つめるところへと私たちは今、招かれたのです。
アドベントを迎えて、このイエスの神のみを見つめて、
私たちもまた、この神にあがなわれた民として、
現代というこの暗闇に一筋の光をもたらす業につかえてまいりたいと願います。
幼子イエスから発せられる命の輝きをしっかりと見つめて歩んでまいりたいと思います。
 私たち一人一人の、それぞれの痛みや悲しみ、
また不安や生き詰まりのただ中において、上から聖霊をつかわし、
下から、しかも一番苦しい想いをさせられている人達のさらに下から、
全ての人を支え、仕えようとしてくださるイエスを、今年も切に待ち望み、
静かな力と希望に満たされた本当のクリスマスを御一緒に迎えたいと、
心から願わずにはおれません。

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礼拝説教要旨(11月26日)降誕前第5主日・幼児賛美礼拝

サムエル記上16章1―13節
マルコによる福音書10章17―31節

「主は心によって見る」

 私たちは、互いに理解しあうことを諦めることができずに、いつまでも、相手を「理解できない」、また、自分は「理解されていない」、と苦しむことがあります。しかし、そもそも互いに不完全な人間である以上、完全に理解し合うことなど不可能なのだと思い知ることこそが、最も大切なことなのではないでしょうか。そしてそのことを諦めた時初めて私たちは、互いのことを全て神にゆだね、許し合う道へと徐々に導かれていくのではないでしょうか。
 サムエルもまた、自分の目で、次のイスラエルの王を選ぶことを諦めたからこそ、神の目にのみたよる想いへと導かれたのではないでしょうか。彼が、正しくダビデを選ぶことができたのは、自分の目を、もはや信じることができず、ただ、神の前に立ちつくして、神の目に全てをゆだねたからでありました。
 私たちはしばしば、深刻な人間関係の危機に立たされ、理解できない‥、理解されない‥、と悩み苦しみます。しかしどうか、そのような時こそ、人の心・内面を全て正しく見通されるのは神だけだ、ということに想いをはせたいと思うのです。その神のまなざしから支えと慰めをいただいてこそ、謙遜に、ゆるしあいながら、少しずつでもわかりあっていくという道が、あらたに見えてくるのではないでしょうか。私達人間の限界を受け入れ、前向きな「諦め」をもって、いったんは全て神のまなざしにゆだねる‥、そこにこそ、まことの解決に向かう扉があると、今朝、聖書は私たちに告げているのではないでしょうか。

 

礼拝説教要旨(11月19日)降誕前第6主日・幼児祝福礼拝

ヨハネによる福音書6:27-35

「よろこんで生きる」

 神様は、私達が悲しい時、苦しい時、永遠の命に至る食べ物である神様の言葉を私たちの心に語りかけてくださり、私達を支えようとしてくださいます。
私達が、他の人から、いろんな嫌な言葉を投げつけられて、傷ついてしまった時も、聖書に書かれているやさしく語りかけるような神さまの言葉を聞くことによって、なぐさめをいただくことができるのです。失敗して、自分でもどうしたらいいかわからなくて、立ち尽くしてしまっているような時でも、そばにきて、語りかけてくださり、今、何をすればいいのか教えてくれて、導いてくださる…、そういう導きの言葉を与えてくださるのです。聖書には、そのような知恵と力に満ちた言葉がつまっています。 
今日はこの後、幼児祝福式があります。これは、赤ちゃんから小学校6年生までの子どもの皆さんに対して行われるものですが、考えてみますと、ここにいるすべての人が神さまの目から見ると、神さまの子どもなのであり、神さまの祝福のなかに入っている人たちなのだと思います。
神さまの祝福を受けると、私たちは、今の自分が、そのままで素晴らしいということがわかるようになっていきます。ですから、かっこつけて、うその自分を人に見せたりしなくてもすむようになります。今の自分が好きになり、今の自分のままでもっと一生懸命生きようとするようになります。そのような生き方へとすべての人が今日、神様によって招かれているのだということを聖書は私たちに伝えようとしているのです。

礼拝説教要旨(11月12日)降誕前第7主日・教会創立115周年記念礼拝

マタイによる福音書21章12〜17節

「祈りの家」

 「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」、今朝の聖書の箇所において主イエスはこのように激しく怒っておられます。

 教会は、祈りが満ちている場所です。苦しみ、悲しみ、うめきなど、切実な祈りが満ちている場所です。未だかなうことのない切なる願いが、つまっている場所です。ですから私達もまずは、教会創立115周年の歩みを振り返りながら、この教会の礼拝堂の空気に刻みつけられてきた切なる祈りの数々に想いをはせたいと思います。そして私たちもまた、その祈りを祈り継いでいきたいと思います。真実かけて祈った祈りは、どんなことがあってもかき消されることなく、祈り継がれていきます。私たちがその祈りを祈り継いでいく限り、かき消されることはありません。

 時に祈りが、力に欠ける弱々しい祈りに聞こえることがあったとしても、祈りの根拠は私達の側にあるのではありません。祈りの根拠は、苦難の中で共に祈ってくださるイエス・キリストにあるのであり、どんな力に欠けているかのように見える祈りにも、いや、たったひとつのため息でさえそのため息の中に秘められている想いの全てを聴き取り、神にとりなしてくださるその主の導きによって、力強い救いの業へと変えられていくのです。

 今日115周年を迎えたこの小石川白山教会が、さまざまな苦難と共におられる主イエスが望まれるまことの祈りの家として、ますます豊かに用いられるように整えていきたいと心から願います。

礼拝説教要旨(11月5日)降誕前第8主日礼拝

創世記4:1-10
マルコによる福音書7:14-2

「共に罪を担って」

今朝、私たちに与えられました創世記の4章には、有名なカインとアベルの物語が記されています。神が創造された最初の人、アダムとエバの子、カインとアベル‥、兄のカインが弟のアベルを殺してしまう、という物語です。
ここに記されているのは、人類最初の殺人だ、とは、よく言われることです。このことをめぐって私は、
「人は、他者から愛されることなくして、正しく生きることはできないのだ」
ということを改めて、思わされます。
しかし、人類最初の殺人、という罪をおかしてしまったカインもまた、生きながらえることをゆるされるという、神の愛・神の憐れみにより、悔い改めることができました。
そしてようやく、正しい方向に、生き始めることができたのです。人間である以上、すべての者が、誰もが、自らの命の奥深くに、ひそかに罪を抱えていた、また抱えている、ということを思わされます。
しかし、そのようにひそかに罪を抱えながら歩む私たち一人一人の命に差し込んでくる、キリストの愛の光がある‥、そしてその光を仰ぎ見ながら歩む‥、それが私たちキリスト者の人生なのではないでしょうか。
自分の罪からも、他者の罪からも目をそむけず、また何よりも共に罪を担って歩んでくださる十字架の主イエスを一心に見つめて今朝、私たちは、ますます闇が深まってくるかのようなこの地上の世界に、何としても一筋の光をもたらす者にされたいと心から祈り願いたいと思います。

礼拝説教要旨(10月29日)降誕前第9主日・宗教改革記念礼拝説

使徒言行録9章36~43

「信仰のいのち」

今年は宗教改革500年という記念すべき年です。何よりもルターは、自ら生かされていた、あの時代と社会の状況の中で、人々の信仰のいのちが失われ、形骸化していくことに何よりも耐えがたい苦しみを覚えたのではないでしょうか。例えば、お金を払って免罪符を買えば、救いと赦しが与えられるという状況になってしまっていた当時の社会…、それが、さほど愚かなことでもないという認識が知らず知らずのうちに多くの人々のなかに浸透してしまっていた時代…、このままでは、まもなく誰も、このことを「問題である」と叫ぶことができなくなってしまうのではないか…、という危機感がピークに達してルターは、とうとう事を起こさざるをえなくなったのではないでしょうか。
私たちが、宗教改革500年を記念して学ぶべきこと、また、ルターと共に共有すべきことは、あの時ルターが抱えていた「切実さ」なのではないでしょうか。このままでは、信仰が形だけのものになり、その命が、霊的な命が、失われてしまう…、なんとしても、この信仰のいのちを取り戻さなければならない…、そういう「切実さ」を今、あらためてあなたたちも持つように…、と促されているのではないでしょうか。
その「切実さ」を私達が今、再び共有しようと祈りをあわせる時に、この私達の間にもあのタビタのよみがえりに匹敵する出来事が主イエスによっておこされ、私達もまた豊かに信仰のいのちを取り戻すことができる、と今朝の聖書は私たちに伝えているのではないかと思うのです。

礼拝説教要旨(10月22日)神学校日・伝道献身者奨励礼拝

ローマの信徒への手紙1章16~17
「御言葉の力」岩本幸太郎伝道師

 今回のローマの信徒への手紙というのは、今の時代に生きる我らにまさに作者が願い祈り託した手紙とも言えます。また実は結論をも含む。ということは、少し極端な言い方をすれば、こののちに続いてゆくのは今日の箇所の説明であるとも取れます。
 ローマの信徒への手紙の背景を大まかにいうと、パウロという人は当時の世界最大帝国の中心ローマに向かい、福音の力によって立つことにより表したいと思った。
「わたしは福音を恥としない」
信じる者、すべての人たちへ福音こそが救う御言葉の力に気づいて欲しいとメッセージを送ってきています。
「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
 さて、福音とはみなさん、「よき知らせ」なのです。福音の枢軸・中心・集中はもちろん、十字架。すべての人たちへと広がる神の御言葉の力なのだから。
「福音には、神の義が啓示されていますが、」ここに「神の義」という言葉が出てきます。この「神の義」という言葉はいったいなんだと思いますか?福音には一点集中。それは、イエスキリストにすべての神の義が啓示されているから。まず神の力でもあり、すべての人たちを救うために神はイエスキリストで表現したと手紙はそう断言する。
 パウロはこれまでたくさんの手紙を残してきた。今回彼の最終作で、奇跡の手紙とも言われるローマの信徒への手紙を書き、大きな気づきを与えてくれるのです。マルティン・ルターという人の人生もこの箇所に変革されていった。それは義と、正しい者とされたからなのです。ギフトの包みを開け、受け取ったからです。
我らも今日の御言葉を受けつぎ、信じてゆくなら義とされる約束なのです。これこそ福音なのです。私たちも神の御言葉の力を選び取りましょう。

礼拝説教要旨(10月15日)聖霊降臨節第20主日礼拝

イザヤ書33:17-22
ヨハネの黙示録7:9-17 
「涙がぬぐわれる日」

 私たちはみな、うれしいことや楽しいことよりも、悲しいことやつらいことの方が多い、この人生を今日まで生きてきました。なぜでしょうか。それにはいろいろな理由があると思います。つらいことがあまりにも多い日常のなかにも、小さな楽しみや、喜びがあるから‥、また、家族のため、友人のため、職場の仲間のために、頑張って生きてきた、という方もおられるでしょう。また、生きていく理由など、特に考えるひまもなく、つらい、苦しい、と想いながらも、日々のなすべき事に追われて、今日までやってきた、という方も多くおられるかもしれません。
そのような私たち一人一人に、今朝のヨハネ黙示録は一つの希望を与えようとしています。いつか神が、そのような私たち一人一人の涙を「全て」ぬぐってくださる、というのです。それは、この世の終わりの時、終末の時であると告げています。ヨハネの黙示録7章17節のところです。ここで「全て」と言われていることが重要です。
確かに神は常にわたしたちの悲しみによりそい、涙をぬぐってくださるのです。しかしそれでもなお、心の底にわだかまりが残るという場合があります。完全に心が晴れたわけではない、ということもあるのではないでしょうか。しかし、そのような私たち一人一人の心の底にたまってしまったわだかまりも「全て」神がぬぐってくださる時が来る、と聖書は語っているのではないでしょうか。そのように私たちの流した涙が「全て」ぬぐわれ、労苦がむくわれる時がやってくる‥、そのことを信じて、その時をはるかに望み見ながら、今、主が備えてくださる新たな道を見出し、その道を歩みはじめていきたいと思います。

礼拝説教要旨(10月8日)聖霊降臨節第19主日 永眠者記念礼拝

コヘレトの言葉3章1〜13節
テサロニケの信徒への手紙二 3章6〜13節
「使命に生きる」

 「使命に生きる」という時、とかく私たちは何か神様から大きな、特別な役割を授けられること、と考えがちであるかもしれません。しかし、ここで言われていることは、あくまでもこつこつと、たんたんと、今の自分に与えられている役割を誠実に果たしていくことのなかに使命があるということです。明日、この世界が終わるという時にも、いつもと同じように落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べる‥、あなたはそこまで、神に信頼して歩めるか‥、と問われているような気がいたします。
 明日、この世界が終わる、という時、また、明日、この自分の人生が終わる、という時、果たして私たちは、動揺せずに落ち着いて最後の一日を送ることができるでしょうか。全ての時を神が備えておられる、という信仰をかたく持っている者のみが、そのような平安な最後の一日を過ごせる、と聖書は語っているように思います。
 そのような信仰にもとづく一日一日の積み重ねによって、神の導きにゆだねる生き方がつくられていき、自らの人生の終わりの時をも、神の導きの御手にゆだねることができるのだと思います。勿論、全く動揺することなく、というわけにはいかないかもしれません。しかし、そのような愛の御手に守られ導かれて永遠に向かって旅立てるというのは幸いなことだと思います。そのような生涯こそが使命に生きた生涯と言えるのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(10月1日)

礼拝説教要旨(9月24日)聖霊降臨節第17主日礼拝

コリントの信徒への手紙一13:1-13
「十字架の愛」

 かつて、マザーテレサが来日された時、愛について語られたその言葉を聞いて、どきっとしたことがあります。それは、愛、とは、決して心地よいものなのではない、という言葉でした。愛とは、その人のために自分が痛むこと…、痛みを感じるようになるまで愛して初めて、本当の愛と言える、ということでした。そこで再び、福音書に記されているイエスの愛に注目してみると、それはまさに、ご自身が激しく痛むほどに愛する愛だった、ということがわかるのです。
 福音書の中にはイエスが憐れまれた、という言葉がいくつも出てきます。この憐れむ、という言葉のもともとの意味は、はらわたが痛む、はらわたがちぎれる、ということです。いろんな人が、このイエスの愛にふれて…、激しく痛みを感じるほどに自らの痛み苦しみに共感してくださるその姿にふれて…、癒されたことでしょう。その究極は、全ての人のために痛み苦しみぬかれた、あの十字架上でのお姿にあらわされています。
 たしかに私達は、愛すること、愛されることにおいて様々なつまづきを経験します。悩む、苦しむ、どうしたらいいのかわからない、何もできない、ただ、その場にたたずんで、「痛み続ける」、ことしかできない、そういう時もあるかもしれません。自分には愛がない、と、自らの無力さに打ちひしがれて、情けない想いでいっぱいになることもあるかもしれません。しかし、そのような私達の主観に反して、今朝、聖書は、それこそが愛なのだよ、と告げているのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(9月17日)聖霊降臨節第16主日礼拝説

『いちばん大切なこと』竹島 敏牧師
ローマの信徒への手紙11:33-36

忍耐してじっと待つ…、というのは一見とても、消極的な行動に写ることがあります。しかし、時に、とても大切なことなのだと思います。
 苦しみや悲しみに満たされている時、私達は、どうしていいかわからなくなることがあります。じっと状況を見据えるよりも、自分の力で思いつくままに動き回り、力と時間を浪費してしまうこともあります。また問題をより複雑なものにしてしまうこともあるのではないでしょうか。
 しかし、そこに、自分は一人ではない、神さまがそばにいてくださって一緒に解決の方向に向かって歩んでくださる、という信仰があったなら、事態は全く違ったものになっていくのではないでしょうか。神さまからの知恵を待ちつつ、事態をじっくりと見つめる余裕ができてくるのではないでしょうか。そのように信じて忍耐して待つところに神様の知恵は下り、神様とともに歩む人生が開けていきます。
 ならば、もう、すべてを知ろうとする必要はなくなります。全てをご存知である神様に全てを委ねて、その神さまから今、促されていることに集中していけばいいのです。そのようにどんな時も、低きにくだる神様の知恵を待つ心を持ち続ける、ということ。そのようにあくまでも不完全な人間として、自分自身の限界を見極め、イエスさまと共なる人生を静かに歩み出していく、ということ、それが私達の人生においていちばん大切なことなのだと言えるのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(9月10日)聖霊降臨節第15主日礼拝

『神様が下さる救いと安心』古谷正仁牧師
マタイによる福音書13:44-50

私はごく普通の日本人の家庭に生まれた。両親は私を愛してくれたが、のんびり屋の私を歯がゆく思い、叱咤激励した。私は次第に家庭に居場所がなくなっていった。
 明治学院高校へ。16歳の時、心臓病だと分かる。無気力に生きていた高1の夏休みに、禅寺で1か月小坊主をした。私を受け入れてくれたのが嬉しかったのだ。やがてその高校にも、私を受け入れてくれる大人達(教師・職員)がいることを知る。この人々がキリスト者だった。
やがて教会へ。ここでも個性豊かな人々との出会いがあった。みんな不思議な魅力があった。神を信じることから生まれる魅力。自分も神を信じてみたい…。賭けのような気持ちで洗礼を受けた。
3年目に挫折を経験し、教会に行けなくなる。生きているのが辛くなる。その時、帰って来いと呼びかけてくれた仲間がいた。でも妻は言う。「あの時、みんなあなたが苦手だった。」「じゃあ、どうして呼びかけてくれたの?」「それはね、神様があなたのことも大事に思っていると感じたから。」ここに神を知るということの最大の価値がある。私たちは神様のお気に入り。みんなに嫌われていた私でも、もったいないほどに大事にして下さる方と出会うことが宝物との出会いなのだ。
三つ目の譬えは恐ろしい。「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。」しかしある神学者は言う。「これも天の国(神様の救い)の譬えだ。私たちは、神が世の終わりまで(私たちに完全な救いを与えるまで)より分けることを待って下さることに注意しなければならない。」ここでも私達は愛されていることを知る。
神に出会うことによって、私たちの本当の、安定した生き方が生み出される。

礼拝説教要旨(9月3日)

礼拝説教要旨(8月27日)聖霊降臨節第13主日礼拝

コリントの信徒への手紙一 15章35~52
「霊の体」

今日のこの聖書の箇所はパウロが
「霊の体」について語っているところです。
難解な箇所ですが、要するにここでパウロが一番伝えたいと思っていたのは、「イエスを救い主と信じる者は、イエスが死なれたように、肉体の死を味わうけれどもその後、イエスの命に包まれて、天において、その命のなかで、安らかに存在し続ける‥、」ということなのではないでしょうか。
そして、
「教会の主、交わりの主であるイエスは、イエスを信じる者達一人一人をご自身の命でそのように包み込みながら、終末の時まで、互いの交わりを持たせてくださる‥、」
ということなのではないでしょうか。そのような希望をもって歩むことが私たちにはゆるされているのだと思います。
この地上において信仰の告白にまで至らないまま離れていった方々もまた、この希望から除外されているわけではありません。
ヨハネの黙示録の21章を見ると、人間には二つの死があることがわかります。
第一の死は肉体の死です。そして第二の死は、第一の死の後に、主イエスと出会ったにもかかわらず、慈愛に満ちたその招きを拒否し続けた者にやってくる死です。ということは、信仰の告白に至らずに第一の死を経験しても、まだ、希望がある、ということなのです。
だから私たちは、とりなしの祈りを熱心に献げ続けることが大切なのだと思います。
今朝もまた、そのような天からの希望に包まれて、それぞれのこの世の旅路に旅立っていきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月20日)聖霊降臨節第12主日礼拝

使徒言行録20章25~35
「与える幸い」

今年、敗戦72年を迎え、私たちは、平和への思いを新たに強く持ちました。そこで思わされることは「平和を乱すものは、何と言っても、もっと恵みを受けたい、という人間の『欲』なのではないだろうか」ということです。
なぜ、戦争をしなければならなかったのか、そしてなぜ、やめられなかったのか、を探っていくと、どうもそこにはやはり、国の指導者層の様々な「欲」、たとえば既得権益を守りたい、という欲や、メンツを保ちたい、という欲、があった‥、ということも言われています。
しかしそのような一部指導者層の欲に、この国が引きずられていく、というのは、あの時だけではなく、今も同じだ、と言わざるをえないのかもしれません。どんな立派な大義名分のもとに行われる戦争にも、そのような人間の「欲」が潜んでいるということを忘れてはならないのでありましょう。
主イエスが語り、使徒パウロが身をもって証した「受けるよりは与える方が幸い」、というこの言葉‥、これは、ついつい自分の立場や利益優先になりがちな私たちの姿勢をただし、神の国へと私たちの目を向けさせます。
全ての人が神から同じように愛されて、この世に送り出されていることを想う時、私たちもまた「受けるよりは与える方が幸いである」、というこの主の言葉を、繰り返し思い出しながら、それぞれの仕方でこの主の言葉に従い、まことの平和を求めていきたいと思います。

礼拝説教要旨(8月13日)聖霊降臨節第11主日礼拝

『聖書の真珠』 岩本幸太郎伝道師
詩編23篇

今日の詩編23篇を、あの貝殻をイメージしてください。貝のなかに塵などが入り、その痛みを覚えた貝が涙を流して、その涙が美しい真珠をつくり、そうなった真珠のような詩の集まりの代表格が詩編23編だといえるのです。1—3節では、羊飼いである主とわたし(作者)の関係を謳うのです。4節、
「あなたがわたしとともにいてくださる」
たとえ、そこが死の陰の谷であろうとも。主が我らとともに。
 今日の詩編23篇作者ダビデはイスラエル国家統一、平和を願い先頭に立って戦争してきました。その彼が、このような詩編を書いたのです。彼はそういった状況でも信仰心を失わず、平安を得ました。我らも平安を得ているのです。その平安を他の人と分かち合い、今度は平和のために何をすべきなのか、深く祈って生きたい。たとえ時代は変化しようとも絶対に変わらないのが、神です。逆に絶対我らが変えてはいけないものもあります。それは、まことの平和を求める訴え、祈りです。平和のために、これは課せられた使命・目標として、皆さんと祈り歩みたいと私は感じます。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
(新約聖書ヨハネによる福音書10:11)
キリストは、生きていてくださる。よい羊飼いイエスキリストは、羊のような我らのためにその命を投げ捨ててくださった。そこに羊飼いと羊の関係をかいまみるのです。さらに神様と我々の関係もみえる。イエスはまだ未来があった若い年齢の時にメシアとしての使命のため、命を捨てられたのです。しかも復活し、天に今、おられるのです。
ここにいる私たちも応答しましょう。なぜなら平安をもう得ているから・・・。だからこそ全世界の世の平和のために、祈りのリレーを決して辞めないようにしましょう。それが今の我らに託された奉仕・使命・目標なのです。

礼拝説教要旨(8月6日)聖霊降臨節第10主日礼拝

使徒言行録9章26~31
「共に泣く交わり」

サウロ、後の使徒パウロは、主イエスとの真実の出会いを経験することによって、弟子達の交わりに飛び込み、自分の弱さを含め全てをさらけ出すことができました。そのようなサウロの姿勢は、さらにまわりの人たちにも影響を与えることになり、そこに痛みや苦しみ、弱さをわかちあう、共に泣く交わりが形成されていったのだと思います。そして、そのような交わりのなかでサウロは、あのコリントの信徒への手紙二の12章9節10節の言葉を告白するのです。すなわち、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と。
今朝の聖書の箇所を通して私たちは、本当の強さとはいったい何なのか、改めて考えさせられます。サウロの回心の経験を通して、強さと強がりとは全く違うもので、自らの弱さを認め受け入れ、隣人の弱さも認め受け入れ、共に分かち合っていくところに、まことの強さが生み出されるということを知らされました。
今、私たちが生かされている決して平和とは言えないこの時代に‥、この悩み多き時代に、どうか、痛みや苦しみ、弱さをわかちあう、共に泣く交わりを形成していくことができますように、偽りの強さにこだわらず真の平和をかたちづくっていく一人一人として歩んでいけますように共に祈りをあわせたいと思います。

礼拝説教要旨(7月30日)聖霊降臨節第9主日礼拝

ローマの信徒への手紙9章19~29
「憐れみの器」

あさってから8月に入り、次週は平和聖日を迎えようとしています。神がいるなら、なぜ、戦争という悲劇が起こるのか‥、神はなぜ、戦争に直接介入してやめさせようとしないのか‥、よく、そういう質問が出されます。しかし、今朝の聖書の箇所を通して私たちは、問われているのは神ではなく、私たち一人一人であることを知るのです。
そもそも神は一方的に歴史を担い、導くのではなく、人間と共に歩もうとされる方です。そして人間との共同の歩みの結果を歴史にきざみつけようとされるお方なのです。それほど神は、人間の存在、そして主体性を尊重し続けてこられました。だから、ロボットのように人間を操るのではなく、一人一人の主体性に呼びかけ、待つ、という方法をとられるのです。
24節には「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」とあります。私たちは、そのような神の憐れみの器として用いられようとしています。その導きに応えることによってのみ、主の平和が実現していくのです。人間のこの応答なしに、神が歴史に直接介入し平和をもたらす、ということはありません。だから問われているのは神ではなく、私たち一人一人なのです。
私が自分を見捨てたような時になっても私を見捨てない方がいる‥、私が自分を愛する以上に私を愛していてくださる方がいる‥、その方が、この私を、憐れみの器として用いようとされている‥、そのことを心に深くとどめておきたいと思うのです。 

礼拝説教要旨(7月23日)聖霊降臨節第8主日礼拝

『少年時代』 岩本幸太郎伝道師
ルカによる福音書2:41-52

12歳になった少年イエスが、両親につれられてきて、都・エルサレムに到着しました。12歳になったときは、父親が一年間、ユダヤ社会・13歳の成人式に向けてコーチ、準備をするのです。つまり、今日の箇所におきまして、イエスはこの日から一年後、成人となり律法厳守の生活にいよいよ入る。一ユダヤの男性として地上を生きてゆくのです。
そう、繰り返しますが、この世界・地上へと降りてきてくれた主イエスも一人の男子として律法の束縛の下におかれていたのです。よく考えてみると12歳から13歳のイエスはこの過越祭の日からおよそ17、18年間、人が生きるということを体験され、同時に唯一の神の御子としての狭間のなかを歩まれたのです。
また、イエス様は少年時代、謎のような時を過ごされます。しかしルカだけが少年イエス12歳過越の祭・三日目のときを記していました。
少し前の2:40と後の2章終わりの御言葉とはどちらも、神の恵みを、豊かに受けて成長をされたというのです。すべては神の恵みによって、導かれていたことがとても大切であった。
これから主の昇天にまで、息子イエスと母マリアは共におられることになります。つまり、我が子・御子イエスが十字架上にてはりつけになる現場に彼女は遭遇する。しかし彼女の信仰はどうなってゆくのでしょうか。我が子の幼少から少年期までを見届けた息子イエスの無残な殺されかたを見てしまう。しかしそのままでは終わらない。
 そう母は、我が子が救い主であって、死に打ち勝ち、我が子イエスが天に昇られる現場を体験、祝福を得たのでした。
我が子の復活を目撃し、初代教会では祈りの場にも自ら参加して、聖霊をいただくことになります。その母マリアの聖霊、そう同じ聖霊をこの教会にも今でも息吹き受け継いでいるのです。
 主の少年時代は両親に仕え、神と人とに愛された。その主イエスはあなたを今でも愛しています。主の愛に応えましょう。

礼拝説教要旨(7月16日)聖霊降臨節第7主日礼拝

テモテへの手紙一 2章1~7
「とりなしの祈り」

私たち誰もが様々な限界を負いながら、互いにとりなしの祈りを献げあい、神の助けを求め、また私たち同士、具体的な助けの手をさしのべあいながら、生きていきたいと願っています。
しかし人はいつか、体を動かすことがだんだん不自由になり、そして最後は祈ることしかできなくなっていきます。そしてさらに死の間際には自分で祈ることもできなくなり、ほかの人たちの祈り、すなわち教会の祈りに包まれ支えられて、この世を旅だっていくのです。
とりなしの祈りを献げ続ける私たちが、いつか来るこの地上の生涯の最後には祈れなくなり、教会のとりなしの祈りに支えられ包まれるのだというこの真理は、教会という信仰共同体が、まさに、そのようなとりなしあう共同体であり続けるべきだと指示しているのではないかと思います。                       
カトリックの司祭ミシェルクオストは「キリストの目をもって、この世界に目を注ぐ」ということ、すなわち「キリストの目をもって、世界中の隣人に目を注ぐ」ことをすすめていますが、それは、とりなしの祈りにおいてこそ、可能になることなのではないか、と思います。やがて来る教会のとりなしの祈りに支えられ包まれて旅立つその時まで、共に、とりなしの祈りを献げあい、キリストの目をもって互いに見つめ合い、具体的な助けの手をさしのべあう‥、そのような祈りの共同体として、この小石川白山教会がますます成長していくよう、祈りをあわせたいと思います。

礼拝説教要旨(7月9日)

礼拝説教要旨(7月2日)聖霊降臨節第5主日礼拝

フィリピの信徒への手紙2章12~18
「神への従順」

今朝のフィリピの信徒への手紙には、パウロの神への従順を示した言葉がいくつも連ねられています。
それは、パウロが殉教を意識して語った言葉だとも言われています。フィリピの信徒たちが礼拝を献げ続け、信仰の養いを受けて世に出ていく時、彼らを指導してきたパウロが、世から憎まれ、殉教へと追いこまれていく可能性を示唆している言葉です。
キリストの教えとこの世の教えがしばしば対立するのは、パウロの時代も現代も同じです。しかし特に現代の私たち、また教会にとって大切なのは、安易に世に妥協するのではなく、対立し続けることなのではないでしょうか。妥協することによってこの世に受け入れてもらい居心地よく生きていくことはパウロの生き方とは相反するものです。もちろんイエスの生き方とも相反するものです。
教会は‥、私たちは‥、この混迷を極める時代において、あくまでもキリストの言葉にしっかりと立ち続け、時には世と対立することがあっても、それをよしとし、キリストの祝福と導きに全てをかける生き方を選び取っていかねばならないのだと思います。それが、殉教者たちの生き方を継承していくことであり、神への従順を貫くことなのだと思います。
私たちもまたパウロのように、たとえ目に見える成果が、すぐにはこの手に与えられなくとも、私たちに先立って働かれる主が、いつか私たちの小さな業をも用いて必ず事をなしてくださることを信じて、静かな喜びのうちに、日々の歩みをすすめていきたいものだと思います。

礼拝説教要旨(6月25日)聖霊降臨節第4主日礼拝

『天におけるように地の上にも』
岩本幸太郎伝道師
マタイによる福音書26:36-46

主イエスはゲッセマネの園にて神の御子として、また人の子としての決死の祈りをされました。それは悶え苦しむほどの祈り、この世にて最終段階での祈祷でした。まさに神の御子と人の子としての間・中心にいるといった孤独の中での祈りだったのです。のちに弟子たちは全員、彼を見捨て逃げてしまいます。
イエスは人の子として、母マリアの子として、育ったのだから私はふと考えました。イエスは“死にたくない・・・。”
そう思った、当然そういう気持ち、瞬間もあったでしょう。
肉体の叫びを汗が血のようにしたたりのように、必死になって祈ることによって抑えていたのでしょう。それも間違いではありません。
イエスはキリストですから、とてつもない権威を持っています。だからこのゲッセマネの場にてすぐにでも天からの御使いたち、天使軍団を呼び寄せ、力によって捕まえにきたローマ兵を粉砕することもできたでしょう。しかし、彼はなんといっても御子なのでした。たとえ荊の冠を被らせられようとも、槍で横腹を突かれようとも、我らの救いのために十字架の道を選ばれるのです。
罪なき神の御子イエスは、
「わたしの願いどおりでなく、御心のままに」
このたった一つの文章ですが、神よ、わたしはあなたにゆだねますと。ここにすべての人への救いをイエスキリストは選ばれ、完成へと至るのです。
ゲッセマネで祈る、小見出しにそうあります。イエスのゲッセマネの園での祈りとは、弟子たちや、ここにいる私たちや、また敵対したすべての人たちやすべての人間への天へ向けて、それはとりなしの祈りだったのです。

礼拝説教要旨(6月18日)聖霊降臨節第3主日礼拝

エフェソの信徒への手紙1章3~14
「神の国を受け継ぐために」

今朝の14節において、聖霊は私たち
が神の国を受け継ぐための保証である、と言われています。
その聖霊を受ける時、私たちは神の国の息吹を受けているのです。その聖霊を感じる時、私たちは神の国の息吹を感じているのです。聖霊を受けるなら私たちは、そのような神の国へと向かう働きに招かれ、導かれていくのです。
確かにその道のりは決して楽観的なものではないかもしれません。神の国へと向かっていく働きは、時に、停滞してしまっているかのように‥、あるいは、逆行してしまっているかのように‥、感じることもあるかもしれません。けれども、そのような時こそ、それは私たちだけではなく、あのエフェソの信徒たち一人一人もそうだったのだと、思い返したいと思います。
私たちの目にうつる日々の現実は、確かに厳しいものでありますが、しかし、私たちの目にうつる現実だけではなく、もうひとつ別の‥、主イエスの目にうつっている現実があるのだということを覚えたいと思うのです。
いつも主イエスが共にいてくださり、私たちの目にうつる日々の現実にあらたな光を注いでくださるのです。別の光を‥、別の現実を発見させてくださるのです。
ほとんど絶望的な状況しか見えていなかった現実に、別の明るい光が少しずつでも見いだせるようになってくるのです。それが、私たちに与えられるかけがえのない一筋の光なのです。

礼拝説教要旨(6月11日)花の日・子どもの日合同礼拝

コロサイの信徒への手紙1章24~29
「イエスさまの力によって」

 今朝の聖書はイエスさまの力とは、かつてイエスさまがおかたりになった言葉の中に込められていると伝えています。でもイエス様の言葉というのは時として、まるでなぞなぞのようです。すぐにはよくわかりません。だからいったんその言葉を大事に心の中にしまっておいて時々、取り出してながめてみる、そしてお祈りをするのです。
 そうしているうちに「ああそうだったのか」とイエス様が語られていた言葉の意味がだんだんわかってくるのです。
聖書ではイエス様の言葉はよく植物の種にたとえられます。
 種は雨をもらわないと育っていくことができません。しかし種は自分の力で雨をふらせることはできませんから待っているしかないわけです。そのように私たち一人一人にも自分の力ではどうすることもできないことがあるのだと思います。
 よくわからないイエス様の言葉・種を心の中に抱えたまま過ごさねばならない時もあるでしょう。しかし大切なのは種を捨ててしまわないことなのだと思います。
 お祈りしながら持ち続ける‥、そうすれば必ずいつか芽が出てきていろんな形の実りが与えられてくるのです。そのように、イエス様のちからはイエス様の言葉とともに働いて私達一人一人を成長させてくださるのです。この力によって私達はそれぞれにいろんな花を咲かせいろんな実をみのらせて幸せになっていけるのだと聖書は私たちに語りかけているのです。

礼拝説教要旨(6月4日)ペンテコステ礼拝

ルカによる福音書24章44〜53節
「聖霊の約束」

私たちは今日、教会の誕生日、とも言われるペンテコステをむかえました。
かつての弟子たち‥、また弟子たちをとりまく一人一人が、
様々な問題・課題を抱えながら信仰の生涯を送ったように、私たちもまた、
様々な問題・課題を抱えながら日々過ごしています。
時には、その重い課題に押しつぶされそうになり、信仰を失いかけ、あせって、
自分の力でじたばたし始めることもあります。またあるいは、
十分に聖霊の導きを吟味せずに、走り出したくなる‥、
しかし、主イエスは言われるのです「高い所からの力に覆われるまでは、
都にとどまっていなさい」と‥、あせるな、と、言われるのです。
大喜びでエルサレムに帰った弟子たちは、はやる気持ちをおさえながら、
「その時」を待ちました。私たちもまた、まずはふみとどまって、
聖霊の導きを思いめぐらしつつ待つ時を持ちたいものだと思います。
確かに私たちの忙しい日々の生活において、そんな時間はじっくりとはとれないかもしれません。
しかし、一日のうちのほんのわずかな時でも、そんな時間をつくっていき、
その積み重ねを行っていくことがとても大切なのだと思います。
そうしていくなら、この私たちの上にも、かつて弟子たちの上に起こったような
ペンテコステの出来事が起こるのだと思います。
聖霊の約束とは、「どんなことがあっても決してあなたを見捨てない」という
主イエスの愛に満ちた約束です。私たちが、聖霊による救いの手だてを見逃し、
あるいは無視してしまう時も、決してそのような私たちを見捨てず、
導きの御手をさしのべ続けてくださる‥、それが、聖霊の約束なのです。

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礼拝説教要旨(5月14日)復活節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書14章1〜11節
「イエスの道」

私は長い間、キリスト教の神、聖書の神を想う時に、幼い頃から知らず知らずのうちに
私の心に影響を与えてきた神道の神のイメージが入り込んでしまっていました。
この日本社会にじわじわと入り込んでしまっている神道の文化や慣習からくるイメージにまどわされて、
聖書が神をどのように規定しているのかを純粋に見つめることができなかったのです。
しかし、今朝の聖書の箇所の9節後半には、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とあり、
つまり、イエスを見た者は神を見たことになる‥、
だから大切なのは、神について様々に思いを巡らすことなのではなく、聖書を読むことを通して、
また、祈ることを通して、イエスという方をしっかりと見つめることだけなのだ、と次第にわかっていきました。
イエスが神なのだ、イエスだけを見つめていればいいのだ、その事がわかった時、
やっと私は神、という言葉から解き放たれて、イエスを見つめること、
そしてイエスと共に歩む道へ踏み出すことができました。
主イエスのみをしっかりと見つめることを通して私たちは、6節に記されている
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」
という主イエスの言葉を実感することができるのです。
私たちが生かされているこの日本にも、実に様々な神がいることを思います。
しかし様々な神が私たちの日常をおおっている中で、主イエスが導かれる道を、
主イエスと共に歩むことを通して、まことの神を証していきたいと思うのです。

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礼拝説教要旨(4月9日)受難節第6・棕櫚の主日礼拝

マタイによる福音書27章32〜44
「自分を救わない神の子」

今日から始まるこの受難週、私たちは、様々な威圧と暴力が満ちている私たちのこの世界、そして日常のただ中に、あの、十字架につけられた主イエスの御姿を見出し、その御姿を見つめ続けて、私たち一人一人に対する新たな御導きを求めていきたいと思います。
不条理な出来事や、困難の只中にこそ主は共にいてくださいます。まずは、そのことをしっかりと感じ取る信仰的な感性を授かることができますように、と共に祈りをあわせたいと思います。また、不条理な出来事や困難の中にあって孤独を感じる時にこそ天を見上げたいと思います。そこに、主がおられることに気づくまで、感じ取れるまで、祈りつつ天を見上げたいと思います。そして、その主のお導きに従って一歩ずつ歩みを進めていきたいと思います。私達にとって最も大切なことは、自らに課せられた問題が即座に解決することなのではありません。そうではなく、主の御心にかなった道を歩んでいるかどうか、なのです。
主の御心にかなった道を歩んでいるのであれば、やがて必ず問題は解決していくのでありましょう。しかし、主の御心にかなわない道を歩んでいるのであれば、たとえ、問題が解決していくように見えていても、それは決して真の解決にはなっていかないのです。だから大切なのは、たとえ遠回りのように見えていても、主の御心にかなうと思われる道の方を選び取っていくことなのです。その方を選び取り続けていくことなのです。
受難週のこの時、今、私達一人一人に課せられているそれぞれの問題に思いを馳せつつ、主が歩んでいかれた十字架への道を今一度しっかりと直視したいと思います。

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礼拝説教要旨(4月2日)受難節第5主日礼拝

マタイによる福音書20章20~28節
「仕えるために」

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」、今朝のマタイ福音書20章28節に、そう記されています。また主は「自分の命を献げるために来た」とも語っておられます。ここで主イエスがおっしゃりたかったのは、仕え合う、ということだったのだと思います。
主が献げつくし仕えつくしてたどり着いたその最期は十字架でありました。誰からもうやまわれず、したわれず、見捨てられて、苦しみ抜いて死んでいかれました。しかし、そのような主の心のなかには、この死をよく見ておきなさい、という想いがあったのではないでしょうか。そしてそのようなイエスのあとに従っていく、ということは、自分もまた、そのような人生を歩む、ということを承認することでもあるのです。
受難節のこの時、私たちもまた、ひとつの覚悟を決めるよう促されているような気がします。自分は誰のために、あるいは何のために、自分の命を献げようか‥、と。
祈って、そのような志をたてて歩んでも、私たちもまた生きているうちにその成果を見ることはないのかもしれません。しかし、だからといってこの世の価値観の流れに身をまかせ、惰性で生き続けることが幸せなのでしょうか。希望や理想を語ることがきわめて難しくなりつつあるこの時代の社会において、たとえ、生きているうちにその成果を見ることはなくても、主にある希望や理想に仕えて生きることが、私たちキリスト者の生き方なのではないでしょうか。そのように生きようと一歩を踏み出す時にはじめて私たちは、十字架の主イエスのからだのぬくもりを感じることができるのだと思います。

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礼拝説教要旨(3月12日)受難節第2主日礼拝

マタイによる福音書12章22~32節
「呼びかけ続ける主」

今朝のマタイ福音書30節において主イエスは、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」と言われました。これは単なる批判の言葉なのではなく、「わたしに味方し、わたしと一緒に集めよう」という呼びかけが、この言葉の裏には隠されています。ここには、主イエスの基本姿勢がはっきりと示されています。すなわちまず主は、誹謗中傷や迫害に対して、誹謗中傷や迫害で返したりはなさいませんでした。冷静に毅然とした態度で聖霊の意志を語られました。そしてさらに、「共に、この聖霊の意志に従い行動しよう」と呼びかけられました。そしてたとえ、この呼びかけが無視されようとも、生涯、このように呼びかけ続けられたのです。これが、生涯貫かれた主イエスの基本姿勢だったのではないでしょうか。
決して力でねじ伏せようとはしなかった。どんな相手にも、その相手の主体性に呼びかけ続けるという方法をとられました。その方法は、十字架の死に至るまで貫徹されました。
ご自分を憎み、殺しにきた人達に対してさえ主は、そのような方法を貫徹されたのです。
それができたのは、どんな人にも、正しい道に立ち返る可能性がある、という希望を最後まで持ち続けておられたからなのでありましょう。だから主イエスは決して押しつけずに、どこまでも一人一人の主体性に呼びかけ、訴え、促し続ける、という方法で関わられたのでありました。この主を見上げ、見つめつつ、この受難節の歩みを進めてまいりたいと思います。

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礼拝説教要旨(2月19日)降誕節第9主日礼拝

マタイによる福音書15章21〜31節
「小さくされた者の声」

「小さくされた者」とはいったいどういう人のことでしょうか。それは、本当はもっとのびのびと自由に生きていいはずなのに、何らかの理由で、そのような自由を奪われていたり、制約されていたりする人のことだと思います。「小さくされた者の声」は、より大きな力を占有している者たちの声によってしばしばかき消されてしまいます。また、言葉を発する機会さえ与えられずに、たとえば、数の力によって意見表明を封じられてしまうこともあります。また、そこまでいかなくても、様々な圧力を感じて結局、自らの心の内に声を閉じこめてしまう、ということもあるのではないでしょうか。
そして、今、ここに集められている私たち一人一人にも、様々な痛み苦しみがあることを思います。この社会のひずみのなかで、それぞれに生きにくさを感じ、行き詰まりを感じながら私たちは生きています。このように生きたい、という願いを持ちながら、願い通りにはならないことの方が多い人生に、がっかりしながら、ただ、たたずんでいるしかないこともあるのかもしれません。
しかし、決してあきらめずに、自らの内側に閉じこめられた声をイエスに向かって発していくなら、必ず主はその声を聴いてくださり、一人一人との対話の中で、きっと道を指し示してくださるのではないでしょうか。その道を模索しながら歩いていくことによって、私たちは、自らの内側深くに声を閉じこめなくてもすむようになるのです。私たち一人一人の声にならない声、うめきをも、じっくりと聞き、これまでのお考えをも時には変更して先だって歩き、導いてくださる主イエスに、この主日、じっくりと心を向けたいと思います。

礼拝説教要旨(2月12日)降誕節第8主日礼拝

マタイによる福音書5章1〜12節
「幸いな人」

私たちは誰でも、幸いな人生を送りたいと願っています。幸せになるために生まれてきたと思っています。そして実際、幸せを得るために一生懸命努力しながら生きています。
けれども人生は、なかなか思ったようにはいきません。自分の望む幸せが得られずに、しばしば私たちは思い悩み、落ち込むのです。
しかし、そのような私たちに今朝、主イエスは、ではそもそも幸せとは何なのか‥、幸いな人生とは何なのか‥、と問いかけておられるように思います。
私たちが真実に正しく生きようとする時、必ず壁が、たちはだかります。しばしば私たちはその壁にたじろぎ、妥協し、また、前進するのをあきらめることもあるのではないでしょうか。そして、その壁の前で、正しく生きられない空しさを感じながらも、まぎらわして生きることがあるのではないでしょうか。
そんな私たちに、今朝のマタイ福音書は「本当の幸いとは何か‥、それは、何よりも天の国の実現に向かうふるまいを、こつこつと積み重ね続けることではないか」と、語りかけているのです。
主イエスは、天の国の実現に向かうふるまいには、必ず迫害がある、と言われました。しかし、それでもなお、その道を行く時にこそ、主イエスとの本当に深い出会いと心の静けさが与えられるのだと思います。そして、その心の静けさにまさる幸いはないのだ、ということを覚えておきたいと思います。今、ここからそれぞれのところに遣わされて歩む、この一週間の旅路におきましても、様々な、困難や苦難があることでしょう。しかし、そのような時こそ主が共にいてくださることを覚え祈るならば、人知を超えた平安が与えられる、ということを忘れずにいたいと思います。

礼拝説教要旨(2月5日)降誕節第7主日礼拝

マタイによる福音書4章12〜17節
「闇から光へ」

今朝、私たちに与えられましたマタイによる福音書においては、「悔い改め」のすすめがなされています。この「悔い改め」とは本来、「後悔の念」とか「反省」とかいうことではなく、人生の進路の全体的方向転換、とも言うべき事柄なのでありました。神との人格的関係へ再び入り直すことであったのです。そのような意味において「悔い改めよ、そうすれば天の国は近づく」とは、旧約の時代からよく言われていた言葉でありました。
しかし、そのような言葉に対して、今日、ここでイエスが語っておられる「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は少し違っています。ここでイエスが言われたのは「悔い改めよ、そうすれば天の国は近づく」、ということなのではありませんでした。そうではなく、「悔い改めよ。なぜなら天の国は近づいたのだから」ということだったのです。つまり、天の国の到来は、人間の態度によって左右されるのではない、ということが明言されているのです。このような一方的な神の恵みに支えられるときにこそ、悔い改めは卑屈な告白でも、神との取り引きでもなく、自らの過去と現実を勇気をもって見直す喜びの行為となりうるのでありましょう。
この世の暗闇のような状況の中で、たえず、神に立ち帰ること‥、すなわちたえず、悔い改めること‥、そして主イエスの光を証するという使命を果たしていくこと‥、これらのことが、今朝のこの聖書の箇所から私たちに促されているように思います。そのように、光の子としての使命を果たしていきなさい、と告げられているように思います。

礼拝説教要旨(1月29日)降誕節第6主日礼拝

マタイによる福音書21章12〜17節
「祈りの家」

今朝のマタイ福音書において、イエスは非常に激しく怒っておられます。神殿の境内で売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された…、これほどまでに激しく怒り、実力行使で物事をすすめようとされる主イエスの姿を、私たちはこの場面以外にあまり見ないのではないでしょうか。
当時のいわゆる神殿当局者たちにしてみれば、なぜ、こんな非難を受けなければならないのか、よくわからなかったかもしれません。決められたことを、淡々と実行しているだけのことだった‥、しかしそれが、目の見えない人や、足の不自由な人達を排除することになっていた‥、その人達の祈りをかき消すことになってしまっていたのです。そのような神の愛と正義にもとるふるまいが公然と行われ続けていたことに対して、イエスはこれほどまでに激しく怒られたのでありました。
「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」。教会は、祈りが満ちている場所です。苦しみ、悲しみ、うめきなど、切実な祈りが満ちている場所です。まずは、私たちは今日再び、これまでに、この教会の礼拝堂の空気に刻みつけられてきた切なる祈りの数々に想いをはせたいと思います。そして私たちもまた、その祈りを祈り継いでいきたいと思います。真実かけて祈った祈りは、どんなことがあってもかき消されることなく、祈り継がれていきます。私たちがその祈りを、祈り継いでいく限り、かき消されることはありません。今日、私たちは、この小石川白山教会が、主イエスが望まれるまことの祈りの家として、ますます豊かに用いられるように、祈りを合わせたいと思います。そして、教会の業を整えていきたいと願います。

礼拝説教要旨(12月4日) 降誕前第3主日礼拝

             
マタイによる福音書13章53〜58節
「神のまなざし」

イエスの故郷ナザレの多くの人々は、信仰的にイエスを見るこ
とができませんでした。それでつまずいてしまったのです。57節後半において主イエスは「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と語られています。この故郷においてイエスは、ただ単にこの世的な、人間的な、興味本位の関心を持たれただけでした。それで最後の58節を見ると「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」とあります。これは実際には「奇跡をなさらなかった」のではなく「奇跡を起こせなかった」ということなのではないかと思います。今日のこの箇所の並行箇所、マルコ福音書の6章1節以下、その5節を見ると、次のように記されています。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」。おできにならなかった、つまり、奇跡を起こそうにも起こせなかった、ということなのです。
私たちは今、アドベントクランツの光を見つめながら、神の御子が、自ら最も小さく、低くなられてこの世に来てくださった、という奇跡を再び思い起こしています。そしてその奇跡を信じて仰ぎつつ、私たちは、神の国の成就という奇跡の完成に向かって導かれていくのです。イエスを仰ぎ、信じ、従っていこうとすること‥、そのような信仰を持つ人達が集められているところに、イエスの奇跡は起こります。そのような信仰が失われてしまったところには、イエスの奇跡は起こりません。このことを深く心に覚えつつ、アドベントの時をさらにすすんでいきたいと思います。

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礼拝説教要旨(11月13日) 降誕前第6主日・教会創立記念礼拝   説教要旨 

ルカによる福音書8章4〜15節
「御言葉の実り」

今朝私達に与えられましたのは、「種をまく人のたとえ」です。御言葉という種をいただくために私たちは毎週教会の礼拝に出席しています。私達が教会に集う時、私たちは自分自身の悩みや課題を抱えて、礼拝堂の椅子に座ります。人に話したところでどうすることもできない悩みや課題、また、誰にも話したくない悩みや課題もあります。それぞれが胸のうちに様々な思いを抱えて礼拝堂の椅子に座っています。お互いに胸の内をすべてあかしているわけではありませんから、完全に理解しあっているわけでもありません。しかし、それでも、そこに集った者たちは、互いに互いの様子を気遣い、配慮し合いながら同じ時を共有します。この一週間、何があったのか…、どうしてそんなに悲しい顔をしているのか、根掘り葉掘り聴くこともせず、ただ、互いに祈り合うことを通して、すべてを神にゆだねます。するとそこに、集っている一人ひとりを抱きしめ、温め続ける神の御手が働かれるのです。
それが、聖別された主日のあるべき姿なのであろうと思います。教会においては、たとえ互いにいろいろな言葉を交わさずとも…、黙っていても…、互いに互いのことを主イエスに委ね合う祈りの交わりのなかで、主の愛が満たされ、一人ひとりに主から、新たなお導きが示されていくのです。そのような交わりを土台として、この小石川白山教会は114年の歩みを続けてきたのです。
創立114周年を迎えて、あらためて私達は、肉眼の目では決して見ることのできない実り、信仰の目でしか見ることができず確認することのできない百倍の実りを求めて歩むようにと今、主イエスから促されていることを想います。

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礼拝説教要旨(9月25日) 聖霊降臨節第20主日礼拝  説教要旨              

ヨハネの黙示録7章1〜8節 竹島 敏牧師
「神の刻印を押されて」

今日のこのヨハネの黙示録に示されているのは、神の僕達の額に、神の刻印が押されるまで、大地や海を大きく損なうような激しい風は、天使達によって押さえられていた、ということです。神の刻印、すなわち洗礼にあずかるべく招かれている者全てに、洗礼がさずけられるその時まで、この世界の決定的な破滅から天使達が守ってくれる、という福音が、ここにしめされていると言えるのではないでしょうか。
このヨハネの黙示録は、紀元95年頃、ドミティアヌス帝の治世の時代、諸教会に対する迫害が徐々に激しくなりつつある頃に書かれました。ローマの属州アジア州の諸教会は、帝国の政治的迫害に苦しんでいました。黙示録の著者は、そのような状況のなかで、差し迫ったキリストの再臨、この世の終末と完成を告げて、殉教の危険にさらされていた諸教会を激励しようとしたのでした。
今日の7章以下の箇所においては、神の僕たち全てに神の刻印が押されてしまうまでは、世界の決定的破滅は延期され、またどんな時も、神の刻印が神の僕たちを守るということが明らかにされています。
私達が今、生かされているこの時代も、終末的な状況である、とよく言われます。まるでこの世の終わりを予感させるような出来事や事件が日々起こり、希望を見出すことがむずかしい時代です。しかし、今朝の黙示録の箇所に示されていたように、そのような私達の主観をはるかに超えて、神の刻印が私達にも押されており、それが、救いの保証となっていることを再び想い起こしたいと思うのです。

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礼拝説教要旨(9月18日) 聖霊降臨節第19主日礼拝  説教要旨              

ヨハネの手紙一5章13〜21節 竹島 敏牧師
「真実の神」

私たちが生かされているこの現代社会には偽りの神が満ちています。たとえば、「常に」ではなくても「時として、また突然」神のごとくふるまいだす‥、そういう人がいないでしょうか。真実の神の前には、本当に破れだらけの一人の人間であるにもかかわらず、そのことを認めることなく、神のごとくふるまう‥、
私たちが生かされているこの現代社会は、そのような様々な偽りの神に満ちあふれており、そのような社会において私たちは、絶えず、恐れ、傷つきながら日々を送っているのではないでしょうか。
しかし聖書は、そのような社会においても偶像である偽りの神々に決して目を奪われず、真実の神のみを見つめよ、と私たちに語りかけているのです。
「真実の神」・私たちの主イエスは、全き愛で、今も、私たち一人一人を包みこもうとしておられます。その愛に包まれたなら私たちは、たとえ、神のごとくふるまう人達によって傲慢な仕打ちを受けることがあるとしても、その痛みをはらすために、別の誰かを苦しめようとは決してしないでありましょう。
様々な偽りの神・偶像が満ちているこの社会において私たちは、時に、今まで体験したことのないような厳しい状況におかれても、真実の神・永遠の命である主イエスから決して目をはなさず、この方の言葉に包まれそこにとどまって新たな力をいただきたいと思います。それがきっと、危機的な状況から解き放たれていくエネルギーになることを信じて、真実の神・永遠の命である主イエスの内にとどまり続けていきたいと思うのです。

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礼拝説教要旨(9月11日) 聖霊降臨節第18主日礼拝 説教要旨              

エフェソの信徒への手紙3章14〜21節 竹島 敏牧師
「主の愛に立つ」

私たちの人生には、まことに様々な予期せぬ出来事が起こってまいります。
突然の病気やけが、思いがけない事故‥、どんなに気をつけていても避けられない場合もあります。
しかしそのようななかで、私たちが最もとまどい、悩むことの多い問題のひとつは、人間関係にまつわるものなのではないでしょうか。
社会の先行きが不透明で、なおかつ、いろんな考え方や価値観があるなかで、私たちをとりまく人間関係はますます複雑でむずかしいものになりつつあるのではないでしょうか。
そのような中で正しく隣人との人間関係を築いていくためには、やはり正しく礼拝を献げ正しく聖餐にあずかっていなければならないのでしょう。
ゲルトタイセンという神学者は聖餐について次のように述べています。「聖餐式はそれに参与する者を人間愛へと義務づける」。
つまり、聖餐を受けるということは、キリストとひとつになる、ということ。
それはキリストに、この私の苦難を共に背負っていただくと共に、この私も、キリストがなさったように、他の誰かの苦難を共に背負う、ということにほかなりません。
そのような実践を通してこそ私たちは「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」なるのです。
「そのようにして主の愛に立ち生きよ」と今日、呼びかけられていることを心に深く覚えたいと思います。

礼拝説教要旨(9月4日) 聖霊降臨節第17主日礼拝 説教要旨  

ペトロの手紙一 2章11〜17節 竹島 敏牧師
「神の僕として」

今朝のこのペトロの手紙には、「神の僕として生きよ」という小見出しがつけられています。
16節で「神の僕として行動しなさい」、と言われています。と同時に13節においては「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」とも言われています。
「主のために」とは、いろんな意味にとれる言葉ですが、「主イエスを証するために」、とか「主がそうされたように」ということでありましょう。
ところで私たちの身近な日常において、神の正義は貫かれているでしょうか。
仕事や、様々な交わりをすすめていくなかで、心が痛むことや、憤りを感じることが数多くあるのではないでしょうか。
ささいなことでも、その一つ一つに心をとめ、神の正義が取り戻されるために、今、主イエスは、この自分に先立ってどのような働きをしておられるのか黙想し、祈ること、そして、その主の御業に仕えるように行動していくこと‥、それが、私たちの日常において主を証するということなのであり、神の僕として生きるということなのではないでしょうか。
そのような、極めて日常的なこと一つ一つを通して私たちは、地の塩としてこの世に従属し、とけこみつつ、神の正義を証し、神の僕として生きていくのです。
私たち一人一人の内側に聖霊として住まいつつ、御自身の業と私たちそれぞれがなすべき業を示しつづけ呼びかけ続けてくださっている主イエスの声に耳をすませ、その声に、言葉に、勇気を出して従っていく私たちでありたいと思います。

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礼拝説教要旨(8月7日) 聖霊降臨節第13主日礼拝  説教要旨            

ローマの信徒への手紙8章18〜25節 竹島 敏牧師
「見えないものを見る」

今朝の聖書の箇所において使徒パウロは、現在の世界の状況を「被造物は虚無に服している」という言葉で言い表しました。
このような虚無は、現代においても人間が人間として見られないような場所にはどこにでもある‥、と言わざるをえないのでしょう。
たとえば、様々な圧力によって、自由な発言を封じられる経験をしたことはないでしょうか。
学校や、職場や、時には家庭においてさえも、そのような経験を少なくとも何度かはしたことがあるのではないでしょうか。
また、お金のため、生活のためとはいえ、なぜ、こんなにあくせく働かなければならないのか‥、時に物のように扱われ、侮辱されながらも、必死に耐えて働き続けている‥、そういう経験も多くの方がお持ちのことと思います。
それが、現代の虚無に生きる私達の現実です。人間が人間として扱われない‥、一つのモノのように‥、交換可能な、返品可能な一つのモノのように扱われる、そういう現実がいたるところにあります。
しかし、私たちは、そうなりながらも、そこに立ち止まり続けるのではなく、そこで聴き続ける聖書の言葉に促され押し出されて神の国へと新たな一歩を踏み出したいものだと思います。
聖書の言葉が指し示す、私たちの目にはまだはっきりとは見えてこない目標‥、しかし、時が来れば必ずはっきりと見えてきてその通りに成就していく目標‥、それこそが、私たちキリスト者の希望であり命なのだということを覚えておきたいと思うのです。

礼拝説教要旨(7月24日) 聖霊降臨節第11主日礼拝  説教要旨           

コリント一11章23〜29節 竹島 敏牧師
「主が来られるとき」

私たちの救い主イエスキリストは、「いのち」の交わりの主です。これが今日の聖書箇所の大切なポイントです。そしてイエスをキリストと信じる者達はすでに、聖餐を受けるたびごとに、イエスの命を受け継ぎ続けているのです。つまり、十字架の死に至るまで神の御心に従順に、徹底した非暴力で神の国への戦いを続けていかれた主の命を受け継ぎ続けているのです。私たちはその命の継承者であり、また、その命を隣人に証する使命を託されています。聖餐のたびごとに、このことを思い起こし、主の「いのち」を深く受け入れていくことが大切です。そのことによって私たちは、イエスを中心にした、ずっと続いていく「いのち」の交わりを形成できるのだと思います。そのようにして私たちは、主が再びこられる時まで、主の死を告げ知らせながら、交わりを形成していくのです。
確かに、この地上での命がおわる別れの時は、耐え難い悲しみの時です。しかし、誰もがいつかは迎えなければならないその時に備えて、今、互いに生かされているこの一瞬一瞬を大切にし、互いの「いのち」をわかちあっていきたいものだと思います。そして受け継ぎあっていきたいものだと思います。そうすることによって「いのち」は孤立することなく互いに輝きはじめるのです。
主が再びやってこられ、主の救いが完成するその時がいつなのかはわかりません。しかしいつか必ずやってくるその時まで、私たちもまた、このパウロたちのように、「いのち」の交わりを続けながら、希望をつないでいきたいと願うのです。

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礼拝説教要旨(6月26日) 聖霊降臨節第6主日礼拝  説教要旨

エフェソの信徒への手紙2章11—22節 竹島 敏牧師
「一つの霊に結ばれる」

今朝の19節以下においては、「主における聖なる神殿」へと共同体が成長していくことについて述べられています。そしてキリストは、その隅の親石、また、かなめ石であると語られています。21節には「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」とありますが、そのように様々な違いを持つ一人一人を、教会という一つの体に「組み合わせていく」のがキリストの愛の働きであると告げられています。このキリストの愛の働きなくしては、建物はばらばらになり、分裂分派してしまうのです。
そして最後の22節では、「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」と告げられ、共に、このキリストの愛の働きに参加し仕えていくようにという促しが与えられています。
私たちが生かされているこの時代は、もはや、様々な多様性を認め合いながら共に歩んでいくために、互いに向き合ってじっくりと対話する‥、という余裕を失ってしまったのかもしれません。しかし、そうであるならそこには、いつまでたってもキリストイエスの愛がない殺伐とした風景しか見えてこないのではないでしょうか。
どうか私たちは、そのような時代のなかにあっても、「敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄」してくださった十字架の主イエスを見失うことなく歩んでいきたいと思います。そして、どのような場にあっても、教会の内でも、外でも、その主を見つめ証し続ける道を歩み続けていきたいと思うのです。
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礼拝説教要旨(6月12日) 花の日・こどもの日礼拝  説教要旨  

使徒言行録20章32〜38節 竹島 敏牧師
「神さまの国」(子どもたちへのメッセージ)

みなさんは「神様の国」という言葉を聞いて、どんな光景を思い浮かべるでしょうか。
もしかしたら、偉そうにしている神様がいて、まわりの人達にびしびし命令しているというそんな国を思い浮かべてしまうかもしれません。しかし聖書が言っている「神様の国」はそういう国ではありませんでした。そうではなくてみんなの中で一番困っている人や弱っている人、苦しんでいる人が、一番大切にされる国のことだったのです。
そんな国いったいどこにあるんだ‥、と思うかもしれません。確かに、パウロさんが生きていた時代にもそんな夢のような国はありませんでした。でもいつか、そんな神様の国がやってくる‥、イエス様がそうおっしゃっていたから、そう約束してくださっているから、必ずいつか、そのような国がくる、そう信じてパウロさんは、そのことを一生懸命伝えたのです。私たちが今いるそれぞれの場所が、小さな神様の国になっていくような小さな行いを積み重ねながら、信じて待っていなさい、と言われたそのイエス様の言葉をパウロさんは一生懸命、宣べ伝えていったのです。
困っている人や、苦しい想いをしている人に、やさしい言葉をかけてあげたりちょっと助けてあげたり、そういう心遣いをお互いにすることで、みんなが幸せな気持ちになれる。その場所が小さな神様の国になっていく。パウロさんは、そういう小さな神様の国を自分たちのまわりに、たくさんつくっていきながら、いつか世界中が神様の国になって、神様の望んでおられることが完成するように、と祈り続けていたのです。
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礼拝説教要旨(6月5日) 聖霊降臨節第4主日礼拝 説教要旨             

フィリピの信徒への手紙2章12〜18節
「主にある喜びに生きる」 竹島 敏牧師

「主にある喜びに生きる」とは、キリストイエスという信仰生活の目標を目指してひたすら走る、ということです。キリストの教えとこの世の教えがしばしば対立するのは、パウロの時代も現代も同じです。しかし特に現代の私たち、また教会にとって大切なのは、安易に世に妥協するのではなく、対立し続けることなのではないでしょうか。妥協することによってこの世に受け入れてもらい、居心地よく生きていくことはパウロの生き方とは相反するものです。もちろんイエスの生き方とも相反するものです。
教会は‥、私たちは‥、この混迷を極める時代において、あくまでもキリストの言葉にしっかりと立ち続け、時には世と対立し、苦しみつつ、キリストの祝福と導きに全てをかける生き方を選び取っていかねばならないのだと思います。それが、殉教者たちの生き方を継承していくことであり、神への従順を貫くことなのだと思います。今の時代、この日本において、キリスト者であるというただそれだけの理由で迫害を受け殉教する、ということはないのでしょうが、キリスト者であるが故に、この世の様々な考え方や立場と対立せざるを得なくなり、そのために、暴力的な仕打ちを受けたり、排除されたりする、ということはあると思います。しかし私たちもまたパウロのように、様々な困難に出会っても、私たちに先立って働かれる主が、いつか私たちの小さな業をも用いて必ず事をなしてくださることを信じて日々の歩みをすすめていきたいものだと思います。それこそが、主にある喜びに生きる道なのだと信じて歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(5月22日) 聖霊降臨節第2主日礼拝 説教要旨          

テモテへの手紙一 6章11〜16節
「いのちを得るために」 竹島 敏牧師

今朝の聖書箇所の12節後半には「命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」とあります。この御言葉に促されて私達は今朝、神からの純粋な命を取り戻し再び得ていくために、聖霊のお導きを、ご一緒に祈り求めたいと思います。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めて」生きていくためには聖霊のお導きが必要です。聖霊のお導きがあってこそ私たちは、そのような生き方を、あきらめずに貫徹していくことができるのではないでしょうか。
先週私たちは、ペンテコステ礼拝をお献げし、主イエスの霊・聖霊を豊かにいただきました。その一方で私たちの日常には確かに、命すり減らす思いをさせられる様々な課題があることも確かです。しかしたとえ、これから、そのような課題に押しつぶされそうになることがあったとしても、私たちには、人間関係の様々な破れや失敗の中に絶えずその身を置き、傷ついた人とともに苦しみを負い、慰めを与え続けられたイエスキリストが与えられています。その方の霊・聖霊が与えられているのです。だから、どんなに小さな貧しい歩みに見えようとも、その方の霊の導きに従って一歩一歩歩みをすすめていくならば、失望することはあっても、決して絶望することはない…、そしてそこに「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めて」生きていく生き方が再び始まり、そして成就していくのです。そのことを忘れずにいたいと思います。

礼拝説教要旨(5月15日) 聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ礼拝 説教要旨        

使徒言行録2章1—11節 竹島 敏牧師
「神様の霊」

今日はペンテコステ‥、イエス様が復活して50日目に、熱心に祈り求めていた弟子たちの間に聖霊・いのちの風が与えられ、教会が誕生したことを記念し感謝する日です。
私たちも心をあわせてひとつになってお祈りするなら、きっとイエス様は、力強い風になって私たち一人一人の心の中に吹き込んでくださいます。十字架を背負った姿で、私たち一人一人の心の中にあらわれてくださいます。そして毎日、私達の重荷を一緒に背負って過ごしてくださるのです。
かつて、イエス様を信じますと告白した弟子たちは、イエス様を思い起こすために、イエス様がそうしてくださっていたように、パンを裂き、ぶどう酒をわかちあいました。そうするたびごとに、その場に、イエス様の霊が満ちあふれ、確かにイエス様が自分たちのそばにいてくださる、ということを、弟子達は強く感じることができました。今日もこの後、イエス様を信じますと告白した現代の弟子たちである私たちは、イエス様を思い起こすために、かつてイエス様がそうしてくださったように、パンを裂き、ぶどう液をわかちあいます。するとその場にイエス様の霊が満ちあふれ、確かにイエス様が自分たちのそばにいてくださる、ということを、現代の弟子達である私たちも感じることができるのでしょう。そして現代の弟子達もまた、イエス様の霊に満たされて、平和を作り出していこう、という気持ちと行動が、心の底から起こってきて、そして、この教会から、それぞれのところへと遣わされていくのです。

礼拝説教要旨(4月3日) 復活節第2主日礼拝 説教要旨               

マタイ福音書12章38〜42節
「主の言葉を信じる」

今朝のこの聖書箇所において何人かの律法学者とファリサイ派の人々が「しるし」を求めたのは何か、言葉だけでは信用できない‥、
信じられないから、ということであったように感じられます。つまり、イエスに対して「あなたの言葉は信用できない、信じられない」
だから、「その言葉が真実だという証拠を見せろ」と言っているのではないでしょうか。
聖書は、「人が互いに愛しあうところに‥、愛し合おうとするところに神がおられる」と告げていますが、今もまた、神なき時代‥、
真実に愛し合うことの少ない時代であると言わざるをえないのではないでしょうか。そのような状況においては、言葉は、たんに、
相手を攻め、また自分を守るための道具にすぎなかったりします。
しかし実に主イエスは言葉の大切さ、また、言葉の恐ろしさを知り尽くした方だったのだと思います。
よこしまで神に背き続ける時代のなかで主イエスは、たくさんの心ない言葉を投げつけられました。
そして十字架につけられていく道のりにおいて、多くの侮辱の言葉を受けられました。
そのような侮辱の言葉の数々を受けて、主は全く動じなかったかと言えば、そんなことはなかったと思います。
そのひとつひとつの言葉に主は深く傷つきながら、十字架への道を一歩一歩すすめていかれたのだと思います。
そのように人の言葉の恐ろしさをご自身の身に深く刻みつけながら主は、十字架にのぼっていかれたのだと思います。
だから私たちは今、この一週の間に私たちが発してきた言葉の数々を再び思い起こしつつ、本当に深く反省し、今度こそ、
主イエスのお導きによってていねいに言葉を発する…、愛のこもった言葉を紡ぎだす、その努力をはじめていきたいと思います。

礼拝説教要旨(3月20日) 受難節第6主日・棕櫚の主日礼拝 説教要旨        

ヨハネ福音書18:1—14 竹島 敏牧師
「苦難の主」

今朝のこの聖書の箇所に記されているイエスの御姿をじっと見つめていると、まさに主は、愛されるよりも愛することを求めるように…、と御自分の態度を通して弟子達に教えようとしておられたのではないだろうか、と思わされるのです。
そしてどんなことがあっても絶望しきってしまってはいけない、と呼びかけておられるように思わされるのです。
受難節のこの時、私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何でありましょうか。それは、すべてを失ってもなお、
向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。
絶望の中で、枯れるほど涙を流しながらなお、向こうから一方的にさしてくる光、これが十字架の希望であります。
イエスは、おそらく、ユダや、その他の弟子達にも捨てられ、神にさえ捨てられたと感じてもなお、十字架の上で、この光を
見続けていたにちがいありません。この光に照らされていたからこそ、「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつも、最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と告白したにちがいないのです。
そして、十字架の向こうから射してくるこの光を主は、ユダの裏切りによって、逮捕されていくこの時すでにしっかりと
見つめていたからこそ、憐れみのまなざしをもって、なおユダを見つめ、また、これから次々と自分を裏切っていく弟子達を、
なお守り抜くことがおできになったのではないでしょうか。
私達の救い主・受難と復活の主イエスが、すでにこの時から見続けていた光を、私達も見つめつつ、
この受難週を歩んでまいりたいと思います。

礼拝説教要旨(3月6日) 受難節第4主日礼拝 説教要旨               

ヨハネによる福音書12章1—8節 竹島 敏牧師
「十字架への道」

ここでおそらくユダは、十字架ぬきの栄光を望んでいたのではないだろうかと思います。
そして彼が望んでいたのは、イエスが地上の王・メシアとして力をふるうことであり、
その力にあずかって自分もまた相当な地位を得たい、ということだったのではないでしょうか。
つまるところそれは自己愛であり、自己栄光化への道であったと言わなければなりません。
十字架への道はそのような自己愛の追求、自己栄光化への道なのではなく、共に生きる世界を、
イエスとイエスが招かれた人達と共に、苦しみながら求めていく道なのです。
それは十字架へと歩みをすすめていくイエスの御姿が時に敗北者に見えるように、様々な困難苦難に
さえぎられて、敗北への道を歩んでいるかのようにしか見えないこともあるのでしょう。
受難節のこの時、私達もまたマリアのように、イエスの葬りの備えをせよと求められているように思います。それはイエスの十字架への道、苦難の道をしっかりと見つめ、その道を行かれる主の後に従う決意をする、
ということでもあります。確かにそれは時に、主イエスと共に十字架につき敗北の苦しみを味わうことを
招くでしょう。しかしそれは同時に、復活へとつながっていく道、復活を望み見つつ歩み進んでいく
希望の道でもあるのです。十字架への道は、十字架の向こうから射してくる光に照らされ導かれて、
主イエスと共にその光を見つめつつ歩んでいく道です。
私達一人一人の失敗や敗北をも豊かに用いて復活の御業を起こしてくださるこの方と共に、
十字架への道を歩んでいきたいと思います。

礼拝説教要旨(2月21日) 受難節第2主日礼拝 説教要旨    

ヨハネによる福音書9章1〜12節 竹島 敏牧師
「神の業を行う」

イエスがここでされた事は、偏見により差別され続けてきた一人の人の中に御業を起こす、癒しの奇跡を起こす、ということでした。そのことによってイエスは、誤った社会の価値観を逆転させようとしたのです。そして、天になるごとくこの地にも神の国をもたらそうとしたのです。
ここでイエスが対決されたのは、この世の法や常識というよりも、ユダヤ教の伝統的な価値観・常識であったということに目をとめておきたいと思います。いわゆる現行のユダヤ教の法や価値観にもとづいてふるまおうとした弟子達に対して、主イエスは、最も大切な戒めに照らして、その価値観や常識を見つめ直すべきだと言われたのです。その最も大切な戒めとは言うまでもなく「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めと「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めの二つです。伝統的な価値観や常識を無条件に受け入れ守る姿勢を示すことによって自分たちの敬虔さを実証しようとした弟子達に対してイエスは「もっと大切なことがあるではないか」と言われたのです。
一番大切なことは、そこらにころがっている「もの」のようにずっと扱われてきた「この人」が、ごく当たり前に、人間的な暮らしを送れるようになることなのではないか‥、それが「隣人を自分のように愛する」ということなのであり、そのようにこの世の価値観や常識をひっくり返すのが神の業なのだ‥、そうイエスは宣言されて、「この人」に神の業・癒しの業を行ったのではないでしょうか。

礼拝説教要旨(2月14日) 受難節第1主日礼拝 説教要旨    

マタイによる福音書4章1〜11節 竹島 敏牧師
「試練のなかで」

ここでイエスが一貫して語っておられるのは「何よりも神の言葉、聖書の言葉が大切であり、そこから自らの行動を決めていくべき」ということです。この悪魔との論争において主イエスは、常に、聖書の言葉を引用しつつ「聖書にこう書いてある」、と述べられました。
悪魔の誘惑は、神に対してまちがった・的はずれな期待、希望を抱かせるところにその大きな目的があるのかもしれません。実際には起こりえない希望を持ち、裏切られ、失望し、やがて神から離れていく‥、それが、悪魔の誘惑の最大の目的なのではないでしょうか。
私たちもまた、まちがった・的はずれな期待、希望を主イエスに対して持ってしまうことがしばしばあるのではないだろうかと思わされます。
特に様々な苦しみのなかで一刻も早くこの苦しみから逃れたい、という想いのなかで、主イエスの御声を聞き、従おうとするよりも、自分の声を主イエスに押しつけ、主を自分に従わせようとする‥、知らず知らずのうちにそのようなことをしてはいなかったか、よく反省してみたいと思います。なぜなら「祈り」とは、自分の願いをどこまでも貫き通す手段なのではなく、時に、それまで抱いていた「願い」が、神の御心によってうち砕かれ、新たな道へと導き出されていくためのきっかけ、にもなるからです。
今、私たちは受難節の歩みを歩み始めました。かつて主イエスは、この地上の生涯においてどのような苦しみを背負われたのか、そしてそれは何のためであったのか‥、これから約40日間の受難節をとおして、そのことを考えていきたいと思います。

礼拝説教要旨 (12月20日)

ヨハネによる福音書1:1-14 竹島 敏牧師
「ひとすじの光」

「罪」とは、人が神の御心という的を、はずした行いをしてしまうことです。人はしばしば、「このようにあの人を愛しなさい、」という神の御心からそれてしまいます。また「このように、あなた自身を愛しなさい」という御心からもそれて、しばしば自分自身を責め、痛めつけてしまうのです。
しかしそもそも人は、しかられた時にではなく、許された時に、「ああ悪いことをしたなあ」という実感を得るものなのではないでしょうか。きつくしかられれば、しかられるほど、心はかたくなになり、言い訳をし自分を守りたくなる‥、むしろ、やさしく抱きしめられ、ゆるしてもらった時に、「ああ悪いことをしたなあ」という実感がわいてくる‥。
ヨハネによる福音書はその1章4節において「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と告げています。確かに私たちはこの世の現実のなかで、自分らしく生きることを阻害され、それが当たり前のようになりその状態に慣らされていきがちなのです。しかし主イエスから発せられるひとすじの命の光にふれた時、押さえつけられていたその自らの命が自由を得て、再び生き生きと動き出すのです。
1年のなかで、闇がもっとも長く支配する季節はまもなく終わります。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」と口語訳聖書にあるその約束に支えられて、光なる主イエスの御降誕を感謝し、その主から発せられる、ひとすじの命の光を見つめつつ、その導きに従っていきたいと思うのです。

礼拝説教要旨 (9月27日)

テモテへの信徒への手紙4:1-7 竹島 敏牧師
「何も持たずに」

今朝のテモテへの手紙が私たちに教えようとしているのは、「正しい信心を持ち、正しい教えを聞き続けているつもりが、次第に、金銭の欲に捉えられ、金銭を追い求めていくうちに、正しい信仰から迷い出てしまうことがある‥、」ということです。そういうことのないようにくれぐれも注意しなければならない‥、ということです。そのことを今朝のテモテへの手紙は、「信仰の戦い」と呼んでいます。
この信仰の戦いを戦い抜くのは、決して容易なことではない、と、聖書は告げています。12節を見ると、どんなに立派な信仰告白をしたとしても、それで信仰の戦いが終わったわけではなく、むしろそこから、この世の様々な誘惑との戦いが始まっていく、と示されています。そのなかで最も激しい戦いになるのが、金銭の欲との戦いだ、と私達に告げています。10節においては「金銭の欲はすべての悪の根です」とまで言われています。聖書は「金銭を追い求める欲を避けて、永遠の命を手に入れなさい」とすすめています。永遠の命の喜び‥、それは、神の国へと共に向かっていく「いのち」の喜びです。そのような真の命を得るために、私達の教会は、また私達一人一人は、どのような信仰の戦いをすすめていくのでしょうか。私達それぞれが与えられている状況において、正しい決断をなし、永遠の命を感じ、永遠の命を生きる道へと歩んでいくことができるよう共に祈りをあわせたいと思います。

礼拝説教要旨 (7月5日)

使徒言行録20:7〜12節 竹島 敏牧師
「パウロの宣教」

パウロという人は、イエスキリストへの熱烈な想いを持っていた人です。衝撃的なしかたで復活の主イエスと出会ってからは、ただ、この主に仕え、従うことだけを求めて生き、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」、という告白にまで達しました。そのパウロに抱きしめられることによって、エウティコは主イエスと出会ったのです。パウロのうちに生きておられるキリストイエスと出会い、癒され、生き返ったのです。
パウロはただ抱きしめただけでした。この時パウロは、自分の内に生きておられるキリストがエウティコを生き返らせたことにさえ、気づいていませんでした。

そしてここで、今朝の聖書の記事が私たちに伝えていることは、イエスを熱烈に求め、そのイエスに仕え続けている人に抱きしめられることによって、イエスとの出会いと癒しが与えられる‥、ということです。
思い返せばこの私も、そのような人との出会いを通して、復活の主イエスと出会ったと言えます。十字架につけられて殺されそして復活されたイエスが今も生きて働いておられる‥、ということをはっきりと知ったのは、パウロのように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」、という告白を実際に生きている人と出会った時でした。
実に、復活の主イエスとの出会いは、そのようにして、人から人へと継承されていくものなのだと思います。

花の日・子どもの日礼拝 説教要旨 (6月14日)

ヨハネによる福音書3章1〜8節 竹島 敏 牧師
「新しく生まれる」

今日はこのヨハネ福音書の中で、とくに8節の言葉に深く聴きたいと思います。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。
霊から生まれた者、つまり新しく生まれた者とは、どういう者かがここに述べられています。それは風の音を聞いて歩む者だと言われています。
私達は風の音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くのかはっきりと知ることはできません。しかしそれでもその音を聞いて歩みなさい、と言われています。これは神様への深い信頼のもとに、風のような神様の声を聞きながら、手探りで歩んでいきなさい…、ということです。そのようにして少しずつ、自分を信じるよりも、神様を信じて生きる生き方を選び取っていきなさい…、ということです。
神様の声は、すぐには、風のように不確かにしか聞こえてこないのでしょう。それでも、なお、一生懸命聞き続けなさい、といわれているのです。
私達人間は、ほうっておくと、知らず知らずのうちに自分の考え、考え方が絶対に正しい、というふうになっていきます。すると最後には、自分の考えが、神様の考えだ、というところまでいってしまうこともあるのでしょう。ですから私たちは、いつも聖書の言葉の光を自分自身に当てることによって、ついつい絶対に正しい、と思いがちな自分の考えを、なおしていくことが必要なのです。そのようにして私達は、新しく生まれ変わり続けていくのです。

礼拝説教要旨(6月7日)  

使徒言行録2:37−47 竹島 敏牧師
「邪悪な時代のなかで」

今朝の聖書の箇所には、ペトロの説教の言葉を受け入れて新しい生き方を始めた人達の様子が記されています。44節以降を見ると「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」とあります。
ペトロの説教の言葉に促されて新しい生き方を始めた人達は、このような理想を実現させました。まさにそれは聖霊の導きによってなされた奇跡だと言えるのかもしれません。しかし、このような理想的な生活は長くは続きませんでした。
そしてそれがまさに私たち人間の現実の姿なのかもしれませんが、しかし、このような理想がたとえ短い期間であったとしても実現して、神の救いの歴史の一部として、聖書に記録されていることの意味は、非常に大きいと私は思います。
確かに理想的な状態は長くは続きませんでした。聖書はそのことを包み隠さず記録し、私たちに示しています。「だから理想を追ってもむなしい」という読み方もできるのかもしれません。しかし、「たとえ失敗しても、挫折しても、その試みには意味がある‥、」そういう読み方もできるのではないでしょうか。そして私たちの間にも与えられている聖霊は、この箇所をそのように読みなさいと促しているように思えてなりません。

礼拝説教要旨(5月31日) 

使徒言行録2章22〜36節 竹島 敏牧師
「命に至る道」

今朝の、このペトロの説教の一番の中心点は、36節の最後に記されております「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」というところです。これはこのペトロの説教の中心点であると同時に、エルサレム教会の信仰告白でもあった、と言えるでしょう。
人々はイエスを十字架につけて殺した‥、つまり人々はイエスを見下げ、見捨ててしまった‥、しかしそのような人々の見方、考え方を神は逆転させようとするのです。
それが、民が十字架につけて殺したイエスを、神は復活させ、主とし、またメシアとなさった、ということの意味なのです。
ペンテコステに、この私たちの間にも豊かにくだった聖霊は、聖書の言葉を通して私たち一人一人に働きかけ、「人々が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」、という信仰告白へと私たちを導きます。そしてこの告白を実際に生きるようにと、私たちを導いてくださるのです。そして、「ほんとうはその方がいいのだけれども、実際には実現不可能」、とあきらめかけていたようなことに再び取り組む力を与えてくださるのです。
やがては死ぬべきこのからだを墓からよみがえらせてくださる方の霊の導きは、私たちが実現不可能と思っていたことを可能にする‥、
この世の価値観に振り回され、ストレスをためこみつつも、なお、聖書の言葉を通して働かれる聖霊の導きを待ち望み、希望を失わないでいたいと切に思うのです。

礼拝説教要旨(4月19日)

『復活の証人として』 竹島敏牧師
ルカによる福音書24:36-49                  

今朝、私たちに与えられました聖書の箇所において
最も注目すべきは49節以下の御言葉です。

そこにおいて主は、次のように語られるのです。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。
高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。

私達の主イエスは常に
神の救いを律法という民族宗教の枠を超えるもの
として示されました。

特に、安息日の病人のいやしなどで、
イエスはそのことをはっきりとお示しになりました。

そのようにイエスは
民族宗教の枠組みをたびたび超えたために恨まれ、
憎まれて、
十字架へと追いやられていったのですが、
弟子達が、これから復活者イエスと共に
なそうとしている業には、
そのような苦しみを再び経験する可能性があるのだ
ということを十分認識しておく必要があったのです。

だからまずは静かに祈り、
黙想し、
覚悟を決めて待っていなさい、
と、そう言われたのではないでしょうか。

私達にもまた時として、
はやる気持ちをおさえ「待つ」ことが
必要な場合があるのでしょう。

私達の力は弱く、
しかし、私達に授けられた主イエスの御心に反するこの世の力は
あまりにも強い…、
そのことを私達は日常のなかで日々、
痛切に感じているのではないでしょうか。

何とかしなければならないという思いが、
思い煩いになり、
やがて、この世のあまりにも大きな力の前には
何をやっても無駄だ、
という無力感に覆われてしまうこともあるでしょう。

しかしそのような時こそ、
高いところからの力・聖霊に満たされるために、
再び静かにイエスの言葉を学び、
祈りなさいと
言われているのではないでしょうか。

常に私たちに先立って生きて働いておられる主に信頼して、
その復活の主と共に歩んでまいりたいと思います。


礼拝説教要旨 (4月12日)

『心が燃えた日』 竹島敏牧師
ルカによる福音書24:28-35

イエスの十字架の死、という出来事によって、
弟子達の希望は木っ端みじんに打ち砕かれてしまいました。

彼らが信じていた事柄は全て失われてしまいました。

しかし、そのような深い喪失感の内に漂っていた時、
再び、聖書にもとづいて、
その真理を深く説き明かし、
信仰を与え、
ふるい立たせてくださる方と出会ったのです。

それが今朝の聖書の箇所をとおして私たちに示されている希望です。

もう一度30節以降を見てみたいと思うのですが、
このふたりの弟子は
復活者イエスが共に食卓についてくださり、
祝福してパンを裂いてくださった時に、
それがイエスであることがわかった、
とありますから、
これは、道々聖書を説き明かしてくださった時に
「心が燃える」ような体験をし、
そして、パンが裂かれた時に、
その復活者イエスとはっきりと出会った、
ということです。

そして、復活者イエスが、
この二人の弟子にしてくださったことは、
今も、復活者イエスの体なる教会において、
起こり続けている、
と言えるのではないでしょうか。

それは、御言葉の説教と聖餐という形で、
ずっと引き継がれてきた御業なのであり、
私たちは、そこにおいて、
深い挫折と失望の中にあっても、
再び「心が燃える」ような復活体験をし、
共に主の食卓にあずかることによって
主のお姿をくっきりと自らの胸の内に、
刻みつけることができるのです。

どんな状態にある時も、
私たちが主に心を開き続け、
主の霊を求め続けるならば、
かつて、エマオ途上において
二人の弟子達に起こった復活体験は、
今日の教会においても…、
今日の私達においても豊かに起こされるのです。

その事を今朝私達は、
再びご一緒に確認しておきたいと思います。


礼拝説教要(4月5日)

『復活の出来事』 竹島敏牧師
ルカによる福音書24:1-12

イースターのこの朝、
私達に与えられたルカによる福音書は、
イエスの体が見あたらない空の墓を前に、
途方に暮れる婦人達の姿を描いています。

さらに、ここに登場する人たち皆が、
空の墓に気が動転し、
主イエスの復活の約束などすっかり忘れてしまっていた、
と言わざるをえません。

また、その約束を思い出してもなお、
それを信じることができませんでした。

婦人達はイエスの直弟子たちに
その事を伝えることによって、
もしかしたら正しい判断を仰ぎたかったのかもしれません。

しかし弟子達はその話を
「たわ言のように」聞くことしか
できませんでした。

このように今日のこの箇所に記されているのは
本当に情けない弟子達の様子でしかないのです。

この時、復活された主は、
どのような想いでおられたのでしょうか。

しかしその後の箇所を読んでいくと、
そのような弟子達のために
復活の主ご自身の方から出会ってくださり、
なおも気づかないでいる鈍感な弟子達に
様々な言葉とふるまいを通して気づかせてくださる、
ということが記されています。

私達もまた、
この現代社会のなかで、
主イエスを感じる信仰的感性が
鈍らされていることを想います。

当時の弟子達のように
主イエスを見失い、
自分自身をも見失いがちであることを想います。

しかし、どんな時も、
洗礼によって
私達の中に与えられた恵みに
心の目を向けさえすれば、
私達は永遠に導かれていくのです。

イエスキリストに近い者、
似た者にされていくのです。

この真理を今一度、
ご一緒に深くかみしめたいと思います。

この大いなる恵みに静かに目を向ける者の心に、
今日、私達の主イエスは復活してくださるのです。


礼拝説教要旨(3月29日)

『苦難の主 』 竹島敏牧師
ヨハネによる福音書18:1-14

今朝の聖書の箇所は、
主イエスがユダに裏切られる、という場面です。

しかし主は、孤独なさみしい気持ちでいっぱいになりながら、
それでも、そのようなご自身の想いを全てわきに寄せて、
「勇気を出しなさい」と励ましの言葉を弟子達にかけられます。

その主イエスの愛は、
この朝、ここに集められた私達一人一人にも向けられていることを、
まず、しみじみと受け止めたいと思います。

受難節のこの時、
私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何でしょうか。

それは、すべてを失ってもなお、
向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。

絶望の中で、枯れるほど涙を流しながらなお、
向こうから一方的にさしてくる光、
これが十字架の希望です。

イエスは、おそらくユダや、その他の弟子達にも捨てられ、
神にさえ捨てられたと感じてもなお、
十字架の上で、この光を見続けていたにちがいありません。

この光に照らされていたからこそ、
「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつも、
最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と
告白したにちがいないのです。

そして、十字架の向こうから射してくるこの光を主は、
ユダの裏切りによって、
逮捕されていくこの時すでにしっかりと見つめていたからこそ、
憐れみのまなざしをもって、なおユダを見つめ、
また、これから次々と自分を裏切っていく弟子達を、
なお守り抜くことがおできになったのではないでしょうか。

私達の救い主・受難と復活の主イエスが、
すでにこの時から見続けていた光を、
私達も見つめつつ、この受難週を歩んでまいりたいと思います。


礼拝説教要旨(3月22日)

『わたしのために泣くな』 中條康仁神学生
ルカによる福音書23:26-31

死刑判決を受けた後、イエス様は自ら十字架を担がれて
「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」を歩まれました。

その後を民衆や婦人たちが従い行きましたが、
イエス様は嘆き悲しむ婦人たちに対し、
「わたしのために泣くな。」と言われました。
むしろ「自分のために」泣きなさいと言われました。

同情のために泣くのではなく、
イエス様を十字架刑へと追いやった
「自分の」内側にある人間の「罪」に気づき、
そのために泣くようにおっしゃったのです。

続けて「自分の子供たちのために」涙するように言われました。
やがて訪れるエルサレムの苦難の未来、
子供たちが直面する苦難の歴史を
神の目で見ておられたのです。
実際エルサレムはこの後、紀元70年に滅亡します。

イエス様は最後に「人々のために」も、泣くようにおっしゃいました。
近い将来のみならず、遠い先の将来をも見通して言われたこの言葉は、
世界の終末時に神が裁かざるを得ない人々、
十字架の愛と福音を拒み続ける人々、
のことを想って泣きなさい、という意味で言われたのです。

イエス様は、人間の罪ゆえに
御怒りと裁きを受けざるを得なくなった人類のために、
逃れの道を与えるために、
身代わりとして十字架におかかりになりました。

キリストの十字架とは、
神の聖なる裁き(正義)と、神の赦し(愛)が、
御子イエスキリストにおいて一つになった出来事です。

私たちが罪を自覚すればするほど、
罪に泣けば泣くほど、
十字架の赦しの恵みが満ち溢れることとなるのです。

ヴィア・ドロローサの途上、
図らずもイエス様の十字架を背負うことになったキレネ人シモンは、
この後イエス様を救い主と認め、キリスト者となりました。
また家族もローマ教会において素晴らしい働きをするようになりました。
この出来事は、受難節を過ごす私たちとって、慰めの知らせだと思います。

主の十字架を黙想し、
自分のために泣いて、子供たちのために泣いて、
また人々のために泣いて、
主に悔い改め、主の十字架の贖いに感謝し、
主の十字架の赦しを体験する受難節となりますように
お祈りいたします。


説教要旨(3月15日)

『神は知っている』 友野富美子牧会補助者
ヨブ記38:1-18

ヨブ記には、ヨブという一人の人間が悪に翻弄され、
すべてを失って絶望の淵にいるその中で、
どのように神と格闘したかが記されています。

ヨブはなぜこのような苦しみが自分を襲うのかを神に問います。

友人たちがヨブに罪があると糾弾してもなお、
ヨブは「全能者と話したい」と、神に詰め寄るのです。

このヨブに、38章になってやっと神は出て来て答えますが、
示されたのは創造の素晴らしさと、その統治の見事さでした。

これは、なぜヨブがこのような苦しみを背負わされたのか、
という問いの答えにはなっていません。

けれどヨブはこの神の回答にひれ伏します。

なぜでしょうか。

ヨブは、神が自分に、小さな自分の叫びに応えて下さった、
そのことそれ自体に安堵したのではないか、
と思うのです。

ヨブは神に信頼して生きてきました。

神はすべてをご存じだ、そう信じて疑いませんでした。

神は必ず応えて下さる。

だから「神さま出て来い、神さま出て来い」と何度も迫るのです。

そのヨブに神は告げます。
「すべてのものを造ったのは、わたしだ。
この大地も、海も、朝も、死さえも、そして、お前のことも」。

すべてのものを愛をもって造られた神が、
ヨブのことも、また私たち一人ひとりのことも造り、
知っていらっしゃるのです。

私たちにも悪は襲い掛かります。

ヨブ記はなぜこのような悪があるのか、直接には答えていません。

けれど、この悪の中にあってなお、
「汝、生きよ」と私たちを造られた神は命じられます。

神は私たちに必ず応えて下さるのです。

そして私たちには、人間の苦しみ悲しみを
身をもって味わい知っているイエス・キリストが伴って下さいます。

十字架に掛かるまでに私たちを愛し抜かれた方が、
私たちの苦しみに寄り添って下さるのです。


礼拝説教要旨(3月8日)

『たとえ全世界を手に入れても』 竹島敏牧師
ルカによる福音書9:18-27

今朝の聖書の箇所において、
十字架を背負う生き方を
イエスは弟子達にすすめています。

そして今、ここに集められた私達にも、
十字架を背負う生き方をすすめておられます。

「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と…。

この、「日々、自分の十字架を背負う」、
とはいったいどういうことなのでしょうか。

それは、今、私達一人一人が
背負っているものの上にさらに何かを背負いなさい、
ということなのでしょうか。

いや、そうではなく、
すでに背負っているもののなかに、
十字架を見出す、
ということなのではないでしょうか。

今すでに私達が背負っているもの、
そのなかには、
できれば背負いたくなかったものもあるはずです。

また、否応なく私達の身の上に
ふりかかってきた苦しみがあるでしょう。

しかしそのなかに、十字架を見出す、
ということがもしできたなら、
私達は自分が背負わされているものに
積極的な意味を見出し、
喜びを見出すことができるのではないでしょうか。

ここで主が言おうとされたことは、
そういうことだったのではないでしょうか。

今、すでに自分に与えられている課題や苦しみのなかに
十字架を見出しなさい、
ということです。

そしてそのために、十字架を見出すために
まず私達がなすべきことは、
主イエスを見つめることです。

イエスが歩んだ…、
生きた道を見つめることです。

この世界には、
世界を自分の手に入れた、と思った次の瞬間に、
自分の身を滅ぼしたり失ったりする、
という出来事が満ちています。

しかし私たちは十字架への道を歩んでいかれた
主イエスの姿を見つめ、
その後に従っていけますように、
と御一緒に祈りを合わせたいと思います。


礼拝説教要旨(3月1日)

『神の指』 竹島敏牧師
ルカによる福音書11:14-26

今朝私たちに与えられました聖書箇所は、
イエスが悪霊を追放された、
というお話です。

「ベルゼブル論争」という小見出しがつけられていますが、
その最初のところでは、
何の力によって悪霊を追い出すのか、
という論争になっています。

そして、今朝の24節以降においては、
汚れた霊は一度出て行っても、
すぐにまたもどってくる、
とも言われています。

だから気をつけていないといけない…、
でないとまたいつでも汚れた霊、
悪霊にとりつかれてしまう…、
しかも油断していると汚れた霊は、
自分よりも悪いほかの7つの霊を連れてきて、
中に入り込んでくると言われています。

だから油断してはいけない、と…、
いわゆる中立というような立場で、
漂っていようものなら、
すぐに、汚れた霊に魅入られて取り込まれてしまう、
というのです。

汚れた霊に魅入られて
取り込まれないためには、
23節の言葉を借りるならば、
常に、イエスの味方であるという立場を明らかにし、
イエスと一緒に集め続けることだと言われています。

そのような態度をとり続けるならば、
その人の内側にはたえず聖霊が満ちあふれ、
汚れた霊に取り入るすきを与えることはないのです。

私達の主イエスが歩まれた道は、
徹底した非暴力、
非戦の道でありました。

主は十字架の死に至るまで、
徹底した非暴力、
非戦の道を貫かれました。

あらゆる暴力をもたらす霊、
また、戦いを好む霊を、
徹底的に追い出そうとされました。

それが私達の主イエスが
たどられた道でありました。

受難節のこの時、
その道を深く見つめつつ、
また今も主は、
神の指で、
悪霊追放の業をしようとしておられることを想いつつ、
私達もまた、
その神の指の業に参与させられたいと
心から願うのです。


礼拝説教要旨(2月22日)

『苦難の中に示された栄光』 竹島敏牧師
ヨハネによる福音書12:20-29

イエスの宣教の中心は神の国でありました。

天になるごとく
地にも神の国がなっていくことに
イエスは全てをかけられたのです。

苦難の多いこの世に示された栄光、
それこそが神の国である、と、
そのような神の国の香りが、
もう既に漂ってきているではないか、と。

だから、私達は
そのために仕えていくよう招かれているのであり、
そこに仕えるなかで私達自身の悩みや課題も
解決の方向へと導かれていくのです。

私達の人生には
なお多くの悩みや課題が与えられており、
深い不安にとらわれたり、
激しい動揺におそわれたりすることも、
しばしばあるのかもしれません。

しかし、そのような時こそ、
イエスもまた、
十字架の道行きを前に、
激しく心騒がせられたことを
思い起こしたいと想います。

しかし、イエスは、
その道から逃げることなく、
その道にとどまり、
一歩一歩進んでいかれました。

その結果、やがて、
復活という豊かな実りにあずかることができたのです。

私達もまた、
深い不安にとらわれながらも…、
心騒がせつつも、
御国を仰ぎ見て歩んでいくならば、
今歩いている道の先に示されている光が
徐々にはっきりと見えてくるのではないでしょうか。

そして歩んでいく道筋が
次第に明るく輝いて見えてくるのです。

私達もまた、イエスがそうされたように、
神の国が天になるごとく
地にもなるように仕えていきたいと思います。

そのように歩んでいくところに、
私達一人一人の悩みや課題が
解決されていく道が備えられていることを信じて、
その私達一人一人の救いが
成就していく道に照らし出される光を見つめながら、
前進していきたいと思うのです。


礼拝説教要旨(2月15日)

『悪魔の誘惑』 竹島敏牧師
ルカによる福音書4:1-13

今朝のルカ福音書を見ると、
悪魔は非常にたくみです。

聖書の言葉をも巧みに用いて
イエスをそそのかしています。

しかしイエスはその聖書の言葉に、
聖書の言葉で返しています。

イエスはさまざまな
聖書の言葉の中心を貫く
神の御心を知っていました。

またイエスは1節に記されてあるように
聖霊に満ちておられました。

そのように聖霊に満たされていたからこそ、
イエスは聖書を正しく解釈することができました。

そして聖書の言葉を
自分の都合のいいように引用した
悪魔を論破できたのです。

私達もまた様々な誘惑に、
生涯、合い続けるのでありましょう。

しかし私達は今朝
イエス御自身も生涯、
悪魔の誘惑を受け続けられたのだ
ということを覚えておきたいと思います。

13節には
「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」
とありますが、
これは時が来たらまたイエスに近づいて誘惑した
ということです。

悪魔の最後の誘惑は
イエスが十字架への道を行かれる直前になされました。

しかしイエスはゲッセマネにて
苦しみぬき祈りぬいて、
悪魔の最後の誘惑をも退け、
十字架への道を行かれたのです。

受難節を迎えるにあたって
荒れ野での誘惑を退け、
さらに地上での生涯の最後まで
誘惑を退け続けたイエスの姿を見つめるならば、
私達にもきっと聖霊が豊かに与えられるにちがいありません。

祈りつつこのイエスを見つめて
さまざまな誘惑にうち勝つ歩みをなしたいと思います。

確かに誘惑を退けることによって
受難を招くこともあるのかもしれません。

しかしその受難の歩みの向こうに
今はまだほのかにではあっても、
すでに見えている復活の光を見つめながら
歩んでいけたらと思うのです。


礼拝説教要旨(2月8日)

『満ち足りるということ』 竹島敏牧師
ルカによる福音書9:10-17

今朝私たちに与えられましたこのルカによる福音書において、
イエスの周りに集まっていた五千人以上もの人たちはみな、
精神的に、あるいは肉体的に、
痛み苦しみを抱え、癒しを求めていた人たちでした。

満腹になれない原因は
単に貧しさだけではありませんでした。

心の痛みや、体の痛みのために、
十分に食事がとれない…、
この五千人以上もの人たちのなかには、
そのような人も大勢いたのではないかと思います。

しかし、様々な理由で十分に食事をとることができなかった
そのような人たちが、
主イエスの神の国についての言葉を聞いて、
また、主イエスとの交わりの中で癒されて、
そしてイエスの奇跡によってこの日この時は、
再び元気に食事をとり、
満腹することができたのです。

この五千人以上もの人たちが、
この後も、満腹して過ごすことができたのかどうか、
それはわかりません。

なぜならイエスの奇跡行為は、
継続して毎日行われたものとは考えにくく、
その一番の役割は、奇跡行為を通して何かを指し示す、
ということだったと思われるからです。

ここでイエスが指し示そうとされたのは、
神の国とはどういうところなのか、
ということです。

この人たちはこの後も、
神の国における最終的な救いを前もって味わった
この時の出来事を思い起こしながら、
この思い出に支えられて生きたのではないでしょうか。

一度は前もって体験したあの神の国に、
今も自分たちは導かれつつあるのだ、
という希望に支えられてそれぞれの生涯を歩んだのではないでしょうか。

そしておそらく、神の国を求めて
イエスに従う歩みを始めた人たちが、
ここから大勢生み出されたのではないだろうか
と思うのです。


礼拝説教要旨(2月1日)

『主イエスの癒し』 竹島敏牧師
ルカによる福音書5:17-26

今朝のこの物語は、
中風の人を何としても助けたいと
願い考えた人たちの信仰が
主イエスにみとめられて起こった
癒しの業を伝えています。

その信仰とは、
偏見に満ちた当時の常識を破ってしまうほど
強烈なものでありました。

その強烈さは、
群衆がその人たちを
イエスのいる家の中にいれようとしなかったのに対して、
その家の屋根にのぼって瓦をはがし、
天井を破って入っていったという
行動にあらわれています。

この信仰の故に、
主の御業が起こされました。

そしてこの主の癒しは、
病にまつわる偏見や差別を受けての苦しみから
この人を解き放つところから
始められたのです。

主の癒しの業に共通しているのは、
病の痛みや症状が改善されるのみならず、
いやそれ以前に、
生き生きと生きていく道筋が与えられるということです。

今日の箇所に登場してきた中風の人にもまず、
そのような道筋が与えられました。

「罪人」というレッテルがはがされ、
偏見や差別から解き放たれて
家に帰るという道筋が与えられたのです。

すなわち主イエスの癒しとは、
必ずしも私たちの病の症状を取ることなのではなく、
私たち一人一人が死んでいたような状態から目覚めさせられて、
活き活きと、
自らに与えられている全ての賜物を生かして
生き始めるようになることなのです。

私たち一人一人の根底に与えられていた
そのような賜物が目覚めて活動し始める‥、
根底からその人を支え、動かし始める、
そういうことを言うのです。

最後に、この主イエスの癒しは、
本人の信仰というよりも、
そのまわりの人たちの信仰によって
起こされたのだということをもう一度、
深く心にとめておきたいと想います。


礼拝説教要旨(1月25日)

『実を結ぶ人たち』 竹島敏牧師
ルカによる福音書8:4-15

今朝の聖書の箇所には、
私たち一人一人の心の奥深くにまかれた御言葉の種が、
どうすれば実を結んでいくのか‥、
ということが記されています。

確かにそのためには
私たち一人一人の努力も必要です。

しかし、私達は時に、
主イエスの御前でさえ、
立派でありたいとか正しくありたいとかいう
無理な緊張をしていることがあるのではないでしょうか。 

しかし、そんな必要は全くないのだ、
と、私たちは今日の聖書の箇所から
言われているのではないかと思います。

どんなに緊張して、自らを取り繕おうとも、
主は全てをご存知なのです。

立派に正しく見せようとしても、
そんな虚偽の姿はかんたんに見破られて、
くずされてしまうのです。

そんな、おろかしいふるまいはもうやめて‥、
そして、主イエスの光をゆったりゆたかに浴びて、
生かされている喜びに胸を熱くして過ごす日が必要なのだ、
と、そう言われているのではないでしょうか。

そして何よりもそれは、
聖別された主日のあるべき姿なのでありましょう。

果たして私たちは、主日ごとに、
主イエスの光をゆったりゆたかに浴びて、
生かされている喜びに胸を熱くして
過ごすことができているのでしょうか。

もしできていないとすれば、
それはいったいどうしてなのでしょうか。

そして教会において、
たとえ互いにいろいろな言葉を交わさずとも…、
黙っていても…、
なぜ胸が熱くなるのか互いにわかるようであってほしい…、
それが、教会の本来あるべき姿なのだと思います。

今こそ私たちは、再び、
肉眼の目では決して見ることのできない実り、
信仰の目でしか見ることができず確認することのできない
百倍の実りを求めて歩むようにと、
主イエスから促されているのではないでしょうか。


礼拝説教要旨(1月18日)

『崩壊の予告』 竹島敏牧師
ルカによる福音書21:1-9

今朝のルカによる福音書は、
終末的な状況が世を覆っても、
すぐには世の終わりは来ないと告げています。
確かに今よりもっと悲惨な事が次々と起こってしまうのかもしれません。

しかし聖書は「おそれるな、おびえるな」と
9節において告げています。

戦争や暴動が起こり続け、
仲がよかったはずの友達同士が、兄弟が、親子が、
憎みあい命を奪い合うということが後をたたない‥、
まさに終末的な状況が私達をおおっていると
言わざるを得ないのではないでしょうか。

また私達が生かされているこの時代、
まさに自分こそが、
この世を変え、この世を救うキリストだとでも
言わんばかりの人達が出てきています。

このような神の正義、
神の国とはかけ離れた現実が
私達をおおっているなかで、
私達は改めて自らのあり方を振り返りつつ、
神に賭けて…、
主イエスに賭けて生きる生き方を
求められているのだと思います。

そしてこの、暗闇のような終末的な状況のなかで、
自らのあり方をあらためて振り返りつつ
神に賭けて…、
主イエスに賭けて生きる時、
私達にも「この貧しいやもめこそが、
だれよりもたくさん献金を入れた」という見方が、
その時々に応じてできるようになるのではないでしょうか。

そして私達にもまた、
このレプトン銅貨二枚を献げた女性のような真剣さ、切実さが、
より深く、より強く生み出されてくるのだろうと思うのです。

そして、この女性のように切実に、真剣に、祈りつつ、
闇に輝く小さな光のような証の業を積み重ねていくならば
きっと主は、
神の国を私達の心にありありと描かせてくださり
その希望に生きることができるようにしてくださるのだと思うのです。


礼拝説教要旨(1月11日)

『イエスの弟子たち』 竹島敏牧師
ルカによる福音書5:1-11

2015年、新しい年を迎えて約10日がたちました。
新たな希望や目標をそれぞれの胸に秘めつつも、
今年も、よいことばかりが起こるとは限らず、
嫌なことや、つらいことにも多く出会うことになるのかもしれません。

しかし、そのような時こそ、
失意のどん底において主イエスと出会い、
その招きに即座に従っていったこの漁師たちの物語を
想い起こしたいと思うのです。

彼らはそれぞれの悩みや課題を抱えたまま、
即座に従っていきました。

おそらく主の招きに応えて従っていったからといって、
すぐに、それまで抱えていた問題が解決したり、
状況が好転したりはしなかっただろうと思います。

けれども、主に従っていくなかで、
自らの痛み苦しみが、隣人の痛み苦しみに共感する道具として用いられ、
様々な出会いのなかで新たな連帯が生み出されていき、
そこから少しずつ解決への道筋が見えてくるようになった…、
そのような順序で導かれていったのではないかと思います。

現代の弟子である私達一人一人にも、
様々な悩みや課題があります。

しかしきっと主イエスは、私達のそのような日々の痛み苦しみをも全て用いて、
私達をも、主の弟子として用い、派遣してくださるのだと思います。

確かに私達もまたペトロのように疑い深く、主の言葉よりも
この世の常識を優先させがちな者なのかもしれません。

しかしそれでも「恐れることはない、あなたを、人を、
その命を保ったままで、危険から、危機的状況から救い出す人として用いよう」
と招いてくださる主を一心に見つめて、
主の年2015年、この年、自らに与えられる主の具体的導きを
素直に受け入れて歩む心備えをしたいと思います。



礼拝説教要旨(1月4日)

『イエスの決意』 竹島敏牧師
ルカによる福音書3:21-38

今朝、私達に与えられました聖書箇所が私たちに告げていることは、
イエスは全ての人を救うために人となり、
そして、神に向かう運動と自分とを一体化するために、
あえて、ヨハネのバプテスマを受けた、ということです。

私たちの日々の歩みの中にも、
様々な苦労があり、苦難があり、十字架があります。

しかし主が、この私のためにも、
共に苦難と十字架を担って歩んでくださる、
そのことを信じるならば、私たちは、
私たちの前を歩いていてくださるイエスの御姿をしっかり見つめながら、
一歩ずつでも足を前に踏み出していくことができるのです。

私達の主イエスは、
洗礼を受ける必要などなかったのに、
私達と同じ苦しみを苦しみ、悲しみを悲しむ、
そのような仕方で私達を愛し、
支え続けてくださるというしるしとして、
あえて、洗礼を受けられました。

神の子であるにもかかわらず、
神と全く等しい御方であるにもかかわらず、
私達人間と全く同じ姿になってくださいました。

私達が生かされているこの時代は、
神でないものを神としてあがめ、おがみ、
また、自ら神であるかのような振る舞いをする者が増えている、
そんな時代でありますが、
そのような時代に、まことの神が私達と同じ人になられた、
というメッセージは非常に意外なものであると同時に、
ほっと慰められるものでもあるのではないでしょうか。

人を押しのけて神にでもなろうとするような人達がいる一方で、
本当の神は、苦しくつらい想いをしている人達、
そのような想いを強いられている人達と共にあって、
同じ苦しみ、同じ痛みを共有し、
担うところから救いの業を始めようとしておられると聖書は語っているのです。


礼拝説教要旨(12月28日)

『何に導かれるのか』 友野富美子牧会補助者
マタイによる福音書2:1-12

今日の箇所には、お生まれになったイエスさまを巡って
登場人物たちがどのように考え、行動したかが描かれています。

博士たちは星を頼りに「王」を探しています。
自分たちの信じる占星術が正しければ「王」に会うことができるはずなのです。
彼らは自分の信じる「宗教」に従って、星だけを頼りにやってきました。

しかし彼らは生まれたばかりの幼子と出会ったとき、
幼子を「本当の王」と崇め、ひれ伏して礼拝するのです。

この後イエス・キリストと出会った博士たちは、「別の道」を通って帰りました。
それに対する「今までの道」は、星に導かれて来た彼らの生き方を
示しているのではないでしょうか。
彼らはそれを捨て、別の道を行きます。

星をつくり、導いていたのは神さまです。
彼らは神さまの導きで歩んでいたのです。

御子イエス・キリストと出会うことで、彼らは本当の喜びを知りました。
彼らはもはや元の道に戻りはしません。
自分たちの国、生活の場に戻っても、彼らを導くのは今までのものとは違うでしょう。
彼らは新しい、別の道を歩み始めているのです。

一方ヘロデはどうでしょうか。
彼が考えているのは自分の保身だけです。
自分の小ささと恐れの中にいます。
そして恐れと怒りから幼子たちを抹殺するのです。
彼はキリストに出会うことはありません。

私たちは生きていく中で、闇を歩んでいることがあります。
けれど、そのような私たちの傍らに必ず、
幼子の姿のキリストが佇んでいてくださるのです。

私たちはそれぞれに、イエス・キリストと出会います。
そのとき、私たちはどのようにキリストをお迎えするのでしょう。

私たちは何に導かれ、誰と出会うのでしょう。
自分の信じる星、生き方なのでしょうか?
それともキリストに伴われ、神に導かれる生き方でしょうか?

クリスマスのこの時、私たちは問われているのです。


礼拝説教要旨(12月21日)

『低みに生まれた愛』 竹島敏牧師
ルカによる福音書1:26-38

今朝の聖書の箇所に記されてありますように
神はしばしば、マリアにされたような…、
私達人間には不可解な、
にわかには信じがたい御業を起こされます。

なぜ神は、こんな事を言われるのか…、されるのか…、
と、とまどうことや、
できればこのことには関わりたくない、
ということや、
場合によっては怒りたくなるようなこともあるかもしれません。

しかしひとつ言えることは、
そのような様々な葛藤なしに、
私達は神との深い出会いや
イエスとの深い交わりを味わうことは決してできない、
ということです。

自分に与えられた課題の重さに、もう一歩も前に進めない、
という想いのなかでうずくまってしまうこともあるいはあるかもしれません。

しかし、そのような時にこそ、
主イエスは私達一人一人の傍らにいて、
共にうずくまってくださり、
言葉にならない私達のうめきを祈りとして受けとめ、
とりなしてくださいます。

そのような方が、私達一人一人の傍らに来てくださった…、
それが私達に与えられるクリスマスの喜びなのです。

私達の主イエスは、喜びが満ちているところにではなく、
悲しみが満ちているところに
小さな希望の光を灯すために来てくださいました。

そこから全ての人を救う歩みを始められたのです。

そのようなイエスの御生涯のスタートが飼い葉桶という場所だったのは、
非常に象徴的なことだと思います。

私達の主イエスは、神の身分でありながらそれに固執することなく、
この地上のもっとも低き、暗き、ところに来てくださいました。

このような「低みに生まれた愛」・イエスが、
私達と共にいてくださる、私達と共に歩んでくださる、
それが今日、私達に与えられた、「よき知らせ」なのです。



礼拝説教要旨(12月14日)

『不信をこえて』 竹島敏牧師
ルカによる福音書1:5-20

私たちの主イエスキリストは、
飼い葉桶に生まれ、
十字架上で死なれました。

主が十字架の上で最後に叫ばれた言葉は
「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」
という言葉でした。

この主イエスは、
まさに『その全存在が「なぜ」でしかなかったお方』でありました。

しかしその方が、再び、
私たちの間に宿ってくださる、というのは、
私たちにとってまさに一筋の希望の光なのではないでしょうか。

私たちは今、クリスマスを前にして、
様々な「なぜ」という想いを抱え、
真っ暗な闇にたたずんでいるのかもしれません。

しかし、『その全存在が「なぜ」でしかなかったお方』が
再び私たちの間に宿り、
共に「なぜ」と叫びつつ、
一緒に歩んでくださるのです。

だから私たちにとってクリスマスとは、
本来、派手な祝いの時とは無縁なものです。

4本のろうそく全てに明かりがともるその時は、
私たちにとって喜びの成就の時なのではなく
『その全存在が「なぜ」でしかなかったお方』と共に、
なお「なぜ」と問い始めていく出発の時なのです。

様々な「なぜ」を抱えながら、しかし、全ての「闇」にうち勝たれたお方が、
再び共に歩んでくださる…、
だからいつかきっと、この私の「なぜ」、にも答えが与えられる、
その希望のしるしがアドベントクランツの4本のろうそくの光なのではないでしょうか。

祭司ザカリアの不信をこえて、
御業を成就させた神…、
十字架上でのイエスキリストの最後の叫びをこえて、
復活の御業をなされた神…、
その神が、私たちの不信の叫びをも超えて、
必ず御業を成就させてくださる…、
再び希望を与えてくださる…、
その想いを深めつつ、アドベントクランツの4本目のろうそくに
明かりが灯される日を静かに待ちたいと思うのです。


礼拝説教要旨(12月7日)

『言葉を担う』 竹島敏牧師
ルカによる福音書4:14-21

私たちが、聖書を読み始めた時、
そこにはいろんな理由が…、
またいろんな求めが…あったかもしれません。

しかし、私たちが聖書の言葉と向き合い始めたその時から、
聖書の言葉は私たち一人一人の心の扉をたたいていたのです。

私たちが聖書の言葉と向き合うときには、必ず、
聖書の言葉の方から私たちに働きかける、
ということが起こっていたはずなのです。

もし最初はそのことに気づかなくても、
この世にあって様々な苦難困難に出会った時に、
私たちはそのことに気づかされるのではないでしょうか。

そして改めて真剣に聖書の言葉と向き合い、
新しい生き方へと促されていくのです。

そのような生き方は時として、
この世の価値観・この世の言葉との対立を生み出すこともあるかもしれません。

しかしその時私たちは、きっと、
聖書の言葉を担って生きていると思っていた私たち自身が実は、
その、聖書の言葉に担われて歩んでいるのを発見するのでありましょう。

聖書の言葉・イエスの言葉を担うということは、
同時に、その言葉に担われる、ということでもあります。

言葉を担うことによって、その言葉に自分が担われるのです。
支えられるのです。
救われて、導かれるのです。

「言葉を担う」とは、そういうことです。
だからそれは重荷ではなく、恵みなのです。

アドベントのこの時、
私たちは、どんなイエスの言葉に出会うのでしょうか。

その深い意味を新たに知らされ、
その言葉に担われて新たな歩みへと踏み出すことになるのでしょうか。

この暗闇のような世の状況に再び来てくださる主を待ち望みつつ、
その主イエスの言葉・聖書の言葉に新たに出会い、
その言葉を担う者として、再び立ちたいと思います。


礼拝説教要旨(11月30日)

『その時、救い主が来る』 竹島敏牧師
ルカによる福音書21:25-36

今日の聖書の箇所には、私たち人間の弱さと、
しかしその弱さを承知して、
とりなしの祈りと行動をし続けてくださる主イエスの深い憐れみ・愛が
証されています。

そして今日の箇所に続くところには、
イエスはいつもオリーブ山で真剣に祈っていた…、
そして、逮捕される直前も血の滴るような汗を流して切に祈られた…、
と記されています。

しかし弟子たちは悲しみの果てに眠りこんでしまっていた…、
目覚めて祈っていることができなかった、とあります。

さて、今日からアドベントを迎えました。
私たちもまた、あの弟子たちのように、
悲しみの果てにすぐに眠ってしまうかもしれません。

しかしそれでも、私たちはまず、
再び目を覚まして祈ろうとつとめはじめたいと思います。

その結果‥、精一杯頑張った結果‥、
やはり私たちもまた、あの弟子達のように
悲しみの果てに眠り込んでしまったとしても、
主はきっとお許しくださり、
私たち一人一人の代わりにとりなしの祈りを続けて下さるのではないでしょうか。

だから私たちは私たちそれぞれの限界の中で、
目を覚まして精一杯祈り続けていればいいのだと思います。

そのように自らの限界と破れを素直にさらけだして、
主イエスの到来を待っていればいいのだと思います。

そうすればきっと、神が、再びイエスキリストとなって、
私たち一人一人の心の中に宿ってくださるのではないでしょうか。

だから、もう自分一人の力で頑張らなくてもいいのです。
虚勢を張る必要もないのです。

私たち人間の弱さと、しかしその弱さを承知して、
とりなしの祈りと行動をし続けてくださる主イエスの深い憐れみと愛に期待して、
その日を待ち望んでいきたいと思います。


礼拝説教要旨(11月23日)

『ともし火のように』 竹島敏牧師
ルカによる福音書11:33-41

私達の世には、
私達をキリストの愛から引き離そうとする様々な試みがあります。

私達の世には、
私達の内側に与えられているともし火よりも、
もっと強く見える光、荘厳に見える光、高価に見える光
が確かに存在しています。
そしてその光が、私達を強く引きつける時もあるのでしょう。

けれどもどんなに引きつけられようとも、
私達はこのことを知っておかなければなりません。
どんなに強く、魅惑的な光も、
一時的なものであり永遠に続くものではないのだ、と。

私達がイエスをキリストと信じる告白をした時に、
私達一人一人の内側にともされたともし火…、
一見、弱く、はかなく、小さいこのともし火こそ、
決して消えることなく永遠にともり続ける命の光なのです。
この世の命を終えてなお、
その人の存在の内側から、
その人を照らし続け、
地上に遺された者達に、
その人の存在を天から力強く証しする光…、
それが、私達一人一人の内側にともされているともし火なのです。

今朝、この主日礼拝において私達は、
どんな時も、この自分の内側に、
イエスキリストというともし火が、
ともっているということを…、
そして、このともし火は、
時に消え入りそうになっても、
決して消えず、
永遠にこの私を照らし続けてくださるのだ、
ということを、覚えておきたいと思います。

そしていつか、この世の生涯を走り終え、
天に召されるその時まで、
このともし火に照らされて、
このともし火のようなあたたかさを私達自身が放ち、
この闇の世に、主イエスのぬくもりをせいいっぱい証していきたいと思うのです。


礼拝説教要旨(11月16日)

『神のことばをまもるなら』 竹島敏牧師
ヨハネによる福音書8:51-59

今日のヨハネによる福音書には、
人と人との約束ではなく、イエス様と人との約束が記されています。

「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」、

つまり「イエス様の言葉を大事にして生きるなら、
その人は、生きている時も死んでからも、輝き続ける、
そして多くの人の心の中に生き続ける」‥、
そういう約束です。

聖書ではイエス様の言葉は、
よく植物の種にたとえられます。
種は、天から降ってくる雨をたくさんもらわないと、
芽を出して育っていくことができません。

しかし種は自分の力で雨を降らせることはできませんから、
待っているしかないわけです。

そのように私たち一人一人にも、
自分の力ではどうすることもできないことがあるのだと思います。
よくわからないイエス様の言葉・種を心の中に抱えたまま、
過ごさねばならない時もあるのかもしれません。

しかし、大切なのは、
種を捨ててしまわないことなのだと思います。
大事に、祈りつつ抱え続ける‥、
そうすれば必ず、
いつか一人一人にふさわしい芽が出てきて、
いろんな形の実りが与えられてくるのです。

それが、今日のヨハネによる福音書において、
神様が私たち一人一人に与えてくださっている約束です。
私達人と人との約束は、
簡単に破られてしまうことが多いのかもしれません。

でも、私たちには、
この決して破られることのない神様からの約束が与えられているのだ、
ということを、今日は心に深く覚えて、
それぞれのところへと帰っていきたいと思います。


礼拝説教要旨(11月2日)

『神の刻印』 竹島敏牧師
ヨハネの黙示録7:2-4

今日のこのヨハネの黙示録に示されていたのは、
神の僕達の額に、神の刻印が押されるまで、
大地や海を大きく損なうような激しい風は、
天使達によって押さえられていた、ということです。

神の刻印、
すなわち洗礼にあずかるべく招かれている者全てに、
洗礼がさずけられるその時まで、
この世界の決定的な破滅から天使達が守ってくれる、
という福音が、ここにしめされていると言えるのではないでしょうか。

ヨハネの黙示録は、
紀元95年頃、ドミティアヌス帝の治世の時代、
諸教会に対する迫害が徐々に激しくなりつつある頃に書かれました。
ローマの属州アジア州の諸教会は、
帝国の政治的迫害に苦しんでいました。

黙示録の著者は、そのような状況のなかで、
差し迫ったキリストの再臨、この世の終末と完成を告げて、
殉教の危険にさらされていた諸教会を激励しようとしたのでした。

今日の7章以下の箇所においては、
神の僕たち全てに神の刻印が押されてしまうまでは、
世界の決定的破滅は延期され、
またどんな時も、
神の刻印が神の僕たちを守るということが明らかにされています。

私達が今、生かされているこの時代も、
終末的な状況である、とよく言われます。
まるでこの世の終わりを予感させるような出来事や事件が日々起こり、
希望を見出すことがむずかしい時代です。

しかし、そのような私達の主観をはるかに超えて、
神の刻印が私達にも押されており、
それが、救いの保証となっていることを再び想い起こしたいと思うのです。

神の刻印を身に押された者として、
主の霊を豊かにいただき、
主の見守りと導きのうちに生涯を歩んでいく幸いを、
証しあう私達でありたいと思うのです。


礼拝説教要旨(10月26日)

『キリスト者を生み出す教会』 中條康仁神学生
使徒言行録11:19-26

ステファノの殉教をきっかけにして起こった迫害は、エルサレム教会にまで及びました。
愛し合うユダヤ人信徒たちは離れ離れになりましたが、散らされたその中の数人が、
ギリシア語を話す異邦人にも、福音を宣べ伝えたのでした。

神さまは、その名もない信徒を用いて、また迫害という危機さえも用いて、
世界中の人々に福音を告げ知らせようとご計画されたのでした。

「信じて主に立ち帰った者」たちの集まりは、やがてアンティオキア教会となりました。
ユダヤ人とギリシア人が一緒に礼拝する共同体が誕生しました。

この教会を牧会するために、エルサレム教会からバルナバが派遣され、
たとえ困難の中にあっても、「固い決意をもって主から離れることのないように」と信徒たちを教育しました。

彼はまたサウロ(パウロ)を教会に招き入れ、二人は共同で牧会しました。
成長する教会の働きには、お互いの賜物が必要だったからでした。

信徒のことを「キリスト者」と呼ぶようになったのは、アンティオキア教会が始まりでした。
日々キリストのことばかり口にする信徒たちに対し、周りはからかうように、
「キリスト者」(キリストかぶれ)と呼んだのを、むしろ名誉なこととして受け入れたのです。

イエス・キリストに仕えていく人生は、決して順風満帆ではないと思います。
しかし自らを「キリスト者」として受け入れ、主に従おうと決断するならば、
神さまはどんな困難であっても、たとえ迫害であっても、それに耐えうる力を与えてくださる、
と信じなければなりません。
「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」と約束してくださる
神さまがいらっしゃるからです。

私たちの教会がこれからも「キリスト者」を生み出し、献身者を生み出し、
新たな魂を育てて、共に成長していく教会となりますように。
また互いに愛し合いながら、その恵みを世へと宣べ伝えていく教会となりますようにお祈りします。


礼拝説教要旨(10月19日)

『神の国の豊かさ』 竹島敏牧師
ルカによる福音書12:13-21

今朝は幼児賛美礼拝ということで、幼い子どもたちの賛美が献げられましたが、
あの幼い子どもたちが安心して、明るい希望を持って、
未来に向かって生きていけるような社会を作っていく、ということ‥、
それが、神の国を求める、ということなのではないでしょうか。

そしてそのような神の国は、32節に記されているように、「神がくださる」ものなのでもあって、
神ご自身が私達に先立ってそのために働いておられ、私達をその働きに参与させてくださるのです。

今もう一度心を静かにして、目を閉じて、ゆだねられている自らの命の鼓動に耳を澄ませるならば、
私達が生かされている現状が神の国からますます遠ざかっているかのように見えようとも…、
このゆだねられた限られた命を、ゆだねられた使命のままに使い切ることが、自らにとっての幸せでもある、
と思えてくるのです。

今朝の聖書の箇所を通して私達は、自分の命のことばかりを心配し思い煩うのではなく、
何よりもまず、神の国を求めて生き、その豊かさにあずかっていきなさい、
と言われているのではないでしょうか。

誰にでも等しく、いつかは訪れる死を、私達もまた受け入れなければなりません。
それがいつなのかは誰にもわからない…、
どんなに財をなしても、それを自由に自分で延期させたりすることはできない…、
いつか、必ずやってくる死…、それまで、託された命を、神からゆだねられた命を、
あなたはどう生きるのか、どう使うのか、
と、今朝、私達一人一人が、主から改めて問われているのだと思います。


礼拝説教要旨(10月12日)

『光と闇』 竹島敏牧師
ヨハネによる福音書3:13-21

今朝の聖書の言葉には、「御子を信じる」ことの大切さが語られています。
「御子を信じる」とは、多くのうそに満ちた世界にあって、
御子イエスの言葉こそ、本当のことを語っている、と信じることです。
そしてその言葉に従おうとつとめていくことです。
そのようにつとめていくなら、「裁かれない」と言われているのです。
様々な勘違いや、失敗や、不十分な点があったとしても、
そのようにつとめていくなら、「裁かれない」と宣言されているのです。
その上で、今朝のヨハネによる福音書の16節、17節の言葉にもう一度、耳を傾けたいと思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである」

神の御子・私達の主イエスは、かつて地に降ってこられ、
そして十字架と復活の御業の後に、天へと上っていかれました。
それは、天と地を結ぶ交わりを始めるためでもありました。
今、主イエスは天から、この私達一人一人を見つめておられ、
その天には、主が招かれた私達の信仰の先達たちが大勢おられることを想います。
天に帰り、そこから御子イエスと共にわたしたちを見守ってくださっている
大勢の方々がおられることを想います。
今もなお、この地上の歩みを続けていく私達は、主イエスと共に天からあたたかく見守ってくださっている
その方々の期待や、とりなしの祈りに、励まされ導かれつつ、歩んでいきたいと想うのです。


礼拝説教要旨(10月5日)

『キリストのゆえに』 竹島敏牧師
ヘブライ人への手紙9:23-28

今日は世界聖餐日です。
今朝も、この同じ時間に様々な場所で、礼拝が献げられており、聖餐が執り行われるのだろうと思いますが、
今朝は特に、国と国との分裂、また社会内部の分裂、そして私達の身近な学校、職場、
また、家族のなかにある亀裂について、深く思いめぐらし、祈りつつ、聖餐という主の業にあずかりたいと思います。
そのように、大きな世界の分裂という出来事から、自分のごく身近なところでの分裂・亀裂にまで想いをはせる時、
私達は、私達自身が、引き裂かれた世界の断片であることに気づかされていくのです。
そしてその引き裂かれた断片である私達をいやし、再統合するために、
主イエスは、ご自身の体を十字架上で引き裂かれたのだと知るのです。
今朝のヘブライ人への手紙の26節以降に記されてあるように、確かに、キリストの十字架の出来事は一回限りでありました。
しかしそこで完成したのは「多くの人の罪を負う」というキリストの業であり、それで救いが完成したわけではありませんでした。
しかし、ますます世界の分裂が深刻化するような状況のなかで、
キリストは、ご自身の十字架上での姿を私達に示し続けながら、ご自身の肉と血を私達に分け与え、
世界の分裂を修復させ、回復させる方向へと導こうとされるのです。
そのような主が私達と共にいてくださり、救いが完成する時へと導いてくださることに希望を持って、
この世界聖餐日の朝、ご一緒に主の聖餐の業にあずかりたいと思います。


礼拝説教要旨(9月28日)

『約束を受け継ぐ』 竹島敏牧師
ヘブライ人への手紙6:4-12

このヘブライ人への手紙の著者は、アブラハムを非常に強く意識していた、と言われています。
すなわち著者は、この手紙の読者たちに、アブラハムの信仰を見習うように、と強くすすめているのです。
6章11節において著者は、「あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、
同じ熱心さを示してもらいたいと思います」と語っています。
「最後まで希望を持ち続ける」…、
希望をもって生きることが本当に困難な今の時代ですが、
しかし、主イエスから与えられる希望は決して尽きることはない、ということを覚えておきたいと思います。
それは、自分は主から約束されたものを完全に受け継ぐことはできなくても、
自分の後に続く人達が受け継ぐにちがいない、という希望です。
そのことをはるかに望み見ながら歩む時、私達はすでに、次の世代の人達と連帯しようとしているのです。
そして、そのようにして主が約束されたものは受け継がれていき、やがて成就した時初めて、
その主が約束されたものを少しずつ受け継いだ全ての人々の上に喜びが満ちるのです。
天において、また、地において、そのような喜びが満ちるのです。
私達キリスト者が受け継ぐ約束されたもの、とは、
そのようなものであるということを今朝、再び、覚えておきたいと思います。
そして、主イエスが私達の共同体に、また私達一人一人に、
どのような約束を新たにお与えになろうとしているのか、敏感に信仰的感性をもって感じ取っていきたいと思うのです。
そしてはるかに望み見ながら、その約束に仕えていきたいと思うのです。


礼拝説教要旨(9月21日)

『種を蒔く人』 竹島敏牧師
コリントの信徒への手紙二9:6-15

今朝与えられましたコリントの信徒への手紙の箇所は、献金について記されているところです。
最初の6節を見ると、「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、
惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とあります。
ここでは、献金が種まきにたとえられています。
惜しんでわずかしか種を蒔かない者…、つまり、惜しんでわずかしか献金を献げない者は、刈り入れもわずかだ、と、
聖書は10節において、「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、
あなたがたに種を与えて、それを増やし、
あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」と告げています。
私達は自らの人生において、様々な種類の種を蒔きます。
けれども、神が与えてくださった種を蒔くならば、
その種は、人の想いをはるかにこえて必ずいつか、どこかで芽を吹き出すのです。
だから私達にとって大切なことは、献金をお献げして…、すなわち、種を蒔いて、それで終わりなのではなく、
その種がどのように芽を出し実を結ぶのか、祈りつつ見守り続けることだと思うのです。
私達がこの世に生かされている間に、実りを得るものもあるでしょう。
また将来の実りを夢見て蒔き続ける種もあるでしょう。
しかしいずれにしても、主から与えられ蒔かれた種は、いつか、必ず、どこかで芽を出すのです。
人の想いをはるかにこえて必ずいつか、どこかで芽を吹き出すのです。
私達は今朝の聖書の箇所を通してこのことを、信仰をもって、喜びをもって確認しておきたいと思うのです。


礼拝説教要旨(9月14日)

『愛がなければ』 竹島敏牧師
コリントの信徒への手紙一13:1-13

私達は愛すること、愛されることにおいて様々なつまづきを経験します。悩みます。
自らの無力さに打ちひしがれて、情けない想いでいっぱいになることもあるかもしれません。
しかし、そのような私達に、今朝、聖書は、それこそが愛なのだよ、と告げているのではないでしょうか。
確かに私達はどこまでいっても、愛することにおいて、つまづきだらけの生涯を送っていくしかないのかもしれません。
けれども、私達が自分以外の誰かのために激しく痛む時、はらわたがちぎれるほどに痛みつつ、
その人の痛み苦しみに共感しようと努める時、
私達の主イエスは、「それこそが愛だよ」と、
私達に語りかけてくださるのではないでしょうか。
「それこそが私が人々を愛した愛…、十字架の愛だ」と。
愛とは、「どれくらい与えるか」なのではない、とマザーテレサは言いました。
愛の重さは、どれだけのことをしてあげたか、なのではない…、
ましてお金で買えるものなのではとうていない…、
何もできない、ただ、その場にたたずむことしかできなくても…、
自らの無力さに打ちひしがれて、情けない想いでいっぱいになっていようとも、
その人の痛み苦しみに共感しようと激しく痛んでいるならば、
「それこそが愛なのだ」と、主は私達に告げてくださいます。
人がなんと思おうとも、世間がそれをどう評価しようとも、
そのように、誰かのために痛みつつ、祈り続けるならば、
主はそれを、「私が人々を愛した愛」と呼んでくださり、そこに、新しい希望をきっと、授けてくださるのです。



礼拝説教要旨(9月7日)

『異邦人の光』 竹島敏牧師
使徒言行録13:44-52

この今日の使徒言行録のなかで特に注目しておきたいのは、52節の言葉です。
「他方、弟子達は喜びと聖霊に満たされていた」とあります。
これは、パウロとバルナバが迫害を受け、決して心地よい、喜ばしい状況になかったにもかかわらず、
主イエスが共におられる、という平安と喜びに満たされていた、ということです。
今日、ここから、私達は非常に大切な教訓を得ます。
すなわち、私達にとって大切なのは、今、この状況が自分たちにとって順境なのか、逆境なのか、ということなのではない、ということです。
そうではなく、共にいてくださる主イエスを実感しているのかどうか、ということなのです。
共におられる主を実感するためには、主が放つ光を受けて、輝かなければなりません。
私達は、聖書に記されている主イエスの言葉とふるまいから、
主が放っておられる光を感じ取り、その光を反射させて生きていくよう、促されているのです。
パウロやバルナバのように私達もまた、そのように定められている、ということを想うのです。
今朝、私達が聖書の言葉から促されているのは、どんな人でも、大小にかかわらず、様々な失敗や挫折の経験があるのだから、
その時に、主イエスに願ったこと、祈ったことを思い起こしてみなさい、ということなのではないでしょうか。
どんな人にも、失敗や、挫折の経験があり、その内容は様々に違っていても、苦しみや悲しみがある…、
そしてその苦しみや悲しみこそが、主イエスの光を生き生きと反射する鏡として用いられると知っている人は、
誰でも、パウロのように、また、バルナバのように用いられるのです。


礼拝説教要旨(8月31日)

『愚かな宣教人になろう』 中條康仁神学生
コリントの信徒への手紙一1:18-25

 「十字架の言葉」とは、「十字架上で示された神の愛の言葉」であります。
それは、言葉となって生まれた神のひとり子イエス・キリストが、私たちの罪を赦すために、
十字架にかけられて死んでくださった、という神の愛を表しています。
この福音(良き知らせ)を、世の知恵によってではなく、「宣教という愚かな手段」によって、
それを聞いて受け入れる者を救おうとお考えになったのは、神の知恵によるものでした。
「しるし」を求めるユダヤ人にとっても、「知恵」を探し続けるギリシア人にとっても、
「宣教」の中心メッセージである「十字架の言葉・キリスト」を救い主として信じることは、
つまずきであり、愚かなものでしかありませんでした。
しかし「十字架のキリスト」こそ、真の救いをもたらす「神の力、神の知恵」なのだと、
パウロは逆転の真理を用いて告白します。
私たち人間の罪を赦し、かつ「愛」と「正義」という神ご自身の2つの性質を両立するための解決策が、
「神のひとり子イエス・キリストの十字架」でありました。
「十字架のキリスト」を信じる信仰によって、私たちの過去を振り返るならば、それは「恵み」に変わります。
信仰によって隣人に接するならば、それは「隣人愛」に、
また信仰によって未来を見つめるならば、それは「希望」へと変えさせる神の力があります。
この素晴らしい信仰をいただいて、私たちは「愚かな宣教人」として世に遣わされます。
私たちの内側にある「愚かさ、弱さ」を通して神の栄光が現れて、
この世の中でイエス・キリストを「宣教」することができますように。
また教会の中でも私たちの交わりを通して神の栄光が現れて、
新しくいらした方も、神の素晴らしさを知ることができますようにお祈りいたします。


礼拝説教要旨(8月24日)

『私たちは回復させられる』 友野富美子牧会補助者
エゼキエル書11:17-20

教会に毎週来て礼拝を捧げることができる、これは本当に感謝なことです。
けれどそのようなとき、私たちは自分だけの幸せに甘んじ、自分本位な感謝を捧げてしまう危険をもっています。
ご高齢の故に、あるいは病気、子育てや介護、家族の反対、
また教会に何か引っかかりを覚えて、教会に来られなくなってしまった方々がいらっしゃいます。
教会は信仰共同体です。私たちは共に痛む者としてここに召されているのですから、
散らされた民の回復を心から願い、そのために祈り、労することが求められています。
また、ここにいる私たち一人ひとりが、捕囚の民のように絶望の中で、
もがき苦しむ状況に置かれ得る存在であることを思います。
このときに私たちは、「わたしはお前たちを呼び集める」という主のみ声を確かに聴きたいと思います。
偶像にまみれてしまったエルサレムのように、忌まわしいものの中に追いやられることもあるかもしれません。
神殿のあるエルサレムが陥落してしまったように、教会も教会だから安泰、ということはないのです。
神にしっかりと向きを定め、常に新しくされながら歩みを進めていくことが求められます。
思いとは裏腹に状況がその人を困難の中へ追いやるとき、私たちは自分の無力さに泣きます。
けれど、そのようなときに、神は私たちに与えてくださるのです。
二心のない神へのひたむきな心を、新しい霊を、柔らかい、生き生きとした心を。
そして私たちはまた、神に従う歩みを始めることができるのです。
どのような絶望的な状態にあっても、神から引き離されているように感じられる時でも、
神は私たちを呼び集め、回復させて下さるのです。


礼拝説教要旨(8月17日)

『義と平和』 竹島敏牧師
ローマの信徒への手紙14:13-23

今朝与えられたローマ書に記されているのは、信仰者の考え方の違いからくる対立をどう解決していけばいいのか、
ということです。同じ14章の2節には次のように記されています。
「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」。
ここから、野菜だけを食べていた信仰者達と、「何を食べてもさしつかえない」と信じ、
肉を食べ、また酒も飲んでいた信仰者達がいた、ということがわかります。
確かに今日、私達の身近なところで、これと全く同じ事が課題になることはないかもしれません。
しかし、このような立場の違いは、アイデンティティの違いが背景にあります。
そして、現代においては、多様なアイデンティティを持つ者同士が共に生きる、
という課題があると言わなければなりません。
特に少数の側のアイデンティティが破壊されることなく、主の御前にあっては、
すべての人が等しく貴い、という福音が成就していかなければなりません。
日々、私達は自分とは違う習慣や考え方と出会います。
その時、もし、私達が多数の側に立っているのなら、私達は主から、
少数の、自分とは違う習慣や考え方から学びなさい、と言われるのでありましょう。
また私達が少数の側に立たされているのなら、たとえ一方的に裁かれることがあっても、
主の支えと導きを求めつつ、裁く人達との対話を求めていくべきなのでしょう。
そのように今朝、聖書は、本当にささいな日常において、
まず自分の身の回りから、平和を作り出すようにと促しているのではないかと思うのです。


礼拝説教要旨(8月10日)

『門の外へ』 竹島敏牧師
ヘブライ人の信徒への手紙13:7-16

今朝のヘブライ書をとおして主イエスが私たち一人一人に促しておられるのは、
まことに真剣に主に従っていこうとするならば、
必然的に、これまで自分にとって安全であったところから外に出ざるをえなくなる、
ということなのではないでしょうか。
安心して暮らしていた自分の場所、
それほど不自由なく、ある意味、惰性で暮らしていた自分の居場所、
そこから外に出て行かざるをえなくなる、ということです。
それは確かに不安や恐れを伴うことです。
しかし十字架のキリストへの信仰の故に、勇気をもって自分自身の「門の外へ」と足を踏み出す時、
そこには新しい世界がひらけていく…、
より強く、より深くキリストの臨在を感じることができるようになり、
キリストと共に生きる喜びが静かにわきおこってくる…、
だから、あなた自身の「門の外へ」と足を踏み出しなさい、と言われているのではないでしょうか。
8月15日、私達の国は敗戦69年を迎えます。
再び、戦争の出来る国へと大きくかじをきろうとしているかのようにも見える世にあって、
自分の「門の内側」にひたすらこもり、
自らを守ろうとする風潮が高まっているようにも思えるのが、この国の現状ではないでしょうか。
しかしイエス・キリストを一心に見つめるならば、
私たちは「門の中の」生活に安住し続けることができなくなるのです。
しかしそれは恵みの出来事だと聖書は告げているのです。
一心に、主を見上げつつ、自分自身の「門の外に」出ていく生き方をするようにと、
今朝、私達一人一人、招かれているように思います。


礼拝説教要旨(8月3日)

『福音の逆説』 竹島敏牧師
コリントの信徒への手紙二6:1-10

詩人の柴崎聡さんが書かれた「伏流の発見」、という文章があります。
その文章には、人に気づかれずに流れている「伏流」をとおして、私たちの目が、
目に見えない大切な部分があることをしっかりと自覚するように…、という強烈な促しがあります。
さらに、イエスの弟子たちにおける「伏流」とも言うべき期間が、
彼らの信仰にとってきわめて重要なものであったという話は、非常に示唆的です。
つまり、こういうことです。あの、主の十字架の時、女性たちの何人かを除けば、
ユダやペトロだけではなく、すべての弟子たちがまさしくイエスを裏切ります。
しかし、イエスの行為と言葉を見聞きしながら理解できなかった弟子たちに、
イエスの死後、決定的な復活という出来事があって、すべてが弟子たちに気づかれたのでした。
そして柴崎さんは、弟子たちの、イエスに出会ってからその気づきの時までの期間を、「伏流」と呼ばれるのです。
あの弟子達が、イエスに出会っていながらなお、長い長い間、その真実に気づくことができなかったように…、
私達もまた、そうなのかもしれません。
しかしそれでも、その真実・「伏流」は私達の内側を生き生きと流れており、いつかきっとほとばしり出て、
「ああ、そうだったのか」という気づきを私達に与えてくれるのでありましょう。
今はまだ決して感じ取ることはなくとも、確かに「伏流」は、この自分の内側にも、生き生きと、実際に流れていてくれるのだ…、
と、いつかほとばしり出る時が来ることを待ちつつ、歩んでまいりたいと思います。


礼拝説教